『善の研究』を読んだ。七の巻
おこんばんはです。豊臣亨です。
さ~て。いよいよ馬脚を現してきた感のある『善の研究』ではありますが、性懲りもなく続きを読んでまいりましょう。
次は、「倫理学の諸説 その三」であります。p298
「他律的倫理学では、上にいったように、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義のものとなるのである。そこで、我々は道徳の本を人性の中に求めねばならなくなってくる。
善はいかなるものであるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬようになってくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学という。
これには三種あって、一つは理性を本とするもので合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を本とするもので快楽説といい、また一つは意志の活動を本とするもので活動説という。今、まず合理説より話そう。
合理的もしくは主知的倫理学というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相がすなわち善である。物の真相を知ればおのずから何を為さねばならぬかが明らかとなる。我々の義務は幾何学的真理の如く演繹(推理の一種)し得るものであると考えている。
それで、我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上いろいろの意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念をいうのである)。
この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志によりて左右し得る随意的のものであるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚(好み。はやり)をもって唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性にもとづいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。
この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分かって考えた方がよいと思う」
他律的倫理学、自分以外のものからなる、王とか神とかを、自分がすすんで善をなすための主軸にすると、どうしても、なぜ、我々は善を行わねばならないか、ということを説明することができない。
王や神の権威、権力からなってしまうので、自分の心からなる善、が消え失せてしまう。
そうなると次に、善を行うのは、自律的、自主的に人間の中から、人間性の中から善を行うということを見ねばならなくなるが、それを自律的倫理学という。これには3つある。
一つは、合理説、または主知説。
一つは、快楽説。
一つは、活動説という。ではまず、合理説より見てみよう。
合理的、もしくは主知的倫理学とは、道徳における善悪、理非曲直ということと、知識上の真偽、なにが真理で何が虚構であるかということを一緒のものとしている。
物事の真実が見えてくれば、自然と、おのずと、じゃあ自分は何をせねばならぬか、が見えてくる。推理できると思っている。
だから、我々は、なにゆえに善をなさねばならぬかと問えば、それが真理だからだ、と答えるのだ。我々には、理性があるのであるから、その理性が、それが善であると知っておれば、行うに悪事は行えないのである。
これは一方においてホッブズなどのように、道徳法は王の好き放題できるものであるということとは反対に、道徳法は真理に根ざし永劫不変であることを主張し、また一方では、善や悪の根本を、知覚や感情という受け取り手の認識に委ねると、道徳の絶対性を説明することができず、なさねばならぬという義務の威厳の減少を招き、各人それぞれの好き勝手がまかり通ってしまうことを恐れて、真理の絶対性を根拠に、道徳法の絶対性としたのである。
ここらへんは王陽明先生の知行合一説を言っております。
知っているからこそ、行いはそれに付随するものである。善を知れば善を行うはずである。ということなわけです。
まあ、そういうと、何故世界はここまで悪事が蔓延しておるのか、ものすごく不思議に思いますけどね。一方では法を立て、為政者は人民に対し法を盾に蹂躙し、しかして自分たちは法を無視し、ないがしろにし己の欲望をほしいままとする。日本だって、マイナンバーだのなんだのと、税をとりたてる方策に躍起になって、しかして為政者たちは脱税して知らぬ顔をする。
となると、それはつまり、いまだ善を知らぬからだ、となるわけですが。法律にきっちり明記してあるのに、それがわからぬとはどういうことなのかわたしには理解しかねるところではありますが、まあ、全世界がそのようにできているのだから仕方ありますまい。
