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『論語と算盤』の丸写し。八、



 おこんばんはです。豊臣亨です。さて、世の中はビッグモーターだのジャニーズだので物情騒然としておりますね。ジャニーズに至ってはそれこそ、TV業界がほぼ全部共犯関係、正しくは共生関係にあるでしょうし、TV業界としては知らぬ存ぜぬでいつもの通り、旧態依然として事態の風化を待つだけでしょうが、大手企業が陸続としてジャニーズのスポンサーを降りる事となってさすがにTV業界も知らぬ存ぜぬは通用しないようですが、はたまたどうなることやら。


 まあ、どいつもこいつも私利私欲で生きるしか能のない連中ばっかなので、未来永劫こんなことを繰り返すのでしょう。


 なんでこういう俗物は私利私欲に走るしかないかといえば、それしか知らないから、ですね。世界にはもっと高尚で上質な世界があり、それはなにもお金とか、地位とか権力とかまったく関係がなく、まったく必要とせずに、高尚に、上質に生きられる世界がある、ということをまったくもって知らないから、だから、全人生を私利私欲に向けるしかないわけです。また、こういう俗物が、実はこんな生き方はすでに飽き飽きで、なにか新しい、よりよい価値観や概念を求めているのならともかく、すでに因循姑息に陥り、物質文明、資本主義に脳みそまで毒された彼らには、真新しい何かを求めるような気概も根性もない。ただ、いまある自分こそが最上のものであると信じて生きているのであるから、これらを救う方法とてない。


 昔から、まともな仏僧たちが教えを広めようとするも、頑迷固陋な民衆の拒絶にあったのもこういう次第なわけで、「末世(まっせ)濁民(じょくみん)」などといって悲嘆にくれてきた。そして、今の日本ほど「末世の濁民」の感を深くする時代はないのではないかと思うわけで。学のある人間はさらに立派な学問を積んで、こういう俗物とはかけ離れた生き方をしていただきたいものです。


 ということで、本日も『論語と算盤』の丸写し。八、学んでまいりましょう。p225




重役にはモラルが必要




「現代における実業界の傾向をみるに、まま悪徳重役なるものが出でて、多数株主より委託された資産を、あたかも自己専有のもののごとく心得、これを自儘(じまま)(我がまま)に運用して私利を営まんとする者がある。それがため、会社の内部は、一つの伏魔殿と化し去り、公私の区別もなく秘密的行動が盛んに行われるようになって行く。真に実業界のために痛嘆すべき現象ではあるまいか。


 元来、商業は政治などに比較すれば、かえって機密などということなしに経営して行かれるはずのものであろうと思う。ただ銀行においては、実業の性質として幾分秘密を守らねばならぬことがある。例えば、誰に何ほどの貸付があるとか、それに対してどういう抵当が入っているとかいうことは、徳義上これを秘密にしておかねばならないであろう。


 また一般商売上のことにても、如何に正直を主とせねばならぬとはいえ、この品物は何ほどで買い取ったものだが、今これこれに売るからいくらの利益があるというようなことを、わざわざ世間へ触れまわす必要もあるまい。要するに、不当なることさえないならば、それが道徳上必ずしも不都合の行為となるものではあるまいと思う。


 しかし、これらのこと以外において、現在有るものを無いといい、無いものを有るというがごとき、純然たる嘘をつくのは断じて宜しくない。ゆえに正直正銘の商売には、機密というようなことは、まず無いものとみて宜しかろう。しかるに社会の実際に徴すれば、会社において無くてもよいはずの秘密があったり、有るべからざる所に私事の行われるのは、如何なる理由であろうか。余はこれを重役にその人を得ざるの結果と断定するに躊躇せぬのである。


 しからばこの禍根は、重役に適任者を得さえすれば、自ずから絶滅するものであるか。適材を適所に使うということは、なかなか容易のものではなく、現在にても重役としての技倆(ぎりょう)に欠けた人で、その職にあるものが少なくない。例えば、会社の取締役もしくは監査役などの名を買わんがために、消閑(しょうかん)(暇つぶし)の手段として名を連ねている、いわゆる虚栄的重役なるものがある。かれらの浅はかなる考えは厭うべきものだけれども、その希望の小さいだけに、差したる罪悪を(たくま)しゅうするというような心配はない。


 それからまた好人物だけれども、その代わり事業経営の手腕の無いものがある。そういう人が重役になっていれば、部下にいる人物の善悪を識別するの能力もなく、帳簿を査閲する眼識もない。ために、知らず識らずの間に部下の者に(あやま)られ(誤り。大きなミスの意)、自分から作った罪でなくとも、ついに救うべからざる窮地に陥らねばならぬことがある。


