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『善の研究』を読んだ。三の巻



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 『善の研究』を読んだ。三の巻。今回は第二編の「実在」を伺ってみたいと思います。以前にもぴらっと言いましたが、実在、実存、とは現実の存在ということであり、その中でももっとも重視するのが自分自身の精神性のことであり、平たく言えば、わたしは今を生きるにあたってどうすればよいのか、どう生きることがわたしの人生にとって最上、最良であるか、を検討する哲学的論点、ということになります。


 そんな人生においての大問題に対してキタロー氏はどういうことをおっさるのか。見てみたいと思います。まず開口一番のお言葉がこれ。p125




「世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。


 例えば、高尚なる精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚なる精神的要求に疑いを抱くようになる。


 元来、真理は一つである。知識においての真理はただちに実践上の真理であり、実践上の真理はただちに知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むるようになる。我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものなるかを明らかにせねばならぬ。


 哲学と宗教と最も能く一致したのはインドの哲学、宗教である。インドの哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラフマン(梵天のこと。バラモン教における宇宙の最高原理)でブラフマンは吾人(ごじん)の心即アートマン(我。もともとは息や呼吸の原理を示す言葉であったが、しだいに個人の本質や霊魂を意味するようになった。インド哲学は、このアートマンとブラフマンが一如であることを説く。これを梵我一如(ぼんがいちにょ)という)である。このブラフマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。


 キリスト教は始め全く実践的であったが、知識的満足を求むる人心の要求は抑えがたく、ついに中世のキリスト教哲学なるものが発達した。シナの道徳には哲学的方面の発達がはなはだ乏しいが、宋代以後の思想(朱子学や陽明学)はすこぶるこの傾向がある。これらの事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深く要求のあることを証明するのである。


 欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始めとし教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に長足の進歩をなすとともに知識と情意との統一が困難になり、この両方面が相分かれるような傾向ができた。しかし、これは人心本来の要求に合うたものではない」




 世界や人間は、このようなもの、という世界観や人生観と、


 人間はこうせねばならない、こうすれば安心できる、という道徳宗教の行動においての要求はほぼ同じことである、という。


 それはつまり、高い精神性を持つ人は、唯物論なんぞには満足できないし、


 逆に、唯物論に依拠する人間は高い精神性に疑いを持つようになる、と言っております。


 そこは確かにそうであります。


 特に、左翼イデオロギーに毒された人間、唯物論に拘泥するものは、こういう高い精神性を唾棄します。唯物論、とはつまり、いま生きている自分こそが最高の状態であり、最良の状態であると信ずること。今が最高であるのならば、死後の天国など存在しないし地獄も同時に存在するはずがない。という精神です。


 いまのロシアのプー太郎( )(プーチン)や中共のぺー太郎( )(しゅうきんぺー)がモロにそうでありまして、どんなド汚いことをしてでも政敵を排除し、邪魔者を暗殺し、敵対国家に侵略するのは、なんでそんなことができるかと言えば、いま生きている自分の、その最高、最良の状態を阻害する存在だから、だから排除したがるわけです。


 だって、死後に価値なんて、奴らにはないんですから。


 悪事を重ねたその先の、因果応報とか、輪廻転生なんてものがそもそも奴らのおつむにはないんだから、なんだってできる。やってできないことはない。いま、生きている自分が、すでに崖っぷちなんだから、死んだらすべてがおしまいなんだから、その状態を維持するためにはなんだってやるわけです。なんだってやらなきゃいけないわけです。


 だから暗殺だろうが粛清だろうが虐殺だろうが弾圧だろうがなんだってやる。


 日本の左翼も同じで、よく日本の歴史家とか歴史学者が偉人や英雄を否定して、庶民をありがたがったりしますが、現実が最高なんだから、高い精神性や徳をもつ人間なんか奴らには理解できないし、理解する気もないわけです。


 今の自分まんせー! であり、善因善果悪因悪果なんてものはない、ただ目先の利得にだけ反応する。だから戦中の日本軍は悪だった、真相はかうだ! とどんな嘘でもつけるし、ご先祖様を貶めたりもできる。中共やどこぞの半島から金をもらえればそれでよい、となる。


