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『善の研究』を読んだ。八の巻



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて。厳しい夏の熱さも和らいでまいりました。わたしも、そうでなくても大して活動していないおつむが熱さによってますます機能低下を引き起こし、休みともなれば起きたらすぐにクーラーいれてボヘーッとゲームをしていたという始末(本音はゲーム三昧。ソヴィエト・リパブリック面白いw)。


 しかし、今年の夏は雨が多いですね。ほとんど毎日のように雨が降る状況で、まあ、そのおかげなのかどうなのか、8月の終わりごろには気温の低下を感じられるほどなのでありがたいといえばありがたい。今年はどうやら秋を長めに楽しめそうですかね??


 それはともかく、お久しぶりにキタロー氏の文章でも読んでみましょう。はっきり言ってこんな大したことのない文章でも多少はおつむを使うので、おつむを活性化させるのに役立つことでありましょうw


 というわけで、『善の研究』を読んだ。八の巻、参ります。



 前回は「倫理学の諸説 その三」を見てみました。善をなす根幹に合理説を論ずる、というものでした。その合理説というものも、何が合理的なのかは何とも言い難いものもありましたが、とにかく、理性によって善を行う、というところでした。今回はその「倫理学の諸説 その四」となりまして、今回は善を行うのは何故か、それは快楽をともなうからだ、というお話となります。p309




「合理説は他律的倫理学に比すればさらに一歩を進めて、人性自然の中より善を説明せんとするものである。しかし、単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで、我々が深く自己の中に反省してみると、意志はすべて苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。


 我々が表面上全く快楽のためにせざる行為、例えば、身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探ってみると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟(ひっきょう)快楽の外なく、我々が快楽をもって人生の目的となるということはさらに説明を要しない自明の真理である。


 それで快楽をもって人生唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理によりて説明せんとする倫理学説の起こるのは自然の勢いである。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という」




 さて、合理説では他律的倫理学に比ぶれば、もう一段先に行って人間の本質的、自然的な心情によって善を行うというものを説明したものです。しかし、単純に表面的な理性だけをすべてと見てしまいますと、前に言ったように、なにゆえ人間は善をなさねばならんのか、という完全なる証明にはなり得ないのです。


 なので、なにゆえ、われわれは善を行わねばならないか、という人間の心情の根本を探ってゆきますと、どうしてもそこには、快楽をともなう、快楽を追求する、という事実に着目せざるを得ません。


 われわれが表向きには、自分自身を殺してでも、仁義を行う、というような場面にあっても、その心理の裏側を探ってみますと、やはりひとつの快楽を求めるがゆえにそういう行動を取っているのである、というのが見えてきます。人間の意志とは、せんじつめれば人間は快楽を求めるがゆえに人間である、という事実はもはや贅言を要しない真理であります。


 だからこそ、快楽を求めることをもって人生におけるただ一つの目的とし、道徳における善悪の区別だってこの快楽によるものであるという説明を行おうとするひとつの倫理学説が起こるのも、ある意味当然と言えるでしょうし、そしてそれを簡単に快楽説といいます。そして、そこには二種あり、ひとつを利己的快楽説といい、もうひとつを公衆的快楽説といいます。




 善をなすのも悪をなすのも、それはすべて快楽によってである! というわけですね。これまた極端な物言いもあったものですが、まあ、言うだけなら誰でも、それこそわたしでも言えるわけでw そういうこともあるのでしょう。そして、快楽説にはふたつあると。


 ひとつは利己的快楽説。これはまあわかりやすい。


 しかしてもうひとつが公衆的快楽説。なんじゃそら、というわけですが、とりあえずお次。p310




「利己的快楽説とは自己の快楽をもって人生唯一の目的となし、我々が他人のためにするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。


 この説の完全なる代表者はギリシャにおけるキレーネ学派とエピクロース(紀元前341~270頃。北アフリカの唯物論者)とである。アリスチッポス(紀元前435~355頃。キュレネ学派創始者)は肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽であってもすべて同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。しかして氏はすべて積極的快楽を(とうと)び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。


