『善の研究』を読んだ。五の巻
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、今回は『善の研究』に入る前に、いつもの無駄話をさせていただきまする。
今回お話するのは「ドラクエ11s」について。まあ、発売から相当時間が経った作品ではございますが、ある時、ようつべでドラクエⅢリメイクの動画を見ておりましたら無性にやりたくなりまして。しかし、手元にスーパーファミコンなどはないし、任天堂のハードもなにも所持していない現状。となると、いつものスチームで買うほかない、となると、と最新作である11sを買った次第でございます。
わたし自身、ドラクエはⅣまでプレイしておったのですが、それ以降一切手出ししていなかったので、かれこれ20~30年ぶり。非常に懐かしいものを味わわせていただきました。まず、オープニングが始まりますと、まず、いの一番に、「東京交響楽団」と出てまいります。オーケストラを全面に押し出しているわけですが、いつものドラクエのテーマをフルオーケストラで、さらに、今はなき鳥山明氏の絵柄で見せられますと、古ぼけたおっさんでもさすがに素晴らしいと思いましたね。
物語が始まりまして、一角うさぎとかもう本当に懐かしいモンスターが出てまいりまして、感動やら可愛いやら。むかしはコマンド選択でただエフェクトが光ったりするだけの味気ない戦闘シーンでしたが、今は勇者もモンスターもいきいきと動いてくれるので、戦闘をするだけでも楽しい。
ああ、いまは道具袋とか装備袋とかあるんだ、一人づつでの道具枠の制約もないのか、とか、ってか、今のルーラはMP消費0で使いたい放題かよw とか、かつての体験と照らし合わせて、驚くやら新鮮な気持ちになるやら。
おまけにサイドクエストとしてヨッチ村、なるものがあって過去のドラクエに少しかかわるようなクエストがあるので、それにあわせてその作品のBGMも楽しめるのでさらに懐かしい。プレイヤーを楽しませる要素がいろいろと詰め込まれてあって実に面白い。
夢中になってプレイしておったのですが、しかし、プレイしておりますとなんか、巡り合う状況に納得いかないといいますか、なんでそうなるんだよ! というツッコミが自分の中でもこもこ湧き上がってしまって、あとは邪神をしばけば終わりだろう、というところまできておきながら、やる気が起こらないw
そのツッコミたいところをだべってみたいと思いまする(こっちが本題)。がっつり物語の核心部分にも触れるのでネタバレしまくり。
まず何より気に入らないのが、勇者に邪神が憑依する、という状況。
失われし時を求めて、ということなので勇者が時間を遡って、ベロニカ死亡の前に戻るんですが、その時に邪神が勇者に憑依した状態で戻ってしまう。で、魔王ウルノーガ撃破後にその邪神が復活する、という流れなんですが、なんで勇者に邪神が憑依して何のデメリットもないんだ???
勇者は世界にただ一人選ばれた超絶特殊な存在であるわけです。勇者の剣を取りに行く際にも、命の大樹で、シルビアが結界にはじかれていたことからもわかるように、勇者以外には勇者の剣には触れることができない。なのに、なんでその勇者自身に、邪悪の権化、邪悪の総本山とも呼べる邪神が憑依して何のデメリットも存在しないのか、意味がわからん。
変な喩えをすると、イエス・キリストに悪魔王サタンが憑依するようなもので、ゲーム的にいうなら聖属性の存在に闇属性の存在が一緒になったら、どっちかがデメリットを負うことになるはず。なのに何も無い。なんじゃそりゃ。でもまあ、ウルノーガが勇者の力を吸収してたし、聖とか闇とかそういう属性という概念はないらしい。勇者はただの、「勇者の力」を与えられただけの、「ただの人」、ということなのだろう。
で、かと思うと他のボスと戦闘に入った時に、セーニャとかが「なにやら邪悪を気配を感じます! 気をつけてください!」とかほざきやがる。
……いや分かってんだよ! 眼の前にいるんだからな! 言われるまでもね~わ! それより勇者に邪神が憑依してるんだからそっちの方で気づけよ! 雁首揃えて誰も気づかないとかどういうことだ! ヨッチの姿が見えなかった、というのはわからんでもないが邪神がてこてこ歩いてるんだから気づけよッ!! この無能共がッ!!
