『論語と算盤』の丸写し。七、
いや~、わたしもついに中共肺炎にかかりました。おこんばんはです。豊臣亨です。
流行に遅れて乗っかるところがらしいっちゃ~らしいですが。やっぱすごいですね。中共肺炎。
ある日、出社したはいいものの、発熱を自覚。そうしますと腰辺りに痺れるような違和感を感じてただ座っているのも厳しく感じました。こりゃいかんと帰宅しますと、その日の夜に40℃の発熱を確認。
以前にもインフルエンザにかかって高温を発したことはありますが、40℃は多分初めての経験っぽいです。大人しく布団かぶって寝ておったのですが、熱がこもって暑いからと扇風機を体にあてるのですが、そうすると不思議なことに温度差が激しくなるのか、風があたっている箇所がなんと寒く感じて震えてくる、という始末。
40℃の熱を発しながら、寒くて体がガタガタ震えだす、という訳の分からん状態はさすがに生まれて初めての体験でしたね。
で、こりゃいかん、と布団をかぶるとまた熱がこもって暑くなる、で、扇風機をあてて震える、というのを何度も何度も繰り返しておりました。初日はいつ寝たのかよくわからないまま夜が明けました。
とはいえ、高熱を発したのはその日だけ。あとは時々咳が出たり扁桃腺がはれるくらいで劇症化することもなく、病院いってコロナです、と診断をもらって一週間引きこもり。引きこもりならマカチョーケ(沖縄弁)。で、時々熱がぶり返したり、味覚がおかしくなって何を食べても美味しく感じなかったり、内臓にダメージがあってポンポンゆるゆるになったりと色々あったりしたものの、出社するくらいには回復しましたが、やはり肺炎の名の通り、気管支に中共肺炎が残っている感じが今もありますね。
激しく咳き込んだり痛みを発することもないのですが、地味~なもやもや感があって体調がスッキリせず、ずっと病んでる感じが残るんですよね。
かかったからこそ分かる。こんなん風邪じゃねぇ。インフルエンザでもねぇ。中共肺炎だ。コロナなんてしょせんカゼ、なんてほざいてる奴らはものを語る資格はないと思ふ。
毒性が弱い(?)状態だから助かったものの、猛威ど真ん中の強烈なのを食らったらと思うとゾッとしますね。確かにこれは命に関わるかも、と思います。後遺症がでる人は強くでるといいますし、内臓にも後遺症がでるそうで、今更ながらやっかいな病気が出現したものであります。
とはいえ、長い目でみれば、これもペストだのコレラだのも乗り越えてきた人類の次の乗り越えるべき進化の一過程、と見るべきなんでしょうね。こうして人類は次の進化へと至るのでありましょう。いわば、中共肺炎を奇貨として、これを糧に強靭な種へと生まれ変わるのでしょう。
そう考えるのであれば、確かにこれも、禍福はあざなえる縄の如し、ということなのでしょうね。にんともかんとも。といったところで、『論語と算盤』の丸写し。七、参りましょう。p204
たしかな人格養成法
「現代青年にとって、最も切実に必要を感じつつあるものは、人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するに連れて思想界に少なからざる変革を来し、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となって、すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが充分咀嚼されておらず、といって耶蘇(キリスト)教が一般の道徳律になっておる訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰向(心の向かう先)してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでおるくらいである。
したがって、一般青年の間に人格の修養ということは、ほとんど閑却されておるかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向(潮流とか趨勢とか、そんな感じw)である。世界列強国がいずれも宗教を有して、道徳律の樹立されているのに比し、独りわが国のみがこの有様では、大国民としてははなはだ恥ずかしい次第ではないか。
試みに社会の現象を見よ。人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利のためには何事も忍んでなすの傾きがあり、今では国家を富強にせんとするよりも、むしろ自己を富裕にせんとする方が主となっている。
富むことも、もとより大切なことで、何も好んで簞食瓢飲(粗末な食事)陋巷(貧しい住まい)にあって、その楽しみを改めぬということを、最上策とするには及ばない。孔子が、「賢なるかな回(顔回さんのこと)や」と顔淵(顔回さんのこと)の清貧に安んじておるのを褒められた言葉は、要するに
「不義にして富み且つ貴きは、我において浮雲のごとし」
という言葉の裏面をいわれたまでで、富は必ずしも悪いと貶められたものではない。しかしながら、ただ一身さえ富めば足るとして、さらに国家社会を眼中に置かぬというは慨すべき極である。説は富の講釈に入ったが、何にせよ、社会人心の帰向がそういう風になったのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けておるからである。
