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『善の研究』を読んだ。六の巻


 

 おこばんはです。豊臣亨です。


 では、早速、『善の研究』を読んだ。六の巻。


 いよいよ、善の研究、の善、とはなんぞや? に入ってゆくわけですが、前回みてみました通り、「これより我々人間は何をなすべきか、善とはいかなるものであるか、人間の行動はいずこに帰着すべきかというような実践的問題を論ずることとしよう」と言い出しておきながら、善を論じるにあたって、善をずっと研究してきていた倫理学、これを考えないわけにはいかない、ということで(どういうことだってばよ)、訳のわからん御託を聞かされたわけですが、次にキタロー氏はなにをほざき出すのか。見てみましょう。p208


 第六章 倫理学の諸説 その二




「前に直覚説の不完全なることを論じ、かつ直覚の意義によりて、種々相異(あいこと)なれる学説に変じ得ることを述べた。今純粋なる他律的倫理学、すなわち権力説について述べようと思う。


 この派の論者は、我々が道徳的善といっているものが、一面において自己の快楽あるいは満足という如き人性(にんせい)(ネットで調べるとがっつりじんせい、って出てきますけど、わたしは人生とは読み方でわけたいw)の要求と趣を異にし、厳粛な命令の意味を有する辺りに着目し、道徳は吾人(ごじん)に対し絶大なる威厳または勢力を有する者の命令より起こってくるので、我々が道徳の法則に従うのは自己の利害得失のためではなく、単にこの絶大なる権力の命令に従うのである、善と悪とは一にかくの如き権力者の命令によって定まると考えている。


 すべて我々の道徳的判断の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等によりて養成せられたるものであるから、かかる倫理学説の起こるのもむりならぬことであって、この説はちょうど前の直覚説における良心の命令に代うるに外界の権威をもってしたものである」




 次に、我々が、善悪を行うにあたって拠り所となるものとして、他律的倫理学、権力によって行うというものを見てみよう。とキタロー氏は言うわけですね。


 この派閥の人々は、我々が、道徳的な善、と言ってるものに対して、ある面から見れば、自己の快楽、あるいは自己満ともいえる人間性、人間の性質という見地からは一線を画し、非常に厳粛なる命令である、という点に着目して、道徳とは、すなわち我々に対し絶対的な支配力、影響力をもつ命令から起こってくるものであって、つまり、我々が道徳を行うのは、自分にとってよかれと思って行うのではなく、その絶対的支配者の命令によって従うのだ。


 善という判断も、悪という判断も、個々人によって決められるものではなく、絶対的なる支配者の一存いかんによるのである。そもそもとして、我々の道徳となるその判断基準も、父や教師の教え、法律や制度、風習や日々の常識によってはぐまれるものであるからして、そういう、自分以外の絶対者にその判断基準を置きたがるのも、無理からぬことではある。権力説は、道徳を行う基準を、絶対者、によるものというものである。と。



 何で、左翼共がポリコレだのLGBTだのほざくかと言えば、それこそキタロー氏のいう如く、「一面において自己の快楽あるいは満足という如き人性の要求」なわけですね。どだい、左翼に傾倒する連中なんて、ゴミクズしかいないわけで、そういうゴミクズが、ゴミクズでもなんとかできるような論点をもってくるしかないわけです。この前、ラサール石井のごときが、左翼は暴力的なんて指摘がありますけど、なんか証拠があるんスか? っていったら、「これが左翼だ!」と、それこそ山のように証拠を突きつけられたわけで、ゴミクズというのは口を開けばろくなことを喋れないからすぐブーメランが返って来る。


 なので、ブーメランが返ってこないような、誰も文句のつけようもないような、微妙なところをついてくるわけです。

 

 古くは部落差別に、シー・シェパードのような動物保護、温暖化、化石燃料の環境問題とか、女性蔑視、女性差別、性的マイノリティー、最近ならゲームにまでLGBTを持ち込むとか、こういう、誰もがそこをつかれると返答に窮すと言いますか、あんまり大っぴらにやりたくないようなところをついて、悦に入っているわけですね。


 こうして、自分が旗頭となっておれば偉そうなことが言えるし、道徳だの社会正義だのを盾にしてメシも食えるのでそういうことをやりたがるわけです。


 でまあ、そういう人間性とは一線を画すのが権力説である、と。


 次。p289




「この種の学説において外界の権力者と考えられるものは、もちろん自ら我々に対して絶大の威厳勢力をもったものでなければならぬ。倫理学史上に現れたる権力説の中では、君主を本としたる君権的権力説と、神を本としたる神権的権力説との二種がある。