って思った。次。
16年前、ユグノア王国にモンスター軍が大挙として侵攻し、王国は滅亡、生まれたばかりの王子であった勇者は行方知れずとなります。その時、デルカダール王に、侵攻してきた魔王ウルノーガが憑依し、その体を乗っ取ってしまいます。
……いやさ、その国でただ一人の王が精神乗っ取られたらどうなるか、とか、誰も想像できないの??? モンスターとは数百年だか数千年だかず~っと抗争を繰り広げてきたわけでしょ?? で、その長い長い戦争の歴史で、モンスターに憑依される、操られる、という事態は一度もなかったの?? これが初めてだったの??? そのことに対抗しようとか、対処しようとか、そういう当たり前の危機感もった人はその世界にただの一人も登場しなかったの?? なんでいっつも人間共はモンスターにやられてばっかりなの??? むしろ逆に、モンスターを支配して戦わせようとか、モンスター発生の根源を叩き潰そうという前向きな発想は出てこないの?? そのくせニマ大師は好き放題モンスター召喚しまくるし。ハァ……。
っつ~か魔王! 16年も王国を支配してきたんだったら武力を整えて他国に侵攻とかできただろうが! 人間を滅ぼす、とかほざいておきながら16年間平和裏に王国を統治とか、言ってることとやってることが違うんだよ、オツムわいてんのか! さらに、勇者が育ったイシの村の住人をただの一人も殺さずに牢に閉じ込めるだけとか、人間を殺したいのか保護したいのかどっちやねん! この無能がッ!!!
って思った。次。
さっきの、あっさりモンスターに侵攻を許したことといい、人間世界はモンスターに好き放題されているわけです。なにせ、モンスターは空を飛べるものも多いので、城だろうがなんだろうが簡単に侵攻できる。ですが、そのくせ、そこら辺に配置されている勇者が寝泊まりできるキャンプには女神像があるからモンスターは近づくことができない。
……だったら城の中、1メートル間隔で女神像立てとけよッ!! もしくは巨大な女神像作ってその中で暮らせよッ!!
って思った。RPGにおいてセーブポイントが安地、安全地帯なのはオヤクソク、なのですがあまりにも今作は人間側が無能だらけなのでつい突っ込みたくなってしまった…。あと、大したことではないけど、こまごま思ったことをすこ~し。
死んだベロニカといい、セーニャの、切った髪が即座に光となって消え去ってしまったことと言い、その世界の人間でもモンスターでも、死んでしまうと何も残さず消え去ってしまうものらしい。
そのくせして、ベロニカが死んだらベロニカの両親は「双賢の姉 ベロニカ すべての命の盾となり ここに眠る」という墓をたてているんですが、死んですぐに死体すら残さず消え去る世界で、まるで土葬のごとき墓を作ろうという文化になるんじゃろうか?? なんでもこの11sの世界では、人は世界樹、命の大樹の葉の一枚である、とも言っており、人が死んだってああ散ったか、でもまあまたすぐ生えるだろ、みたいな思想になるような気がするんじゃがのぅ。
あと、そうなるとこの世界では豚肉とか鶏肉とか存在しないことになるのぅw 次。
ベロニカつながりで、最初、ベロニカは魔法を吸収されたから若返った、とかいってましたけど、普通逆じゃね?w 次。
さっきの宗教観といい、女神像を信仰していることと言い、この世界の宗教観はいまいち迷走している気がしますね(そもそもそこまで構想してないんでしょうけど)。女神が世界を創造した、んならそれに関してなにか言及があっても良さそうですが、ウルノーガも邪神も女神なんて気にもとめてない。勇者も、ただ「勇者の力」を授けられただけのただの人だから、女神が勇者を選んだ、的な描写もないし、神官たちがいたってセーブする以外にほぼほぼ価値はないし。あれだけウルノーガに世界を好き放題されても、その女神とやらはなんの口入(干渉)もないから、そもそも存在していないんだろう。そのくせ、モンスターを退ける霊験はあるw わけわかめ。次。
