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『善の研究』を読んだ。四の巻

6/3修正 「神は無限の愛、無限の消える、平安である」無限の喜悦だった><



 ウクライナはいま追い込まれていますし、イランがイスラエルに大規模ミサイル攻撃、と世界情勢はますます剣呑となっていますね。人間精神が向上するような要素がなにもなく、目先の利益を追い求めるという、世界中が目先のことだけに汲々とし、長期的な視野を持つものがどれほどいるか不明な昨今。これからもずっと剣呑な情勢は続くのでしょう。


 ありとあらゆる物資を輸入することで命脈を保ってきた日本はこれからも不安的な情勢は続くことになりますね。穀物のロシア、ウクライナ、原油の中東。重要な産地が戦地になる、という昨今。


 生きづらいったらありゃしません。


 だからこそ、学問、精神の向上が必要なのにもかかわらず、それを理解できる日本人に出会ったことはない。為政者や国家に文句をいう人間はいても、いや、自分は違うので、自分はそんな人間になりたくないので学問します、という人間に出会ったこともない。そんなことで世の中が良くなるのなら見てみたいものです。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


『善の研究』を読んだ。四の巻、今回は第二編、「実在」の第十章、「実在としての神」 これを今回は◯っと丸写して、キタロー思想をとっくり味わってみたいと思います。p228




「実在としての神」




「一 これまで論じた所によって見ると、我々が自然と名づけている所のものも、精神といっている所のものも、全く種類を(こと)にした二種の実在ではない。つまり、同一実在を見る見方の相違によって起こる区別である。


 自然を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、すなわち、宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。


 しかして、この唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であるとともに、一方においては無限の統一である、一言にていえば、独立自全たる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。


 神とは決してこの実在の外に超越せるものではない、実在の根底がただちに神である。


 主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一したものが神である。


 いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語をもたないものはない。しかし、知識の程度および要求の差異によって種々の意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちてしかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如きものと考えている。


 しかし、かくの如き神の考えははなはだ幼稚であって、ただに今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においてもかくの如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える。しかし、今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根底には精神的原理があって、この原理がすなわち神である。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンとは同一である。神は宇宙の大精神である」




「自然と名づけている所のものも、精神といっている所のものも、全く種類を(こと)にした二種の実在ではない。つまり、同一実在を見る見方の相違によって起こる区別である」



 ここの考え方も、東洋には古来からある考え方であります。これだけは有名な終戦の詔勅、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開く」この、「万世のために太平を開く」の言葉の原典は中華は宋の時代の儒学者、張横渠(ちょうおうきょ)の詩、



【天地のために心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く】



 から来ているわけで、それを起草されたのが安岡先生と言われております。で、その最初の言葉。


 天地の為に心を立てる。


 これは天地、心を立つと為す、と読んでもよいそうですが、つまり、天地、この世界が、この地球が、大自然が心を立てた。心というある程度立派なものとなるとこれはやはり、人間と認識するほかはないわけで、人間以上に心をもつ生き物は、まあないわけで、天地が、人間を立てた。天地が人間を育んだ。


 だから一歩進むと、天地人、といいまして、天と地と人、この三つの徳を三本の横線に見立て、それを縦に一貫するほどの能力、大いなる徳と仁を持つもの、これを王というわけですが、まあ、それはともかくとしまして、この世界が、長い長い年月を経て、様々な進化を経て、いよいよ人間が現れて、いよいよ天地の徳を受け継ぐほどの存在が現れた、というわけです。


 つまり、簡単に言いますと、人間というのは、この大自然によって創造された生命なのであるから、この大自然の徳を裏切るような、大自然を損なうような生き方をしてはいけません、大自然と冥合(めいごう)する、精神を合一するというのが、この「天地の為に心を立てる」または、「天地、心を立つと為す」なわけです。


 西洋的な、自然を支配するだとか、山を征服するだとか、そういう人間と自然を対立的に見るのではなく、人間も自然の一部なのであるから、自然とともにあるような生き方をする、そういう文明を作る、というのが大切でありそういう思想こそが東洋思想なわけですね。山を切り開いて、太陽光発電を大量に敷き詰める。これが大自然によりそっているといえるか。だからキタロー氏も、自然も精神も、これは二つあるのではなく、根本的には同一である、というわけです。一方から見たら自然、一方から見たら精神、人間、ということです。



「この唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であるとともに、一方においては無限の統一である、一言にていえば、独立自全たる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである」



