『善の研究』を読んだ。一の巻
今回読んだのは『善の研究』 西田幾多郎著 小坂国継氏全注釈 講談社学術文庫発行。三大教養書、とも評されることもある本書を読んでみますた。
おこんばんはです。豊臣亨です。今回は(一応)読書感想文でございまして、あとごにょごにょ。
さて、作者名である、西田幾多郎。最初、わたしは西田いくたろう、かと思いましたが、読みは西田きたろう、なんですね。おい、キタロー! まあ、御本人は1945年没とのことで、おいキタローなど知る由もないわけですが。作者の水木しげるさんはその頃左腕を失い戦傷者として後方に送られていた頃ですし。
世間的には非常に難解な内容といわれる本書。なんとかかんとか一通り読み終えたあと、ようつべなどから情報を集めておりましたら、ネットで藤原正彦という方のインタビュー記事がありまして、まずはそこから見てみたいと思いまする。藤原正彦という方は、『国家の品格』で270万部のベストセラー作家になられた方ですが、本職は数学者のようであります。その方が友達に言われたこととして、
「「(旧制高校の三大教養書である)阿部次郎の『三太郎の日記』、西田幾多郎の『善の研究』、倉田百三の『愛と認識との出発』を読まないと大人になれない」というのを聞いて手に取ってみたら、あまりにもつまらなくてどれも20頁くらいで投げ出してしまった」
とありました。なんとw
他にも、
「私にはどうも、西洋的教養の小説や哲学がしっくりこなかったんですね。講談本の方がずっとしっくり来た。でも、近代の歴史を見ると、西洋由来の教養を積んでいた知識人たちがあっさりとだまされたり転向したりしている一方、そんな教養とは無縁の庶民たちは現実的でたくましく、かつ情緒や日本人としての形を保った生活をしていた。講談本や大衆文学、そして伝統の芸能や芸道には、日本人の基本的な価値観がたっぷりと表現されています。こうした大衆文化が、日本の庶民の際立って高い道徳や情緒を支えてきたのです」
「どうして日本の教養層はひ弱だったのか。戦中にはあっさりと軍部にだまされ、戦後はGHQに洗脳され、現在は新自由主義イデオロギーの虜になってしまうのか。それは、西欧崇拝に基づいた「教養」が上滑りのもので、本当に身についていないからです。日本人にとっては、日本人の情緒や形と一緒になった知識でないと、本当には身体にしみこまない。つまり、ホンモノの教養とは言えないのです。
『国家と教養』の中でも書きましたが、戦中は体制支持派だったのに戦後はあっさりと戦前戦中批判に転じ、戦争協力者を糾弾して地位を得ようとした知識人には事欠きません。「私はだまされていた」と語った武者小路実篤だけでなく、教養主義のチャンピオンとも言うべきドイツ文学者の中にも、リルケやヘルマン・ヘッセの翻訳者でありながら戦時中はナチス支持で戦後はどこ吹く風、などというケースがたくさんあります」
という記事もあって、満腔の共感を覚える次第w
さすがにわたしは20ページ読んだだけで全体像を把握できるような能力も頭脳もないので全部読みましたが、確かに、つまらない本であると言えるやもしれません。とはいえ、書いてある内容を伺ってみますと、思わずうなってしまうような実に面白い言葉も散見され、読んでいる最中はキタロー氏の評価が上がったり下がったりして、評価に非常に苦しみましたが、全部読み終えた最終的な感想としましては、わたしのようなヒマヒマ星人が読むには適しているが、忙しい現代人が読むような本ではない、と言ったところでしょうか。やはり、難解な記述も多いし、わずらわしい哲学用語も多いのですんなりおつむに入ってくるような内容ではない。難解で、無駄に荘厳に仕立て上げられたお経を読んでいるような気持ちになりました。
その、難解なお経が最終的には身につくのなら、自身の血肉となるのなら、よいのですが。さて。
また、この『善の研究』は、日本最初の哲学書と呼ばれるのだとか。
もう、この時点で噴飯物でありまして、哲学、という言葉をちゃんとわかっているのか、と思ってしまふ。
本書にも、しきりに実在、という言葉が出てきます。
実在、実存主義、とは、現実の存在、ということで、今そこにあるもの、ということで、なかんずく、人間のことを指しているのだそうな。その人間がどのように生きるのか、いかに今を生くべきか。という哲学命題を考える哲学、ということであります。その中でも、無神論的実存哲学者であるサルトルは、こういう思考をもったおったそうな。
「実存は本質に先立つ」として、wikiでは、
「もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在する(有神論の立場)ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。
しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだ(無神論の立場)としたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである」
とあります。
さすが、無神論者らしい言い回しであります。
しかし、無神論者のたわごとに耳を傾ける価値などありません。本質は、人が生まれたときからすでに決まっているのであり、その本質を目指して、本来、人は生きるべきなのであります。そして、その本質とは、神や仏になることであり、仏教でいうなら悟りを開くことであり、キリスト教的、わたしも私淑するカール・ヒルティに言わせると、「神のそば近くにあること」こそがキリスト教徒にとっての最大幸福なのであります。
そして、その本質ということに関しては東洋がもっとも長じておりまして、中華の古代の伝説的君主たる堯王が、舜王に、王位を禅定するときに送ったとされる言葉をみましても明らかでありまして、
【人心これ危うく、道心これ微かなり、 これ精、これ一、 まことにその中をとれ】
人々の心は、利だの欲だの得だのにすぐに目がくらまされ、道心、本質を求める心は少ししかない。だからこそ、為政者たるもの心を粗雑にさせることなく純精に保ち、常に不動の心、たったひとつの心をもち、常に進化しつづけなくてはならない。
と言ったのであります。
中には、もちろん真ん中、という意味もありますし、中庸で、一方に偏することなくバランス感覚を維持し続けるという意味もありますが、もっとも重要なものとして、進化し続ける、という意味もあります。維新という言葉の元ネタたる「周は旧邦といえどその命維れ新たなり」という言葉もあるように、常に進化し続ける、というのは非常に重要な言葉であるわけですね。そういうものを含んで、中、という言葉がある。
そして、そのことをしっかり把握されていた孔子様は、ある時、子路さんとの問答の中で、
【己を修めて以て百姓を安んず。己の身を修めて以て百姓を安んずるは、堯舜もそれなおこれを病めり】
とおっしゃられているのです。
本質というものは、万古不変、未来永劫に変わることなく、厳乎として本来、人が求めるものとしてそこにあるものであり、そのためにこそ人は生まれてきているのだ。そのために生きているのだと言い切って良い。だがしかし、ほとんどの人は目先の利だの欲だの得だの、現実に流されてしまって、目を、心を奪われてしまって、本質を追い求めることなどしない。
だから、為政者たるもの、その民衆の代表として、民衆の手本として本質を追い求めて、率先垂範し、そしてそれを政治に活かさねばならないのである。
ということであります。
東洋思想は、大昔から本質というものを把握しており、だからこそ、その本質は誰も彼もが追い求めるような性質のものではないとわかっていた。だから、本質を理解できるものが為政者たれ、もしくは君主を輔弼する宰相たれ、という考えをもっていたわけです。
いうなれば、東洋思想は、世界最古で最高の実存哲学であるといってよいでしょう。
そしてもちろん、日本にこそ、儒教や東洋思想は受け継がれているのであり、江戸初期の陽明学者にして、近江聖人と讃えられた中江藤樹先生はこういう言葉を残されています。
「人生の目的は利得ではない。正直である。正義である」
日本にも哲学的思想はきちんと存在しているのであり、西洋のような概念のお遊戯のような戯論ではなく、実践哲学、本当の哲学があるのであります。しかし、明治以降、西洋文化に幻惑された者共によって、東洋思想の栄光は閉ざされた。
西洋では科学がいちじるしく発展している。そして権利だの憲法・法律観念だの、優れた概念思考が進展している。だから、そういう優れた文物を導入し、列強に比肩することが近代へ至る絶対的道なのであり、これは是が否であろうとなさねばならない国家的命題なのだ、という考えに基づいて西洋のありとあらゆるものが鵜呑みにされた。しかし、こと、哲学に関しては西洋のものなどたいしたものではなく、東洋古来の思想こそが本物であるということなど考えることもできないような、物事を正当に判断できない者共によって、東洋思想は閑却された。その流れで明治、大正、昭和、現在と続いているのであり、日本最初の哲学書、などという世迷い言が言えるのであります。
とはいえ、このキタロー氏、西洋哲学書をたくさん読んで、その上で、東洋的な哲学の有り様を模索されております。なんでも参禅もされて、西洋哲学に対して批判的な思考ももっていた模様であります。そんなキタロー氏は何を語るのか。
と。
盛大な前置きをおいたところで、『善の研究』に入ってまいりましょう。
本書は、
第一編 「純粋経験」
第二編 「実在」
第三編 「善」