勇者が時をさかのぼった時、天空の古戦場という、空に浮いている島にぱふぱふ娘がいるんですが、勇者が話しかけると、「またぱふぱふする?」 と聞いてくる。また、ってなんだ、またって。勇者以外は初見だろうがw 次。
別の地域に移動する時、たいがい谷やら洞窟やらを抜けないと移動できない世界なのが違和感ありまくり。世界を作ってる制作側の都合でできた世界だから、移動に関して本当に狭っ苦しい感覚を味わってしまう。お前らは千葉とか埼玉とか移動する時に谷を越えてんのかよ、などと無駄なことを考えてしまう。以上。他にも思う所はありまくりですが、もういいでしょう。
こうしてみますと、勇者=プレイヤーが気分が良くなるような仕組みはたくさんあるんですが、世界観の構築がいいかげんといいますか、ご都合主義の総合商社といいますか、適当すぎてどうにもそういうのが気になるわたしなんぞはやる気がなくなってしまったんですよね。勇者=プレイヤーが活躍できさえすればそれでOKであって、それ以外のその世界の人々がどう生きてきたのか、どういう歴史を歩んでいるか、なんて想像・構想は皆無。絶無。世界がうすっぺらすぎ。スカイリムみたいに、緻密に構築された世界観とかと比べますと、あまりにも子供だましがすぎてバカにされてるような気にすらなる。
あと少しでクリアー、なはずですが、気が向いたらプレイする、んでしょう。
と、駄弁り終えたところで、『善の研究』を読んだ。五の巻。今回は、第三篇。「善」を伺ってまいりましょう。さて、善とはなんぞや。キタロー氏はこう語り始めます。p239
「実在はいかなるものであるかということは大略説明したと思うから、これより我々人間は何をなすべきか、善とはいかなるものであるか、人間の行動はいずこに帰着すべきかというような実践的問題を論ずることとしよう。しかして、人間の種々なる実践的方面の現象はすべて行為という中に総括することができると思うから、これらの問題を論ずるに先だち、まず行為とはいかなるものであるかということを考えてみようと思う。
行為というのは、外面から見れば肉体の運動であるが、単に水が流れる石が落つるというような物体的運動とは異なっている。一種の意識を具えた目的のある運動である。しかし、単に有機体において現れる所の目的はあるが、全く無意識である種々の反射運動や、やや高等なる動物において見るような目的ありかつ多少意識を伴うが、未だ目的が明瞭に意識されておらぬ本能的動作とも区別せねばならぬ。
行為とは、その目的が明瞭に意識せられている動作の謂である。我々人間も肉体を具えているからは種々の物体的運動もあり、また反射運動、本能的動作もなすことはあるが、特に自己の作用というべきものはこの行為に限られているのである」
善とはなんぞや。それを見る前に、まず、人間が行う、「行為」について着目したい、と言うわけですね。行為とは、腹減った~とか、くそして~とか、ねみぃ~みたいな、低次の意識、とりあえず生きておれば誰でもそう考えてしまうような、本能的な行為はともかくとして、自身がこうなすべき、こうあるべき、というような、自身をさらに前進せしめるような、そういう行為を、考えたい、とキタロー氏はいう。p240
「この行為には多くの場合において外界の運動すなわち動作を伴うのであるが、無論その要部は内界の意識現象にあるのであるから、心理学上行為とはいかなる意識現象であるかを考えてみよう。
行為とは右にいったように意識されたる目的より起こる動作のことで、すなわちいわゆる有意的動作の謂である。ただし、行為といえば外界の動作をも含めていうが、意志といえば主として内面的意識現象を指すので、今行為の意識現象を論ずるということはすなわち意志を論ずるということになるのである。
さて、意志はいかにして起こるか。元来、我々の身体は大体において自己の生命を保持発展するために自ら適当なる運動をなすように作られており、意識はこの運動に副うて発生するので、始めは単純なる苦楽の情である。