 天地は無限に活動し、数多の生命を殺すこともあるが、数多の生命を育む。化育する。化は化学の化であり、()わる、()ける。いろいろな生物が進化し、様々にその姿形を変じてきた。これが化ける。その、化けるほど長い年月、生命を生み、育てるほどの、無限のようなエネルギーが天地にはある。それが化育。


 だからギリシャ神話でも大地を神にみたてガイアと崇めたわけですね。そして、生み育てるものであるから、ここはやはり女神ですね。これは男ではいかんw いや、日本神話でもイザナギから立派に神が生まれてますけど、生み育てるのはおなごでないといけません。


 そういう、人間にはとうてい図り得ない、とてつもない巨大な存在、天地そのものを神と思う。非常に素朴な信仰心です。なので、



「いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちてしかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如きものと考えている。しかし、かくの如き神の考えははなはだ幼稚であって、ただに今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においてもかくの如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える」



 ここではキタロー氏はキリスト教的な教えを否定しておりますね。こういう、創造主、被造物、という考え方では、親密なる一致を得ることはできない、と。


 デウスはもっと自然そのものであり、人間臭く人間を支配して得々としておるような、そんな低劣なものではない、と。



「今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根底には精神的原理があって、この原理がすなわち神である。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンとは同一である。神は宇宙の大精神である」



 今日の主義者のように、唯物論的に考えることなどできるはずもない。


「実在の根底には精神的原理があって、この原理がすなわち神である」


 かつての日本人は非常に真摯に日々を生きていた。そして、日々、自分を神や仏の如き、尊いものになるように生きていた。そして、その神や仏になろうという精神が、つまり向上心であり、その向上心が論理的に働けば道徳になるのであり、情緒的に働けば信仰になるのであります。


 道徳と信仰は、二つあるのではなく、同じものを別の面から見ているわけで、この向上心、がキタロー氏のいう精神的原理、といえるでしょう。「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」この吉田松陰先生のお言葉も、理屈で言えばわかるが、精神が止めようもないのだ、ということであり、特に日本人は歴史的に見るとこういう情緒に非常に豊かであると言えるでしょう。その向上心が、まっすぐに神や仏に向かっている。神や仏につながっているわけです。


 人間と神は、別個のものでも対立、排撃するものでもなく、同一のものであり、その、人間と神を結びつけるもの、精神的原理が、向上心であり、日々、神や仏になろうと頑張ろうとする心、これこそが人間を神や仏にさせるもの、であります。



「神は宇宙の大精神である」



 ですね。ではお次。p229




「二 古来、神の存在を証明するに種々の議論がある。ある者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという、すなわち、因果律にもとづいてこの世界の原因を神であるとするのである。


 ある者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、すなわちある一定の目的に向かって組織せられたものであるという事実を根拠として、何者かかくの如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、かくの如き宇宙の指導者がすなわち神であるという、すなわち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考えるのである。


 これらは皆知識の方より神の存在を証明し、かつその性質を定めんとする者であるが、その外全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所によれば、我々人間には道徳的要求なる者がある、すなわち良心なる者がある、しかるに、もしこの宇宙に勧善懲悪の大主催者はなかったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者としてぜひ、神の存在を認めねばならぬというのである。


 カントの如きはこの種の論者である。しかし、これらの議論ははたして真の神の存在を証明し得るのであろうか。


 世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬというが、もし因果律を根拠としてかくの如くいうならば、何故にさらに一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。


 また、世界がある目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物がことごとく合目的にできているということを証明せねばならぬ、しかし、こはすこぶる難事である。もしかくの如きものが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在ははなはだ不確実となる。


 ある人はこれを信ずるであろうが、ある人はこれを信ぜぬであろう。かつこのことが証明せられたとしても我々はこの世界が偶然にかく合目的にできたものと考えることを得るのである。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、なおさらに薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。かくの如き考えは単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神そのものを自己の直接経験においてただちにこれを証明したのではない」




 カント否定。


 確かに、「全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ」神がいたほうが、道徳を維持するに有益、などという考えは、神を冒涜するものであるし、なにより、善を行おうとする自分を卑下するものであります。


 せっかく善を行おうとするのであれば、それこそ、神がおわそうがおわさざろうが敢然と行おうという心意気が欲しいw




【心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん】




 なのであります。


 ではお次。p231




「三 しからば、我々の直接経験の事実上においていかに神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。すなわち、無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現すことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、すなわち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に実在なる活動はただちに神そのものを証明するのである。ヤコブ・ベーメ(1575~1624 ドイツの神秘主義哲学者)のいったように(ひるがえ)されたる眼 ungewandtes Auge(自身の心深くを見通そうとする眼)をもって神を見るのである。


