『論語と算盤』の丸写し。五、
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、今晩も一席、◯っと丸写しのお時間ではございますが、まずは最近読んだなろう作品の批評でも。
今回の作品はこちら。
『最弱テイマーはゴミ拾いの旅を始めました。』
でございます。
この作品、一応異世界転生ものですが一風変わっておりまして、転生した人がそのまま主人公になるのではなく、守護霊といいますか残留思念といいますか、主人公の記憶にちらっと現れる程度の転生ものです。例えて言うなら、『ヒカルの碁』の佐為のポジションといえばよいでしょうか。とはいえ、さいほどはっきりと主人公に認識されるものではなく、何かの拍子に主人公の脳裏にこの転生者の思念が浮かんでくるような感じで、意思の疎通もできず姿かたちも認識できないレベル。そんな転生要素薄めなところが珍しいと思います。で、まずはあらすじをさっくりと。
この世界はオートグズといいます。その世界の住人は神様? からスキルを与えられ、スキルによって人生が決められるような世界。そんな世界に生を受けた主人公の名はアイビー。彼女が5歳の時、教会に行ってスキルを鑑定してもらったところ、「テイマー」のスキルを与えられていることが判明。しかし、職業はわかりましたが、次に重要なのが星、というランク。星が多ければ多いほど能力が高いことを示しますが、アイビーには星はなく、代わりに###が3つ並んでいる始末。そんなありさまなので星なしと判断されてしまったようです。
星なし、とわかったとたん、熱心な教会信者である両親の態度は一変。
その日からアイビーの食事はなし。他の兄弟たちは変わらず食事をもらっているにも関わらず。当然、居づらくなってしまったアイビーはやがて家を出て森で生き延びようとしますが、森で生きながらえているという情報を知った父親はなんと、アイビーを始末しようとします。慌てたアイビーは占い師の助力によってただ、生き延びるために旅に出る。
と言ったところ。
やがてアイビーはスライムをテイムしたりと、仲間が増えるに従ってお話が展開し、やがて世界の陰謀に否応なしに巻き込まれる、というところがなかなか面白いところ。なのですが、思うところがあるw けっこうあるw といったところで思ったところをつれづれと。
まず、題名にもなっているように、ゴミを漁ることがこの作品の基本となります。何しろ、テイムするスライムたちのご飯が捨てられている劣化したポーションなのですからゴミを漁らざるを得ません。ある程度まとまった資金ができて正規のポーションをあげてもスライムたちは見向きもしませんので、お話がどれほど進んでもゴミを漁り続けなくてはいけません。
こうして作中の設定をみても分かるように、作者さんはゴミを漁ることに何の疑問も嫌悪も抱いていないことが分かります。また、お話が進みますと、洞窟(ダンジョンと言わないところがイイw)に入ればそこには必ず魔物が現れ、倒すと魔石とかアイテムをドロップしますが、ここらあたり、作者さんは非常にゲーム的に世界を考えていることが伺えます。
まあ、今どきのなろう作品はふつーに「ステータスオープン」とでも言えば自分自身の能力を数値でみることができるので、アイテムをドロップするくらいはまあいいものの、この主人公のアイビーがゴミを漁るという行為は、作者さん的にはゲームの採集ポイントでゴミを採集しているという程度の認識なのかな、と思いますね。
物語では、劣化したポーションがビンごと捨ててあったり、剣などの武器や盾などの防具、マジックアイテムなどが捨ててあるので、それを各村のスライムが溶解処理する、という設定なのですが、そもそもで言えば、ゴミ、って生ゴミ、残飯がほとんどになるはずなんですよね。作中での言及はなかったかと思いますし、作者さんは意図的にこういう記述を避けているのであろう、とは思いますが。
生ゴミや残飯は、当然腐敗しているんできったないし、くっさいので、ゴミを漁るなんて行為はそもそもあり得ない行動のはず。家から逃げ出した当初は生きるためにゴミを漁るという行為もせざるを得ないとは言え、お話がどんどん進んでも、それでもなお変わらずゴミを漁らないといけない、という設定はいかがなものかと思いますw