 そこは確かにキタロー氏の言う通りですが、次がいけ好かないw


 知識と情意の円満なる一致を求めるわけで、その中でもインド宗教、哲学がもっとも崇高であり、キリスト教や西欧哲学などは知には発達したが情意が劣るとし、儒教などは、朱子学や陽明学はともかく初期の儒教は哲学的方面に明るくない、と言っていますが、わたしから見ると、それこそ儒教を本当に学んだのか、疑問が大いにわくw


 キタロー氏は最初にこういっていますね。



「世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている」



 と。


 世界や人間を知ることと、人間の行動、規範は密接な相互作用をもっていると言っています。


 試みに、論語や老子などを見てみましょう。




【性、相い近し。習えば、相い遠し。唯だ上知(じょうち)下愚(かぐ)は移らず】




 人間の性質、生まれたばかりの性質には皆、大差ない。ほとんど同じである。でも、学んでゆけば行くほどそこに開きができる。ただ、生まれつきの天才と、生まれつきの暗愚は、これはどうあっても差を埋めることはできない。




【上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、あるがごとくなきがごとし。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う】




 優れた人は本質を知ったらひたすらそれを行う。ついで、たいがいの人は本質を知ってもあるよ~なないよ~な、で結局何もしない。最後に、くだらん人間は本質を聞くと逆にあざける。




 この二つの言葉に共通するのが、キタロー氏が言ったような、「世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求」そのものです。


 論語などは、非常に簡素に見えるので、そんな小難しいことをべらべら語ることなどしないので、哲学的視野をもっているようには見えませんが、しかし、世界とは、人間とはどういうものであるかということをはっきりと把握、自覚し、だからこそ、そのような世界で我々はどう生きるのがよいか、という、まさしく実存を論じているわけです。


 キタロー氏にはそこまで理解できていなかったようですがw


 また、古代中華の伝説的王である(ぎょう)が、(しゅん)に禅譲するときの言葉もそうですね。




【人心これ危うく、道心これ微か、 これ(せい)これ(いつ)、 まことにその中をとれ】




 人心は、欲や得にばっかり目が向くので非常に危なっかしい。ほっとくと何をしでかすかわからん。そして、道心、本質を求める心を持っているものはほとんどいない。しかし、だからこそ、為政者たるもの、純精なる心を持ち、たった一つの心を持たねばならん、二つも三つも言ってることやってることがあるなど論外である。不動心をもち、揺るがぬ決心でいなければいけない。ゆえに、中、常に進化し続ける心を持たねばならん。進化し続けることができれば、常に己の心を刷新し続けることができる。




 と、教え諭したわけですね。


 こういう軽薄才子はすぐに東洋には哲学がなかった、としたり顔で言うんですが、ないわけないじゃんw なかったら何も語れないじゃんw 東洋は知よりも情意の方を重視するからこそ、空理空論をもてあそんでごにょごにょする、白馬非馬がごとき概念のお遊戯を嫌うんです。


 それにキタロー氏が喜んでいるブラフマンですが、これは老荘でいう道になりますし、アートマンは我、なのでなんですが、梵我一如とは、東洋で言うならば、王、です。


 王とは、天地人三才を一貫する、の意味であります。


 上の横棒が天、下の横棒が地、中の横棒が人です。その三才を縦に一貫している、つまり、天地の徳を一身に帯びた存在、だから王なわけです。だから儒教では王、天子をもっとも重視するわけです。そんじょそこらの人間には政治は任せられない。天地に許された王だからこそ、人心は喜悦して従うわけです。


 だから、かの曹操も、決して漢王室の天子を弑逆することがかなわなかった。


 どこの馬の骨とも知らぬ姦雄ごときに、天下を治めることなどできるはずもない、天地が許した王でないと人心が納得せぬ、人心が服さぬわけです。だから排除できなかった。曹操をもってしてもこの儒教精神を廃することができなかった。それぐらい儒教は中華においては絶対だったわけですね。


 もっといいますと、東洋の精神はもっと深遠です。そりゃものすんごい深淵w


 ず~っと前に見てみたことのある『弓と禅』その中で弓聖、阿波研造師範は恐ろしいことをおっしゃるわけですw これは、「4、放れ」という、弓を射るときの心得をヘリゲル先生に阿波師範が教えられた時のお言葉です。p56




「「あなたは引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼児はいつも我々が驚くほど、そのちっちゃな拳の力でしっかり指を握りしめます。しかもその指を放す時には少しの衝撃も起こりません。