 エピクロースはやはりすべての快楽をもって同一となし、快楽が唯一の善で、いかなる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を重しとし、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、すなわち苦悩なき状態を尚んだ。


 氏の最大の善というのは心の平和ということである。しかし、氏の根本主義はどこまでも利己的快楽説であって、ギリシャ人のいわゆる四つの主徳、叡智、節制、勇気、正義という如きものも自己の快楽の手段として必要であるのである。正義ということも、正義そのものが価値あるのではなく、各人相犯(あいおか)さずして幸福を()ける手段として必要なのである。


 この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明らかである。社会は自己の利益を得るために必要なのである。国家は単に個人の安全を謀るために存在するのである。もし社会的煩累(はんるい)(やっかいごと)を避けてしかも充分なる安全を得ることができるならば、こは大いに望むべき所である。氏の主義はむしろ隠遁主義である。氏はこれによりて、なるべく家族生活をも避けんとした」




 利己的快楽説とは自分自身の快楽こそが人生唯一の目的であるとして、他者に何かをするにしても実際は自分自身のためにしているのだと考え、自分自身の快楽こそが最上の善であるとしたわけである、と。


 この説の代表者は古代ギリシャのキュレネ学派とエピクロスである。アリスティッポスは肉体と精神の快楽があることを知っていたが、それがなんであれ快楽こそが善であると考えた。もっとも最先端の快楽主義者といえるでしょう。

 

 エピクロスも同様の快楽主義者ですが、どんな快楽であっても苦痛を生じない限りはあってしかるべきものと考えたが、刹那よりも一生の快楽を善とした。


 氏の最大の善というのは心の平和、ということ。とは言うものの、エピクロスは快楽主義者であるからにはギリシャ人の徳目、叡智、節制、勇気、正義の四項目においても自分自身の快楽のためにあるのだ、という考え方であって、正義という価値も秩序維持のため、心の平穏を保つために有用、という考えであります。


 これらはエピクロスの物言いでもわかる。社会とは、自分自身の利益を得るために存在するのであって、もっと言えば国家とは、その武をもって人々の安全のために存在する。もし、国家だの社会だのの面倒事から逃れて、それでも充分な安全を確保できるのならばそれは大いに結構、というわけであって、それでは隠君子というべきである。そして、エピクロスは家族よりも個人を愛した。




 まずは利己的快楽主義とやらから。


 どうにもキタロー氏は古代ローマだのギリシャだのの言説をもってきたがるようですが、あまりにも極端な思考を例題にもってきたがるのでどうにも一考に値しないものが多い気がしますw 初期儒教と孟子への儒教の変遷や変容、また陽明学や朱子学などの明代儒教との差異、みたいなことを論じるのならともかく、こんなガキのたわごとの如きを取り上げて喜んでいるようではお里が知れるというものですが。まそれはともかく、お次。p312




「次に公衆的快楽説、すなわちいわゆる功利教について述べよう。この説は根本主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽をもって最上の善となさず、社会公衆の快楽をもって最上の善となす点において前説と異なっている。


 この説の完全なる代表者はベンザム(1748~1832。イギリスの哲学者)である。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。しかして、いかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留め針押しの遊び(プッシュピンのことだそ~な)の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにそのものに価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果によりて定まるのである。


 すなわち、大なる快楽を生ずる行為が善行である。しかして、いかなる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。


 また、ベンザムはこの快楽説によりて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得るものであって、例えば、強度、確実、不確実等の標準によりて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能く辻褄の合ったものであるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。


 快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。しかして、この感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。しからば、快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。


 人間には同情というものがあるから己れ独り楽しむよりは、人とともに楽しんだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミル(1806~1873。イギリスの哲学者)などはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。


 もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽を棄てて他人の快楽を求めねばならぬということができるのであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、反って快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかることは到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う」