しかるに外界に対する観念が次第に明瞭となりかつ連想作用が活発になるとともに、前の運動は外界刺激に対して無意識に発せずして、まず結果の観念を想起し、これより手段となるべき運動の観念を伴い、しかして後運動に移るというふうになる。すなわち意志なるものが発生するのである。
それで意志の起こるにはまず運動の方向、意識上にていえば連想の方向を定むる肉体的もしくは精神的の素因というものがなければならぬ。
このものは意識の上には一種の衝動的感情として現れてくる。こはその生受的なると後得的なるとを問わず意志の力とも称すべきもので、ここにこれを動機と名づけておく。次に、経験によりて得、連想によりて惹起せられたる結果の観念すなわち目的、詳しくいえば目的観念というものが右の動機に伴わねばならぬ。
この時ようやく意志の形が成立するので、これを欲求と名づけ、すなわち意志の初位(はじめの一歩、的な)である。
この欲求がただ一つであった時には運動の観念を伴うて動作に発するのであるが、欲求が二つ以上あった時にはいわゆる欲求の競争なるものが起こって、そのうち最も有力なるものが意識の主位を占め、動作に発するようになる、これを決意という。
我々の意志というものはかかる意識現状の全体を指すのであるが、時には狭義においてはいよいよ動作に移る瞬間の作用あるいは特に決意の如きものをいうこともある。行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない。
なんらかの障碍のため動作が起こらなかったとしても、立派に意志があったのであればこれを行為ということができ、これに反し、動作が起こっても充分に意志がなかったならば行為ということはできぬ。
意識の内面的活動が盛んになると、始めより意識内の出来事を目的とする意志が起こってくる。かかる場合においてももちろん行為となづけることができる。心理学者は内外というように区別をするが、意識現象としては全然同一の性質を具えているのである」
「行為とは右にいったように意識されたる目的より起こる動作のことで、すなわちいわゆる有意的動作の謂である。ただし、行為といえば外界の動作をも含めていうが、意志といえば主として内面的意識現象を指すので、今行為の意識現象を論ずるということはすなわち意志を論ずるということになるのである」
例えば、受験勉強、という行為、をしている。その中心は勉強ではありますが、別に勉強したいから勉強しているのではない。大学なり、資格なりに受かるために勉強をしているわけで、その、大学や資格に受かりたい、ということが「意志」であると。
「さて、意志はいかにして起こるか。元来、我々の身体は大体において自己の生命を保持発展するために自ら適当なる運動をなすように作られており、意識はこの運動に副うて発生するので、始めは単純なる苦楽の情である」
生命を保持発展。オギャーと生まれて長ずるにあたって、人であるからにはなにがしかの職業にはつかないわけにはいかない。そのために受験勉強なり何なりをするわけですが、その最初に考えるのは身の安楽であり、楽な生活がしたいだの、うまい飯が食いたいだの、きれいな嫁さんが欲しいだのであり、そこまで深遠なる目的も使命も見出して始まるわけではない。
「しかるに外界に対する観念が次第に明瞭となりかつ連想作用が活発になるとともに、前の運動は外界刺激に対して無意識に発せずして、まず結果の観念を想起し、これより手段となるべき運動の観念を伴い、しかして後運動に移るというふうになる。すなわち意志なるものが発生するのである」
俺の成績ってどれほど? 内申点は? 偏差値は? どの大学なら受かる? どの大学なら落ちる? この大学を卒業したらどの会社に就職できそう? 自分が目指す仕事に就くにはそもそもどの程度の大学でないとだめ?