 これは前者と比すると、やや罪は重いが、しかしいずれも重役として故意に悪事をなした者でないことは明らかである。しかるに、これら二人の者よりさらに一歩進んで、その会社を利用して自己の栄達を計る踏み台にしようとか、利欲を図る機関にしようとかいう考えをもって、重役となる者がある。


 かくのごときは、実に(ゆる)すべからざる罪悪であるが、それらの者の手段としては、株式の相場を釣り上げておかぬと都合が悪いと言って、実際は有りもせぬ利益を有るように見せかけ、虚偽の配当を行ったり、また事実払い込まない株金を払い込んだように装いて、株主の目を瞞着(まんちゃく)(だますこと)しようとする者なぞもあるが、これらのやり方は明らかに詐欺の行為である。


 しかして彼らの悪手段はいまだそれくらいにては尽きない。その極端なる者に至りては、会社の金を流用して投機をやったり、自己の事業に投じたりする者もある。これでは最早窃盗と択ぶ所がない。畢竟(ひっきょう)(つまり、とか結局)するにこの種の悪事も、結局その局に当たる者が、道徳の修養を欠けるよりして起こる弊害で、もしもその重役が誠心誠意事業に忠実であるならば、そんな間違いは作りたくとも造れるものではない。


 自分は常に経営に任じては、その仕事が国家に必要であって、また道理に合するようにして行きたいと心掛けて来た。たとえその事業が微々たるものであろうとも、自分の利益は少額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで事に任じられる。ゆえに余は論語をもって商売上の「バイブル」となし、孔子の道以外には一歩も出まいと努めて来た。それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心していた。


 福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い。筆者は常に自己のことよりも、国家社会を利するという観念をもって、筆を執らねばければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの利に外ならぬもので、多く社会を益することでなくては、正径(せいけい)(正道)な事業とは言われない。仮に一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならば、どんなものであろうか。如何にその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに、国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである」




 まあ、世界は、日本は、一個人の大富豪を是認し、その他大勢の死滅を是認するような社会となったようですが。


 結局のところ、それもこれも、重役、上役にある人間に人物を得られなかったことにある、の一言に尽きるでしょう。例えば、歴代の日本の為政者が、孔子様のような方だったらここまで日本は悪化したか、と問えば多くの人がそうではないだろう、と答えると思います。

 

 歴々の為政者連中が、それこそ悪手段をもって、私利私欲をたくましくするような連中ばかりであったから、日本はこうなったのであって、それ以外の理由などあるはずもない。とはいえ、明治が終わって、睨みを効かせていた元老、山縣有朋や大山巌、西園寺公望などがいなくなったとたん、統帥権干犯問題に始まる軍部の増長と暴走が起こり、それに迎合せざるを得なくなった政治家が大政翼賛会といって軍部主導での政策がなされ、「バスに乗り遅れるな」のスローガンのもと、社会主義国家へと大きくかじをきっていったわけで、明治が終わった途端、日本は悪手段の総合商社に成り果てて、敗戦までなだれ込み、その後米国やらソ連の掣肘を受けまくって戦後の復興を成し遂げていったわけで、これをよくするような手段などあるはずもないのでしょう。


 悪手段の権化と化した連中が、なんら是正もなく、天誅を受けることもなくここまで来てしまったわけで、それこそ「いいインディアンは死んだインディアンだ」の言葉通り、「良い日本人はとっくの昔に死に絶えた日本人」なのでしょう。そんな世界で、良い重役を期待するなど、それこそ夢想もはなはだしいところではありますが。


 わたしも渋沢さんと同じく、孔子様を本当にありがたく、尊敬いたしておりますが、しかし、一人の人間としては古来、老荘思想家がそうしてきたように、世になど出ずに、隠遁生活を送るのが人間としてもっとも正しい生き方だと思っておるんですよね。


 しかし、わたしは以前より気になっていたのですが、『学問のすゝめ』を読んでからというもの、わたしは福沢諭吉が論語をバカにしていたことで諭吉が嫌いなのですが、同じ時代を生きて、『学問のすゝめ』を読んだかも知れない渋沢さんは諭吉をどう思っていたのか。


 それはそれ、これはこれ、で論語に対する各々の見解はそれぞれということで、国家に対して働く諭吉を、渋沢さんは認めておられたのでしょうかね。これも、死んでみたら聞いてみたい事柄であります。ではお次もお仕事関係。p248




なぜ商道徳は衰えたのか




「世人ややもすれば、維新以後における商業道徳は、文化の進歩に伴わずして、かえって衰えたという。しかしながら、余は何ゆえに道徳が退歩、もしくは退廃したか、その理由を知るに苦しむ者である。


 これを昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者とそのいずれが道徳観念に富み、いずれが信用を重んずるであろうか。余は今日をもって遥かに昔日に優るものと断言するに(はばか)らぬけれども、今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んでおらぬとは、すでに前説のごとくであるから、余は必ずしも世人の説を(ばく)する(反駁、反対する)訳ではない。


