令和六年の謹賀新年
あけましておめでとうございます。豊臣亨です。
令和六年目の始まりと相なり候。
いよいよ中共肺炎は第五類に分類されました。インフルエンザの親戚ということですね。これには一安心といったところですが、しかし、ロシアによるウクライナ紛争は未だ終わりを見せず、それどころか、ついに欧米の支援疲れが見え始め、ゼレンスキー大統領が訪米して支援継続を訴えるも色よい返事を貰えなかった模様です。
さらに、ハマスの奇襲から始まったイスラエル紛争。
ウクライナ寇掠ですでにお腹いっぱいだと言うのに、よもやこの情勢下で戦端を開こうという気違い連中が現れるとは思いもよりませんでした。これにより世界は2箇所も紛争地をもつことになったわけですね。ロシア侵攻も驚きの出来事でしたが、ハマス奇襲からその後のイスラエル反撃で、本当に世界の終わりの足音が聞こえる心地がしました。
民間人を数多殺され、犯されたイスラエルは予備役までも大量に導入しただちに反撃を開始、ガザ地区の北半分はイスラエルの支配下に帰しそれどころか南部までも手中に収めようとしているようで、北でも南でも戦争、戦争。
12/29にはロシアによるミサイル飽和攻撃が行われ、ウクライナもただちに反撃、ロシアに多大の損害を与えておりますが混沌の度合いを増しており、ロシアの圧勝はないまでもそれでも着々と侵攻を続けており、決着はいまだ見えず、何年かかるかすら分からない情勢です。また、イスラエル側のユダヤ人は、パレスチナ人がどうなろうが知ったこっちゃないと宣言し、そのパレスチナ人も今回のハマス奇襲は正しかったと多くの人が言っているそうで、数千年の争いと憎しみは、すでに遺伝子レベルにまで仕込まれているのでしょう。それこそ、どちらかを根絶やしにするまで終わることはありますまい。
安穏と平和を享受している日本と比べますと、世界の温度差がすさまじいですね。恐らく、現在世界でもっとも戦争を毛嫌いする日本人の、ある意味当然の思考としまして、どうして世界はこうも戦争が大好きなのか、不思議で不思議でしょうがありません。
争いは何も産まないよ!
などと寝言をいう物語はたくさんありますが、事実は小説より奇なり、人類史ははるかに流血を欲し、その手は血まみれのようであります。日本人の感覚として、「僕にその手を汚せというのか」と言いたくなるはずですが、世界は進んで手を汚すような人間で溢れかえっているのでしょう。野蛮人どもめ。
また、国内に目を向けてもジャニーズ事務所の消滅、日大タックル部消滅、岸田総理の支持率が、調べる組織によってそれぞれ幅があるとは言え10%をきったとのこと。これが事実なら、国民の10人のうち9人がその手腕を否定する者が、日本国民の総領としてトップに立っているわけですから、さすが日本。面白いお話でございます。また、恐怖の悪の大組織のボス池田大作もおっ死んだとのことで、統一教会も含めて、日本に巣食う、悪の宗教団体にもいよいよメスが入る動きが見えてきそうであります。まあ、創価は下手すると、ジャニー喜多川と同じく、強烈なカリスマたる大作の跡を襲う後継者不足によりという内部崩壊するかも、とのこと。やくざとの結託も噂される悪の巨大組織の今後がどのように推移するのか、私、ちょっとだけ気になります!