「このものは意識の上には一種の衝動的感情として現れてくる。こはその生受的なると後得的なるとを問わず意志の力とも称すべきもので、ここにこれを動機と名づけておく。次に、経験によりて得、連想によりて惹起せられたる結果の観念すなわち目的、詳しくいえば目的観念というものが右の動機に伴わねばならぬ」
俺は頭がいいから、または、俺は頭が悪いから。…でも、役者になりたい! 歌手になりたい! この前見た映画で主演がかっこよかったから。歌に感動したから。こういうのが「動機」
こういう役者や、歌手になりたい、という動機を伴うのが目的観念。逆に言えば、動機がないのに、別に役者になりたいわけでもない、のにそれが役者になる、という目的にはならんだろう、と。まあ、当たり前のことかと。
「この時ようやく意志の形が成立するので、これを欲求と名づけ、すなわち意志の初位である」
こういう成長してのもろもろがあって、行為や動機がもろもろ相まって「欲求」となる。これらが「意志」の始まりである、と。
「この欲求がただ一つであった時には運動の観念を伴うて動作に発するのであるが、欲求が二つ以上あった時にはいわゆる欲求の競争なるものが起こって、そのうち最も有力なるものが意識の主位を占め、動作に発するようになる、これを決意という」
医者になりたい。が、漫画家にもなりたい。
A子がよい。が、B子もよい。さて。これらをやがて一本にしぼったら「決意」となる、と。
まあ、ここまで言っておいてなんですが、こういうのは、それこそ個人差が恐ろしく激しいですし、たとえば、医者を目指すにしても医者夫婦の間に生まれたか、ただのサラリーマン家庭に生まれたかでも「動機」「決意」に恐ろしく差が生まれる気もしますし、生まれたときから前向きな子、引っ込み思案な子、でも話がぜんぜん違いますし、こういうのを概括するのはお勝手に、と思いますが、気にする価値はあんまりないと存じますw
どだい、「信仰心」と一言で言っても、人によってそれこそ天地の相違がありますしね。
日本では、神社があって、その中に神様が「おわす」と信じているわけです。つまり、すぐご近所に神様がいる、と解釈できるわけです。もっといえば、八百万ですし、歳神様、ともいうように、家の中に神様がおわすわけです。まあ、実際には歳神様といいましても、毎年神様が入れ替わり立ちかわるわけではなく、家の中に精霊のような存在がおわすのだそうで、その精霊が家を守ってくださっているのだそうです。汚い家と、きれいな家でその精霊が守ってくれるか、守ってくれないか。もしくは最悪逃げ出すという差が出てくる。そこに生きている人が綺麗好きか否かで、その人の「信仰心」も相当に相違がある。キタロー氏的な概括で「信仰心」という「意志」をくくってみた時に、綺麗好き、というのは「動機」になるんでしょうかね。ただの「行為」になるんでしょうか。何になるんでしょうね。
また、アブラハムの宗教ならデウスという創造主がおわすわけなので、それはキタロー氏がいうように、世界そのもの、とも解釈できるわけで、しかし、世界そのものとまで希釈されてしまったデウスを本当に信仰できるのは、相当な信仰心がないと厳しいだろう、とは思いますけどね。
日本は、すぐご近所に神社があるから、日常的に神様を意識できるわけですが、世界そのものたるデウスを意識するのとは距離感という意味で本当に天地の相違があるわけです。つまり、空気とか、水とか、太陽とかを、常にありがたがれるような感謝の心に溢れた人でないと、そうそうデウスをありがたがることはしないでしょう。
砂漠で干からびた人に水を与えればそりゃ水に感謝するでしょうし、洞窟に閉じ込められた人が、穴が空いて新鮮な空気が吸えた時にはそりゃ生きて空気が吸えることにも感謝できましょうが、それが毎日、となるとそれは厳しい。
それができる人は、そりゃ確かに素晴らしい人でしょうけど、まあ、彼らの歴史を見れば、んなことは言うまでもないわけで、こうして毎日のように神社が側近くにあって触れ合える我々日本人が、どれほど恵まれているか、信仰心という点においてありがたい日常を送れているか、そういうことに意識を向けるとよいわけです。しかも、たった一柱で何十億という人間の相手をしなければいけないデウスと比べ、我々日本では、お好きな神社で拝んでおれば神様が目をかけてくださるとも言われておりますし、ちょいと古臭い言い回しになってしまったとはいえ、「会いに行ける神様」なわけです。どこにおわすかわからん、空気のような神様とは違う。