 ただ吾人(ここでは吾と人、つまりわれわれ)のこの間の処するものは、かくのごとき世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして、物質的文明と比肩せしめ得るの程度に、向上させなくてはならぬ。それは前に述べたるがごとき方法の下に、道徳を講ずるのが先決問題であろう。しかし、それとても特別の工夫方法を要する訳でなく、ただ日常の経営において、左様心掛けておれば足るものであるから、左までむずかしいものではない。


 維新以来、物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴わなかったので、世人はこの不釣り合いの現象に著しく注目して、商業道徳退歩というのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用い、物質的進歩と互角の地位に進ませるが、目下の急務には相違ないが、一面から考察してみると、単に外国の風習ばかりをみて、ただちにこれをわが国に応用せんとすれば、あるいは不可能を免れぬこともある。国、異なれば道義の観念もまた自ずから異なるものであるから、仔細にその社会の組織風習に鑑み、祖先以来の素養慣習に考え、その国、その社会に適応する所の、道徳観念の養成を務めなければならぬものである。


 一例を挙ぐれば、「父召せば諾なし、君命じて召せば()(馬とか駕籠)を待たずして行く」とは、すなわち、日本人が君父に対する道徳観念である。「父召せば声に応じて起ち、君命じて召すことあれば、場合を問わずして、ただちに自ら赴く」とは、古来日本人士の間に自然的に養成されたる一種の慣習性である。しかるに、これを個人本位の西洋主義に比較すれば、その軒輊(けんち)(優劣の差)は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲として、あえて顧みぬもよいということになる。


 日本人は、忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚さるるかたわらから、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受くるのも、要するにその国固有の習慣性がしからしめたので、われと彼では、その重んずる所のものに差異がある。しかるにその由って来る所以(ゆえん)を究めずして、いたずらに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると避難するは、あまりに無理であるというより外はない。


 かく論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことは、もちろんである。とにかく、近頃の商工業者の間に、あるいは道徳観念が薄いとか、あるいは自己本位に過ぎるとかいう評を加えられることは、当業者の相互の警戒をせねばならぬことではあるまいか」




 欧米との約束事、などは少しわたしにはわかりかねるところではありますが、しかしながら、何故、文明が発達すれば道徳が萎靡沈滞するかといえば、まあ、簡単な話でありまして、物事が便利になるからです。


 物事が便利になれば、怠惰な気分を生じさせる。


 コックをひねれば火が出、蛇口から水が出るのに、それに反して火おこし器から火を起こすものがいるであろうか。井戸や川から水を汲むものがいるであろうか。昔は電気などなかったのだ、ということでロウソクや油で明かりとするものがいるであろうか。いるはずがない。


 こうして便利になればなるほど、楽を覚え、怠惰の情を生じさせるわけで、頑張る必要、体を動かす必要性が低下するわけです。昨今では、一階を移動するだけでエレベータを使うように、体を動かすことをまずもって嫌がる。


 足る、という言葉があるように満足する、とは体を動かす、足を動かす、ことにあるわけですが現代ではそもそも体を動かすことがなくなってしまった。かくいうわたしも、ひねもすのたりのたりかな、でPCの前からほとんど動かずゲーム三昧ですが。


 それはともかく、道徳、とは向上心を言うわけです。精神が向上し、より上、より前へ、を目指すのが道徳であるわけです。これは前々から言うように信仰心も同じ。現状の自分では満足行かぬ、「君子自彊(じきょう)やまず」で、よりよい自分、今の自分よりさらに進歩向上した自分を目指すのが道徳や、信仰心であるわけですが、こうして怠惰を覚えて、動かなくなった体、働かなくなった精神では、もはやそんな向上心も、向学心も起こらない、のが多くの現代人の通弊であるわけです。


 さて、お話がちょいと変わりますが、スピリチュアル系のようつべあー( )(ユーチューバー)さんの動画を見ておりますと、なんでも、おロシアのプー太郎には、悪魔が憑いておって、だからあれだけの悪事を働かせるのだそうな。また、ヒットラーにも悪魔が憑いておったのだそうです。悪人と悪魔がタッグを組んでほしいままに悪事をなしておる、と。


 で、色々な動画ではこうもおっしゃっておいででして、人には、人を裁くような権利はないそうで、人を裁くのは唯一、デウスのみ可能である、ということだそうで、また、その人がなしたことは因果応報で報われるのみで、それも、あまりにも罪が大きすぎると何世代か後を経て因果応報が働く、といった天上の仕組みだそうです。