第四編 「宗教」
と大きく4つに別れており、キタロー氏がp15 で言うように、
「この書は、第二編第三編がまずできて、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は、余の思想の根柢である純粋経験の性質を明らかにしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方が良い。第二編は、余の哲学的思想を述べたもので、この書の骨子というべきものである。
第三編は、前編の考えを基礎として善を論じたつもりであるが、またこれを独立の倫理学と見ても差し支えないと思う。第四編は、余がかねて哲学の終結と考えている宗教について余の考えを述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終わりまで達したのである」
つまり、「二」 → 「三」 → 「一」 → 「四」という順番で書きました、と。そして、本のタイトルが『善の研究』であり、第三編が「善」であるので、第三編が本書の結論部分、核心部分と捉えても良いでしょう。実際読んだところ、二、三まで書き上げたところ、四という結句が脳裏に出来上がったものの、それらを補足するものとして一を書いたのであろう、という感じはします。
病中の作というように、読んで受けた印象としましては、第四編は素直に心情を吐露しているように思いました。そして、そう思って振り返ってみますと第一編、第二編、第三編はしゃちこばったといいますか、取り繕った、非常に格式張った筆致であるという印象を受けます。もっといいますと、第一編は蛇足の感があります。
西田哲学といえば、この「純粋経験」であります。
読めばわかると思いますが、この純粋経験というものがはっきり解説されるのが第四編であり、御本人も、まずは第一編は脇へ置いておいたほうがいいんじゃね、と言っている。この、第四編を詳しく解説するために、わざわざ二、三の前に一編をもってきたわけで、本書の難解さをよりいや増したものであり、しかも結句の補足であるから核心的部分ではないので、ますますとっつきにくくさせている。
しかもそれが、純粋経験という明らかに耳馴染みのない文言であるから、余計にそう思う。キタロー氏は言う。p30
「経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音はなんであるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下(ただちに)に経験した時、未だ主もなく客もない。知識とその対象が全く合一している。これが経験の最醇(もっとも純粋であること)なるものである」
これが世に有名な、キタロー哲学の「主客未分の純粋経験」であります。
主とは自分。客とは、色とか音とか、自分以外のすべて。
その、自分が色とか、音とかを味わう、その感動的な、瞬間的な、原初的な経験こそが人間意識のもっとも重要なものである、とキタロー氏は言うわけです。
最初読んでいた時、わたしも意味がわからず、主客未分とはなんぞや、と思いながら読み進めるうちに、主客未分、って赤子のことをいっておるのかな、と思いました。赤ちゃんというのは、主たる自分も、客たるその他もありません。なので、野口英世のように、いろりにだって手を出してしまう。自分も、火も、区別などありませんから。
しかし、そうではない。では、悟りのことを言っておるのかな、と思いました。すると、第四編でこう書いてあるのです。p383
「元来、意識の統一というのは意識成立の要件であって、その根本的要求である、統一なき意識は無も同然である。意識は内容の対立によりて成立することができ、その内容が多様なればなるほど一方において大なる統一を要するのである。
この統一の極まる所が我々のいわゆる客観的実在というもので、この統一は主客の合一に至ってその頂点に達するのである。客観的実在というのも主観的意識を離れて別に存在するのではない。意識統一の結果、疑わんと欲して疑う能わず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいうのである。
しかして、かくの如き意識統一の頂点すなわち主客合一の状態というのはただに意識の根本的要求であるのみならずまた実に意識本来の状態である。コンジャック(フランスの哲学者。1715~1780)がいったように、我々が初めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光そのものである。