お話はちょいと変わりますが、中世ヨーロッパにおいて、墓守、という職業はなくてはならない職業ではあるものの、人々からは恐ろしく忌み嫌われた職業なのだそうです。嘘か真か、この墓守と、とある村人Aが意気投合し、一緒に酒場でお酒を飲んだそうな。この時、村人Aは自分が一緒に酒を飲んだ相手が墓守だと知らなかったのですが、しかし知ったとたん、この村人Aは何をしたかと言えば、次の日、自殺した、とか。嘘か真か知りませんが、中世の人間の偏見というのはそういうものだろうと思います。
ゴミ漁りが墓守ほど忌み嫌われる行為かは断じかねますが、それでも歓迎される行為でないことは、人々がいない状況下でアイビーがゴミ漁りをしている以上、見られて良いと思っていないということでしょうし(スライムが超がつくレアというのもありますが)。大事な大事な自分の描く主人公に、いつまでもゴミ漁りをさせる、というのは可哀想w 話がすすめばタイトルが関係のない話になることもあるので、ゴミなんか漁らなくてもよいように話をもってゆくべきだろう、とわたしは思いますw
また次に、いま言ったように、ゴミの内容。時間が経って劣化してしまったポーションがビンごと捨ててある、という時点であり得ないw 大量生産、大量消費に慣れてしまった現代人だから、ビンごと捨てる、ということに何の違和感も覚えないのかもしれませんが、そもそも、ビンなどが大量生産されるようになったのは産業革命以降、原材料や燃料が大量に運搬できるようになってからです。機関車や車などが発明され、大量の資源を大量に運べるようになったのは18世紀なかばであり、つい最近です。
いえ、現代においてもこの、ビンごと捨てる、という行為がまったく理解に苦しみますw ポーションが劣化したのなら中身だけ捨てればいい話であって、ビンを捨てれば、またビンを買わねばならないはず。100均で買えるとはいえ、それでも110円(税込み)はするじゃまいか。まあ、アイテムがドロップする世界なので、ビンも魔物がガンガンドロップするのかも知れませんけど。
他にも、剣とか武器ががんがん捨ててあって、それをスライムが溶解していく世界なのですが、鉄や鋼という貴重な金属をこれまた再利用しないというのも理解に苦しむw 確か、作中に再利用するスキルはレア、みたいな記述があった気はしますが、それにしたって金属を熔かすくらいスキル関係なくできるだろ。とは思いますw
また、このゴミも他に問題がありまして、マジックアイテムが捨ててある、と。ゴミは村々で管理されていますが、中には管理されていない、冒険者によって違法に捨てられるゴミとかがあって、このマジックアイテムの残留魔力によって、近くの魔物に干渉し、突然変異を起こしてしまい非常に凶暴になる、というお話が作品ではけっこう出てきます。
それも、5~10年単位の期間で突然変異を起こすのではなく、作品の雰囲気的には数ヶ月、下手すれば一月程度で変化を起こすみたいです。突然変異した魔物は、気配に敏感なアイビーですら目前にあっても気が付かないほど隠密性が高くなり、冒険者であっても討伐に苦労するほど攻撃性を増す。非常に危険なことなのですが、しかし、意外と冒険者がゴミを違法に捨てるw
魔物が突然変異を起こせば、真っ先に討伐するのは自分たちなのに、その自分たちの命に関わることを自分たちが行っている、というのは流石におかしい気がしますが、まあ、ダーウィン賞とかありますし、オートグズの冒険者たちがゴミを違法に捨てるのは日常茶飯事なのでしょうかねw 自殺志願者が多いなぁw
ゴミに関してはこれくらいにしまして、さてお次。このアイビーがテイムするスライム。これがまたすごい。目があるw 口もあるw 読んでいて、スライムと目が合った、みたいな描写があって へ?w ってなりましたw 『異世界放浪メシ』 のスイにも点な目があるとはいえ、この作者さんが想定するスライムは多分、ドラクエのスライムなんだろうなぁ、と思いました。挿絵もそれっぽい雰囲気だしw
しかも、このスライム、半透明で透き通っているんだとかw 目があるのに半透明で透き通っていたら、裏側から裏側の目が見えるはずなので、実際に見たらけっこう刺激的な光景なはずですがそんな描写は一切ないので、これも作者さんはゲーム的に、目のテクスチャが貼り付けてあるようなのを想定しているんだろうなぁ、と思うw あと、大量にポーション食べるくせに排泄の描写が一切ないのは……まあいいかw
あと、これはおまいう、なお話ではあるので言って申し訳ないですが、それでも言うw 作者さんはネーミングセンスがなさすぎww