 次に公衆的快楽説、功利教、功利主義について述べよう。この説は根本的には利己的快楽説と大差はないが、その違いは個々人の快楽よりも、全員の快楽をもって最上とするところが一番の特徴と言えるでしょう。


 この説の代表者がベンサムであり、人生の目的は快楽のみであり、善を行うも快楽に従うのみ。そしてその快楽とは、ようはTV・PCゲームであろうと漢詩の添削であろうと同様であり、ただ、大小や多い少ないの違いしかありません。人間の行う善行とは、直覚論者のいうように、参加することに意味がある、のではなく、当然、善をなし終えることに価値があるのです。


 すなわち、大人数の快楽を生ずる行為が善行と言えます。しかし、どういう行動が最大な善行であるかといえば、一人の快楽よりも、よい人数が多い快楽のほうが最上であると言っております。


 また、ベンサムはこの快楽説に、科学的アプローチも語っている。それは、快楽の価値は、大体において数で確かめられるものであり、例えば、強度、確実、不確実の基準値で、その快楽の計算ができると考えたわけで、実によくつじつまのあったお話であるが、とはいえ、やはりどうして利己的快楽より、公衆的快楽が勝るか、の説明にはなっていない。


 そもそも、快楽というからには、これを感ずる主観、体感がなければならんでしょう。感ずるから快感、快楽なのであるからして。しかし、結局のところ、他人の快楽なんぞこっちが分かる訳がありません。そうすると、どうして快楽説に立脚しておきながら、個人の快楽より多人数の快楽が勝る、などと言えるのか。


 なんとなれば、人間には同情というものがあるから、同情という観点からすれば、多人数の快楽のほうが個人の快楽に勝るかもしれない、しれないが、それでもやはり同情とは、他者の感覚ではなく個人の快楽であります。


 もし、自分の快楽と、他者の快楽が喧嘩するような事態に出会ってしまった時にはどうなってしまうのか。しかしそれでも、その場合、自己の快楽を捨てて他者の快楽を求めねばならない、ということができるのか?? エピクロスのように、利己的になるほうがよっぽど快楽説の当然の帰結と言えるでしょう。なのに、ベンサムもミルも、利己と公衆快楽は一致する、と言っているが、そんなことはとうてい証明はできんでしょうな。




「ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかることは到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う」


「できまいと思う」


 知ってたw


 自分の快楽より不特定多数の快楽の方が勝っている、などと寝言を聞いてる段階から知ってたw


 あと、「ベンザムはこの快楽説によりて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得るものであって、例えば、強度、確実、不確実等の標準によりて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能く辻褄の合ったもの」


 って言ってますけど、快楽説とやらを測る科学的アプローチがあるとか言いながら、そのモノサシが、「大抵数量的に定め得るものであって、例えば、強度、確実、不確実等の標準によりて快楽の計算ができる」と言っているわけです。数量的、と言うからには何人が快楽を得たのか、ということを言っているのでしょうけど、強度、ってなんじゃろ。ンギィモヂィィ、みたいなすんごい快楽とか、ちょっとした快楽、とか?? それ思いっきし主観に依存するものであってそれのどこが科学的アプローチなのでしょうね、よぐわがんね。……まあ、統計学なら科学的アプローチと言えなくはないんでしょうけど、統計とってから言ってくだちい。それはともかくお次。p314




「これまで一通り快楽説の主なる説を述べたので、これよりその批評に移ろう。まず、快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認したところで、はたして快楽説によりて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽はいかなる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽にいろいろの性質的差別があって、これによりて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。


 すなわち、快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽にいろいろ性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定め得ると考えている。例えば、豚となりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。


 しかして、これらの差別は人間の品位の感より(きた)るものと考えている。しかし、ミルの如き考えは明らかに快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも(とうと)きものであるということは許されない。


