『人間――愚かなるもの』
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、今回は本題に入る前に、昨今読んだなろう小説の批評・感想から入るです。
今回読んだお話は~
『魔術師クノンは見えている』
です。まずはさっくりと導入部。
盲目で生を受けた子の名はクノン。ヒューグリア王国、グリオン侯爵家次男。
彼は、かつて魔王を倒した英雄の末裔。だが、血族は魔王の呪いを受けてしまったとされ、累代、英雄の子孫はその身が不備の状態で生まれることがあった。その中でクノンは盲目、視力を一切持たないものとして生まれてしまったのだった。
嘆くクノン。しかし、家庭教師であったジュニエが思わずこぼしてしまった一言によって、はからずも、魔法によって目を作り出し、視力を得る、という大目標を持ち、前を向いて進むのであった。見えないけど。
といった塩梅。
297話まで読んだ所での読書感想文やら、つっこみやら。読んだ人にしかわからないつっこみをしますw
面白いもんはないかなぁ、とランキングを眺めておった時、これまでみたことがなかったタイトルがあったので早速見てみた、というところです。こういう、これまでランキングになかったものが急に躍り出てきたというものはたいがい面白いので読んでみた所、やはり大当たりでしたw
まず、軽妙な筆致で非常に読みやすい。一応、色んな文章を読んでいるおっさんからするとまるでそうめんのようにするすると流れるように読めましたね。それでいて、重い所はきちんと重い。締めるべき箇所はきちんと締めているので緩急がしっかりとついている。ただ、ダラダラ文章を書くような作品ではない。
また、クノン君の魔法適性が水、というのも面白い。これが昨今の軽薄な作品だったらすぐ全属性、とかやりだすところでしょうが、この作品はある意味弱い方といえる水の魔法適性を主人公にあてているところが素晴らしい。読むとわかりますが、クノン君はまるで泉のごとくアイデアがこんこんと涌き出でて周囲の者を驚かせます。つまり、作者さんは湧き出る泉の如きアイデアがあるから、あえて主人公の魔法適性を水にしたのでしょうね。
次に、構築された世界観が素晴らしい。魔法によってかりそめの視力を得たクノン君ですが、しかし、他人には見えないものまで見えてしまった、ある意味見えてはいけないものまで見えてしまったわけですが、そこの世界観の構築が面白い。この謎がこの先どうなるのか非常にワクワクさせられましたね。
あと、ネーミングセンスがあるw 登場人物は、マリアとかマイケルとかではない、ありふれていない名前の方々が多いのですが、しかし、コイツ誰だっけ?w となるような引っかかりにくい、覚えにくい名前があんまりない。久しぶりに出てきても、ああ~あの人ねw ってなる。これも、なかなか得難い才能ですw
また、登場人物がちゃんと自身の役割を理解している。いや、当たり前のことなんですけど、昨今の作品って、いやこの人はそういうこと言わね~だろw ってつっこみたくなる作品が多いのですが(何とは言いませんが、皇帝が謁見の時に俺、とかいう作品がある昨今なもので)、この作品の登場人物はそういうのがあんまりない。ちゃんと一人ひとりが作品の中で生きているのです。これも良い。
最近読んだなろう作品の中でダントツに面白い。
ただ、ツッコミどころも結構あるw
まず、第一に、目が見えないクノン君(七歳)が自身の境遇に激しく絶望するのですが、いや、そこまで絶望しね~だろw って思うw 確かに、目が見えない、という人生は絶望的ですが、しかし、絶望するのが早すぎる気がするw
だって、誰も空が飛べないことを嘆いたりしないでしょ?w
つまり、目が見えるものは目が見えるなりに。目が見えないものは目が見えないなりに、ただ、生きるだけなんですよ。子供なんですから。ましてや、7歳ともなれば、自我がどこまで成長しているかも未知数。少なくとも、おっさんが7歳の頃はただ生きてるだけの猿でしたよw 自我なんてほぼない。猿並みの自我しか無い。
まあ、上位貴族の子息として生を受けたクノン君ですから、7歳にしてすでに成人男性並みの理知を備えていたがために、自身の境遇に絶望、失望するやも知れませんが、それにしたって絶望、失望するまでの経緯が軽いw 人間は、何かにこっぴどく挫折、失敗しないとそうそう絶望しませんw このクノン君の絶望は、これまで視力を得ていたものが急に視力を失ったくらいのレベルでの失望ですw たかが、ちょっとお兄ちゃんに手を引かれて転んだくらいがなんだっていうんだ。わたしは目が見えていても転びまくって怪我しまくったぞw
