『善の研究』を読んだ。二の巻
おこんばんはです。豊臣亨です。
あ、さて。本題に入ります前に、まずはわたしが出会ったがっかりなろうを取り上げてみたいと思います。
今回読んでがっかりした残念ななろうの名は、
『おかしな転生』
です。アニメ化もされているので、さて文章ではどがいなもんかい(広島弁)な、と読んでみましたが……。
まあ、一応ざっくり導入部のご紹介。
とある世界のとある騎士爵家に、とある男子が生まれます。その名はペイストリー。彼はかつて、お菓子職人として腕をふるった人物でしたが、不幸な事故によって命を落としてしまい、とある世界で生まれ変わります。
辺境の、貧乏騎士爵家に生まれ、類まれなる才能をもったペイストリーはどういったおかしな人生を生きるのでしょうか?
と、こんな塩梅。
アニメでみたときは、まあ、思うところはありましたが、ぼちぼち見ていられました。なにせアニメというのは何も考えてなくてもさらりと流れていくので、便利なものですが、文章で読むと全然違う。
まず記念すべき最初の一話目にこう出てきます。
「日本代表に与えられた作業場に、鎮座するのは巨大な飴細工。
人の背丈を超えるような甘味のオブジェは、作業台の上にあることで異様な威圧感を与えていた。
繊細にして大胆。
技巧の限りを尽くして制作された芸術品は、世界の名を冠たるに足るだけの美しさを持っている。
現在の得点では、日本代表が二位。
一位との得点差は僅かであり、この飴細工で逆転することは確実だと、誰もが認める素晴らしさだ」
こういう感じで始まりますが、わたしはある一点で恐ろしく違和感を感じました。どこかわかりますか?
ここです。
「世界の名を冠たるに足る」
冠たるに足る。
冠たる、とは文字通り、冠であるから頭にあるべきものだ。上位にあるものだ。
足る、とは文字通り、足であるから下位にあるものだ。
意味合い的には、上位にあることを及第点とする。と言っているようなものだ。どこが冠しているというんだってばよ。まあ一応、他の言葉としましては、「威とするに足る」という言葉もあります。十分に称賛する価値がある、という言葉もあるはあるのですが、しかし、冠たるに足る、という言葉では暑いが寒い。といっているようなもので、やはり違和感を禁じえない。
いえ、これが100話、500話の中にあればわたしもいちいちツッコミはしないのですが、記念すべき第一話にこんな言葉を選んでいる時点でお里が知れると言わざるを得ないのです。せっかく自身の言葉を伝えることをしているのならば、もう少し言葉に対して感性を豊かにしてほしいと思ふ。
と、第一話から先行き不安な感じを抱きました。で、読んでいきまして、あの盗賊の話はひ◯わり動画で見てたときもツッコミコメントが多かったのでさらりと読み飛ばしましたが、お次が問題。
それが、ペイストリーの魔法によって、公爵の嫡孫と、辺境伯の息女との仲人のようなことをしたお話の時のこと。辺境伯は周囲に敵を抱えているので身軽に動くことができないので、息女の輿入れの護衛にペイストリーとぱぱんのカセロール=ミル=モルテールンが当たることになるのですが。そこで、ぱぱんとその部下でこういう会話をします。
「「公爵家と辺境伯家の縁組。面倒な事にならなければ良いが」
「希望的観測に過ぎます。まずあり得ないですよ父上」
「ならいっそ、断っちまいますか。面倒事なんて最初から抱え込まない方が良い」
「国家の重鎮二人にこうして頼まれて、断れるわけがないだろう。向こうが手紙とは言え頭を下げて来ているのだ。断わるなら、公爵と辺境伯近縁の者全員を敵にする覚悟が要る。受けるしか無いだろう」」
この縁談は、公爵と辺境伯という王家でも上位にあるお貴族様の縁談である以上、何かがあればこの両者を敵に回すことになる、と言っています。しかし、お次の文章ではとんでもない記述になります。
「逆に言えば、婚約を邪魔したい。或いは婚約をいずれ破棄させたい人間にとっては、お披露目などされては絶対に困るわけだ。
結婚とは、強力な結びつき。しかし、婚姻適齢期の人間をこしらえるのに、仲の良い夫婦と十年以上の時間が必要なものであり、おまけに有力子弟の数などは限られてしまう。
まして今回は公爵家嫡孫。超が付くほどの優良物件だ。以前から虎視眈々と狙っていた人間達からすれば、突然の横取りのような今回の話はどうあっても潰したい。
その為に一番“理想的“なのは、相手の娘に“不慮の事故”があることだろう。
そんな状況で、旅に不慣れな少女を守りながら、政情不安な土地や他人の領地内を往くのは、夏場に虫除けスプレーも蚊取り線香も使わずに藪やぶで寝転がる様なもの。
余計な虫が集ってくるであろうことは、火を見るよりも明らかだ。
むしろこれで、何事もありませんでしたなどと言う方が不自然極まりない状況である」
は????