 さらば、エピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、いかにして快楽の数量的関係を定め、これによりて行為の価値を定めることができるのであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識によりて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。しかし、快楽の感情なるものは一人の人においても、時と場合とによりて非常に変化しやすいものである、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかはすこぶる明瞭でない。


 さらに、いかほどの強度がいかほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるは困難であってみれば、公衆的快楽説にはすべて肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、己れ一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない」




 さて、では快楽説というものを通り一遍見てきたわけですが、とりあえず評価を下したいと思いまする。まず、快楽説が設定する、快楽こそが人生における最大の目的である、ということですが、はたして、快楽説なんぞで善を行うという人間行為の規範に当てはめることは出来るでしょうか。


 どうやら、純粋に快楽説からみたら、どんな快楽でもよく、ただただ大きいとか小さいとか、多いとか少ないとかの差があるだけでなければならない、もし、快楽にも区別があってこれによって価値が変動するというものであれば、それは単純に別に「モノサシ」があるのだ、と言わねばなりません。


 そしてそれは、快楽と「モノサシ」で相反するものであるといわねばならんでしょう。ベンサムの後のミルは快楽の性質にもいろいろ区別あることを認め、優劣があるのならそもそも誰だって優れた方を選ぶだろう、ということです。それはつまり、豚となって生を終えるよりは、偉大なる哲学者となって不幸な人生を生きたとしても豚を選びはしないだろう、ということです。


 そして、そうみてみますと、優劣を論じる、という時点で、快楽説を離反するもの、と言わんねばならんでしょう。


 そうしますと、エピクロス、ベンサムのいうように、快楽は同一で、ただ数が多いか少ないかだけだとしますと、どうやってその数をかぞえ、そこに価値を付与しうるでしょうね? アリスティッポスやエピクロスは単純にわかる奴にはわかるw と言っているだけで、根本的な基準にはなっていません。ひとり、ベンサムはこのことを解決していますが、とはいえ、快楽と一口で言っても、それは時と場合とで非常に見方が変わるものであり、自分自身の快楽より他者の快楽がこれに勝るか、という結論に至ることはないでしょう。


 さらに言えば、それがいかほど優れた快楽であろうと、どれぐらい続けるに値するか、を決定するのも困難です。たった一人でも快楽には年齢やその時の感情などによって変化するのに、その他大勢となった瞬間、とうてい計り知れないという他無いでしょう。




 一人の快楽より、その他大勢の快楽が勝る、なんて言い出した時点でわかってたことですw 次。316




「右は快楽説の根本原理を正しきものとして論じたものであるが、かくして見ても、快楽説によりて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることはすこぶる困難である。今一歩を進めてこの説の根本原理について考究してみよう。


 すべて人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えてみると、その決して真理でないことが明らかである。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。


 例えば、己れの欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考え方は誰の胸裡(きょうり)(胸の内)にも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を表し来たり、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢えてせしむることも少なくない。


 快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのはすこぶる穿ち得たる真理のようであるが、反って事実に遠ざかったものである。もちろん、快楽論者もこれらの事実を認めないではないが、人間がこれらの欲望を有しこれがために犠牲的行為を敢えてするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。


 しかし、いかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者がすなわち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。


 しかして、この感情は一種の快楽には相違ないが、これがためにこの快楽は、まず我々に自然の欲求というものがなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。しかるに、この快感あるがために、欲求はすべて快楽を目的としているということは、原因と結果を混同したものである。


 我々人間には先天的に他愛の本能がある。


 これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかし、これがために自己の快楽のために他を愛したのだとはいわれない。毫釐(ごうり)(少し)にても自己の快楽のためにするという考えがあったならば、決して他愛より来る満足の感情を得ることができないのである。ただに他愛の欲求ばかりでなく、全く自愛的欲求といわれているものも単に快楽を目的としているものはない。