すべて最初の感覚は小児にとりてはただちに宇宙そのものでなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。我と物と一なるが故にさらに真理の求むべきものなく、欲望の満たすべきものもない。人は神とともにあり、エデンの花園とはかくの如きものをいうのであろう。しかるに、意識の文化発展するに従い主客相対化し、物我相背き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長えにアダムの子孫より鎖されるようになるのである。しかし、意識はいかに文化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである」
p389
「宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが適当であろうと思う。しかして、人とは我々の個人的意識を指すのである。
この両者の関係の考え方によって種々の宗教が定まってくるのである。しからばいかなる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根柢において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力という如きものとするならば、我々はこれに向かって毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。
あるいはこれを恐れてその命に従うこともあろう、あるいは、これに媚びて福利を求めることもあろう。しかし、そは皆利己心より出ずるにすぎない、本質を異にせるものの相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミス(イギリスの東洋学者、考古学者。1846~1894)も「宗教は不可知的力を恐れるより起こるのではない、己と血族の関係ある神を敬愛するより起こるのである。また宗教は個人が超自然力に対する随意的関係ではなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維持する力に対する共同的関係である」といっている。
すべての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、すなわち父子の関係がなければならぬ。しかし、単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また、神は万物の目的であってすなわち人間の目的でなければならぬ、人は各々神において己が真の目的を見出すのである。
手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以である。
キリストが「その生命を得る者はこれを失い我がために生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇なるものである。真の宗教における神人の関係は必ずかくの如きものでなければならぬ。我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在のためにするのではない、己が本分の家郷(ふるさと)たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。
また、神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない。これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔の年も出でくるのである。
単に諦めるといい、任すという如きはなお自己の臭気を脱しておらぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない、神において真の自己を見出すなどという語はあるいは自己に重きを置くように思われるかも知らぬが、これ反って真に己を棄てて神を崇ぶ所以である」
p396
「かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである」
これを見れば分かりますね。
主とは我であり、客とはこの世界、宇宙すべて、宇宙そのものであり、そして同時にデウスでもある。
主客未分の純粋経験とは、神人合一、神と我が一体化したものである。
とはいえ、この神人合一、とは、スーパーサイヤ星人が大猿と融合を果たしたスーパーサイヤ星人4、とかというものではありません(当たり前)。デウスとはこの世界であり、この世界すべてである。この世界のことごとくを理解した、把握した、神の如き、思慮分別、一段高い意志に至ること、であります。