世界の人間は、いまだ善を知らぬのでありましょう。
因果応報を知らぬし、悪事を働いたものがどこへゆくかも知らぬ。
だから好き放題悪事を犯せる。
そして、わたしは世界の片隅で、なにゆえわれわれは善を為さねばならぬか、という本を読む、と。ウケるw まあ次w p299
「余は合理説の最醇(もっとも純粋であるもの)なるものはクラーク(1675~1729 イギリスの哲学者、神学者)の説であると考える。氏の考えによれば、すべて人事界における物の関係は数理の如く明確なるもので、これによりておのずから物の適当不適当を知ることができるという。
例えば、神は我々より無限に優秀なるものであるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施して不正なることは自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。
時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している」
う~ん、この短い文章は、かえって短すぎるがゆえに何を言っておるのか理解に苦しむw 合理説の最先鋒としてクラークとやらがいるのはわかるけど、そのおっさんが言うには、デウスは人間より優秀だから、人間はデウスに服従すべきとか、それって最初に見た他律的倫理学じゃね? ってなる。なんでそれで合理説の最先鋒って言ってるのか、さっぱりわや。
もっといえば、人間界の物事は数式のごとく明確であって、おのずから物事の適当・不適当がわかるという。いや、数式だって意外と明瞭ではない部分だってあるわけで、ためしに「数学 未解決」とググってみますと、これが解ければ1億円! なるものがあるわけで、数式だって明解というわけでもない。ましてや、適当・不適当も、何に対してなのかにもよってくるし、いまわれわれがわかっている科学も、今の段階の科学であって、100年後、1000年後には新たな真理も発見されているかも知れない。文章が短すぎてぜんぜん意図が読み切れんw
次に、自分が他者から嘘をつかれて嫌な気になるのなら、自分が他者に嘘をつくのはやはり悪なのだ、はこれはわかる。
しかし、悪事を働くものは、物の性質を変ぜんと欲するが如き者で、「ある」と「あらねばならぬ」を同一視している。が、ぜんぜん意味がわからんw 悪事を働いて、悪事を正義にすり替えようとしている?? え、どういうこと?? 自分が他人から不正を受けて、それが悪なら、自分が他者に行っても悪なわけでしょ?? 真理は不変じゃん。殺人は未来永劫殺人だよ? オウム真理教じゃあるまいし、ポアポアポアポアって万回繰り返しても、それは救済ではなくて殺人ですよ??
一人殺せば殺人だが、100万人殺せば英雄だ、ってのはあるけど、そういう話はしてないよね?w まあどうでもいいかw 次。p300
「合理説が道徳法の一般性を明らかにし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これをもって道徳の全豹(全貌)を説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なるものが、形式的理解力によりて先天的に知り得るものであろうか。
純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、なんらの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なるものは単に形式的理解力によりて、明らかになったのではなく、空間の性質より来るのである。
幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、すでに根本原理が明らかとなった上はこれを応用するには、論理の法則によらねばならぬのであろうが、この原則そのものは論理の法則によって明らかになったのではない。
例えば、汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力によりて明らかであるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。しかるに、何故にその一が勝っていて他が劣っているのであろうか、これを定むるものは理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。
我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるということより、かくあらねばならぬということを知ることはできぬ。
クラークは物の真相より適不適を知ることができるというが、適不適ということはすでに純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。何か求むる所のものがあって、しかる後適不適の判断が起こってくるのである」