ヒマヒマ星人さんは試しにこの最弱テイマーの第一ページをみてみるといいです。こういうのが出てきます。
ラトミ村 → ラトフ村 → ラトネ村 → ラトト村 → ラトム村 → ラトス村 → ラトメ村
名前が似すぎw
日本で例えば、イバラキと、イバラギがありますが、このふたつの地名を完璧に把握できるのは地元民だけでしょ?w 茨城は関東、茨木は関西で、ぜんぜん違ってもふたつぱっと並ぶとどっちがどっちか分かりづらいものですw それが似通った村の名前がこうも立て続けに並んだら分からんw
一週間後にラトネ村に集合な~
って号令を、とある10人の冒険者チームでかけて、間違いなくラトネ村に到着できるのはさて何人だ?w 他にも配達やら郵便やらを、きったない字で書かれた伝票をもとに配達させられたら間違いなく、間違えまくりますw 名前が似通うことによるデメリットはあってもメリットが思いつかないw あと、オカンコ村とか。作者さんは多分女性でしょうから、気にもとめないのかも知れませんがw わたしではこんな名前はつけられないなぁw
あと、色んな登場人物がでていいのですが、人物描写、特徴の描写がなさすぎですかね。
この人は戦士型とか魔法使い型とか、背が高い、背が低い、太っちょ、痩せ型、手が長い、耳がでかい、髪が赤い、黒い、茶色い、長い、短い、もしくはまったくない、目付きが悪い、頬に十字の傷がある、こういう人物描写がほとんどなく、ただただ状況によって人が出てくるから、全然見分けがつかないw 見分けがつかないのはわたしが悪いにせよ、特徴がないから誰が誰かさっぱり分からず、そのうち理解を放棄してしまうw
最後に名前も、もう少し特徴があってもいいかな、と思いますね。エリザベートとか、シンシアとか、こういう分かりやすく馴染みのある名前が出てこず、例えば、3人組の冒険者の名前が(偽名とはいえ)、アルス、ガルス、エバス、なんですよねw 全員男かと思いきやアルスは女性w 偽名なんだし、アリスでいいんじゃまいか?w
とまあ、勝手なことを申しましたが、世界観とかきちんと練られているし、徐々に核心に迫ってゆく描写も実にうまい。最強でオレツエーが当たり前の昨今のなろう界隈にあって、あえて最弱を主人公にもってくるその発想は実に面白い。また、異世界転生ものなのに作中の主人公にそのまま転生しないのも、世界の謎と繋がっているような気もしますし、良作なのでオヌヌメ。作者さんには頑張ってほしいところです。-人-
では、『論語と算盤』の丸写し。五、参りましょう。
「元気」は誤解されやすい
「元気とは如何なるものかというに、これを形に現して説くことは、はなはだ難しい。漢学から説けば、孟子の言う浩然之気(生命エネルギーと言いますか、偉人が宿すような超越的にして神聖な精神やその活動)に当たるだろうと思う。世間ではよく青年の元気というけれども、青年にばかり元気があって、老人には無くてよいというのではない。元気は押し並べて、さらに一歩進んでは男女ともになければならぬと考える。
大隈候(大隈重信。第8、17代内閣総理大臣)のごとき、私よりは二つもお上であるけれども、その元気は非常なるものである。孟子の浩然之気につきては、孟子が
【その気たるや、至大至剛、直を以って養いて害なし、すなわち天地の間に塞がる】
と、こう言っておる。
この「至大至剛、直を以って養う」という言葉が、はなはだ面白い。世間ではよく元気がないとか、元気を出したとかいう。ことによると、大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気がいいといい、黙っておると元気が悪いというが、しかし「ポリス」に捕まって、恐れ入るというような元気は、決して誇るべき者ではない。
人と争って、自分が間違っておっても強情を貼り通す。これが元気がよいと思ったら大間違いである。それは、すなわち元気を誤解したのである。また気位が高いということも元気であろう。福沢先生の頻りに唱えておった独立自尊、この自尊などもある場合には元気ともいえよう。
自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊なればよい。しかし自治だの自活だのは、相当な働きがあるからよいが、自尊ということは誤解すると倨傲(おごりたかぶり)になる。あるいは不都合になる。すべて悪徳になって、一寸道を通りかかっても、此方は自尊だからオレは逃げないといって、自動車などに突き当たっては、とんだ間違いが起こる。