悟り、とも言えるでしょうが、しかし、東洋思想的な意識の上にこの神人合一が打ち立てられたものであるとは言えないし、神道的な八百万の神々との一体化を言っているのでもない。これは明らかに、世界の創造主たるデウスへの帰依によって打ち立てられたものであることは明らかであります。
参禅までして思索したキタロー哲学には、東洋的な思想を認める以上に、西洋的なキリスト教的思想がより色濃く打ち立てられていることをみるわけですね。
ちなみに。
主客未分の純粋経験はわたしにもあります。それはわたしがまだ十代のガキの頃のお話。季節は夏の終わり。わたしの田舎は滋賀です。わたしの子供の頃の滋賀というのは、夏でも最高気温が32°程度で収まるくらいに涼しいところなんです。その夏の終わりともなれば、非常に爽やかな、温かい、心地よいいい風が吹くんです。今はやはり温暖化の影響でけっこう暑いようですが。
家の窓には真っ白なカーテンが風にあおられてはたはたとはためいています。窓の外ではお米の穂が黄金色に輝いて、爽やかな風になぶられてさわさわと音をたたている。
世界は美しい。
と思ったものです。その瞬間、世界の暖かさ、稲穂の音、カーテンが揺れる柔らかさな動き、すべてが美しかった。素晴らしかった。ガキ心にうっとりとしたものです。その、美しい、と思う前の瞬間こそが、主客未分の純粋経験と言えるでしょう。
「すべて最初の感覚は小児にとりてはただちに宇宙そのものでなければならぬ」
といったキタロー氏の言葉のとおりであります。
こうしてみますと、キタロー氏の透徹な視野、思想が伺われるのであります。
この、子供心に、世界は美しい、と息を呑んだ、その原初的な至純な意識が、経験が、そのまま進展して、我とデウスとの同一、わたしはデウスとともにある、という感激に繋がっている。というわけですね。
そして、そう思えばこそ、キタロー哲学は、わたしのようなヒマヒマ星人には面白いと言える考えでありますが、しかしだからこそ、違和感を覚えざるを得ない。
キタロー氏は、純粋に、無邪気に、そしてある意味冷厳に、すべての人間はデウスに帰依すべし。それが人間が生まれ来る所以である。目的である。と言う。
確かに、その通りなのであります。
その通りなのですが、しかし、それが本当にすべての人間が無条件に目指すものであるかどうか。考えたら分かるんじゃまいか??
『学問のすゝめ』があって、なんで、
『悟りのすゝめ』がないか。
なんで、悟りには預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と階層に分かれているのか。
キタロー的には、一直線に阿羅漢を目指せばいいじゃん、と思うのかも知れませんが、すべての人間が一足飛びにそれを目指すわけにはいかないのであります。人がこの世に生まれてくるには、それぞれ、各々の目標、課題を抱えて生まれてくるのです。大きな病や障害を抱えながら生きる人や、大成功を収める人、大失敗をする人、友達やら家族と仲良くなったり、また真逆の試練が与えられる人、それぞれ、各々、その人にだけ設定された試練がある。にもかかわらず、この世の真理がそうなのだから、はいそうですかと神人合一を目指すわけにはいかない。
【人心これ危うく、道心これ微か】
というのも、古来、偉人たちは人類が目指す目標というものをはっきりと自覚しながらも、それをすべての人に要求しなかったのも、そういう思想があるからですね。
身も蓋もない言い方をすれば、君子は君子なりに役に立つし、小人は小人なりに役に立つのです。南洲翁遺訓の六に、
「開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也」
とあるのも、世をよく知るからです。
『老子』にも、
【上士は道を聞いて、勤めて能くこれを行う。中士は道を聞いて、あるがごとく亡きがごとし。下士は道を聞いて、大いにこれを笑う】
とありますね。
東洋では、人間それぞれに階層があり、役割があり、試練があり、すべてを同列に扱うわけにはいかない、と思っているわけです。「人によりて教えを変える」ものなのです。
しかし、キタロー氏は人とデウスは同じものなんだから、神人合一せよ、という大上段からバッサリと大理想を語る。いかにもキリスト教的といいますか、西洋的といいますか、わたしは唯一にして正しい神であるから、他の間違った神を拝んではならない、といわれたような気持ちになってしまうのであります。
その教えは本当に東洋人、日本人に剴切な学問であったか、否か。それをつれづれ見てみたいと思います。
では、しばらくは『善の研究』を読んでまいりたいと思いまするが、こんばんはこれにて。
したらば。
「姫様”拷問”の時間です」のOP・EDを聴きながら。
やっぱこういう明るい曲のほうが聞いていて安心しますね。ヒンナヒンナ。