いや、何いってんだお前????
公爵と辺境伯、双方を敵に回して、息女を亡き者にする?? それで、得るメリットが公爵、嫡孫との婚約か? いや、それ、その嫡孫が大人しく自分の娘と結婚すると、誰が保証してくれるんだよ? いや、で、万が一、億が一、兆が一、暗殺がうまくいって自分の娘を輿入れさせたとして、その謀議が10年先、20年先、未来永劫、絶対にバレないって保証は、一体、どこの誰がしてくれるんだよ?
そうなったら、そんな謀議を行う家と、誰が仲良くしてくれるんだ? 敵国ならまだしも、自分の国の貴族、それも上位貴族に刃を向ける奴とコンゴトモヨロシクなんて貴族はおらんだろ。下手すれば国すべての貴族を敵に回すんだぞ? それだけのことをするだけのメリットが本当にあると言えるのかよ?
普通の人間なら、いくらなんでもあるかないかわからんメリットのためにこんな大それたことしない。それなのに、何かしないほうがおかしい、レベルで文章を書き進めるとか、アタマわいてんのか??? と、この文章読んでいてこういった言葉が次々と脳裏に閃いて、うんざりして読むことをやめますた。
さすがにこのお話の流れは異常ですね。あり得ない。アニメの時はこの文章の部分は出てきませんから気にするはずもありませんが、文章になるとさすがに受け入れられませんね。
あと、しょうもないツッコミをしますと、貴族たるもの、夫婦仲なんか最初っから絶対零度のごとく冷え切っていても子供はできるんやで。
あと大事なことをもう一点。なんか、他領をうろちょろすれば襲われるのもさも当然、みたいな書き方してるけど、そんなことになれば、罪科は治安維持もできなかったその領主に及ぶんやで。そういうことを、前の盗賊うんぬんの時にしてたんとちゃうんかい。この作者さんは、自分が思っていることが正しいことであると思っているようなふしがある、思い込みが激しいところが見受けられますが、それこそ噴飯もの。ブーメランにはなるけど、ちゃんと考えて物書きや?
と、前置きはおいておいて、本題に入りましょう。さて、今回も『善の研究』の読書感想とあとごにょごにょしてみたいと思いまして、第一編の「純粋経験」をもう少し立ち入って見てみたいと思います。
まあ、以前にも述べた通り、この純粋経験、ないし、主格未分の純粋経験、というのは、結局のところ第四編の「宗教」の中にある、神人合一を述べるための下敷きに当たるものであるので、ぶっちゃけ蛇足にしか見えない、と申しましたが、なにゆえそう感じるのか、をつれづれと見てみたいと思いまする。p39
「今なお少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明らかにしようと思う。意識の体系というのはすべての有機物のように、統一的或者が秩序的に文化発展し、その全体を実現するのである」
ここで出てきます、「統一的或者」。なんのことかと思いますが、小坂国継氏の注釈ではこう解説があります。p41
「先の或無意識的統一力と同義。普遍的意識の別名。西田は個々の経験の背後にある普遍的意識ないし統一力を「或無意識的統一力」「統一的或者」「或統一者」「潜在的或者」「潜在的統一者」「潜勢力」「潜勢的一者」「不変的或者」等、種々の名称で呼んでいるが、『自覚に於ける直観と反省』(大正六年)においては「自覚」という用語で統一されるようになる」
解説によりますと、どうやら自覚、という言葉を、統一的或者、などなど、様々に呼んでいるように、キタロー氏はこの「善の研究」執筆段階ではまだまだ思想が円熟されていない、ある程度の結論に達したからこそこの書を執筆されたわけではない、ということが分かります。
「善の研究」が明治44年に出版されたとのことなので、明治は45年で終了なので、単純に考えて7年くらい後に、思想がかたまってきた、と言えるのかも知れませんね。