 神権的倫理学は、キリスト教が無上の勢力をもっていた中世時代におこなわれたので、ドゥンス・スコトゥス(1266年~1308年。イギリスの神学者。フランシスコ派修道士)などがその主張者である。


 氏に従えば、神は我々に対し無限の勢力を有するものであって、しかも神意は全く自由である。神は善なる故に命ずるのでもなく、また理のためになすのでもない、神は全くこれらの束縛以外に超越している。善なるが故に、神これを命ずるのではなく、神これを命ずるが故に善なるのである。氏は極端にまでこの説を推論して、もし神が我々に命ずるに殺戮をもってしたならば、殺戮も善となるであろうとまでいった。


 また、君権的権力説を主張したのは近世の始めに出た英国のホッブス(1588年~1679年。イギリスの哲学者。リヴァイアサン、万人の万人による闘争説、がとみに有名)という人である。氏に従えば、人性は全然悪であって弱肉強食が自然の状態である。これより来る人生の不幸を脱するのは、ただ各人がすべての権力を一君主に(たく)して絶対にその命令に服従するにある。それで何でもこの君主の名に従うのが善であり、これに背くのが悪であるといっている。


 その他シナにおいて荀子(紀元前298年~紀元前238年。中華の儒学者)がすべて先王の道に従うのが善であるといったのも、一種の権力説である」




 権力説として、大きいものが2つ。王を根本とする王権説と、デウスを根本とする神権説、である。


 神権説の言はこうだ。デウスは我々に対する絶対の支配者である。創造主である。デウスは、正しいから、とか、善いから、などという理由で我々に命ずるのではない。デウスだから、命ずるのである。


 そして、デウスの言葉=絶対なる善なのである。


 もし、仮にデウスが全人類の死を願うのならば、我々は喜んで死なねばならない。デウスが絶対の善なるがゆえに。


 次に王権説であるが、これも上記と同様。王が支配者であるがゆえに、王の言葉=絶対なる善なのである。中華における荀子も、堯・舜(ぎょう・しゅん)の教えに従えという。これもある種の王権説である。



 ……こういう言葉がありますね。


「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保障してくれるというわけだ。よろしい。ならば私も問おう、君らの神の正気は、一体どこの誰が保障してくれるのだね?」


 また、西洋の、仁政とか仁道とかいう概念すらない王権のごときと、伝説上とはいえ完璧超人の堯・舜や、東洋思想を同列に論じるのは愚者のすることですが、まあよいでしょう。次。p290




「右の権力説の立場より厳密に論じたならば、いかなる結論に達するであろうか。権力説においては何故に我々は善をなさねばならぬかの説明ができぬ、否説明のできぬのが権力説の本意である。我々はただ権威であるからこれに従うのである。何かある理由のために従うならば、すでに権威そのもののために従うのではなく、理由のために従うこととなる。


 ある人は恐怖ということが権威に従うための最適当ある動機であるという、しかし恐怖ということの裏面には自己の利害得失ということを含んでいる。しかしもし自己の利害のために従うならばすでに権威のために従うのではない。ホッブスの如きはこれがために純粋なる権威説の立脚地を離れている。


 また、近頃最も面白く権威説を説明したキルヒマン(1802年~1884年。ドイツの哲学者)の説によると、我々は何でも絶大なる勢力を有するもの、例えば、高山、大海の如きものに接する時は、おのずからその絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる、この情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に(とりこ)(虜)にせられ、これに平服し没入するの状態である。しかしてこの絶大なる勢力者がもし意志をもった者であるならば、おのずからここに尊敬の念を生ぜねばならぬ、すなわちこの者の命令には尊敬の念をもって服従するようになる、それで尊敬の念ということが、権威に従う動機であるといっている。


 しかし、能く考えてみると、我々が他を尊敬するというのは、全然故なくして尊敬するのではない。我々は我々の達する能わざる理想を実現し得たる人なるが故に尊敬するのである。単に人そのものを尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽獣には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである。