 例えば、食色の慾(食欲・愛情)も快楽を目的とするというよりは反って一種先天的本能の必然に駆られて起こるものである。飢えたる者は反って食欲のあるを悲しみ、失恋の人は反って愛情あるを怨むであろう。人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだものはなかろう。むしろすべて人間の欲求を断ち去った方が反って快楽を求むるの(みち)である。エピクロースがすべての欲を脱したる状態、すなわち心の平静をもって最上の快楽となし、反って正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である」




 今見たのは快楽説の言説をいちおう、正しいものとした上で論じたものですが、とはいえそれでもこの快楽説によって、人が善行を行うという規範と出来るかは非常に困難である、といわねばならんでしょう。


 すべての人は快楽を求め、快楽こそが人生唯一の目的である、というのは、ある意味ただの決めつけであって、ある意味すべての人が求めているようにもみえますが、しかし、決してこれが世の理ではないことがわかります。人間には利己的な快楽の精神の他にも、他者を愛する心とか、理想を求める精神があることは事実でありましょう。


 例えば、己が我慢しても子供に食べさせるだとか、不忠の汚名をこうむってでも主家を守るだとか、こういうような考え方は誰の理想精神の中にも大なり小なりあるものです。時と場合によってはそれが尋常ならざる力を発揮し、目を覆いたくなるような犠牲的、または喝采を叫びたくなるような英雄的行為を行う人も少なくありません。


 快楽論者がいうように、人間すべてが、快楽をのみ求めるということが正しい考えのようにみえても、結局のところ、真実から遠ざかったものであるといわねばならないでしょう。もちろん、快楽論者もこういう犠牲的精神のあることも認めているでしょうが、時に、偉人がこういう理想精神に身を滅ぼすようなことも、結局のところ、利己的な快楽であると思っているようです。


 ですが、どんな人も、どんな場合でも、理想を追うものが、同時に快楽を求めるものである、とは言い切れないでしょう。どんな苦渋に満ちた理想でも、それを実行した時には自身の成長、進化の感動を覚えるものであります。


 では、これら理想を追うという精神も快楽とみることができるでしょうが、だからといって苦痛に満ちた理想を追う=マゾという見方は快楽というものの謬見といわねばならないでしょう。


 我々には、先天的に他者を愛し、慈しむという本能があります。

 

 これあるによって、例えば子供を愛する時、われわれは無限の満足を得ることが出来るのであります。しかし、この満足を自己の快楽、利己的快楽と同一視できるでしょうか? もし、子供を愛するという精神に、利己的快楽が少しでも混ざっていたのなら、そこに無限の愛情などこんこんと湧いてくることはないでしょう。もっといいますれば、他者を愛するばかりではありません、まったくもって利己的な欲望と思われているものにも快楽を目的としているのではありません。

 

 例えば、食欲だとか、性欲・愛情などは、快楽を目的とするというよりは、ほとんど本能に従って発するものであり、飢えた人は食欲あることを悲しむでしょうし、失恋した人は逆に、愛情そのものを憎むこともあるでしょう。


 人間がもし、快楽こそ唯一の人生の目的とするのならば、人生ほど矛盾にみちみちたものはない、といわねばならないでしょう。そしてだからこそ、むしろ、人生における欲求のことごとくを捨て去った方が、よっぽど快楽に至るという逆説的な発想に至るのもむべなるかな、と言えるでしょう。


 エピクロスがすべての欲を擺脱(はいだつ)した境地、解脱の境地をもって最上の快楽となし、ストイックをこそ理想としたのもこのためでありましょう。




 断捨離も、快楽説の逆説的到達点かな?w ではお次。p318




「しかし、ある快楽論者は、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うているものでも、個人の一生または生物進化の経過において、習慣によりて第二の天性となったもので、元は意識的に快楽を求めたものが無意識となったのであると論じている。


 すなわち、快楽を目的とせざる自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったのが、習慣によって目的そのものとなったというのである(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。なるほど我々の欲求の中にはかくの如き心理的作用によって第二の天性となったものもあるであろう。

 