ではでは、昨年の干支の振り返りをしてみましょう。昨年の干支は「癸卯(きすいのうさぎ、きすいのう、きぼう)」 でした。その意味は。
「干支学からいうと、癸は揆であり、物事を「はかる」意である。故に揆度とか、揆測とか、揆策などと用いる。然るに、測るには測る標準原則がなければならぬ。それでそういう「のり」、「みち」の意にもなる。「前聖後聖其の揆一なり(孟子・離婁下)」。「世代殊なりと雖も其の揆一なり(漢書・外戚恩澤表)」、「天に応じ民に順うに至っては其の揆一なり(班彪・王命論)」などと用いられている」
「卯は兎ではなくて、冒す、陽気の衝動であり、「茂る」ことにもなり、兎よりも茆(ジュンサイのことだそうな)の方である。もっとも陽気が発すれば、兎もとびだしてこようが、それは民衆に普及する手段に採ったもので、原意にはない。卯は良い意味では繁栄・繁茂であるが、悪くすると紛糾し、動きがとれなくなることを表す」
でありまして、
「癸と卯が重なった癸卯という年は、「万事筋道を立てて処理してゆけば、繁栄に導くことができるけれども、筋道を誤ると、こんがらがって、いばらやかやのようにあがきのつかぬことになる。その果ては混乱・動乱、あるいはぶち壊し・ご破算になるぞ」とこういう意味になるわけであります」
干支の通り、筋道を立てることの出来なかったジャニーズ事務所がご破算になったようで、日本においてこれが一番の代表的な混乱・動乱になりましたが、他にもビッグモーターだの、宝塚歌劇団だの、筋道の立っていない組織は日本の至る所にあります。いえ、日本そのものが筋道が立っていないところばかりで、むしろ、筋道の立っている、正しい組織なんてのが日本にまだ残っているのか、そちらのほうが不思議に思われるくらいに、いまや日本のすべてから腐臭がする始末。
岸田総理も、この不景気で日本経済が青息吐息のご時世に、財務省の言いなりと成り果てて増税クソメガネと言われるほどに、増税ばかりを画策し支持率を落としているわけで、筋道の立っている人物がこの日本にどれほどいるのか。そして、学問もない人間で溢れかえった日本が没落してゆくのもある意味、干支の通り当然と言えるわけで、去年、一年も正しく、干支の通り推移したと言って良いでしょう。
学問があればこうした事態にも正しく対処できる。では、今年の干支はどういった次第か、安岡先生に教えをこいましょう。今回も『干支の活学 人間学講話』 プレジデント社から。p31
「甲辰 ―昭和三十九年
いついかなる場合にも喜びの心を
先哲の教えに、「人間はいかなる場合にも喜神を含まなければならない」ということがございます。「喜神」とは、「喜ぶ心」であります。言うまでもなく我々の心の働きにはいろいろあって、その最も奥深い本質的な心、これは神に通ずるが故に「神」と申すのであります。人間はいかなる境地にあっても、心の奥底に喜びの心を持たなければならぬ。
これを展開しますと、感謝、あるいは報恩という気持ちになるでありましょう。新しい年を迎えて世界の国々を見渡した時、しみじみとこの日本の平和な新年に喜びを感ぜざるを得ないのであります。
ご承知のように、ヨーロッパ、アメリカをはじめ、至るところいろいろな争い悩みがございます。例えば、日本と同じように戦って敗れたドイツを見ても、いわゆるベルリンの壁というものが東ドイツによって打ち立てられ、今なおドイツ民族の親子・兄弟・親戚・朋友が理由なく遮断されて、お互いに往来もできない。それがこのクリスマスに、ようやく数日間だけ数カ所その壁が開けられ、東ベルリンの親戚・朋友を訪ねることが許された。いったいこの文明の世の中に、こんなことがあってよいものかと思いますが、事実そういうことがあるのです。
一方ソ連や中共のような農業国家でありながら、彼らは気の毒にも主食である小麦すらなくなって、大量に輸入しなければならぬような飢餓にあえいでおるし、アメリカでは、ケネディ大統領が横死して、その興奮の情いまだ静まらぬものがあります。さらに中・南米では、これまたご承知のとおり暴動・革命・内乱の連続であります。