かかるものは元気ではなかろうと思う。元気というものはそういうものではない。すなわち、孟子のいわゆる至大至剛、至って大きく、至って強いもの、しかして「直を以って養う」道理正しき、すなわち至誠をもって養って、それがいつまでも継続する。ただちょっと一時酒飲み、元気で昨日あったけれども、今日は疲れてしまったと言う、そんな元気では駄目である。直しきをもって養って飢うる所がなければ、「すなわち、天地の間に塞がる」、これこそ本統の元気であると思う。
この元気を完全に養ったならば、今の学生の軟弱だ、淫靡だ、優柔だと言われるようなそしりは、決して受ける気遣いはなかろうと思う。しかし今日のままでは、多少悪くすると元気を損ずる場合がないとは言われぬ。老人とても、なおしかりであるが、特に最も任務の重い現在の青年は、この元気を完全に蓄えることを、くれぐれも努めなくてはならぬ。程伊川(北宋の儒学者。兄、程名道と並んで二程子と讃えられた)の言葉であったと思うが、
【哲人機を見てこれが思いを誠にし、志士厲行(厳格に行うこと)、これが為を致す】
との句がある。あるいは文字が間違ってるかもしれぬが、これは私の注意した言葉で、今も感心するが、かの明治時代の先輩は「哲人機を見てこれが思いを誠にす」ということをした人である。大正時代の青年はどうしても「志士厲行、これが為を致す」という方であって、すべて巧みにこれを纏むる時代であると思う。ゆえに青年は充分元気を旺盛にして、聖代に奉答するの心がけが緊要であると思う」
小題が、「「元気」は誤解されやすい」というのも面白いところです。
一見、元気と言われて、勘違いを起こすような要素は何もないように思えます。ですが、孟子のいう浩然の気のことをおっしゃっているように、元気、と言ってもただ日々を生きる生命力やエネルギーのことだけを指して言っているのではありません。
「福沢先生の頻りに唱えておった独立自尊、この自尊などもある場合には元気ともいえよう」
とありますように、人間一人の元気から発して尊厳や高い自覚にも至ることをおっしゃっているわけですね。
戦後の日本は確かにこの元気がありましたね。エコノミックアニマルなどと言われて、国内でも「24時間戦えますか」と意気込んで、世界経済を牽引するかの如き勢いがありましたが、バブル崩壊後、失われた10年どころか何年失ったのかさっぱりわからぬ程の低迷さを見せる現在。経済第二位の地位を中華に譲ったばかりか、ありとあらゆるものまで追い越される始末。
確かに、元気で言えば日本はかつてのバブル時代から見ればどれほど元気を失ったか。
北に舐められ、南に舐められ、中共に舐められ、インドネシアあたりにまで舐められる始末。
そのうちアメリカそのものを買うんじゃないかという勢いまであったバブル時代には考えられないほど今の日本は舐められまくり。そういいますと、元気とは、なにも日常を生きるだけのエネルギーにあらず。国家の尊厳、民族の威容にも関連してくる重大な、切実な要素であります。
また、昨今でいえば、中共肺炎によって数多の人が命を落とされたわけですが、こういう病に対する抵抗力だって、元気と直結しています。そして、その元気とは、ただ良く寝て良く食べ、生命エネルギーを養うだけでもあらず。手を洗いうがいをし、自身の精神的健康を維持するにも、前向きな元気が必要です。
元気とは、ただ元気だけを指しているのではない、そこには人間の文化や生活の百般に関連する根本が含まっておる、ということであるから、そこんところ勘違いすんなよ? と、渋沢さんはおっしゃっているわけですね。
また。
元気、に関しましては、やはり安岡正篤先生が非常にやかましく論ぜられるところでありまして、これもちょうどよいので教えを請うてみましょう。今回おいでいただきましたるは、
『心身の学』 黎明書房発行
から。p159
生は天地の大徳――元亨利貞
「『易経』の繋辞伝に「天地の大徳を生と曰ふ」と説いております。この『易経』という書は偉大な生の力(動)学ともいえるものであります。
生は天地の大徳である。区々たる人間一身の問題ではない。天地の大徳である。この生の溌剌として営まれてゆく姿が「生々これを易と曰ふ」ものであります。だから易は「生きる」という意味です。ところが、この生を観察してみると、そこに深遠な理法がある。