合理説が、道徳法の不朽性を明らかにし、義務を厳粛にしようとするのは、わかる。
しかし、だからといってそれで道徳のすべてを語り終えたかの如き言い分は許されない。合理説論者は、われわれに規範を与える道徳法は機械的・表面的な理解力で、生まれる前からわかると言っているが、そうだろうか。
表面的理解力は、論理学にいう「思想の三法則」というように、単に表面的理解の仕組みとはなりうるが、その根幹となる精神にはなりえない。合理説論者は、好んで幾何学を例にあげるが、幾何学だってその公式なるものは機械的・表面的理解で解明されたのではなく、そもそも論、それが真理だから自ずとわかるのである。
幾何学の推理的計算は、真理に対する根本的な直感に、論理法を応用したものである。
そして、倫理学においてもすでに、真理が明らかとなったならば、これを社会に応用するには論理の仕組みによらねばならないのであろうが、これも真理は、論理の仕組みによって解明されたのではない。
例えば、汝の隣人を愛せよ、という道徳法は、知識的な理解力で解明できるであろうか。
われわれには、博愛精神もあれば、利己的精神もある。そうであれば、博愛が優れ、利己が劣っていると言えようか。もしくは利己が優れ、博愛が劣っていると言えようか。これに順序を与えるのは、われわれの理解力ではなく、感情、もしくは欲望である。
われわれは単に、機械的・表面的な知識で真理を理解したとしても、そこから善を行うことはできない。人間に博愛精神があったからといって、だからといって自動的に隣人を愛せよ、とはなり得ない。
クラークは真理の上から、物事の適当・不適当を知ることができるというが、しかし、適当・不適当と言っているということは、すでに知識からなる判断ではなく、価値として優れているか劣っているかという判断である。そもそも、自身に求めるものがあるからこそ、それが適当・不適当か、という判断になるのである。
……で、あってるのかなぁ。ちょっと自信ないですw
一応まとめますと、クラークというおっさんは、「我々の行為を指導する道徳法なるものが、形式的理解力によりて先天的に知り得るもの」と、言っておると。
そして、それは、「汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力によりて明らかである」にかかっているわけです。このクラークの言葉は、さっきみた、
「すべて人事界における物の関係は数理の如く明確なるもので、これによりておのずから物の適当不適当を知ることができる」
からきておるわけで、つまり、クラークとしては、デウスは絶対的に正しいわけで、完璧超人なわけで、だから、その子たるイエスが、「隣人を愛せよ」といえば、それは何の疑いようもなく、だから「我々の行為を指導する道徳法なるものが、形式的理解力によりて先天的に知り得るもの」と言いたいのであろう。それこそ、先天的、生まれる前から我々は隣人を愛せよ、がインプットされているんだろう、くらいに言っておると。
それに対して、キタロー氏は、いや、チョッまてよ! 確かに博愛を認めはするが、しかし人間には自愛、利己の精神だってあるじゃまいか。それなのに、「隣人を愛せよ」という真理があるからといって、博愛だけで人間が出来上がっているということはできんぞい。といっておる、んでしょうw
そういう風に理解はしましたが、しかしそれでも、では適・不適がどこにかかっているのかが、やっぱりよくわからんw キタロー氏も、具体例をぜんぜん出さないから読んでる側の理解が遠ざかるわけで、具体的に論じたいのか。それとも抽象的なものがいえればそれで満足なのか。どっちなんだい。
あと、思想の三法則。ネットで調べると「三段論法」というものがでてきますね。
これは有名なA=B B=C C=A というやつ、もしくは大前提、小前提、結論というやつで、
Aで、人間は死ぬ。
Bで、ソクラテスは人間である。
Cで、ソクラテスは死ぬべきだ。
ってやつですね。これを言い出したのはアリストテレスで、アリストテレスの師匠はプラトンで、でプラトンの師匠は、ソクラテスになるんだとか。師匠の師匠にあたるらしい。師匠の師匠にあたる人物に対して、ソクラテスは死ぬべきだ、などとこういうことを言い出すアリストテレスのオツムはどうなっておるのかと思いますがw こういう話をやるとでてくるやつですw
少なくともわたしは、師匠の師匠は死ぬべきだ。なんて言い出すやつと仲良くはなりたくはないなw と同時に、んなやつの言ってることを真に受けたくはないw
それはともかく次w p302
「次に、論者は何故に我々は善を為さねばならぬかということを説明して、理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという。理を解する者は知識上において理に従わねばならぬのは当然である。しかし、単に論理的判断というものと意志の選択とは別物である。