とはいえつまりは、この本書はまだキタロー氏が西洋哲学の書を数多読んで、それを頭の中で整理し、考えながら書いている最中のものであり、自分の中で固まったものがあるからそれを開陳しているわけではない、思想形成中のヒルコのごときものである、という事実は知っておくべきでしょう。
だからといって、それで未熟者とそしりたいものでもありませんし、キタロー哲学の中心がズレていると言いたいわけでもありませんが、しかし、文章の全部を大真面目に捉えて良いのか、注意を要すると思います。そしてそう、考えざるを得ない文章がお次。p43
「純粋経験はかく自ら差別相を具えたものとすれば、これに加えられる意味あるいは判断というのはいかなるものであろうか、またこれと純粋経験との関係はいかがであろう。
普通では純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。しかし、純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起こるのである。すなわち、これを大なる意識系統の中に統一する統一作用にもとづくのである。
意味とか判断とかいうのは現在意識と他との関係を示すもので、すなわち意識系統の中における現在意識の位置を表すにすぎない。例えば、ある聴覚についてこれを鐘声と判じた時には、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。
これに反し、この統一が破れた時、すなわち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いてくるので、これが現在の意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。
意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。しかし、この統一、不統一ということも、よく考えてみると畢竟程度の差である」
すなわち言い過ぎw
それはともかく、ここの箇所について、解説の小坂国継さんはこうおっしゃる。p47
「最初、純粋経験とは、通常の経験と異なって、思慮分別のまったく加わっていない原初的な経験であり、主客未分の意識の厳密な統一状態であると規定されている。これが純粋経験の最初の規定である。
しかし、一口に主客身分の意識状態といっても、例えば、明暗の区別さえつかない初生児の未意識的な意識統一の状態もあれば、芸術的・宗教的天才の神来(神がかったインスピレーション)や直観のような超意識的な意識統一の状態もある。そして、この両意識状態は、なるほど主客未分の状態であるという点においては一致していても、その意識統一の程度の高低・深浅においては雲泥の差があり、したがって同じく純粋経験といっても、そこには種々の段階があることが示唆されている。
また、このように純粋経験は意識の厳密な統一的状態であると規定されながら、一方では、統一とか、不統一とかいっても比較程度の問題であって、絶対的な統一というものもなければ絶対的な不統一というものもない。すべては程度上の問題である、そしてこの点からすれば、意味とか判断とかいった反省的思惟の段階も純粋経験と呼ぶことができる、と述べられている。ここには、いくつかの看過できない不整合や矛盾がみとめられるが、おそらくこのような主張の背後には「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」という西田の意図が潜んでいたと考えられる」
この解説を読めば十分ですね。
主客未分の純粋経験、何かを味わう時、その感受が、感想なり、判断なり、意味なりに成り代わる、その感受の刹那こそが純粋経験だ、でも、あれ、よくよく考えてみると、その感想も判断も意味も、つまるところ、◯っと純粋経験じゃね?