 なぜだかお分かりですか。というのは小児は考えないからです――今自分はそこにある別の物を摑むためにその指を放すのだとでもいう風に。むしろ小児は全く考えなしに、また意図も持たずこれからあれへと転々として行きます。それで小児は物と遊んでいる――同様に物が小児と遊んでいるとはいえないにしても――といわねばならないでしょう」」




 わかるよ~な……………。わかりませんw


 まさしく、主格未分の純粋経験的な、もっといいますと、老荘の嬰児の徳を説かれるような説明をされるわけですが、あまりに深遠にすぎて、いかにも現代的な知識に偏りすぎたわたしには恐ろしく難しいw また阿波師範はこうもおっしゃる。p59




「「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようと努力すればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ(あた)りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるようですね」」




 意志的な意志をもっていることが、あなたの邪魔になっている。




 これを理解できた時に、わたしも悟りが開けるかも知れませんw 悟りの道はかくも深遠であります。-人-。(深遠である、と拘泥することがますます悟りから遠のいているのやも知れませんが)


 そして、ヘリゲル先生はこの、弓を射るという、言ってみればただそれだけのことを行うだけなのに、自分自身から解脱せしめねばならない、という禅問答のような、恐ろしく精神的な心境にあることを阿波師範から教わり、苦悩の修行を四年もかけておこない、この「放れ」を会得されます。その時の、感動的な、また神妙な描写がこちら。p94




「その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁寧にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方、”それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げる嬉しさを抑えることができなかった。


「私がいったことは」と師範はたしなめた。「讃辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい」


 かなりの時が経ってからようやく、時々また正しい射ができるようになった。それを師範は無言のまま丁寧にお辞儀をして顕彰するのであった。正しい射が私の作為なしにひとりでのように放たれたということが、どうして起こるのか、どうして、私のほとんど閉じられた右手が突然開いて跳ね返るようになるのか。私はその当時も、また今日でもこれを説明することができない」




 わたしは悟りというものを知ってから、僧侶などが大悟徹底した、という文章をwikiなどでみて、なんでそれが分かるんだろう、とつねづね思っておりました。そして、それは恐らく、同じように大悟徹底した人から見たら、隠しようもなく明らかなのだろうとも思っておりましたが、こういう文章をみれば、やはりそうと思うほかないですね。


”それ”というのは、まさしく神が降りてきたかのように、無心、無我の境地なのでしょう。そしてそれは、それを経験したヘリゲル先生でも容易に言語化できるような性質のものではなかった。でも、それをみた阿波師範はただちに看取することができた。


 だから、東洋では昔から大悟徹底した人が明らかに分かった。


 そして、西洋にも偉人やら英雄やらはわらわらいるが、大悟徹底した、などという文言をwikiや歴史書などから見つけることはできないわけで、東洋とは、東洋の哲学とは、そういう性質のものなのです。そして、阿波師範は次の修行の段階、いよいよ的に当てる、という段階に踏み入ります。50メートル先の的に向かって射ます。しかし、阿波師範は的のど真ん中に当てるのに対して、ヘリゲル先生ではそもそも50メートルの的に届きもしません。その時の阿波師範のお言葉がこちら。p98




「「あなた方の矢が向こうまで届かないのは」師範は批評していった、「その矢が精神的に十分なところにまで行っていないためです。あなた方は的が無限に遠くの方に在るかのように振舞わねばなりません。立派な射手は中位の強さの弓でもって、魂のない射手が、最強の弓で射るよりも遠くまで射るというのは、我々弓の師範には周知のことであり、そしてまた日々の経験によって確認されている事実です。ですから罪は弓に在るのではなくて、あなた方が射る時の”精神現在”にあり。活発さと覚醒状態に在るのです」」




 東洋の「実在」はかくも神妙です。


 そして、ヘリゲル先生の修行がまた続けられるのですが、先生の矢はほとんど的にすら当たらないのに対して、阿波師範の矢はずばずばとど真ん中に的中します。そして、最初は無心に射っていた先生も、いよいよじれてきてしまってw 阿波師範に言ってしまいます。「師範は何十年も的に向かってはるんやから、見なくても当たるんとちゃいますぅ? それこそ、目隠ししても当てはるんでしょうねぇ??(意訳)」そのいけずな質問に、阿波師範はこう答えます。「夜、道場にいらっしゃい」と。