 しかし、快楽を目的とせざる欲求はことごとくかかる過程によりて生じたものとは思われない。我々の精神はその身体と同じく生まれながらにして活動的である。種々の本能をもっている。鶏の子が生まれながらに(もみ)を拾い、(あひる)の子が生まれながら水に入るのも同理である。


 これらの本能と称すべきものがはたして遺伝によって、元来意識的であったものが無意識的習慣となったものであろうか。今日の生物進化の説によれば、生物の本能は決してかかる過程によってできたものではない。元来、生物の卵において具有した能力であって、事情に適するものが生存してついに一種特有なる本能を発揮するに至ったのである。


 上来、論じ来たったように、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたるものであるが、この説によれば善悪の判別は苦楽の感情によりて定めらるることとなり、正確なる客観的標準を与うることができず、かつ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。


 しかのみならず、快楽をもって人生唯一の目的となすのは未だに人性自然の事実に合ったものとはいわれない。我々は決して快楽によりて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならば反って人性に(もと)った人である」




 また、とある快楽論者は、われわれがこんにち、快楽を求めていると思っていないような行為にも、実は、個人の人生とか生物の進化、または習慣の過程によって、それが第二の天性とまでなってしまったもので、無意識下にまで習慣化されてしまったものもあるという。


 元来、快楽を求めての行為だったものが、いつの間にか習慣化されてしまい、ついにはそれ自体が目的になってしまったものもある、という。ミルなどは金銭などがその好例だというようです。なるほど、そういう面も確かにあるかもしれません。


 ですが、習慣化された行為などが、すべてがすべてそういう過程において発生したか、と言われますと疑問が生じます。われわれの精神は、この肉体と同じく、生まれながらに活動的であり、様々な本能をもっています。ひよこが生まれながらモミを食べ、アヒルの子がざんぶと水に飛び込むように。

 

 これらの本能とみるべき行動すべてが、遺伝によって、無意識下まで習慣化されたものでありましょうや。進化論とは、それを獲得したものが繁栄することもあるでしょうが、その環境にたまたま適応した種族が繁栄した例もあるのです(ドードーとか。滅びましたけどね。ハハッ)。


 こうしてみますと、快楽説とは、合理説に比べますと、一層人間の本性に卑近な論説に見えないこともありませんが、これに従ってしまいますと、善悪の判断も苦楽の感情に依存することにもなり、正確な客観性を担保できず、道徳的な善行を説明できる要素とは言えないでしょう。


 そればかりではありません。快楽をもって人生唯一の目的としてしまいますと、それでは人間が元来もっている神聖性、成長性を説明できないばかりか、オナニーを覚えたサルと同列に論じられているかの如きであり、同日の談ではない! と憤慨すべきであります。




 といったところでしょう。


 まあ、快楽が人生の目的である、などという愚論に対してまともな批評を行った、とも言えるでしょうけど、そもそも、こんな愚論を取り上げようとするその精神の方にこそ、わたしは疑問を感じますけどね。この前の犬儒派といい、とりあげる題材が極端なものばかりでなんでこんなガキのたわごとに大真面目に取り組んでいるのだろう、と言わざるを得ないでしょう。


 これは、わたし的にはそれでも共産主義の理想は正しい、とかほざいている連中とこの快楽説は目くそ鼻くそであるように思われますね。ソ連しかりロシアしかり中共しかり、すべての共産国家が失敗している事実、また、基本、左翼人種はことごとく阿呆であるという事実を、それこそマルクズの時代から読み解くことができるのに、共産主義のどこが正しいと言えるのか、本当に、阿呆はどしがたいと思います。


 それこそ、今回のアサクリSのゆびしかり、ポリコレゲームを作って大爆死しまくっている連中といい、自ら大失敗するために阿呆な思考に脳みそ毒されておるんだから、ほっときゃいいのに。とまで思う今日このごろ。


 地獄にダイブする人間に、同情する価値はありませんよ?