世間普通の人々は、たいへん誤解して、易というとわれわれの宿命――いつまで生きるとか、何歳で死ぬとか、成功するとか、失敗するとか、何かわれわれにはもって生まれた運命というものがあって、その運命というものによって、ちゃんと一生のことが予定されておる。その予定を解明・指示してくれるものが易である。というように考えて、そうして易者の所へ行く人がずいぶん多いようであります。この世の中で何が一番知りたいことか。
実はみな自分を知りたいのであります。
ところが、易というものは、そういう浅はかなものではないのでありまして、天地生々の理法、したがって天地の大徳にしたがい、人間はいかに生きるか、いかに生くべきかということを体験に徴して教える学問であります。
ところが、天地の生というものは、これを言い換えれば、化・変化であります。不易のなかの変化であります。その『易経』の乾卦篇に、生の作用として、「元・亨・利・貞」という四つの作用を説明しております。この四つは更に一「元」に帰することができる。元・亨・利・貞は一元になる。
元という字には少なくとも三つの意味がある。空間的に言うと、本という意。それから時間的にいうて、初めという意味であります。(中略)もう一つは、部分的存在に対する「全体」の意味であります。
でありますから、これは摩訶という言葉と同じです。摩訶という言葉は、仏典に出てまいります言葉ですが、これは翻訳できないですね。梵語の「マカ」「マハ」――これには、「数」でいうと「多」の意味。「量」でいう「大」の意味。数だの量だののほかに「質」でいうと「すぐれた」という意味をもっておる。いわゆる「勝」です。大・多・勝、少なくともこの三義を含んでおって、どの一つを取り出して限定するわけにはいかぬので、「マカ」あるいは「マハ」という。
同じように、元は、「もと」「はじめ」「全体性」の三義を含む。だから「元に」と書いて「おおいに」とも読む。だから「元気がある」ということは、これを何気なく使っておりますけれども、たいへん学問的用語であります。非常な深い意味をもっておる。むやみに威勢のいいのをいうんじゃないんです。
われわれの生活の「もと」になり、「はじめ」になる。また、スケールの大きい、分割・分析のできない渾然たる、この「全き」という意味――完全という意味を含んでおるのでありまして、「あいつ、きのう元気だと思ったに、今日会ってみたら、ペシャンコになっておった」などというのは、これは元気ではないのです。
こういうのは「客気」といいます。お客さんです。きのう来たと思ったら、今日はもう居なくなった。あんなのは元気ではない。元気とは、われわれの一切の生活・活動・存在の本質になるエネルギーのはたらきをいうのであります。
この「元」のはたらきが展開して「亨」、つまり途中で屈してしまったり、行き悩んだりなんかしない。どこまでも「とおる」。だから「亨」という字を「とおる」と読みますね。亨通(出世する)などという。それは、いろいろの作用を活発に行わせる。
そこで「利」といいます。
「利」は、われわれのあらゆる作用の活発なことをいうのであります。だから「利く」、薬が「効く」という「きく」に使います。皆さんのよく知っておられる、足利尊氏、これは「足利」と書いて「あしかが」と読みますね。何でこの文字を「かが」と呼ぶのかと思って調べてみると、これはやはり文字学で説明をしておりまして、(利の字の)この偏はもちろん稲、作物ですね。旁の方は、これを切る刃物であります。これは研ぎすましてよく切れるほど好いわけでありますから、そこで刃物がよく使えると、役に立つという意味、それから、それはどうせ、ぴかぴか光らせてあるから、輝くという意味になるのです。
だから「あしかが」と読むのだそうです。しかもそれは、終始一貫したものでなければならぬ。「今日よく切れたが、明日はもう切れない」というのではいかんので、変わらない不変性がなければならない、
それが「貞」であります。
「貞」は「さだ」とか、「かたい」とかいう。元のはたらきを述べるというと、亨・利・貞になる。亨・利・貞は、一元に帰する。元・亨・利・貞が生のはたらきである。「生きている」ということは、われわれが元・亨・利・貞であるというのである。だから私どもの生活、私どもの存在は、元・亨・利・貞であるかどうか、ということを常に反省すれば、これは生活の大きな基準になるわけですね。法則・拠りどころになるわけであります。