 そして夜。道場には電燈がついていましたが、50メートル先の的場には明かりはついておらず、真っ暗闇の的に目がけ、阿波師範は甲矢(はや)(手に2本もった矢の最初の矢)を射、ついで乙矢(おとや)を射ます。


 的をみたヘリゲル先生は呆然とします。


 なんと、乙矢は、甲矢の(はず)(弦にひっかける箇所。矢の尾部)にあたって砕いて、2本とも、ど真ん中に突き刺さっていたのです。それをしげしげと見つめた阿波師範のお言葉がこちら。p105




「「甲矢の方は別に大した離れ技でなかったとあなたはお考えになるでしょう。何しろ私はこの(あずち)(的を立てかけるための盛り土)とは数十年来なじんできているので、真っ暗闇の時ですら的がどこに在るか知っているに違いないというわけでね。そうかも知れません。また私はいい訳しようとも思いません。しかし甲矢にあたった乙矢――これをどう考えられますか。とにかく私は、この射の功は”私”に帰せられてはならないことを知っています。”それ”が射たのです。そしてあてたのです。仏陀での前のように、この的に向かって頭を下げようではありませんか」と。


 この二本の矢でもって、師範は明らかに私をも射とめたのであった」




 かっけぇ!!


 阿波師範は、50メートル先の真っ暗闇の的に向かって2本の矢を放ち、2本目の矢が1本目の矢に当たる、という、某漂流者の那須与一ばりのことを行っておきながら、これはわたしがしたことではありません。”それ”が行ったのです(キリリ とおっしゃるわけですw 


 これっすよw これが東洋の「実在」なんですよw 


 すごすぎて何がなんやらw


 少なくとも、己の功を誇るような軽薄な人間は、悟りとは無縁である、ということだけは肝に銘じておくべきでしょう。わたしは、未熟者ですが阿波師範のおっしゃるようにしたいと思いまする。-人-


 と。


 深遠無窮なる東洋での「実在」を伺ったところで、キタロー氏に戻りたいと思いますw とは申せ、阿波師範の深遠なる悟りの境地を伺ってからキタロー氏の言葉を見ますと、どうにも、しょうもない戯言に見えてしまうw 例えば、p173




「実在の成立には、(中略)その根柢において統一というものが必要であるとともに、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である、ヘラクレイトス(紀元前500年頃のギリシャ哲学者)が争いは万物の父といったように、実在は矛盾によって成立するのである。


 赤き物は赤からざる色に対し、働くものはこれを受けるものに対して成立するのである。この矛盾が消滅するとともに実在も消え失せてしまう。元来、この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものに過ぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。


 例えば、白と黒とのようにすべての点において共通であって、ただ一点において異なっているものが互いに最も反対となる。これに反し、徳と三角というように明了(明確)の反対なきものはまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一したものである」




 陰があるから陽があり、陽があるからまた、陰がある。


 そして、その陰と陽という対立、矛盾があり、またその陰陽の統一があって太極がある。


 その通りなんですが、なんでそんなところで足踏みしているのか、なんでもっと踏み込んだことが言えないのか、疑問に思います。こんなこと、易とか学びだした時に最初に出てくる大前提のような知識であって、いうなれば四則算、足し算引き算のようなもので初歩の初歩。


 これを書いているのは第二編の第五章で、二編は十章まであるのでちょうど折り返し地点です。言うなれば起承転結の、承の終わりごろ。物語でいうなればいよいよ盛り上がりを見せるべき地点であるにもかかわらず、なんで今更こんな初歩的なことを言っているのか。何をやっているんですか、と言いたくなるような子供だましなお話です。


 分かってないくせに、分かったようなことを言うから、哲学とは小難しいことをごにょごにょするもんだ、と思っているからこんなことになるw 続きまして、わたしがやっぱキタロー氏はわかってないんじゃね? と思ったのがこちら。p221




「我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかのように考えられているが、その実は統一せられるものを離れて統一作用があるのでなく、客観的自然を離れて主観的精神はないのである。我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。


 花を見た時はすなわち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明らかにするというは、自己の主観的臆断(おくだん)(憶測による判断)をすてて、花その物の本性に一致するの意である。理を考えるという場合にても、理は決して我々の主観的空想ではない、理は万人に共通なるのみならず、また実に客観的実在がこれによりて成立する原理である。