ましてや、それで見も知らない先祖を恨むとか、やり過ぎw まあ、これはその後の、目標をもってからの君子豹変するクノン君を鮮やかに表現するための誇張表現であることはすぐに分かるんですけどね。
で、つっこみその二。
魔術学校の特級クラスは生活費を自分で稼がないといけない。
なんでそんな基本的なことを誰も入学するまで知らなかったんだ?w まあ、いろいろと記述はあるけど、この程度の情報なら常識レベルでみんな知っていてもおかしくないレベルだし、クノンぱぱんであるアーソンさんや、後の話で後輩になるセララフィラ嬢のぱぱん、公爵であるビジターさんですら知らなかった、というのはさすがにありえないと思うw
クノン君が魔術学校にいくことを決めたのなら、ぱぱんたるもの、授業料は? とか、仕送りに必要な生活費は? とか、確実に調べるはずで、ましてや、ジュニエ先生や、師匠のゼオンリー師など、魔術学校卒業生がわらわらいるんだから、こういう人たちからそれくらいの情報が入ってないほうがおかしい。一応これも、なんで卒業生は言わないのかという理由も、それっぽい記述はありますが、でも不自然ですね。
で、一応、なんでそんなシステムがあるかといいますと、魔術師たるもの、それくらいの生活力がないといけない、ということなのだそうですが、この時、入学したクノン君の年齢は12歳。王侯貴族のボンボンに、入学したその場でいきなり生活費を自前で稼げ、というシステムもどうかと思うw 使用人のリンコも言ってますけど、学業をおろそかにして金稼ぎに走るとかおかしいw それこそ入学前に教えておいて、仕事先を見つけた状態で入学させないと、それこそ一生物の取り返しの付かない要素になりうる。セララフィラ嬢のぱぱんは、こっそり仕送りしてバレたら家名に傷がつくかも、ということで仕送りを見送ったようですが、でも、すべての人間が素直にいうことを聞くだろうか?w
仕送りがだめ、だというのなら、最初っから5年分のお金をもたせればいいんだし、もっとせこいことを考えるのなら、入学した次の日に家に帰って、簡単なバイトして1億ネッカ(ネッカは=円だそうなw ネッカ、ネカ、かね、金?w)渡せばいいw 他にも、手形をもたせる、という方法も考えられますね。入学したら手形を切って1億もらう。これが一番カンタンだw 貴族たるものそれくらいの根回しをするくらいが親の甲斐性とも言えるw
だいたい、金を稼ぐのが目的だというのなら、10単位取得を金で買えるシステムにしないと、言ってることに整合性が取れん気がするw 1単位100万ネッカくらいにして、それこそ本当に自分で稼いだ金で買う甲斐性を見せるくらいで一人前でしょう。
次につっこみその三。説破(いやそれ、作麼生だし、とセルフボケツッコミ)。
クノン君には他の人が見えないものが見えるんですが、その中にオーガさんがいますw 日々、ただ町中でぼーっと突っ立ってるだけのオーガさんなのですが、ゼオンリー師は、このクノン君だけにみえる存在が一体なんなのか、という検証でこのオーガさんに喧嘩売るんですよね。そうすると、オーガさんは大激怒して、たまたま近くで酔い潰れていた女性に憑依して襲いかかってくる、という事件があったんですけど、、、、、、
その後、オーガさんはほったらかしか?w
なんで考察しない?w
めっさ重要なことが目白押しだよ?w まず、自我がある。喧嘩をふっかけられて大激怒した以上、どの程度かはともかく、このクノン君だけにみえる存在には自我がある。非常に重要。次に、憑依する。オーガさんはたまたま近くにいた女性に憑依して襲いかかってきたわけですが、クノン君は他にも様々な存在が見えるわけで、下手するとそれ以外の存在も憑依して襲いかかって来るかも知れないわけだ。これも超重要。次に、憑依された女性は、まるで化け物のような力を発揮したんですが、しかし、そんな力を発揮しておきながら女性は無傷のようです。こういう場合、憑依された側の体は化け物の如き力に耐えられない、のが多いのですが憑依された女性は憑依した存在と同等の身体能力を得た、らしい。これもすげ~重要w
これだけのことがありながら、ゼオンリー師もクノン君も何事もなかったかのように別れて終わりw 回想も意見交換もな~んもなしw おかしーだろw