 まあ、それはともかく、おつむの大してよろしくない物言いで幕を引いては面白くないので、少しまともなおつむの働かせ方をしたいと思いまする。



「人間には同情というものがあるから己れ独り楽しむよりは、人とともに楽しんだ方が一層大なる快楽であるかも知れない」



 という文章を読んで、脳裡をよぎったのが孔子様のお話。話がちょびっと長いので割愛しますが、長沮・桀溺(ちょうそ・けつでき)という隠遁した世捨て人から、誰にも用いられず主君を求めて彷徨っている孔子様に、世の中は何も変わらない、無駄なことはやめよ、と言って冷笑されたことがあったのですが、その時の孔子様の慨嘆がこれ。




【鳥獣は(とも)に群を同じくすべからざるなり。吾れこの人の徒と与にするに非ずして、誰と与にかせん。天下道有らば、丘は与に易へざるなり】




 鳥や獣と一緒に暮らせようか。わたしは人々と一緒に暮らしたいからこうして頑張っているのだ。天下の治安が乱れているから、(きゅう)(孔子様の名)はそれを正そうと東奔西走しているのだ。


 


 と。


 孔子様ほど、公衆の幸福を求めた方はいないでしょう。そして、それを求める根拠に、快楽をもってするなど、低劣なことは絶対に考えもされなかったことでしょう。いえ、例え、自己満足が内心にあったとしても、東洋の学問を踏み行う者の矜持としてそれを小児のごとく言い出しはしません。


 天命、天運、文として民草のためにそれを行うのだ、とおっしゃるわけです。こういう言葉があります。




【天、いまだこの文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)それ(われ)を如何せん】




 天から下された我が学徳は、こうして今もわたしとともにある。天がわたしを滅ぼさないのなら、匡人(きょうじん)がどうして、わたしを害せようか。

 



 これは匡の軍に包囲されて食料が供給されず窮乏したときにおっしゃった言葉。文とは、天が孔子様に授けられた学問・徳・魂と言えるでしょう。孔子様そのものとも言える文が、孔子様とともにあり、それを天が赦しているのに、匡の軍隊がどうしてわたしをどうこうできようか。というお言葉ですね。


 まあ、本当に軍隊の凶刃から文が守ってくれるかは何とも言えませんが、事実、孔子様はこの時窮地を脱しているわけでw この確固たる信念、絶対の自信・自負が孔子、という人物であり、偉人たるゆえんなわけで、これがあるからこそ、そんじょそこらの人間のように中途で朽ち果てることがなかったといえるでしょう。


 洋の東西を問わず本当の偉人は、こういう絶対の自信をもった傑物がいっぱいいますね。


 自信・自負とは、日々の生活、日常の中で育まれるものであり、しょぼい生活の中で育まれるわけがない。人々のために善行を行うのは自身の快楽を追求すればこそ、なんてくだらんことをいう人間の中に、真の偉人はいないでしょう。積み上げてきた学問と精神が、日々が、違いすぎると思います。


 もっと言えば、東洋では古来、克己(こっき)精神とか、君子自彊やまずとか、快楽なんぞに堕落することなく、常に自身を磨き上げ、天地の徳を我が身に宿そうとする人々に溢れかえっていたわけです。そういうのは、東洋の学問や歴史を学べば、山となった事実を目にすることでしょう。


 どうやら、キタロー氏はあまり東洋の学問にはお詳しくは無いようではありますが。



 といったところで、『善の研究』を読んだ。八の巻 はこれまで。


 したらば。



『かつて魔法少女と悪は敵対していた』 のOP・EDを聴きながら。


 OPのよさは今季夏アニメで一番かも。今季も数だけは無駄に多いけど、聴き応えのある歌は少ないかな?(見ごたえのあるアニメも)。


 昨今はLiaさんや池田綾子さんやSuaraさん、タイナカサチさんのような骨太な歌い手さんの歌が聴けないな……。奇をてらったかのような歌なら山とあるけど。


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