 神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない、また、宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は誠に絶対無限なる神とはいわれない。上古におけるインドの宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛んであった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える」




 をや。これは、この前見た、『弓と禅』の「放れ」。「今し方、”それ”が射ました」の、”それ”に当たるのでは? ただ……、芸術、というところに依拠しているのが、なぁw


 もしそうだとしますと、15~6世紀の神秘学派、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌス(1401~1464)らは悟りに至った人なのやも知れませんね。ただwikiをみてもそういう記述もありませんし、少数、悟りを開いても全然理解されなかった可能性もありますし、どうなんでしょうね。彼らの著作を読めば少しは分かるかも知れませんが、そこまで手が出ないかなw ではお次。p233




「四 神はいかなる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったようにすべての否定である、これといって肯定すべきものすなわち捕捉すべきものは神でない、もしこれといって捕捉すべきものならばすでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである。この点より見て、神は全く無である。


 しからば、神は単に無であるかというに決してそうではない、実在成立の根底には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在には実にこれによって成立するのである。例えば、三角形のすべての角の和は二直覚であるというの理はどこにあるのであるか、我々は理そのものを見ることも聞くこともできない、しかもここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また、一幅(いっぷく)の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺(しんいんひょうびょう)(神業のごとき優れた芸術作品)として霊気人を襲うものあるを見る、しかもその中の一物一景についてそのしかる所以(ゆえん)のものを見出さんとしても到底これを求むることはできない。


 神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただその能く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。


 数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理もなんらの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画もなんらの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、なんらの意味もないように感ぜられる、したがって宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者はぜひ自己をそれだけに修練して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ。


 かくの如き人には宇宙全体の上に神の力なるものが、名画の中における画家の精神のごとくに活躍し、直接経験の事実として感ぜられるのである。これを見神の事実というのである」




 ほお、これは面白い。



一幅(いっぷく)の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺(しんいんひょうびょう)として霊気人を襲うものあるを見る、しかもその中の一物一景についてそのしかる所以(ゆえん)のものを見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である」



 単純にみれば、優れた芸術作品があるからこそ、その成立に神が関わっていなくてはその優れた芸術作品が成立するはずがない、といっているわけですね。


 作者がどうやってそれを制作したか、第三者にはその理由や過程、来歴などを到底計り知ることなどできようはずもない、しかし、それであろうとそんなことはおかまいなしにそれが存在するのであるから、そこに神意あることを感得することができる、その高みに至ったものの存在こそ、高みにある神を知る(よすが)なのである、と。


 面白い物言いでございます。では、ここで少し振り返りますと、二の文章でキタロー氏は、「古来、神の存在を証明するに種々の議論がある」といっており、それらの一例として、



「ある者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという、すなわち、因果律にもとづいてこの世界の原因を神であるとする」



「ある者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、すなわちある一定の目的に向かって組織せられたものであるという事実を根拠として、何者かかくの如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、かくの如き宇宙の指導者がすなわち神である」



「道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所によれば、我々人間には道徳的要求なる者がある、すなわち良心なる者がある、しかるに、もしこの宇宙に勧善懲悪の大主催者はなかったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者としてぜひ、神の存在を認めねばならぬ」



 と、言っておりますが、キタロー氏は、名画のような、名匠によって作り上げられた芸術・美術作品群があることによって、我々はそこに神あることを知る、といっておるわけです。名匠による究極の美術品、などというものを映像以外では一切みたことがないわたしには、これが神、存在証明の確定的にして決定的な論拠なのか、さっぱり分かりかねまするが、そこはキタロー氏は、



「数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理もなんらの知識を与えず、美を解せざる者には、いかに巧妙なる名画もなんらの感動を与えぬように、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如くに思われ、なんらの意味もないように感ぜられる、したがって宗教などを無用視している。真正の神を知らんと欲する者はぜひ自己をそれだけに修練して、これを知り得るの眼を具えねばならぬ」



 俺はわかってんだよww


 と、言っているので、キタロー氏にとっては自明のことのようでございます。


 まあ、こういう手法での神存在の証明を語るのでしたら、わたしであれば、孔子様や、王陽明先生、西郷隆盛公、高橋是清さん、渋沢栄一さん、山岡鉄舟氏、阿波研造氏など、これら、優れた精神性を世に表した方々がいることをみれば、それだけで神を信ずるに足る、と言いますけどね。