と、キタロー氏は言い出すわけですね。
おい、キタロー!w
考えてから物言えやw
このように、第一編はこんな感じなので、大真面目に受け止めると馬鹿を見ると思ふw
そもそも、この純粋経験、というのを持ち上げすぎに思う。何かを感受した、その刹那をありがたがるのは結構ですし、わたしにもそういう原初的な、純粋な、美しい純粋経験はありますが、だからといって、それが今のわたしにはそこまで重大な意味を持っていないと思う。
わたしが今のわたしになったのは、これまで生きてきた人生経験や、学問、読んできた書物の集積によって成り立っているのであり、ガキの頃の美しい「思ひ出」ででは決して出来上がってないと思う。そりゃ、情緒とか、情操という部分で多少は成り立っているのかも知れませんが、それにしたって、程度の問題になるんですよ。なってしまうんですよ。
わたしに、元々情緒や情操があったから、純粋経験を得たのか、
純粋経験があったから、わたしに情緒や情操が養われたのか、
卵が先か鶏が先か、どっちがどうなんて、分かる訳がないし、わかったところでやっぱどっちにしたってこんなしょぼいもので今の自分が成り立っているとは言えないし、言いたくもない。
安岡先生の書が、わたしのおつむに詰まっているのであり、事あるごとに論語の一文が脳裏によぎるのだって、キタロー氏のいう不統一な純粋経験に属するものとなるが、いや、不統一で結構であります。
こうして生きて、考えて、思うところは、そんな刹那の瞬間の感受などではない。言うなれば、キタロー氏が大正六年に思い至った、「自覚」によって成り立っているのであると言える。
わたしが目指す「悟り」も、つまるところ、この自覚、の総和にあると言えるでしょう。悟りとは、分かること。理解、確信、自覚、それらの集積の総和こそが悟りなのであって、それを目指す、今の自分の自覚が、今の自分を支えている。決して程度の問題などで済まされて良いものではない。
仏教で言う、「不退転」
決して退かない、すっ転んだりしない、前だけを向いて突き進むという、自覚が、今のわたしの中にあるものであります。……まあ、最終的に神人合一、といえば確かにそうなるのですけどねw
とまあ、いきなり結論っぽいことを言い始めましたが、キタロー氏のお次の言葉を見てみましょう。p96
「上来論じ来たったように。意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、ともに一般的或者(自覚のことねw)が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極地が真理であり兼ねてまた実行しているのである。
かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分かれておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突のため、一方より見ればさらに大なる統一に進むため、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分かれてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知であるというような考えも出てくる。
知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想もともに理想が事実と離れた不統一の状態である。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である。
いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき欲求と同一といってよい、ただ前者は一般的で、後者は個人的なるの差があるのである。それで、意志の実現とか真理の極致とかいうのはこの不統一の状態から純粋経験の統一の状態に達するの謂である。意志の実現をかく考えるのは明らかであるが、真理をもかく考えるには多少の説明を要するであろう。
いかなるものが真理であるかというについては種々の議論もあるのであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいたものが真理であると思う。
往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかるものは反って真理と遠ざかったものである。
真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実そのものでなければならぬ。この事実がすべて真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられたものである。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない。
真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。
それ故に、完全なる真理は言語にいい表すべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである」
ここの文章を読んでいるときはさすがに寝ぼけ眼が冷めましたねw
キタロー氏はときどきすごくいい事を言うんですがw この文章はなかなか白眉ですね。この文章を読むまでは、何眠たいこと言ってんねん、と思いながら読んでたので半分寝てましたが、こういう文章が時々出てくるから侮れないw
キタロー氏は真理、として説明を加えていますが、わたしには、これが「悟り」に見えて仕方がなかったですね。後半の文章を悟りに切り替えて読んでみますと、分かる気がします。
「いかなるものが悟りであるかというについては種々の議論もあるのであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいたものが悟りであると思う。
往々悟りは一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかるものは反って悟りと遠ざかったものである。
悟りの極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実そのものでなければならぬ。この事実がすべて悟りの本であって、いわゆる悟りとはこれより抽象せられ、構成せられたものである。悟りは統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない。
真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる悟りは個人的であり、現実的である。