論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情または衝動より起こるもので、単に抽象的論理より起こるものではない。己の欲せざる所人に施す勿れという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対してほとんど無意義である。
もし抽象的論理がただちに意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人はすなわち最善の人といわねばならぬ。しかるに、事実は時にこれに反して知ある人よりも反って無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。
先には合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派(キニク学派。禁欲主義。犬のような乞食生活をしたのでそう呼ばれた)であろう。
この派はソクラテースが善と知とを同一視するにもとづき、すべて情欲快楽を悪となし、これに打ち克って純利に従うを唯一の善となした、しかもそのいわゆる理なるものは単に情欲に反するのみにて、なんらの内容なき消極的の理である。
道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネス(紀元前404~323)の如きがその好模範である。その学派の後、またストア学派なるものがあって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理によりて支配せらるるもので、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのはすなわち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。
その結果犬儒学派と同じく、すべての情欲を排斥して単に無欲たらんことを務むるよになった。エピクテート(エピクテトス。紀元前55~135。古代ローマのストア派)の如きはその好例である。
右の学派の如く、全然情欲に反対する純理をもって人性の目的となす時には、理論上においてもなんらの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においてもなんらの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックス(犬儒学派のこと)やストアがいったように、単に情欲に打ち克つということが唯一の善と考うる外ない。しかし、我々が情欲に打ち克たねばならぬというのは、さらに何か大なる目的の求むべきものがある故である。単に情欲を制するために制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい」
次に、合理説論者は、どうして、われわれは善を行わねばならないか、という説明に、われわれ人間は理性ある生き物であるから、必然、理に従わねばならないのだ、という。
理、真理、理屈を理解するのなら、知っているのなら理を行うのは当然である。しかし、単に機械的に理にかなっているという判断と、人の意志の選択とは、別物である。
機械的判断は、必ずしも意志から発しているとは言えない。意志とは、感情または衝動より発するもので、具体性に乏しい理屈より起こるものではない。
【己の欲せざる所人に施す勿れ】
という格言も、もし同情という感情がなかったのならば、われわれに対してなんの感激も起こさない。
もし、具体性に乏しい理屈が、ただちに動機となりうるのならば、物事をただちに理解できる人が最善の人と言えるだろう。しかし、事実はおうおうにしてこれに反し、知識たくわえた人よりも無知で粗野な人のほうが、実ははるかに善人であるということは、誰にも否定できない事実であろう。
あとは犬儒学派だのストア派だのですが、例題が極端すぎるので論ずる価値なしw
自分がされたら嫌だな、と思うのならば、他者にもしない方が良い。
振り返りますと、さっきのクラークの言葉とやらで、「他人が己に施して不正なることは自分が他人に為しても不正である」がありますが、そういわれてみますと孔子様の言葉と同じですね。
とはいえ、これを同情からおこる、といわれるとな~~んか釈然としないんですけどw
これを顔を真っ赤にして反論を試みようと思いますがw わたしはこの、【己の欲せざる所は人に施すことなかれ】というのは論語の中でも一、二を争うくらいに好きな言葉でありまして、わたしが人として生きるにあたって、これを相当念頭において生きておるのです。
ん? そうは見えない?
それは見解の相違ですのぅw
この文章をよくみたまえ。「己の欲せざる所」とあるのでございます。自分がされたら嫌、であって、自分がされても平気ならするんですw だって、他人がどう考えているかなんて知りようがないし(ある意味興味ないし)、「他人の欲せざる所」、なんて言い出したら何にもできんくなりますし。