そういうふうに個別で論じ始めるとそれこそ個々人でも千変万化するわけで、こうして動機だの意志だので概括するのがどれほど意味があるのか、わたしにはさっぱりわかりかねまする。
さて、開口からここまで意味があるんだかないんだかよくわからんお話があったのでばびゅっと飛ばしましたが、第五章「倫理学の諸説」からいよいよ善悪を見てゆくこととなります。せっかくなのでとっくりと見てみませう。p279
「すでに価値的研究とはいかなるものなるかを論じたので、これより善とはいかなるものであるかの問題に移ることとしよう。
我々は上にいったように我々の行為について価値的判断を下す、この価値的判断の標準は那辺(どこらへん)にあるか、いかなる行為が善であって、いかなる行為が悪であるか、これらの倫理学的問題を論じようと思うのである。
かかる倫理学の問題は我々にとりて最も大切なる問題である。いかなる人もこの問題を疎外にすることはできぬ。東洋においてもまた西洋においても、倫理学は最も古き学問の一つであって、したがって古来倫理学に種々の学説があるから、今まずこの学における主なる学派の大綱をあげかつこれに批評を加えて、余が執らんとする倫理学説の立脚地を明らかにしようと思う。
古来の倫理学説を大別すると、大体二つに別れる。一つは、他律的倫理学説というので、善悪の標準を人性以外の権力に置こうとするものと、一つは、自律的倫理学説といって、この標準を人性の中に求めようとするのである。外になお直覚説というものがある。この説の中にはいろいろあって、あるものは他律的倫理学説の中に入ることができるが、あるものは自律的倫理学説の中に入らねばならぬものである。今まず直覚説より始めて順次他に及ぼうと思う」
では、善とはなんだ。悪とはなんだ。それを見ていこう。で、それを見るためには古来から連綿と続く、倫理学を見ることが重要であり、見ないわけにはいかぬ。倫理学には大きく、神様などにその善悪の指針を置く「他律的倫理学説」と、人間そのものに善悪の指針を置く「自律的倫理学説」がある。また、これとは少し違って、「直覚説」というものもあるけど、これはこの大きな2つにかかってくるものでもあるので、まずはこれから見ていきましょう。と。
あ、はい。p280
「この学説の中には種々あるが、その綱領とする所は我々の行為を律すべき道徳の法則は直覚的に明らかなるものであって、他に理由があるのではない、いかなる行為が善であり、いかなる行為が悪であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覚的に知ることができる、行為の善悪は行為そのものの性質であって、説明すべきものではないというのである。
なるほど我々の日常の経験について考えてみると、行為の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考えるのではなく、大抵直覚的に判断するのである。いわゆる良心なるものがあって、あたかも眼が物の美醜を判ずることができるのである。直覚説はこの事実を根拠としたもので、最も事実に近い学説である。しかのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さぬというのは、道徳の威厳を保つことにおいてすこぶる有効である」
「直覚説」は、簡単である。善だから善なんだ。悪だから悪なんだ。火は熱いだろ? 氷は冷たいだろ? ほら、言うまでもないだろ。そういうことだよ。と。
ほ、ほうw
これ、ア・プリオリ的なこと言っているようにも見えなくもないですけど、ほぼ暴論ですよね。まあ、とりあえず次。p281
「直覚説は簡単であって、実践上有効なるにもかかわらず、これを倫理学としていかほどの価値があるであろうか。直覚説において直覚的に明らかであるというのは、人性の究竟(究極)的目的という如きものではなくて、行為の法則である。
もちろん、直覚説の中にも、すべての行為の善悪が個々の場合において直覚的に明らかであるというのと、個々の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるというのと二つあるが、いずれにしてもある直接自明なる行為の法則があるというのが直覚説の生命である。
しかし、我々が日常行為について下す所の道徳的判断、すなわちいわゆる良心の命令という如きものの中に、はたして直覚論者のいう如き直接自明で、したがって正確で矛盾のない道徳法なるものを見出し得るであろうか。まず、個々の場合についてみるに、決してかくの如き明確なる判断のないことは明らかである。我々は個々の場合において善悪の判断に迷うこともあり、今は是と考えることも後には非と考えることもあり、また同一の場合でも、人によりて大いに善悪の判断を異にすることもある。