国民の帰依すべき道徳律が確立しており、人はこれに信仰を持って社会に立つという有様であるならば、人格は自ずから養成されるから、社会は滔々(よどみなく流れる様子)として、我利のみこれ図るというようなことはない訳である。ゆえに余は青年に向かって、ひたすら人格を修養せんことを勧める。青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ、活力外に揚がる底のもので(底は、くらいなものという意味)、いわゆる威武も屈する能わざるほどの人格を養成し、他日自己を富裕にするとともに、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ。
信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険がはなはだしいだけに、自己もそれだけに自重してやらねばならないのである。
さて、人格の修養をする方法工夫は種々あろう。あるいは仏教に信仰を求めるのも宜しかろう。あるいは「クリスト」教に信念を得るのも一方法であろうが、余は青年時代から儒教に志し、しかして孔孟の教えは余が一生を貫いての指導者であっただけに、やはり忠信孝悌の道を重んずるということは、全く仁をなすの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である。すでに忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、さらに進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ。
智能の啓発が不十分であると、とかく世に処して用を成すに方り、完全なることは期しがたい。したがって、忠信孝悌の道を円満に成就するということもできなくなって来る。如何ともなれば、智能が完全なる発達を遂げておればこそ、物に応じ事に接して是非の判別ができ、利用厚生(物事をきちんと働かせて人々の生活を豊かにさせること)の道も立つので、ここに初めて根本的の道義観念と一致し、処世上なんらの誤謬(あやまり)仕損じもなく、よく成功の人として終局を全うすることを得るからである。
人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種様にこれを論ずる人があって、目的を達するにおいては手段を選ばずなどと、成功という意義を誤解し、何をしても富を積み、地位を得られさえすれば、それが成功であると心得ている者もあるが、余はその様な説に左袒(味方すること)することができない。高尚なる人格をもって正義正道を行い、しかる後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とはいわれないのである」
まったくおっしゃるとおりでありまして、こんなある意味当たり前のことが大正時代に叫ばれていることが、どれほど深刻な状態であったかが察せられるわけですが、しかして、その後の日本はほとんどこの事態を理解できなかったことが、今日の日本にそのまま影響しておるのであり、そしてだからこそ、この渋沢さんのおっしゃっていることを今、理解できる日本人などほとんどいないであろうことを、現代に生きておれば自ずと骨身にしみて分かるのであります。
大正時代ですらわからなかったことが、昭和、平成、ときて令和にまで至ってわかろうはずもなし。もはや手遅れも手遅れ。理解、共感できる感受性、魂の純真も感性も教養も情熱もなくなってしまい、今の日本の一番の被害者ともいってよい、ブラック企業に働く社畜にだって、この窮状を打破できる解決策こそが儒教にあるんだよ。と言ったところで、ハァ? と返されるのがオチでしょう。
度し難い。
しかしまあ、こんな日本に誰がした、といえば、日本人全員がそうしてしまったのだから、後は好きにしなはれ。ってところ。わたしは日本の片隅で学問大事、と獅子吼しておきます。
ではでは、いろいろ面白いところがあったので振り返ってみませう。まず、簞食瓢飲。これはもちろん論語にあります、
【賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪へず。回やその楽しみを改めず。賢なるかな回や】
孔子様がしみじみとおっしゃられた。
顔回は賢明だね。一杯の粗末なご飯、一杯の粗末な汁物で、貧しい路地裏暮らしに甘んじている。普通の人間はそんな生活に到底堪えられないが、顔回はそんな暮らしにさえ、楽しみを見出して安らかに生活していたのだ。……本当に、賢明だね、顔回は。
から来ておりますね。
この時代も、今の時代だってそうですが、何故人は学ぶかといえば、出世して大金を稼いで楽な生活がしたいから学ぶわけです。それがほとんどです。
なのに、顔回さんはそれを考えていなかった。学ぶ、という行為そのもの。学ぶという本質的行為を完全に理解されて、そこに楽しみを見出されていた。