とまあ、それなりにつっこめるところはありつつも、非常に面白い作品なのですべからく読むべしw あ、あとこの作品の魔法に関する世界観の構築も非常に面白いですね。例えば、クノン君と師匠ゼオンリー師との初めての出会いの時の会話とかこんな感じなんですが、
「重奏は何段使える?」
「三十一です」
「あ?」
「無理したら三十二です」
「……やるじゃねえか」
重奏とはなにか。こうあります。
「重奏とは、どれだけベースの紋章を……魔法陣を分割し、再構築したかの数になる。
その数がオリジナリティの高さ、高度な魔術と言える。
数が増えれば増えるほど難易度が高くなり、制御も困難になる」
うん分からんw ってか、魔法陣って、安定しているから魔法「陣」なのであって、そんなん分割なんかしたら構築した魔法が破綻、意味消失しないかい? とか思うんですけど、まあ、どうせ魔法の正解なんてわかるわけがないしこれでいいんですよw
構築した世界観を、ほどほどの情報開示で、ほどほどにぼやかすのがいいのだと思うし、この作品はそのバランスに優れていると思う。わたしは確定的に明らかに理屈っぽいのでw 理屈っぽすぎても読むのがうんざりするし、説明がなさすぎるのも他人事すぎて読む気がなくなる。けっこう重要だと思うw
オヌヌメw
では本題。
いつもの丸写しを。今回丸移させていただくのはいつもの安岡先生の著、
『人生の大則 人間学講和』 プレジデント社
から。その中の、フランスの生理学者で哲学者であるシャルル・リシェ(シャルル・ロベール・リシェ。1850年~1935年。wikiによりますと、「心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の会長もつとめている。1893年には話題になっていたイタリア人霊媒エウサビア・パラディーノを調査する過程で、エーテル体を物質化または視覚化する半物質を発見し、ギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせて「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている」とありますねw)の著、『人間――愚かなるもの』の中の「戦争」を、今回はまるっと丸写し。
第一次大戦を体験した人、ならではの証言であります。p22
「大戦で殺された者は一千五百万以上である。
死者一人について、これを嘆くものが五人いるとしよう――父・母・妻・子・友。それだけでもうその後の何年間というあいだ続く七千五百万の恐るべき悲しみとなる。夫を失った若い妻、子息を亡くした母親が、一年や二年、十年たっても慰められると我々は考えることができようか。
彼女らの生活は真っ暗にされてしまった。彼女らが熱愛した兵士を斃した死は、彼女らをいっそう残酷に扱ったのである。その後の生活は色彩なく、悲惨であろう。一千五百万の死そのものはたいした災難ではない。なぜかといえば、死んだ者は結局もう苦しむこともなく、長の年月を望みのない涙で過ごすこともないからである。
一千五百万の出生が、一千五百万の死を補う。しかし数知れぬ犠牲者たち、数知れぬ殉教者たち、彼らにとって一切の喜びは永久に消えてしまったのだ。これこそ人間の愚かさの極地である。
武器製造業者、銀行家、不当利得者の収穫がいかに大きかろうとも、戦勝した軍国主義者の愛国的自負がいかに大きかろうとも、勇士に与えられた鉄十字やレジョン・ド・ヌールの勲章(レジオンドヌール勲章。ナポレオン・ボナパルトにより1802年に制定されたフランスの栄典)がいかに虚栄心に媚びようとも、もし我々がこれらの利潤や勲章を何千万の痛ましい悲しみと秤にかけてみたとすれば、いずれが重くかかるであろうか。
我々がもし戦争による一切の苦悩を集めたいと思うなら、はるかに大きな規模を必要とするであろう。それをすべて物語るならば肝を消すほどである。
まず始めに二千万の負傷者がある。かつては壮健であった二千万の壮丁(成年男子)が、長い年月を病院で過ごし、熱で身を慄わせ、色青ざめ、やつれて力なく次から次へと手術を受けている。多分少数の者は傷痕、神経の障害、それから実際には不治の断続的な痛苦くらいですむだろう。
一千万人は永久的な身体障害者にはならぬかもしれぬ。しかし残りの一千万人の身体障害者を考えてみよ! 彼らは死ぬという幸運を持たなかったのだ。彼らはみじめな生存を続けねばならないだろう。