 それで、厳密なる権力説では道徳は全く盲目的服従でなければならぬ。恐怖というも、尊敬というも、全くなんらの意義のない盲目的感情でなければならぬ。エソップ( )(イソップ)の寓話の中に、ある時鹿の子が母鹿の犬の声に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな身体をして何故に小さい犬の声に驚いておどろいて逃げるのかと問うた。ところが、母鹿は何故かは知らぬが、ただ犬の声が無闇にこわいから逃げるのだといったという話がある(この話は「仔牛と鹿」という話で、キタローの話は少し違うw 子鹿ではなく仔牛で、母鹿ではなく雄鹿。あとは大体一緒)。


 かくの如き無意義の恐怖が権力説において最も適当なる道徳的動機であると考える。はたしてかかるものであるならば、道徳と知識は全く正反対であって、無知なる者が最も善人である。人間が進歩発達するには一日も早く道徳の束縛を脱せねばならぬということになる。また、いかなる善行でも権威の命令に従うという考えなく、自分がその為さざるべからざる所以を自得して為したことは道徳的善行でないということになる」




 こうして、権力説を平たく見てゆくと、結局のところ、なんで我々は正しく生きなければならないか、という説明がつかぬ。いや、そもそも説明できないところにこそ、この権力説の、権力説たるゆえんがあるのである。


 なんでこれに従うかといえば、権力ゆえに従うのであって、他に理由があれば、権力に従っているのではなくなってくる。


 ある者は、権威に従うのは恐怖からくるのだ、と言う。それは、平たく言えば、死にたくないから従っていることになる。死にたくないという、自己保存の欲求に従っている、ということにもなる。


 また、最近権威説を説明した者に、キルヒマンなる者があって、それによれば、大海とか、高い山とか、そういう雄大な、茫漠たる威容に驚き、感動する。この感情はもちろん、恐怖でもなければ苦痛でもない。もし、この雄大な、巨大なものが意志をもったものであるとすれば、自然とその存在に尊敬の念、讃仰の念を感じないわけにはいかない。そうすると、やはりおのずからその存在にはかしずかないわけにはいかなくなる。これが、権威に従う動機であるという。


 しかし、よくよく考えてみれば、我々が他を尊敬するのは、何の理由もなしに尊敬するのではない。我々が容易に達することのできない高みに至った、その理想精神を尊敬するのである。人に尊敬するのではない。猛獣からすれば、お釈迦様も孔子様も、等しくただの人に過ぎない。


 結局のところ、権力説では、道徳とは故なき盲信でなければならなくなる。恐怖という時も、尊敬を感じる時も、それはロボットのごときプログラムでなければならなくなる。もし、こんなものが道徳の根本であるというのならば、一番の善人はただただ盲信し盲従する無知な人ということになる。


 本当の正しさとは、こういう道徳から脱することになってしまう。権力説をインプットされたロボットになってしまうので、すべての行動も思考も、プログラムゆえ、ということになってしまう。



 ……言いたいことはものごっついありますが、最後にしませう。次。p293




「権威説よりはかくの如く道徳的動機を説明することができぬばかりでなく、いわゆる道徳法というものもほとんど無意義となり、したがって善悪の区別も全く標準がなくなってくる。我々はただ権威なる故に盲目的にこれに服従するというならば、権威には種々の権威がある。


 暴力的権威もあれば、高尚なる精神的権威もある。しかし、いずれに従うのも権威に従うのであるから、(ひと)しく一であるといわねばならぬ。すなわち、善悪の標準は全く立たなくなる。もちろん、力の強弱大小というのが標準となるように思われるが、力の強弱大小ということも、何か我々が理想とする所のものが定まって、始めてこれを論じ得るのである。


 耶蘇やそとナポレオンとはいずれが強いか、そは我々の理想の定めようによるのである。もし単に世界に存在する力をもっている者が有力であるというならば、腕力をもった者が最も有力ということにもなる。


 西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠じたように、道徳の威厳は実にその不測の辺りに存するのである。権威説のこの点に着目したのは一方の真理を含んではいるが、これがために全然人性自然の要求を忘却したのは、その大なる欠点である。道徳は人性自然の上に根拠をもったもので、何故に善をなさねばならぬかということは人性の内より説明されねばならぬ」




 権威説では、今見たように道徳を行う動機を説明することができないだけではなく、いわゆる道徳法、というものも、ほとんど意味をなさなくなる。なので自動的に善悪の基準もなくなってしまう。我々が、ただ権威であるからこれに盲従するのであると、しかし権威説にもいろいろある。