あくまで、「自分」というモノサシの範囲において、これなら平気、これなら嫌、という風に考える他ないわけで。今の日本人のような、学問もない、する気もない、興味すらない、そんなのと同調してたらわたしは心を病んでしまいます。だから、あんまり同情はしないかな。
しないわけでもないけど、でも、人生というのは、不断の自分自身の進化・向上であるわけで、わたしはそうしておるわけで、もっと余計なことを言いますと、わたしの名前「亨」という字は、安岡先生によりますと二つの字の合成文字だそうです。それが「高」と「了」だそうです。上が高で下が了。意味合い的には、高くで終わる。つまり、進化し続ける、ということだそうで、わたしはその点、自分の名に恥じぬ生き方をしておると自負しておるわけです。
そのわたしから言いますと、今の日本人は、日本人のくせして、今の今上陛下は大和王朝何代目の天皇か知らん。皇紀で何年目か知らん(わたしも2600とか2700とかざっくりでしか知りませんけれども)。どうして、令和天皇といわずに今上陛下とお呼びするか知らん。知らんづくし。知らんし、知りたくもないし、興味もない。
だから、日本人としてのアイデンティティも大したものではないし、だから、多くの日本人がそうであるように、快楽主義だの唯物主義だの物質主義だのに成り果てるしかないわけで、悟りを開くだの自身の魂を、精神を向上せしめる、という精神性がない。かつての日本人がもっていたような溌剌とした、精神性、純粋さがない。
2000年もの歴史があるのに、そのことに誇りをもってもいないし、そもそも考えてもいない。
日本は世界でもっとも最古で最長の歴史を誇り、現在で126代というものすごい長い王朝を戴いているのに、そのことを知りもしない。興味もない。
ただ目先の、金だの利益だの出世だの快楽だのメシだのに意識を向けるだけで、ただ脊髄反射をしておるだけではないか、とすら思うわけで、そんな人間に同情しろ、といわれても、って感じなわけで。
同情するなら、今の多くの日本人は、学校という左翼養成所に放り込まれて、歴史の授業という暗記ものを教え込まれるわけです。元来、近代国家において歴史というのは、自分の国に誇りをもてるためにするものです。日本とはどういう国で、日本人とはどういう民族で、どういう歴史をたどって、今のわれわれがあるのか、こういうことを理解するためにあるのに、左翼どもの手によって、歴史とは無味乾燥たる暗記するだけに終始して、日本人としての誇りだの愛国心だのもつことができない、左翼と同じ唯物主義者になるしかない。
アメリカ人あたりに聞いてみたいきはしますが、きちんとアメリカで教育を受けて、いまの大統領が何代目かぜんぜんわからない、興味もない、なんてアメリカ人がいるのかどうか。
近代国家において、民主政国家においても自分の国を愛する、誇りを持つ、などというのは常識であるにもかかわらず、今の日本の教育は左翼どもによって牛耳られて、自分の国に誇りがもてない。愛国心がない。
そんな人生を生きるのは可愛そうだな、という同情はありますけど、それにしたって、大事な大事な自分の人生を他者に好き放題ぶっつされて何で何にも思わないんだろう。悔しくないんだろう。怒らないんだろう。と思っておりますけどね。
チェ・ゲバラが、広島にやってきて、こういったそうな。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
こういわれて、そうだその通りだ! と思う日本人が何人いるんだろう。いないからこういう国になっているわけで。昨今、アサシンクリードの最新作で、日本の歴史をバカにされていると日本人が憤っているようですが、身から出た錆、って言葉を知っているのかな、とは思ふ。
【己の欲せざる所は人に施すことなかれ】を、同情のただ一点でのみ論ずることはできないと思う。もっと重要なのは「恕」思いやりであるわけで、わたしが辛辣なことをいうのも、ある種、思いやりなんですよ。学問があれば理解できるんじゃないかな、とは思ってますけどね。
理解できないのなら、それはそれで是非もなし。もっと言えばしったこっちゃない。
まあともかく、合理説じたいは、儒教の精神とさほど変わらないものであると言えるでしょう。儒教をあんまり知らないとみえるキタロー氏にどう見えたのかは知りませんが。
しかし、こうしてキタロー氏の言説を振り返りますと、結局のところ、抽象的な言い回しが多く、犬儒派とかしょうもない極端な例をもってきてなにゆえ、われわれは善を為さねばならないか、を論ずるのははっきり言ってピントがずれているといいますか、隔靴掻痒、かゆいところに手が届いていないといいますか、はっきり言えば、寝ぼけた物言いだと思いますけどね。
といったところで、『善の研究』を読んだ。七の巻。
こんばんはこれまで。
したらば。
『アキハバラ電脳組』のOP・EDを聴きながら。
けっこう好きなアニメでしたね。特に、最終回は感動したなぁ。いまでも歌だけは覚えてますね。