大ざっぱにみて、盲目が一万五千、片方の目を失った者が十万、片方の手をなくした者が五十万、跛者(足の不自由な者)が五十万。その他、耳が聞こえなくなった者、恐ろしい醜面、癲癇、それから両手を失った者、私が知っているだけでも、両手両足がなく、ほとんど盲目なのがいる。
これはたいへんな光景ではないか。公共の慈善によって支えられねばならぬこれら一千万の身体障害者は三十世紀間の文明の成果を示すものである。これが三十世紀にわたる文明の成果なのである。
それだけか、どうして。
まだ廃墟がある。家々は蓄積された記念品や宝物などとともに破壊されてしまった。六百万のベルギー人、六百万のセルビア人、六百万のポーランド人、六百万のフランス人らが、彼らの家から追いたてられ、野獣のように狩りたてられた。彼らはその妻や娘たちを残虐な兵士どものなすがままにまかせたまま、戦火と銃剣とから逃れたのである。
征服者によって汚され、荒された空虚な炉辺の外には何者を見出す希望もなく。
それだけか、決して。
三年の間、飢餓の亡霊がドイツ、オーストリア、ハンガリー、フランス、イタリア、イギリス、その他侵略された国々を歩き回った。
石炭がない! 着物がない! 靴がない! 砂糖がない! バターがない! パンがない! 二億の人間がなしくずしに餓死しなかったとしても、飢餓の恐怖と苦痛を満喫したのである。
その上にまだ六百万の捕虜がいた。いつかはこれらの不幸な連中の物語が語られて、全人類を恥じさせるであろう。彼らがどんなひどい食物をとらされたか、どんなひどい部屋に寝なければならなかったか。どんな泥土・汚物・害虫の中に押しこめられたか。殺戮者となりはてた軍人の手によってどんな危害が加えられたか。すべて判明するであろう。
彼らを閉じこめた鉄条網からは、どんな微かな光線もさしこまなかった。そして今やヨーロッパ諸民族の間には、憎悪・悪罵・暴行・誹謗が支配している。魂を黒くするような憤怒・復讐・狂気の叫びを以て。戦争は人間特有の卑劣で凶悪な本能をかき立てる。
人間はそのすべての勢力、すべての知能、すべての情熱をこの有害な仕事に傾けたのである。しかも大成功であった。結果はすばらしいものであった。五千~六千年の間、人間は連続的な、しかし比較的流血の少ない戦争に自分の力を試みてきた。それらの戦争はつまらぬ、子供らしい努力、一九一四年から一八年にかけて行われた大事業に対する単なる序曲にすぎなかった。
戦争のために費やされた精力・気力・英雄主義が大きければ大きいほど、我々の狂いぶりをいっそう明らかに暴露した。これらの徳は破壊のために捧げられたのであるから。この莫大な努力の十分の一でも、我々の病気・悪徳・無知に対する戦いに向けられたならば、人間の運命は相当浄いものになっただろう。
戦費の総額は約一兆フランであった。
この金額の十分の一、すなわち一千億フランが、アルコール中毒や梅毒や結核の撲滅に使用されたと仮定しよう。さすればこれらの害悪は消滅したことだろう。これは否定することができない。憐れむべき人類は互いに憎みあうことなしに殺しあうほど堕落している」
三度目の大戦に突き進まんとする世界に向けて。
届くわきゃね~けど。
ちなみに、『ドリフターズ』の織田前右府信長は、火縄銃、種子島の意義をこう語ります。
「だが銃の真の利点はそれだけではない。
殺す事と殺意と罪悪感の簡便化だ。
なにせ引き金一つで誰でも簡単に兵になる」
いまや、ドローンが戦場を飛び回る時代。どんどん人を殺す技術だけは洗練されてゆく。そして、「憐れむべき人類は互いに憎みあうことなしに殺しあうほど堕落している」
際限なく、躊躇なく、とめどなく、人は人を殺してゆくのでしょう。
度し難い。
こういう時だからこそ、宗教は罪と罰を説かねばならないのに、どの宗教も何も言わないとはなんたることか。語らねばならないものは語らず、銃もつ者は思うがまま銃声を轟かせる。
まあせめて、こういう連中は軒並み殺し合ってもらって地球上から消え失せてもらって、自分だけは、日本だけは生き残りますようにw
まあ、これもありえね~けど。
といったところで、今夜は簡単なところで。
したらば。
アニメ版『クラナド』のOP・ED1期と2期を聴きながら。
だんご だんご だんご だんご だんご だんご 大家族
だんご だんご だんご だんご だんご 大家族