 暴力的な権威もあれば、たっとい権威もある。とはいえまあ、権威に盲従している時点で大差はない。もちろん、そこには力の強弱や大小というのが大事になるかと思われるが、我々のモノサシで図れるようになって始めて語るに値するようになる。


 キリスト教と、ナポレオン、神権と王権、どちらがより強者かと考えた時に、それも我々のモノサシで計れるようになってから、始めて物が言える。力こそパワー、これが世界の常識であるとすれば、それがせかいさいつよ、ということになる。


 西行法師が、


「何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」


 と、伊勢神宮に参った時にこういう歌を残されたのも、道徳の威厳とは、そういう図り得ない幽玄さにあるからだ。


 権威説がこういう計り知れない幽玄さに着目したのは、そこは見どころもあるが、そのために人間性、人間の本性にまったく盲目的となってしまったのは大なる失敗といわねばならない。


 道徳とは、人間性の、その自然に発するところにその根幹、根っこがあるのであって、我々人間がなにゆえ善をなさねばならないか、というところは、人間の本性にこそ、その深奥を尋ねねばなるまい。



 といったところでしょう。


 ものすごくさっくりと第六章は終了しております。


 ここを読んで、やっぱキタロー氏って馬鹿なんだろうな~。と思うところですね。もしくは、わたしが思う信仰心と、キタロー氏の言う信仰心とは、別世界、別次元にあるんだろう、と思う。


 わたしの信仰心と、キタローの信仰心は、ぜんぜん違う。


 こころみに、いつもの安岡先生の書を伺ってみましょう。いやまあ、わたしの思想の淵源って、安岡先生にしかないものでw


 今回伺いまするは、『禅と陽明学 <下> 人間学講話』 プレジデント社から ほんの数行ですが。大切な教えなので見てみましょう。p47




「人間の精神に内在しているところの二つの相対的傾向、即ち一つは、より大いなるもの、尊いもの、美しいもの、そういう人間の理想に向かって心が傾いてゆく。あるいはそれを仰慕(ぎょうぼ)あるいは鑽仰(さんぎょう)する。とにかく高きに向かって仰ぐ。それがあると必ず人間は陰陽相対の理法で省みる。即ち反省という働きがある。


 反省という働きと、仰慕、鑽仰という働き、こういう心の陰陽相対の作用が理想に向かって思考してゆくときに「参る」とか「まつらう」とか「さぶらう」とか「(はべ)る」とかいう、つまり理想像に向かってできるだけそれへと身を投じてゆこう、すべてをそれに捧げて、その理想像即ち大河のなかに自己を没して、そこに自己を生かしていこう、大我の中に小我を生かしていこうという志が生まれ、それが建前になれば宗教という形態をとる。


 それに対して、己に返って、即ち反省して、畏れ慎み、自分を戒めて()していこうという心を生じる。それが建前になったら道徳というものになる。


 したがって本当の道徳というものは――宗教があって初めて本当の道徳というものがある。宗教というものは必ず反省・戒律と道徳を()( )(あいまって)初めて存立する。それが離れたら堕落になる」




 という、安岡先生のお言葉を伺ってから、先程の文章に返ってみましょう。



「キルヒマンの説によると、我々は何でも絶大なる勢力を有するもの、例えば、高山、大海の如きものに接する時は、おのずからその絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる、この情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に(とりこ)にせられ、これに平服し没入するの状態である。しかしてこの絶大なる勢力者がもし意志をもった者であるならば、おのずからここに尊敬の念を生ぜねばならぬ、すなわちこの者の命令には尊敬の念をもって服従するようになる、それで尊敬の念ということが、権威に従う動機である」



 このキルヒマンとやらのいいは、安岡先生のお言葉と同じものと見ることが出来るでしょう。


 大海とか、高山とか、偉大な、雄大な大自然、その存在に胸打たれ、仰慕し、鑽仰し、その大いなるものに近づきたい、自分もそうなりたい、と思う。これがごくごく自然な人間がもつ素朴な心であります。これを信仰心といわずして、なにが信仰心といえるでしょう。


 ただ、これに盲信し盲従するかどうかは別問題です。


 一応、前半部分は、「権威説のこの点に着目したのは一方の真理を含んではいる」と、キタロー氏の言う通り、正しい。


 しかし、それ以降、キタロー氏は狂ってゆきます。


 キルヒマンの箇所では、「高山、大海の如きものに接する時は、おのずからその絶大なる力に打たれて驚動の情を生ずる」と言っているわけです。驚動の情を生ずる。つまり、感動し、感激するわけです。だから、その偉大なものに近づきたい。はべりたい。ぬかづきたいわけです。なのになんで、