そういうことを考えてまいりますと、日本において、我々がこの新年を、とにもかくにも平和と繁栄を享受して迎えたということは、本当にありがたく喜ばねばならぬと感ずる次第であります。がしかし、この平和と繁栄も手放しに喜ばれるものではない。実体はまことに変調で、しかもその変調の変調であることを、一般人がそれほど意識しないということは、さらに不安なことであり、かつ危ないことであります。ここに日本の現代社会の大いに反省しなければならない弱点があるわけであります。
旧体制を破り創造を伸ばすべし
今年の干支は甲辰(きのえ・たつ)であります。
甲の意味
甲はよろいで、鱗―よろいをつけた草木の芽が、その殻を破って頭を少し出したという象形文字で、これを人事に適用したしますと、旧体制が破れて、革新の動きが始まるということを意味しておる。そこでこれを実践的に考えると、この自然の機運に応じて、よろしく旧来のしきたりや陋習を破って、革新の歩を進めねばならぬということになるのであります。
辰の意味
と同時に「辰」という字は、これは説文学上から言うと会意文字(既存の複数の漢字を組み合わせて作られた文字のこと)で、理想に向かって辛抱強く、かつ慎重に、いろいろの抵抗や妨害と闘いながら歩を進めてゆくという意味であります。辰の厂の次に書いてある二は、上・天・神・理想を表す指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字のこと、なのだとか)で、振・伸・震と相通ずる意味を持っている。
甲辰の意義
だから甲辰の意味するところは、ちょうど春になって、新芽が古い殻から頭を出すのであるが、まだ余寒が厳しくて、勢いよくその芽を伸ばすことができないと同じように、旧体制の殻を破って、革新の歩を進めなければならぬのであるが、そこにはいろいろの抵抗や妨害があるために、その困難と闘う努力をしながら、慎重に伸びてゆかなければならぬということであります。
つまり革新的歩みを進めるに当たっての外界の妨害や抵抗、それとの交渉、動揺を表しておる。したがってこれは、自然の機運と共に、人間の使命・実践の問題であります。
これを昨年に較べますと、昨年の干支は癸卯であります。この干支の意味するところは、筋道を通さなければ、物事が紛糾して始末がつかなくなり、場合によっては、ご破算に持ってゆかなければならぬようなことになるということでありました。
だから昨年において筋道を通すことを怠り、収拾すべからざるゆきづまりに到達しておるとすれば、あるいは到達すればするほど、今年の甲辰は、どうしてもその殻を破って、またその殻が破れて、それだけになお難しくなる。去年の成績が悪ければ悪いほど、今年は妨害の方が強いから、芽の伸び方が苦しい。
そのいろいろの抵抗や妨害と闘って、新芽が伸びてゆく次の段階を表すのが、来年の干支<乙巳>ということになる。乙というのは、頭を出した芽が真っ直ぐに伸びないで、抵抗のために曲線を描いておるという象形文字。巳は、今まで地の中にこもっておった蛇が冬ごもりをやめて、外に出るという意味に解する説があります。
したがって巳の頭を少しあけた巳前とか巳後とかいう時の巳は終わるという意味を持っている。すなわち来年に至っては、いかなる抵抗も排除して、従来の旧体制のいろいろの問題に一応の終止符を打ち、そうして新たなる体制を堂々と進めてゆくということになる。これを誤ると、再来年は丙午という厄介な年になるのですが、これはまあ、来年になってお話することにいたします。
歴史上の甲辰
さて、この甲辰を史実の暦表に徴しますと、一つ前の甲辰は、明治三十七年の日露戦争勃発の年に当たります。日露戦争は、歴史を知らぬ者は大成功したように思っておりますが、事実は甲辰の干支の示すとおり、それこそ悪戦苦闘、軍はもちろんのこと、政府も、野党も、心あるものは一致して苦心惨憺、三十八年の乙巳年にその結末をつけるべく大努力をした。
その結果やっとあそこまで辿りつくことができたのです。今度の大東亜戦争に較べて、さすがに日露戦争の当事者は偉かったと思う。甲辰という干支の示唆するとおりやって、これは成功したということができます。