 つまり、悪魔が悪人に取り憑いて、悪事の限りを尽くそうとしているにも関わらず、他者には基本、何もできず、それを傍観するのみ、であると。それが本当かどうかはわたしにわかるわけもありませんが、少なくとも客観的事実として、確かに、歴史上大悪人が悪事をほしいままにしてきた。スターリンだのけざわひがしだの、ポル・ポトだの、道徳で世界を席巻した偉人はほとんどいないにも関わらず、悪事を持って世界に悪名を轟かせた人間ならうじゃうじゃおる。こういう為政者でなくとも殺人鬼の類もうじゃうじゃおる。京アニにガソリンぶちまけた青葉被告といい、気違いと称する他ない者もうじゃうじゃおる。


 これらを単純に見ますと、この世界を作ったデウスとやらは相当、非政府主義者といいますか、ホッブズのリヴァイアサン、いわゆる万人の万人に対する闘争を欲する存在なのであるな、と思ってしまいますが、しかし、さにあらず。


 孔子様やお釈迦様、キリストなど、なにゆえ世界に四大聖人とよばれる方々があまり時代をあけずに現れたかといえば、やはり、それは人類に対する明確な指針をおくためであろう、と考える他ありません。人々が目指すべき道標、目標は彼らであって、ただ、それを目指すのみ。というのが天の意志なのであります。


 ノアの箱舟で見られるように、人というのはどうしても怠惰に、堕落を欲するものであるが、デウスはその怠惰も堕落も許しはしない。大洪水で抹殺もやむなし。


 ほんのわずかな正解をポツン、とおいて、あとは好きにせい。でも、好きにしたあげく堕落したらそれはお前のせいなんだからこっちは知らんで。これが天の意思なわけであります。なんとも放任主義であるわけですが、しかして、昔の人はきちんとこれを捉えていた。




【人心これ危うく、道心これ微かなり。これ(せい)これ(いつ)(まこと)にその中を執れ】




 これは伝説の王、舜王が次代の禹王に語った言葉とされます。


 人の心は欲得に目がくらみやすいので危うい。また、道を求める心、向上心向学心も微か。わずか。これ精、精は純粋化、これ一、一は一本化、単純化。矛盾撞着(どうちゃく)をなんとかかんとか擺脱(はいだつ)して、進化して、新しい境地を開拓してゆかねばならない。そうであるから、その中を執れ、中は真ん中にあるようなバランス感覚であり、また、これ精これ一であってずっと進化し続ける志のこと。




 この世界は非常に、欲得に目をくらませられやすく、向上心向学心を持つものも少ししか無い。でも、だからこそ、この世界において正しい生き方とは、不純物を取り去って、余計なものを捨て去って、単純に、簡単に、素直に、まるで子供のようにすくすくと育たねばならないことなのである。


 大昔の中華人は、天の意思を分かっていた。天の意志の下、生きることができていた。


 とはいえ、それはすべての人間に求めることはできないものであるから、少なくとも、天子、為政者がこれを失ってはいけない、と、次代の王に忠告として与えたわけで、これほど凄まじい言葉はないでしょうね。言われた方はあまりの大理想にちょっと腰が引けてしまいそうです。


 でも、天の意志が純然としてそこにある以上はそれに従う他はない。それにそう他はない。


 なので、これをなんとかしないといけないわけで、結局、為政者はなすべき仕事とは、今見た舜王のごとく、道標を指し示すのが一番なんですよね。金儲けなんぞは、民間に任せておけばよいのであって、正径を明らかにするのが、本来の為政者の仕事、大切な立派な仕事なわけです。

 

 これが人として目指す道ですよ。


 これが人として最低限、身につけるべき教養ですよ。


 という指針を明らかにする他無いわけで。そして、それを我が背で表すしか無い。わが人生をもって証明する他無い。


 そして、そう考えますと、それができている為政者は、世界で唯一、我が皇室しかないわけで。


 結論としましては、すべての人間が天皇陛下のごとくあったならば、明日からと言わず、それこそ今日から世界はすべて平和に、穏やかに、心正しく生きられることでありましょう。


 ああ、答えはすでにそこにあったというのに、世界中の人間は今日も間違いだけの人生を生きておるのでしょう。今日もまた現代の、祝鮀(しゅくだ)(ねい)はないが、宋朝(そうちょう)の美だけはある人々が世を騒がせて、かつ、自身の人生も台無しにしてゆく。


 まあ、それもすべて、デウスの与え給うた自由。進化を欲するも自由。堕落するのも、また自由。誰が押し付けたのでもない、自らに由って、自ら欲するところに従って生きるのみ。その自由の名のもとに、人々よ、今日も堕落するが良い。大洪水によって洗い流されるその日まで。



 といったところで、『論語と算盤』の丸写し。八、はこれまで。


 したらばな。






「もののがたり」のOP・EDを聴きながら。


 時間をかけて聞いておりますると、OPがけっこう良いことにようやく気づくw さらにTVサイズではなく、フルバージョンで聞くことをオヌヌメw TVサイズでは味わえない魅力がありますw



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