学ぶということは、人間の成長を促すもの。その成長の先にあることといえば、例えば、悟りであるわけですが、顔回さんは恐らくすでに悟りの境地にあったのでしょう。莊子などの書物を読めばそういったお話も出てきます(大宗師篇ではむしろ、孔子様が顔回さんから教わるべきだ、みたいなお話があります。「莊子 顔回」で検索すればワラワラでてきますw)。老荘思想家にとってみれば顔回さんは本当に仰ぎ見るべき素敵なお人であったわけですね。
とはいえ、さすがそこは渋沢さんなので、こういう清貧にあることも確かに大切だけれども、お金持ちを目指すことを否定するつもりもないけれども、それだけを求めるのは人としてどうだ? とおっしゃるわけですね。
また「いわゆる威武も屈する能わざる」これは孟子の言葉。
【天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独りその道を行ふ。富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず】
まことの君子は世界の中心にいるかのよう。人々から後ろ指をさされることもないし、非難されることも馬鹿にされることもない。人々が仰ぎみ、目指すべき目標とするほどの人格と高潔な精神をもっている。民の理解が得られれば睦まじく受け入れ、得られなければ独り学問を行う。
であるからこそ、そういう君子は、金や利得で釣ることなどできないし、その地位を奪って貧乏に叩き落とすぞと脅しても平気。いますぐ殺してしまうぞ、と獲物をちらつかせても決して屈しないのだ。
というところから来ているわけですね。
金持ちを目指すのも決して悪いというわけではないけれども、こういう人間を目指しなさいよ。とおっしゃるわけです。とはいえ、わたし的には、威武も屈する能はず、よりかは、富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はずの方を強調して欲しかったかな?w
金や欲得ですぐあっちこっちなびいたり、貧乏ぐらしに甘んじるくらいなら社畜でもよい、などという人間になってはいけませんよ。と、言って欲しかったかなw
後は、左袒。これはもちろん、悪魔王サタンのことでも、ビーデルの親父のミスター・サタンのことでもありません。これは中華は前漢で、いわゆる呂氏の乱が起こった時の周勃という人のお話。
呂氏の乱が起こった時、周勃は呂氏に味方するものは右袒、右の腕を衣から出せ、我々につくならば左袒、左の腕を衣から出せ、といったところ、兵士はみんな左腕を袖から脱いで出した、というお話ですね。
なので、味方することを左袒する、と言いました。
こういうのが常に脳裏にあるとまた面白いわけで、渋沢さんはそういう教養の有無こそが人格養成にとって重要なのであるということを言外におっしゃっているわけです。とはいえ、この短い文章ではその意を十分に汲めぬ気が致しますので、わたしなりに補足しますと。
これは昔にも申したことがあるのですが、信濃国は真田家の松代藩で藩政改革にあたった、恩田木工(ネットでは、もく、と出てきますがわたしは安岡先生に従ってたくみ、とルビを振りますw)民親さんや、貧乏板倉と言われた備中松山藩の藩政改革にあたった山田方谷先生。このお二方が藩政改革を行うに当たって、まず決心をされたのが、
「虚言申すまじく候」 嘘をつかない。
という決心であったといいます。
嘘をつかない。つまり、至誠、真心をもって改革を行う、とおっしゃられたわけです。嘘偽りだらけの現代にあっては、それが何の価値をもたらすのかさっぱりわからんでしょうが、これが人間にとっての最も本質的要素と言って良いです。
山田方谷先生は、藩の絶望的な財政状況を、なにわのあきんどに正直に申告しました。苦衷を吐露したわけです。そして、武士にとって卑しいもの、と蔑まれていた財政、商いを、山田先生は主導して行い、借財返済のための返済計画を綿密に組んでなにわの商人に提出したといいます。虚言や糊塗、粉飾や建前ではなく、至誠によって交渉にあたられた山田先生に、百戦錬磨のなにわの商人もすっかりまいってしまったとか。こうして、至誠によって事にあたられて藩政改革を実現された。
貧乏板倉、備中松山藩の10万両の借財を、逆に10万両の蓄財に変えられたとか。10万両はいまでいうと200億円くらいの価値だそうで、かつては藩内に一歩踏み入れたらここが貧乏板倉だとわかった、といわれたほど粗末な藩が、考えられないほど立派になったとか。
孟子は、
「至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなり」
と言いました。さっきみた「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず」も至誠です。また、西郷隆盛公の「南洲翁遺訓」で、山岡鉄舟さんを評された箇所、30条の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也」も至誠。
江戸城攻略に進軍してきた西郷さんの本陣に、ほぼ単騎で突入し、徳川慶喜公の処遇をめぐって談判に及んだ時、西郷さんの主君である島津公が同じような目にあった時、いくら朝廷の命令であるといえども家臣としてこれを唯唯諾諾と受け入れることが、はたしてあなたにとっての忠義であるのか? と言われ、思わず西郷さんもその至誠に心動かされたといいます。