もう一つ遡ると、安政・嘉永の前の弘化元年(1844)という年になる。この年に幕府の旧体制に対して、勃然としていろいろ革新の論議が始まっております。しかるに幕府はこの形勢に善処することができず、はては革新の先頭に立つ水戸の斉昭に隠居を命じたりして、この辺りから次第に革新勢力との闘争が激しくなっております。しかし幸いにして革新勢力は、民族精神・道義的精神の豊かに養われておった人々であったために、ああいう立派な明治維新が行われました。
その点、今日の日本の革新勢力はマルクス・レーニン主義者で、北京やクレムリンの傀儡のような者が主勢力であるから、明治維新の例をもってこれを考えることはできません。
義は東洋政治学の根本信条
とにかく今年は、そういう意味で因循姑息(旧弊にしがみついてその場しのぎを繰り返すこと)・事なかれ主義でやってまいりました今までの旧体制が否でも応でも破れて、新しい動きが出てくる。この機運に乗じて、進んで積極的に旧体制を破り、そうして新しい革新の行動を起こさなければならない、ということを明確に考えることであります。したがって、来年へかけてのこの一、二年は、日本にとってすこぶる多事多難であります。
しかるに、この間行われた自民党大会などを見ておっても、その点は社会党なども同じことでありますが、そういう自覚がはなはだ足りぬようであります。
そのよい例が、この年末にもっとも不快に感じ、またもっともよく今日の日本の政治を表した、あの周鴻慶の事件(周鴻慶事件。貿易交渉団の通訳として訪日した周鴻慶が、最初ソ連に、ついで台湾に亡命を希望した。が、中共との関係悪化を恐れた外務省が周鴻慶を中共に引き渡したため、台湾側が激怒した事件)であります。
こんな一小人のつまらぬ事件のために振り回されるどころか、あげくの果てには、こんな者に飛行機を出し、船を出して、護衛までつけて大連まで送り込むというに至っては、それこそ日本に政治ありや、と言いたくなるようなやり方であります。そのために台湾の国民党政府との間まで紛糾してまいりました。それに日本の政治家は概して応答挨拶がへたです。
いったい、この挨拶ぐらい人間にとって大事なものはありませんので、人間いろいろ難しいことを言うけれども、実際は、あいつはどう言った、こう言った、ということで問題になる。王陽明が人に与えた書簡の中に、「天下の事万変すと雖も、吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出ず」と言っておりますが、そういう意味から言って、挨拶というものは大事であります。しかしこれがなかなか難しい。
例えばケネディ大統領が亡くなった時などでも、外国の記者まで評しておりますが、日本はアメリカと安保条約を締結して、言わば死なばもろともという仲である。だから、今、国内にはいろいろの事が紛糾しておるけれども、大統領が非業に斃れたのであるから、とりあえず駆けつけて深甚なる弔意を表すのだと言えば、国民はもちろんのこと、世界中あげてこれに共鳴したに違いない。それがなかった。これに反してドゴール(フランス大統領。1890~1970)のごときは、さすがに時宜を得て立派なものだというのです。こういうつまらないことでも、てきぱきとやれないというのでは、これから先が思いやられます。
また年が明けると早々、ドゴールが中共を承認して、これと手を握ろうと発表いたしました。そのために、政界・財界、評論家等のその道の専門家は申すに及ばず、あらゆる筋にわたって今、日本は喧々囂々たる物論でありますが、これを見ても、見識とか覚悟とかにいかに欠如しておるかわかるのであります。
日本は日本としてかく信ずる、ということをはっきり言えばよいのです。日本は昔から道の国、同義の国として立ってきておる。これは東洋政治学の根本信条であります。いわんや蔣総統(蔣介石 台湾総統。1887~1975)は、あの終戦の時に、「暴を以て暴に代えることはよくない。怨みに報いるに徳を以てせよ」という先賢の教えに基づいて、日本のために道義的精神を発揮してくれたのであります。