この元気は、人間だけの持っておるものではなくて、宇宙――万物に通ずる生のはたらき、すなわち天地の大徳である。これをまた元と同じ意味において、「一」といい、「太」の字をつけまして、「太一」という。「一」を少し曲がりくねらせると、ちょうど春に出た芽が、寒気にあって蠕動する、曲折する。それが「乙」という字でありますが、だからこの「一」を「乙」の字でも書きます。元気というのは、言い換えると、「太一」「太乙」である。
その「一」なるものは、万物の本であり、無適の道であります。無適の適は、敵対の敵ではなくて、相対すなわち対するという文字、ものは相対から成り立っておる。とくに、東洋民族のほとんどすべての思考的原則になっておるものは、「陰陽相対(待)」の理法であります。今日では、科学がこの陰陽相対の理法を活用しております。相対は相待であり、「無敵の道」は「無適の道」。「相対」が対照しつつ、融合・亨通する。元・亨・利・貞する。これが宇宙生成化育の自律であります。
われわれに大切な根本的な生、これに順うのを善と謂い、これに逆らうのが悪であります。
中共政権を許すことができないのは、この生を無視するからであります。生を軽んずるからであります。(中略)近頃の紅衛兵運動をご覧になってみてもおわかりでしょう。人間の生というものを眼中においていない。生を軽んずること、塵芥のごときものがある。これは少なくとも、人間的・東洋的でない。断じて中国的でない。
この生のエネルギーともいうべきものを「気」というのであります。
生と気
気(氣)という字について古典を調べてみますと、このごろ考古学が盛んになり、いろいろ発掘が行われて、昔の文字が大分解明されるようになりましたが、古く殷代に使われておりました「キ」という字を見ますと、われわれがいま「既に」と使っておりまする「既」という文字やら、それから「米」のない「气」が使われているのです。
「既」の文字の左の方は、器物に食物を盛った象形文字である。あるいは、その香りをいう。右の方にあります文字は、――食物に向かっている人間の象形文字であります。あとの文字、すなわち「气」は、屈曲して上る湯気のようなものをさす象形であります。「气」から「氣」という字が出てきます。
人間は火を使うことから、いろいろ発達しましたが、そういうことを表しています。それから米を作った。食物を作ったところから、「氣」を生じたのです。それから、氣が発達すると、これが人間にとって、めでたくもなり、悪くもなる。後の方にもっぱら「氛」を使います。
この「旡」と「氣」とがのちに通用するようになり、やがては「炁」も使われるようになりました。シナで老荘系統、道教系統の古典には、このむづかしい「炁」の字が多く使われております。まあ、こういうのを見てくると、非常に古くから人間は、われわれの存在、われわれの生の根本的なものを探求しておったことがよくわかる。
気を養うこと
そこで、われわれは「気」を養うということが、一番根本の大事です。いわば生のエネルギーを養うということ、言い換えれば「元気」ということが一番です。元気がないというのは問題にならぬ。しょぼしょぼして、よたよたして、一向に反応がないなんていうのは、論ずる価値がないので、とかく人間は有形無形を論ぜず、元気というものがなければならない。元気というものは、つまり生気であります。生のエネルギー、生々としておるということであります。
われわれの第一義は、ぺしゃんこになったり、ふらふらになったり、よたよたになったりしないで、常に生気溌溂としておることです。道徳だとか、信仰だとかいうものは、悩める者の逃げ場所であると思っている人が随分あるのですね。大きな間違いであります。道徳とか、信仰とかいうものは、生の高い形態であります。これは、もっとも元気に富んでおらねばならないことです。したがって元・亨・利・貞で、まっすぐに通達しておらなければならぬ。
弘法大師の密教を調べてみますと、弘法大師は弟子をとるのに非常に厳しかった。めったな者を内弟子にしなかった。今日から見れば差別的とも見えるかも知れないが、目が一つつぶれておっても、指が一本足りなくっても弟子にしなかった。よくよくできた人間でない限りは、弟子にしなかった。なぜかというと人間というものは、精神的欠陥には割合に無自覚だが、形態的にはおかしいほど神経質で気にかける。指が一本なくっても、もう気にする。