個々の場合において明確なる道徳的があるなどとは少しく反省的精神を有する者の到底考えることができないことである。しからば、一般の場合においては如何、果たして論者のいう如き、自明の原則なるものがあるであろうか。第一に、いわゆる直覚論者が自明の原則として掲げている所のものが人によりて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべきほどの自明の原則なるものがないことを証明している。
しかのみならず、世人が自明の義務として承認しているものの中より、一つもかかる原則を見出すことはできぬ。忠孝という如きことは固より当然の義務であるが、その間には種々衝突もあり、変遷もあり、さていかにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。また知勇仁義の意義について考えてみても、いかなる智いかなる勇が真の智勇であるか、すべての智勇が善とはいわれない、智勇が反って悪結果を生ずることもある。また、正義といってもいかなるものが真の正義であるか、決して自明とはいわれない、例えば、人を待遇するにしても、いかにするのが正当であるか、単に各人の平等ということが正義でもない。
反って各人の価値によるが正義である。しかるに、もし各人の価値によるとするならば、これを定むるものは何であるか。要するに、我々は我々の道徳的判断において、一つも直覚論者のいう如き、自明の原則をもっておらぬ。時に自明の原則と思われるものは。なんらの内容なき単に同意義なる語を繰り返せる命題にすぎないのである」
金、ゴールドのごとき不変なる正義、などというものはない。ましてやそれを金科玉条のものとするわけにはいかん。ごもっとも。
しかし、「忠孝という如きことは固より当然の義務である」と言っているのは時代もありましょうが面白い。今の日本人が日常で思慮しないようなものが(親孝行は考えるでしょうけど)この時代ではこうして議論にあがる。面白いことであります。p283
「右に論じた如く、直覚説はその主張する如き、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学説としてはなはだ価値少なきものであるが、今仮にかかる直覚があるものとして、これによりて与えられたる法則に従うのが善であるとしたならば、直覚説はいかなる倫理学説となるであろうかを考えてみよう。
純粋に直覚といえば、論者のいう如く、理性によりて説明することができない。また苦楽の感情、好悪の欲求に関係のない、全く直接にして無意義の意識といわねばならぬ。もしかくの如き直覚に従うのが善であるとすれば、善とは我々にとりて無意義のものであって、我々が善に従うのは単に盲従である、すなわち道徳の法則は人性に対して外より与えられたる抑圧となり、直覚説は他律的倫理学と同一とならねばならぬ。
しかるに、多くの直覚論者は右の如き意味における直覚を主張してはおらぬ。ある者は直覚を理性と同一視している、すなわち道徳の根本的法則が理性によりて自明なるものと考えている。しかし、かくいえば善とは理に従うことであって、善悪の区別は直覚によって明らかになるのではなく、理によりて説明しうることになる。また、ある直覚論者は直覚と直接の快不快、または好悪ということを同一視している。しかし、かく考えれば善は一種の快楽または満足を与うるが故に善であるので、すなわち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移ってくる。
かくの如く直覚なる語の意味によって、直覚説は他の種々なる倫理学と接近する。もちろん、純粋なる直覚説といえば、全く無意義の直覚を意味するのでなければならぬのであるが、かくの如き倫理学説は他律的倫理学と同じく、何故に我々は善に従わねばならぬかを説明することはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味のものとなる。
元来、我々が実際に道徳的直覚といっているものの中には種々の原理を含んでいるのである。その中全く他の権威より来る他律的のものもあれば、理性より来れるものまた感情および欲求より来れるものをも含んでいる。これいわゆる自明の原則なるものが種々の矛盾衝突に陥る所以である。かかる混雑せる原理をもって学説を設立する能わざることは明らかである」