したがって我々は、第一に国際道義に基づいて、次に現実の機宜に応じて事を処理すればよいのであります。第一、中国に二つあるわけがない。ただ正統政府と革命政府の二つあるにすぎない。しかし日本は、正統政府と平和条約を締結したのであるから、台湾における政府が存在するかぎり、日本はこれを正統政府と認めざるを得ない。ドゴール自身ロンドンに亡命当時、自分の方を正統政府としておった。革命政府がいかに広大な土地と多数の人民とを支配しておっても、まだ勝負はついておらぬ。革命政府を認めるのは、台湾における正統政府が消滅した後のことであります。
まあ、こういうふうに問題万事万端、決断がつかない、実行ができないということでは、これから後、四月には憲法調査会の結論を出さねばならぬし、あるいはその前にILOの問題(国際労働機関)、北鮮自由往来の問題、それから自民党総裁選挙の問題、治安立法の問題、防衛庁の取り扱い問題、そのうちには日米安保条約の問題、とその他問題が山積しておる。その一つ一つにへどもどしておるようでは、混乱することは目に見えております。
しかも共産党は、今日党員が十二、三万にも伸びて、有力な諸団体、公共団体、政府、官庁、工場、学校等の組合の執行部を着々手中に納め、これらを第五列(スパイの意)にあらゆる謀略工作を行っておるのであります。しかしこれらに対して、ほとんど日本の政府は無防備状態、野放しの状態と申してよろしい。が、こういう因循姑息のゆるされるおは、もう今、明年くらいでありまして、それこそ甲辰の干支のとおり、いかなる困難を排しても、政府自らが、保守党自らが、革新的活動をしなければ、二、三年にして日本は収拾すべからざる混乱に陥ることは明瞭であります。
ところがここに厄介な社会心理が一つある。これは同じような悩みを持つアメリカの学者、評論家が指摘しておることでありますが、こういう時局に当たって、指導層の人間に二とおりの種類があるというのです。
一種類は現状満足派(man of complacency)というもので、少々のことがあったところで問題はないんだ、と現状に満足して、繁栄の中に没落するだの、危機が到来するだの、と警告する者がおっても、聞かぬどころか、聞くことを嫌がる。特にこれは、なんらかの地位につき、誇りを持ち、豊かな暮らしに恵まれた指導層の人に多いのであります。
これに反して、いわゆる繁栄の中に危機を発見し、いろいろの内外の危険を鋭敏に感じて警告する。これが第二種で、こういう人は少ない。この少ない第二種の人々を、多数の現状満足派は、なにかと言えばまたしても警告するというので alarmist'(故意に警告を出して騒動を起こそうとする者)あるいは、じきに危機だ危機だというので crisis monger(デマ屋。危機を煽ってそれを飯の種にする者)などと言って軽蔑し嫌悪する。
これはアメリカだけの話ではありません。日本にもこの現状満足派が実に多い。容易ならぬなどというと、みなご機嫌が悪い。もちろん軽薄なるアラーミストもよくはありませんけれども、人間はやはり常に先を慮り、反省をし、警戒をする、ということが大事であります。
それは真心があれば必ずそうなるべきで、他人ならなんとも思わぬことでも、親は常に子に対して心配するのと同じことであります。それが人間精神、人間愛というもので、世の中というものは決して理屈で収まるものではありません。常に人間世界の問題は美しい情緒がたいせつです。
そこで、こういう厄介な時代になりますと、やはり本当に学問する、道を学ぶ、そして何が義かということを発見すべく常に心がける、ということが大事であります。フランスの猛虎といわれたクレマンソー首相(1841~1929)はその回顧録に「自分は時々つくづくと政治が嫌になることがあるが、その時には自分は必ずギリシャやローマの古典を読む。これが一番自分の役に立つ」と告白しておりますが、道はやはり学ばなければいけない。真理というものは厳粛であります」
いかがでしたでしょう。
戦後の高度経済成長に浮かれ騒ぐ軽薄な成金どもには、安岡先生こそが小うるさいアラーミストに思えたことでしょうね。