それ故に、完全なる悟りは言語にいい表すべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる悟りとはいえないのである」
キタロー氏は参禅までしたらしいのですが、しかし、悟りに親でも殺されたのか、この「善の研究」の中では努めて悟りという言葉を用いることを嫌っているように感じましたw
なので、真理、という言葉で説明をしているのですが、でもわたしには、「完全なる真理は個人的であり、現実的である」という箇所が、個人的な真理、というのがどうにもピンとこなかったんですよね。でも、「完全なる悟りは個人的であり、現実的である」と言い換えるとすんなり首肯できるような気がいたします。多分ですが、先程出てきた、大正六年頃に、「自覚」という言葉に落ち着いたとありますように、西洋と東洋の知識や思想がようやく整理がついて、仏教的思考も積極的に取り入れられるようになったのではないかと思いますね。
「余は最も具体的なる経験の事実に近づけたものが真理であると思う」
ここの箇所にしたって、本来は日本人は得意なところですよ。日本人は、剣道や弓道、華道や茶道と、ひとつの道から入って、真理に至る、悟りに至ることをじゅうじゅう知っている民族なのです。
事実、偉大な剣聖にして大悟徹底された山岡鉄舟さんとか、新カント学派のヘリゲル先生をよく誘掖された弓聖阿波研造氏とか、ひとつの道から悟りに至った方は日本にたくさんいらしたわけですし。
「それ故に、完全なる真理は言語にいい表すべきものではない」
ここらあたりも、教外別伝、不立文字(大切な教えは、文字や文章で伝えるものではなく、心と心で伝えるものであるということ)を意識しているのであろうと思いますし、キタロー氏の中でまだぐちゃぐちゃのヒルコになっていて「つくりかためなす」まで至っていないのでしょうね。
少なくとも、大正六年頃まで思想の熟成を待ってから、本書「善の研究」を執筆すれば、全然その後も違ったものになったと思いますので、非常にもったいないことをしたなぁ、と思います。
なぜなら、一休さんの道歌にこういうのがあるんですよね。
【釈迦といふ いたずらものが 世にいでて おほくの人を まよはするかな】
まさしく、この「善の研究」を表現するのに、この道歌ほどしっくりくるものはないと思ふw
まあ、少なくとも一休さんはお釈迦様を批判したかったわけでもないのです。ただ、仏教というのはお釈迦様寂滅後、500年ほどで大乗経典を創作する、というなろう活動が活発になってしまって、お釈迦様はこうおっしゃった! という捏造がたくさん生まれたんですよね。それによって、これが正しい教えだ! いやいやこっちが真の教えだ! といろんな経典が現れるに至って、何が本当かよくわからなくなってしまったわけで、そういうところから一休さんがこの道歌を読まれたわけです。多分、一休さんの時代では、大乗経典が創作物であるという知識はなかったはずなんですよね。みんな本当のものだと思って必死になって修行に励んでいた。だから経典が多すぎて逆にわからん、となった。
ただただ、お釈迦様は自覚覚他、自身が悟ったからこそ、その大切な教えを皆に教えようとなさったわけで、それを純粋に受け継いでおればよかったのですが。
ただ問題なのは、キタロー氏はそこまでの円熟味がなかった。
少なくとも、「善の研究」執筆時点ではそこまで、思想的な円熟味も老成もなかったわけで、ただただ、なにやら小難しい表現が羅列された文章が世に解き放たれてしまって、多くの日本人は、なんと、哲学というのはこういう小難しい文章をごにょごにょするものなのか! 小難しいことをごにょごにょするのが哲学というものなのだ! という誤解だけを瀰漫させることとなってしまったわけです。
本当は、哲学というのはキタロー氏が真理のところで語っているように、
「いかなるものが真理であるかというについては種々の議論もあるのであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいたものが真理であると思う。
往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかるものは反って真理と遠ざかったものである。
真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実そのものでなければならぬ。この事実がすべて真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられたものである。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない。
真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。
それ故に、完全なる真理は言語にいい表すべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである」
むしろわかりやすいものなのです。
こういう易しい文章であったのなら、哲学は小難しいもの、という誤解を、今に至るも植え付けることもなかったはずですし、悟りという言葉があれば、難しくて当たり前、という認識にも至ったかも知れないのです。
元来、日本人はけっこう難しい仏教用語を使いこなしているところもあるので、その仏教思想から手を伸ばして、西洋、泰西思想にまで敷衍すればもしかすると、今の日本はもっと思想哲学的にも優れた民族になるかも知れなかった。
にもかかわらず、そもそも、キタロー氏自身がいまいちよくわかってもいないことを、わかった気になって、中二病にかかってしまって、軽々しく西洋思考を振り回すから、なんかよくわからんが、哲学とは小難しいことをごにょごにょするもの、という固定観念だけが染み付いてしまって、いまも取れないものになってしまった。
で、日本最初の哲学書だの三大教養書だのに祭り上げられてしまって、その誤解は決定的なものになってしまった。
そう、妄想しますと、キタロー氏のためにも、日本のためにも非常に残念な気はいたします。
と、第一編「純粋経験」とは、こういうある意味蛇足に満ちた文章であり、キタロー氏の発展途上な部分がモロに出まくった、そのくせ難解な表現が多いから、誤解だけをオークの日本人に植え付けた、罪作りな文章である、というところをご案内したところでこんばんはこれまで。
したらば。
「悪役令嬢レベル99 ~私は裏ボスですが魔王ではありません~」のOP・EDを聴きながら。
ってか、今季はアニソンが大豊作ですね~w ここまで良作に恵まれたシーズンが他にあっただろうかと思うほど。エロ方面でもなにやら頑張ってるし、世界に誇れる(?)日本の文化に恵まれる、なんとも幸せなことであります。-人-