「右に論じた如く、直覚説はその主張する如き、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学説としてはなはだ価値少なきものであるが、今仮にかかる直覚があるものとして、これによりて与えられたる法則に従うのが善であるとしたならば、直覚説はいかなる倫理学説となるであろうかを考えてみよう」
つまり、直覚説というものがあっても、善悪を計るモノサシがなければ学説としては意味がないんじゃね? とはいえ、いったん、このモノサシというソフトウェアが人間に中にインストールされていると仮定してみよう。
「純粋に直覚といえば、論者のいう如く、理性によりて説明することができない。また苦楽の感情、好悪の欲求に関係のない、全く直接にして無意義の意識といわねばならぬ。もしかくの如き直覚に従うのが善であるとすれば、善とは我々にとりて無意義のものであって、我々が善に従うのは単に盲従である、すなわち道徳の法則は人性に対して外より与えられたる抑圧となり、直覚説は他律的倫理学と同一とならねばならぬ。」
単純に直覚、というモノサシ、ソフトウェアが人間の中にインストールされているとすると、人間にそのソフトウェアの是非を説明することはできない。苦楽、好悪などという感情も感覚もない。もし、そんなものが本当にインストールされているとするならば、人間は善に従っていきているのではない、そのモノサシによって突き動かされていると言わねばならず、それこそ他律的倫理学といわねばならぬ。
「しかるに、多くの直覚論者は右の如き意味における直覚を主張してはおらぬ。ある者は直覚を理性と同一視している、すなわち道徳の根本的法則が理性によりて自明なるものと考えている。しかし、かくいえば善とは理に従うことであって、善悪の区別は直覚によって明らかになるのではなく、理によりて説明しうることになる。また、ある直覚論者は直覚と直接の快不快、または好悪ということを同一視している。しかし、かく考えれば善は一種の快楽または満足を与うるが故に善であるので、すなわち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移ってくる」
しかし、ある者は、モノサシを、理性と同一視している。道徳の理非曲直は、理性によって明らかになると。しかしそれにおいても同様、善悪とは理性に従うこととなる。ソフトウェアが変わったに過ぎない。また、ある者は直覚を、人間にとって良いか悪いか、好きか嫌いかで語ろうとする。しかし、そんなレベルで語れば、あのおなごは美しいから善、あのおなごはブサイクだから悪、などというものになる。
「かくの如く直覚なる語の意味によって、直覚説は他の種々なる倫理学と接近する。もちろん、純粋なる直覚説といえば、全く無意義の直覚を意味するのでなければならぬのであるが、かくの如き倫理学説は他律的倫理学と同じく、何故に我々は善に従わねばならぬかを説明することはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味のものとなる」
どれほどレベルが低い物言いであろうと、直覚、といえばそれなりに馬子にも衣装で道徳という世界で末席を得ることになる。もちろん、単純に直覚説といえば、何の説明も不要で自ずから機能するものでなければならないが、しかし、その程度では盲目的に神に従えというがごとく、なにゆえ我々は自力で善を行うか、の説明ができない。
そうなってしまえば我々人間は、道徳というものをインストールされるのを待つばかりのデクノボーとなる。
といったところかと。
こんなところで第五章「倫理学の諸説」が終わっているんですが、そもそも直覚説、直覚論者じたいが誰それのことで、何を言ったのか、という具体的例示も何もないので、雲を掴むような話の連続で。やはりこれも現状かけらも意味を感じないww
意味がある言説を聞いてみたいところではありますが、それは次回、第六章「倫理学の諸説 その二」で、伺ってみたいと思います。今回、見る所のなかった『善の研究』を読んだ。五の巻ですが、まあ、もともとその程度の本なのでww でも次回以降は多少面白いお話になるかもしれませぬ(意味があるとは言ってない)。
といったところでこんばんはこれまで。
したらば。
「週末トレイン」のOP・EDを聴きながら。
各駅ごとでドタバタがあって。
あれ、銀河鉄道999の現代版?w