だからほら、見てください。マッカーサーにA級戦犯に指定されそうになった時、蔣介石が安岡先生は立派な方であるから処罰してはいけない、とまで言われたほどの、日本の国父と言っても決して過言ではない安岡先生の教えは、その死後、そっこうで忘れ去られ、もはやその名すら、ほとんどの日本人には耳馴染みのない存在になってしまったわけで。
今の日本では、学問どころか、その常識すら疑わしいようなのがうっじゃうじゃおる始末。
確かに、今の日本は、甲辰の干支の示すとおり、「旧体制の殻を破って、革新の歩を進めなければならぬ」ような状況に陥っております。もはや、戦後、バブルの繁栄は残り滓くらいしかなく、中華や北の脅威は日に日に増大する状況。ロシアやイスラエルで紛争状態であり、いつこの紛争が世界的なエネルギー危機、食料危機に発展するか、もはや誰にも分からぬ制御不能の状態にある。にもかかわらず、日本の為政者のオツムお花畑具合はいっそう熟成されておる状況なわけで。
今年こそ、変革の時代であり、今年こそその旧弊の殻を突き破らねば、日本はどうなってしまうか、それこそ、取り返しのつかないところにまで至ってしまうかも知れません。
だからこそ、日本人全員が危機感をもって、今年がラストチャンスだ、くらいの気概は必要でしょう。まさしく、明の末期の政治家、顧炎武(1613~1682)が遺した言葉、
【天下の興亡は匹夫も責めあり】
が、日本にとっても重要な言葉であると言わねばならないでしょう。
顧炎武は、国の興亡、と言っているのではありません。天下の興亡、と言っているのです。中華にとって、易姓革命で国が滅びるのはいつものことと言えなくはない、しかし、人心が荒廃し、道徳心、道義心すら消沈してしまっては世界そのものが滅びる危機であると申されているのです。
世界の2箇所で戦争をしているご時世。米国においても、LGBTだのフェミニストだの左翼勢力がでかい顔をしているご時世であり、また、世界第2位の経済力をもつに至った中華も、その内実はすでにバブルは崩壊しそれどころか恐ろしいほどの負債を抱えているというお話もあります。
日本国内でも、因循姑息・事なかれ主義はいつだって幅を利かせております。もはや、日本の各組織、各会社、各学校、至るところで腐敗臭を発しており、日本という文明社会の末期を感じない人はいないでしょう。
日本のためにも、世界のためにも、そして、なによりももったいない自分自身のためにも、学問することの大切さを、切実に分かる人が増えることを、切に願ってやみません。
ああ、そういえば、なんでも高市さんが勉強会を何度か行っているそうですね。もしか、ですが、もしかすると、高市さんを起点に、日本が生まれ変わる、なんてことになれば、それはとても素敵なことなのかも知れませんね。
とまれ(ともあれ)、せっかくの新年です。
今上陛下は、我々民草のために、神々に安寧を祈ってくださっているのです。その民草たる我々は、陛下に、ご先祖様に、日本に感謝して、喜神を含んで、笑顔で。新しい年を迎えようではありませんか。
といったところで、新年劈頭のご挨拶はこれまで。
日本に、幸あれ。-人-
生まれて初めてとっくりと紅白を観終わって。いや、「絶対に笑ってはいけない」がなかったら他に観るもんないしw YOASOBIを期待して観ておったのですが(普段ほとんどTVを観ないので知らん人ばっかでほとんどミュートだったのはご愛嬌)、ポケビとブラビと山寺さんが出演されていたのは観た甲斐があったかな?w
しっかし、オーイシさんに『死んだ!』を歌ってほしかったんですが、タイトルがなぁw 年の瀬になんてもん流しやがるんだ! ってクレームがばんばん入りそうだしw あと、Ado って人の歌を初めて聴きましたがパネっすね。歌唱力や歌唱センスはちょっと並じゃないですね。凄い人はいるもんだ。で、肝腎の『アイドル』 ルビーとかアクアって言葉が歌詞に入ってるから、間違いなく昔から連綿と続くアニソンなんですけど、そのセンスが凄くて旧来のアニソンとは明らかに一線を画していますね。作品の内容を完璧に把握してそれを歌として昇華させる、なんて凄まじいことは、歴代のアニソンでもそうそうできていたかどうか。マジパネっす。