目がつぶれているとか、耳が欠けているとかすると、もう人前へ出ないとか、出られないとかいうような、まことに意気地ない、ひがみ易い。そういう者は、入道・人を救う僧となるような力はないといって入門させなかった。五体円満で、なおそれに満足せずに、もっと尊いものを求めてやまぬ者であって、はじめて入道することができる。心に自己卑下をもつ、インフェリオリティ・コンプレックスをもつ、そんな者は得度(僧侶になること)の資格はない。
というのが、大師の弟子に対する入道のやかましい原則であった。だから目が片方つぶれておったり、指が一本なくっても大師の弟子になれるのはよくよくの人物でなければならなかった。私はこれに大いに共鳴するのです。
貧乏したから信仰に入ります。病気だから救いを求めます。こういうのは無理はない。当たり前であるが、しかしそれは至極でない。あらゆる者、悩める者に救いは必要だけれども、真の道に入るためには、五体完全、生活条件が円満具足しておって、なお且つその上に求めるのが、これが本体です。これがわからぬから、「わしはもう食うにも困らんし、身体も丈夫だし、なにも信仰だの、宗教だの要らぬこと」という愚物が出てくる所以であります。こういう連中は道とか、求道とかいうことが根本的にわかっていないのです。
元気というものは、したがって世にいう人物というものの、一番の原則であります。あれは人物である。あれはまだ人物ができておらん、などとよくいいますね。人物学というものは実におもしろいものでありますが、これが今日のいろいろな専門の学問になっておりますが、皆さんがとにかくしじゅう使っておられるこの「人物」とは、それではどういうものかというと、案外これがわからない。これは人間にとって、もっともおもしろい学問の一つであります。
その人物の第一原理あるいは根本原理は、やっぱり「元気」にある。元気があるかどうかが、一番大切であります。そのまがいものが客気です。
元気というものがあって、はじめてそれからいろいろの精神内容・人格内容が生まれてくるのです。元気は、天地の大徳、つまり生成化育・造化の力ですから、あらゆる人間内容はここからできるのです」
さすが安岡先生、教えの塊であります。
こんな短い文章に教えが至る所にある。恐らく、こういった文章を初めて読んだ人は、あまりの教えの根塊っぷり、高尚っぷりに度肝を抜かれてその精髄を味わうことが出来ないやも知れません。
かくいうわたしも、安岡先生の本を50冊ほどあってすべて読みましたが、その教えの一割も理解できておるかどうか、といったところではありますが。まあ、だからこそ、こうして復習するわけですけどね。
そして、それを正しく学ぼうと思えるかどうかも、また元気によるのです。
元気があれば、自身を正しく成長させようと、より高く己を進化させようとしますので、ありがたい教えをするすると受け入れようとします。しかし、元気がなくなってしまえば人の教えを素直に受け入れる気力すらなくなってしまう。なんでも、本当に精神が落ち込んでくると、本を読む、という気力すらなくなってしまうのだそうですね。
元気があれば己をより良くしようと思える。これもまた、元気の内容です。
なので、渋沢さんが最初におっしゃった、
【その気たるや、至大至剛、直を以って養いて害なし、すなわち天地の間に塞がる】
元気、本質的生命エネルギーとは、非常に大きく、非常に強い。正しく養ってあげて、よこしまなことを考えて己の心を害することがなければ、そのエネルギーはやがて天地につながるであろう。
ということは、いま見てきた安岡先生の教えを伺えば分かる、というわけですね。
「元・亨・利・貞」
それは、元。始まりであり、根本であり、すべてである。すべてに宿るエネルギーである。
そして、亨。その働き、エネルギーを十二分に展開、推し進めてあげること。充足させてあげること。
だから、利。そのエネルギーの充満をよく利くものにすること。よりよく磨き上げてあげること。
よって、貞。これらが円満に行われれば、それは永遠性、不朽、不尽の価値を持つ。
人間一人から発したエネルギーが、様々な苦労や苦しみによって練磨され、自身の積んだ学問や心がけによって研磨され、それが一生のものとなれば、それは歴史に名を残す、歴史に忘れられぬ、絶対の価値をもつ。永遠のものとある。
歴史上の偉人や英雄の言葉、生き様がわれわれの心を打つのは、こういう真理にあるからですね。だから、われわれもこういう人間になりたいと思う。ならねばならないと奮起する。偉人、英雄の起こしたエネルギーが、時間、空間、民族、国家を超えて受け継がれてゆく。これが、「天地の間に塞がる」天地に行き渡るほどのエネルギーになる、ということですね。