「それで、厳密なる権力説では道徳は全く盲目的服従でなければならぬ。恐怖というも、尊敬というも、全くなんらの意義のない盲目的感情でなければならぬ」



 その感動が、「全くなんらの意義のない盲目的感情」に成り果ててしまうのか、さっぱり意味がわからぬ。「なければならぬ」と感激を全否定しているのかもよくわからぬ。しかも、最後に、



「道徳は人性自然の上に根拠をもったもので、何故に善をなさねばならぬかということは人性の内より説明されねばならぬ」



 といっておるのもさっぱり意味がわからぬ。というか、言っておることの矛盾に唖然となる。偉大な自然を前にした感激とは、それこそお前がなんちゃらのひとつ覚えでほざく、主客未分の純粋経験とちゃうんかい。その、主客未分の純粋経験こそ、人性自然の上より発するものとちゃうんかい。ってか、ああそうかこいつ、後から第一章書いてるから主客未分の純粋経験とかこの段階では構想すらしてなかったのか。前後で矛盾してくる文章書いてるとか、推敲すらまともにしていないと見える。あとこれ、キルヒマンが「驚動の情」を否定しているかはキルヒマン御本人の言葉を見たわけではないのでわからないのですが、キタロー氏がものすごい極論をして言説を捻じ曲げているように見えるんですよね。


 とはいえ、人性自然の上より発しない「驚動の情」とは、一体どういう類の感情なのか、そちらの方こそ、キタロー氏に聞きたいもんです。しかも、



「しかし、能く考えてみると、我々が他を尊敬するというのは、全然故なくして尊敬するのではない。我々は我々の達する能わざる理想を実現し得たる人なるが故に尊敬するのである。単に人そのものを尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽獣には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである」



 この一文も、主客未分の純粋経験と、完璧に食い違っております。キタロー氏はこれまで、主客未分の純粋経験、経験と自分とは分かちがたく渾然一体となる、それこそ、いま読んでいる本と自分が一体となる、みたいなことをほざいておったわけですが、


「我々は我々の達する能わざる理想を実現し得たる人なるが故に尊敬するのである」と言いながらも、次の箇所で本当にトチ狂って、「単に人そのものを尊敬するのではなく理想を尊敬するの」だと言っておるのです。


 たったこの一文で恐ろしいまでの矛盾をきたしておきながらそこにまったく気が付かなかったのであろうか????


 キタロー氏のオツムの中では、お釈迦様も、孔子様も、この方々が成し遂げた前人未到の大理想と、お釈迦様、孔子様は、別個に存在しているもののようです。


 お釈迦様や、孔子様が人性自然の上に発したであろう、仏教的理想、儒教的理想と、その人、そのものは別物で扱っておるんです。だから、猛獣の前ではただの肉。と言い放っておるわけです。


 この発言を見ますと、ここにおいてやっぱりと言いますかなんと言いますか、キタロー氏は非常に西洋思考に脳みそ毒された、はっきりいえば、左翼論者と言えるでしょう。そういう意味では福沢諭吉と大差ない程度の人間だった、ということが分かりますね。


 東洋と西洋の違いとして、東洋では、偉人に憧れ、偉人の側近くにゆきたいと考えるわけです。安岡先生のおっしゃる通りです。しかし、逆に西洋では偉人に憧れない。凡人を愛すると言いますか、偉人に嫉妬すると言いますか、人、そのものを問題にしない。


 何故かと言えば、西洋は主我的であり、東洋は没我的です。


 西洋は個人を愛する。自分を愛する。だから権利やら義務やら平等やらが東洋より発達する。だからそんな個人が集まると、それこそ前に見たホッブズの「リヴァイアサン」万人の万人による闘争、という結果を生みだしかねないから、それを国家なり宗教なりにまとめてもらわないといけなくなってしまう。


 そして、この平等という考えが、非常に左翼的な、悪平等を生む。よく、LGBTで、美人をゲームに出すな! と騒いでおりますが、これが悪平等。美人とか、偉人とか、そういう偉大なものをむしろ蔑視する。憎む。だから奴らは日本が嫌いなのでありましょうw


 この、「禽獣には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである」といういいざまに、西洋的な思考を見るわけです。