山岡鉄舟さんも、剣聖でありしかも、禅でも大悟徹底されたお方なので、至誠の権化のようなお方であったわけで、儒教によって国家を維持していた江戸時代には、こういう至誠の人が確かにおわした。
また、新渡戸稲造は、日本人の日本人たる由縁は武士道にある、といいました。
そうすると、江戸時代で武士階級は全日本人の7%ほどであったと言われますので、9割の日本人は日本人ではないということになりますが、しかし、確かに日本人の精髄は武士たち指導階級にあるという他はありません。
聖徳太子の時代に、日本に儒教や仏教が輸入され、その思想が日本全土に及ぶわけですが、武士たち指導階級が儒教を世界でも最高峰に高めたことは事実。国が何度も滅び、人種や文化ががらっとかわってしまう中華では絶対に実現できない長い時間をかけて儒教を熟成させてきたのは、やはり武家。
こういう、学問に対し真摯に、情熱をもって向き合う方々がいたからこそ、江戸時代はあったのであり、そして、この江戸時代の優秀な武士が、幕末、明治を主導したわけです。なので、本当に学問をすることの大切さをわかっておられた方々は、「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず」であった。
つまり、顔回さんのごとく、金持ちになることを希求したり、権力者になることを無闇矢鱈と要求したりなどしなかった。山田方谷先生は幕末の動乱の影響で藩主板倉勝静に辞任を迫ったことに良心の呵責を感じて隠棲し、明治の世には出られませんでしたし、山岡鉄舟さんも隠遁された徳川慶喜公に従って世に出ることを求められなかった。西郷隆盛公もそうですね。決して地位も富も権力も求められなかった。
本当に学問を究められた方々は、そういう俗世のごときものから超越し、もっと本質的な、人間にとってもっとも重要な精神世界を求められたわけです。それがつまり、悟りであったり、至誠であったわけで、逆説的に言ってしまえば、ここまで世界の本質がわかってしまった者からすると、金だの権力だの求めることの無意味さに慄然たらざるを得ないわけです。
どうして有象無象と角逐して、そんな自身の本当の成長とは没交渉のものを求めなければならないのか。
そう思う他ないわけです。
そう考えて、この渋沢さんの文章を読み返しますと、
「青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ、活力外に揚がる底のもので、いわゆる威武も屈する能わざるほどの人格を養成し、他日自己を富裕にするとともに、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ」
「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず」を抜き去って、「威武も屈する能わざる」だけにしてしまったところに、この時の渋沢さんの気持ちを読み取ることが出来るような気はします。
明治日本の財政改革の中心にあり、その後かずかずの大企業の起業に邁進された渋沢さんからすれば、金持ちを目指すなんてろくなもんじゃね~よw などと、口が裂けても言うわけにはいかなかったわけですね。
「人生終局の目的たる成功」とおっしゃられるが、同じ幕臣として、同時代を生きておられた山田方谷先生を知らぬとも思えないですし、こういう、実力がありながら明治の世にでられなかった方もやはりおられたことを知らぬとも思えないわけです。むしろ、学問を深く究めたがゆえに、俗心から超脱してしまい、成功、などと一面的、一時的の状態になどいささかも拘泥すること無く、悠久の世界に遊び、本当の心の自在を得る者になることこそ、本当の日本男児として快哉を叫ぶべきではないか。
恐らく、こういう気持ちもなかったでもないかと存じますが、渋沢、という立場、立ち位置から、超俗しなさいなどとは言えなかったのでは。他でもない、「成功者」の一人として、成功を否定することなどできるはずもなかったのでは。
そしてこの、ある意味、明治日本における、本当に数少ない良識派であられる渋沢さんが、こういった発言にならざるを得ないところが西欧列強に肩を伍して戦わねばならない貧乏明治日本の急所であり、また、その後の日本の致命的な堕落を救恤することの叶わなかった悲劇、とも言えるでしょう。
まあ、あの世紀の大天才、安岡先生ですら救えなかった日本ですから、手の施しようもないほど病膏肓に入っておったのでしょうけどね。
わたし的にいま言えることは、
後は野となれ山となれ
ってとこっすかね(ハナホジ)。
結局のところ、人生とは己の意思によってのみ、成り立つ以上、現代人であろうがなんであろうが、「今を生きる」しかないわけです。学があろうがなかろうが、金があろうがなかろうが、「今を生きる」しかない。
その結果として、後悔のないように生きてくだされば、よきかな。
といったところで、『論語と算盤』の丸写し。七、短いですが今宵はこれまで。渋沢さんの意を汲めたのなら幸いです。
したらばな。
「わたしの幸せな結構」のOPを聴きながら。
活力と、情熱と、誇りと、希望のあった頃の日本だ。
嗚呼、幸せな頃であった、日本だ……。