 そして、人間ですら、これほどの高貴なる精神性を示したのであれば、ならば神がそれ以下のはずがない、と考えられる。神についてあ~だこ~だいうのであれば、まずは孔子様やイエス・キリスト並の精神性を示してからでも、こういった偉人に自分が追いついてからでも、決して遅くはありますまい。それすらせずに神がいるかどうか、などと言い出すのは、100億万年はえぇ! と言わねばならんでしょうw

 

 ある時、不貞の女性に対し、大衆が私刑を加えようとした時、キリストが言った言葉。


「この中に罪を犯したことがない者がいるのであれば、わたしの持つ石をこの女性にぶつけなさい」


 まずは我が身をもって証明してみせろ。といったところでしょう。あと、



「ただその能く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである」



 これは老子っぽいところですね。よくいうのが道徳経の11章「無用の用」ですね。壺は、中が空洞だからこそ、物をいれることができる。部屋は中がなにもない空間だからこそ、そこに住むことができる。あと、37章の、




【道は常に無為にして、(しか)も為さざる無し】




 道というこの世界の本質は、自ら何かをすることはないが、しかし、道によってなし得られないことはない。世界は道によって成り立つから、道なくして世界は成り立たない。


 道徳を否定するものもいるでしょうが、しかし、今のハイチのような無政府状態を歓迎するものもいないでしょう。道徳があるからこそ、人は人として生きてゆくことができる。どれほど口で道徳を否定しようが、道徳なくして人は生きてはいけないのであります。あとこの、



「見神の事実」



 これは神を感得する、神を感ずる、知覚する感覚、ということだそうです。ではお次。p236




「五 上来述べたる所をもって見ると、神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖かき情意の活動となんらの関係もないように感ぜらるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。先にいったように、我々の欲望は大なる統一を求むるより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。


 いわゆる個人の自愛というも畢竟(ひっきょう)かくの如き統一的要求にすぎないのである。しかるに、元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一をもって満足するものではない。さらに、進んで一層大なる統一を求めねばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含(ほうがん)したものであるから、他人に同情を表し他人と自己との一致統一を求むるようになる。


 我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的統一の要求である。故に、我々は他愛について、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。しかして、宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である」




 いよいよキタロー氏はより進化してまいります。



「我々の大なる自己は他人と自己とを包含(ほうがん)したものであるから、他人に同情を表し他人と自己との一致統一を求むるようになる」



 自分と他者との、いわゆる、誤解なく分かり合える状況こそが、自己の求める最上のものである、とおっしゃるわけです。


 それこそ仏教にいう、心・仏・衆生是三無差別であります。


 キタロー氏は、マハトマ・ガンジーのアヒムサ、スワデシ、徹底的非暴力、絶対拒否のさらにその上を行く、「超個人的」個人を超えるもの、それこそ、ニュータイプのような、自己と他者との絶対的統一を成し遂げることこそ「我々の愛の根本、喜びの根本である」


 とおっしゃるわけです。


 ほんとかよw


 あ、いやッ、確かに、我々人類の理想の究竟こそがそこにあるわけであり、キタロー氏がそこに至っていない、と決して否定はできませぬ。ええ、できませぬとも。本当かどうか、決して確かめられぬ、というだけであって。


 わたしでしたら、出来もしないことを大言壮語することなど恥ずかしくってとてもできぬと思うところではありますが、キタロー氏は言うだけのことはできるお方なのでございましょう。-人-


 まあ、実際はどうかは存じ上げかねますが、しかし、読み物としては面白いので、自身の学びにするにはよい教本となるでしょう。といっても、いまどきはヒマヒマ星人くらいしか読まない本でしょうけどね。そしてあと、もう一点。




【知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ、知るなり】



 

 知っていることを知っているとし、


 知らないことは知らない、と言いましょうw


 これも自己統一の要求、平たく言えば、自分のため、でございます。キタロー氏の実在は、「我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的統一の要求である」と、人間の殻を超克し、解脱し、すでに神の如き領域に至っているのやも知れませんが、悲しいかなわたしはそこまでまだ至っていないのであり、個人という殻の中で人生を楽しみたいと思いまする。-人-


 といったところで、キタロー哲学の第二編「実在」はこれまで。


 したらば。





『蒼き鋼のアルペジオ』のOP・EDを聴きながら。


 名作はいつ聴いても、見ても、素晴らしいですねぇ。



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