 動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるによって得らるるのである。これを要するに我々の知識が深遠となるというはすなわち客観的自然に合するの意である。ただに知識においてしかのみならず、意志においてもそのとおりである。


 純主観的では何事もなすことはできない。意志はただ客観的自然に従うによってのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従うのである。我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、キリストが千歳(千年)の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であった故である。我なき者すなわち自己を滅する者は最も偉大なる者である。


 普通には精神現象と物体現象とを内外によりて区別し、前者は中に、後者は外にあると考えている。しかしこの如き考えは、精神は肉体の中にあるという独断より起こるので、直接経験より見ればすべて同一の意識現象であって、内外の区別があるのではない。


 我々が単に内面的なる主観的精神といっているものは極めて表面的なる微弱なる精神である、すなわち個人的空想である。これに反して、大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動そのものである。それで、かくの如き精神にはおのずから外界の活動を伴うのである。活動すまいと思いてもできないのである。美術家の神来(しんらい)(神がかったインスピレーション)の如きはその一例である」




 おおむねその通りだと思うのです。思うのですw 思うのですが、なんで、そこまで面白く言葉をすすめておいて結論がそうなるのか、わたしにはさっっっぱりわからんw


 芸術家の神がかり的なインスピレーションこそ、客観的、没我的精神の大いなる活動の発露である。キタロー氏はこういう。


 つまり、先程見た、「放れ」 へリゲル先生が”それ”によって、完全に主観を放れた、無心、無我の境地になって自然と、するりと指が離れて矢が解き放たれたのように、射が行われた。


 芸術家の神来とは、そういうものだと、キタロー氏は、そういうわけです。


 へ?w


 いや、すみませんが、まあ、この世に芸術家がどれほどおわすのかは存じ上げませんが、その芸術家たちが、阿波師範の如き、お釈迦様や、キリストの如き、悟りに至った風格を具えたものが、一人でもいるとは、到底思えないんですがw


 わたしも別に芸術家なんて全然知りませんので、それこそ臆断になってしまうのですが、わたしの目から見ますと、それこそ、芸術家ほど主観の塊のような存在はいないような気がするんですけどw 個性の塊と言いますか、わがまま勝手の権化と言いますかw


 だって、悟りに至った人は、自殺なんてしませんよ?


 いや、する必要なんてあるわけがない。なんで自分が生まれたか、なんで自分は生きているか、どうすることが自分自身にとっての最良か。キタロー氏が「実在」を論ずる時に開口一番に言っていた、



「世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求」


 これを完璧に具えた人こそが悟りに至った人であり、偉大なる没我な人なんですよ?


 なのに、芸術家で、これまでどれほどの人間が自殺したことでしょうね?? 


 日本の文豪でも自害した人はいますし、それに日本の文豪って、話をうかがう限りではどクズが多いじゃないですかw 客観的精神のかけらもないような、主観の塊のような人間が多いと聞きます。自殺する、ということは間違いなく、ぜんぜん解脱できていない証拠です。なにせ、自然の生き物は自殺なんてしませんから。……まあ、ダチョウが頭が引っかかったからと、自分の頭を力ずくで引きちぎった動画を見たことがありますが、あれは……ねぇ?w


 それはともかく、わたしがうかがう限りでは、阿波師範のように、的に向かって、仏陀に対するように頭を垂れるという精神性を具えた芸術家とやらを、ただの一度も見たことも聞いたこともありません。


 それなのにこの結論に至るのは、わたしには理解不能を通り越して、むしろ恐怖すら感じるw むしろ、キタロー氏こそ、自身の言葉である、


「世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求」


 をきちんと学び直したほうがよいのではないかとすら思ふw


 まあ、端的に言えば、キタロー氏の「実存」がその程度だから、こんな支離滅裂なことを言い出すのではないかと思うんですけどね。まあ、第二編「実在」はこんな感じなのですが、次回はこの実在の結論にあたる、第十章「実在としての神」を見てみたいと思います。キタロー氏はこと、神にお話が向かうと面白いことをいうので、第十章はまるっと丸写しをしてみたいと思います。


 といったところで今回はこれまで。


 したらばな~。




「Gのレコンギスタ」のOP・EDを聴きながら。




投稿の仕方間違えて新規で立ち上げた形になってしまったw 慌ててそっちは削除して無事投稿完了。仕様が変わりました?w おっさんなんじゃからご新規要素にただちに対応できんのじゃわいw

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