 むしろ、東洋なら、お釈迦様や孔子様を前にすれば、どのような畜生と言えど道を譲るであろう、と言うでしょう。一応、実例もないこともありません。大昔の禅僧なんてのは山奥に住んでいたから虎と仲良くなったというお話もあります。華林禅師という僧は、虎に「大空」「小空」と名づけて従者にした、んだとか。ネットで調べたらそういうお話も見つけられるかもです。


 金太郎がクマにまたがったのも、何もおとぎ話とも言って捨てられない。また、五胡十六国時代に、梁の武帝という皇帝がおった。この皇帝は非常に仏教に耽溺たんできした人物です。とはいえ、かの達磨大師から、んな仏教はあってもなきがごとしで意味ない、と全否定されてしまったようなご利益宗教にのめり込んでしまった人物ですが、それでも「皇帝、天下を忘れ、天下また皇帝を忘れる」というほどには仏教の修行をやった、乞食に身を落としてまで修行をやったような、一角の傑物ではあったようなので、かの、「宇宙大将軍」というものすごい号をかかげた侯景(こうけい)という賊がこの梁を攻め滅ぼし、武帝をひっ捕らえたものの、武帝の威容に震え上がった、というお話もあります。


 本当に道に達した人物なら、禽獣にだって通ずる。これが東洋の精神です。


 そういう点からみたら、まったくキタロー氏のごときは東洋的ではない。西洋思考に脳みそ毒された左翼論者であります。


 そして、そう気づいたら、なんでこんなゴミみたいな書が日本で三大教養の書としてもてはやされたのかのもわかる気がいたします。福沢諭吉の『学問のすゝめ』と一緒です。左翼的だからです。左翼的だから、もてはやされた。


『学問のすゝめ』は、中を読めば明らかなように、非常に孔子様を悪罵しております。これでもかと儒教を否定しておるわけで、つまり、それまでの日本にない、非常に斬新な書であったわけです。これまでの日本で、儒教を礼賛しない、孔子様を否定する書などあるはずがなかった。なにせ、世は江戸時代で、江戸幕府は儒教をもって国家鎮護にあたっていたわけで、儒教を否定するような書が出られるはずもない。


 が、明治になったら出てきた。


 すわ、新時代か! とその当時の人々はそれこそ驚動したわけです。だから300万部もその当時売れたと言われております。明治の人たちは、自分たちのよって立つ所以も忘れ、自分たちが東洋思想で生きてきて、その東洋思想によって成功しているその事実を忘れ、西洋思考を礼賛し、西洋によって食い物にされた永劫眠れる獅子、清帝国からの脱却、脱亜入欧で東洋思想を忘れたわけです。


 そしてそういう、左翼的な連中に本書は目をつけられたのでしょう。日本人は結構左翼的なところがありますので、特に喜ばれたのでしょうね。ためしに、「孔子」と「マルクス」でようつべでも検索してみなさい。マルクスの方がよっぽど動画数が多いでしょう。そもそも、動画を作るにしても当然、視聴率を気にするわけでどっちが衆目を集めるかは言うまでもないでしょうね。


 とはいえ、昨今のアニメやゲームにLGBTが入ってくることは嫌っておるわけで、心根の全部が左巻きというわけでもない。そこは、NOと言えておるようですw


 まあともかく、キタロー氏のオツムの程度はこの程度であることが分かりました。この前、他愛をほざいておりましたね。


「我々は他愛について、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。しかして、宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である」


 と。結局、上記を見るに、これらはキリスト教の「自分を愛するがごとく隣人を愛せよ」というスローガンを(らっ)してきた、そのままコピーしてきただけであり、じゃあとキタロー氏御本人を見ると他愛もないことに、他愛を語るほどの人間性なんぞは有していないことがこうしてバレた。馬脚を現したわけであります。これも、東洋思想においてはもっとも唾棄すべき人種と言えるでしょう。「知行合一」、知識とその日々の行いは一致していないと嘘である、という教えにも合致しない。


 よくある、白人種にあるように、「すべての人類はみな平等である(白人だけねw)」というのと大差ないペテン師。ということがこれでわかるのであります。


 といった所で、今晩はこれにて。


 したらば。






『ヤナト田植唄』を聴きながら。



神も 人も 栄えよ とこしえに 



 本当の東洋思想には愛がある。真がある。血の通った誠がある。



『ヤナト田植唄』を聴きながら。


 本当の東洋思想には愛がある。真がある。血の通った誠がある。


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