元気があれば、難しいことでもわかろうとする。今は分からずとも、いつか分かりたい、どうすれば分かる人間になれるであろうかと、検討する。検討し、理解しようと頑張れる。
難しいから分からん。というのは元気がないからです。
己自身を活発にさせるほどの元気がないからですね。
シンデレラがなんで白人でないといけないんだ! 黒人でもいいじゃないか! 多様性だろ! というのなら、それこそ多様性のなるままに白人のままでもいい、ということになる。白人世界のシンデレラも、黒人世界のシンデレラもあって、それぞれ住み分ければよい。それを何が気に食わないのか、自身の価値観を押し付けてくるのは、元気のなすことではありません。よこしまなる心のすることであります。だから不朽性がない。永遠には絶対になれない。
本当のものは永遠なんです。朽ちないんです。
そういうことをきちんと理解するのも、元気であるからこそなんですよね。
とは申せ、安岡先生の教えは、さすがにこの文章量では理解しにくい部分もあるので、わたしなりに解説してみたい所。たとえば、
「不易」
といきなり出てくるのでなんのこっちゃ、となりますが、易を「生きる」とおっしゃってますが、他にも易には「易わる」という意味があるそうです。変化のことですね。だから、不易、変わらない、不変、という言葉がある。また、
「その「一」なるものは、万物の本であり、無適の道であります。無適の適は、敵対の敵ではなくて、相対すなわち対するという文字、ものは相対から成り立っておる。とくに、東洋民族のほとんどすべての思考的原則になっておるものは、「陰陽相対(待)」の理法であります。今日では、科学がこの陰陽相対の理法を活用しております。相対は相待であり、「無敵の道」は「無適の道」。「相対」が対照しつつ、融合・亨通する。元・亨・利・貞する。これが宇宙生成化育の自律であります」
陰陽の相対性、相待性、などといわれましても、なかなか難しいお話ではあります。
これは、矛盾、敵対する両者を和解させ、仲良くさせる、というくらいの意味になります。
例えば、資本家と労働者が、本当に和解し理解しあい、それぞれがそれぞれのために働くようになれば、それこそ世の中が一変するほどのよい世界になるでしょう、ということですね。
ただ、悲しいかな人間には、エゴ、欲というものがあって、そんな大義や公論のために生きることはないから、決して世の中がよくなることはない。これが人の世ですが、しかし、思想の上ではすでにこういう矛盾、敵対する二者を和解させ、よりよく進化させる、ということを行っているわけです。それがこの、陰陽相対の理法ということですね。中庸、とは、この相対関係を脱し、よりよく進化することをいうわけです。
例えば、「心中」という言葉も、この陰陽相対の思想で作られております。
身分や立場が邪魔をし、ついに現世においては一緒になることが出来ないから、せめて、あの世では添い遂げよう。現世では低い位置に、低い心に甘んずる他ないから、あの世で救いを、より理想的な関係になることを目指そう。
心を、中す。中とは、矛盾、敵対する二者の相対性を克服し、超克し、より高い次元、より高い世界を目指すことを言います。情死、などと身も蓋もない言い方をするものではない。時のめぐり合わせにそわなかった二人に、せめて、心だけはあの世で幸せになって欲しいと願う、学のある人が、「心中」と名付けたわけですね。これも陰陽相対の理法。
他にも、東洋の宗教はこの教えです。創造主と、被造物という、絶対に相容れない、絶対に一緒くたにしてはいけないという、拒絶の思想ではありません。神や仏も、ある意味、われわれであり、われわれが進化、成長したその未来の姿なのである。
神や仏は、超越者、超常の、隔絶された存在なのではない。われわれのご先祖、われわれのありがたい先輩なのだ。だからこそ、われわれは神や仏のご恩、慈悲や恵みを感謝するからこそ、頑張ってわれわれは、神や仏のごとくならねばならないのだ、という思想ですね。
昨今の日本で陰陽相対の理法、などということを言う人は全然いないから、何のことかさっぱり分からん状況になっておりますが、東洋の歴史はそもそもにおいてこういうありがたい思想によって成り立って来ておるわけです。ちゃんと学べばちゃんと分かる。ハズ。
ちなみに、「無敵の人」という言葉。
正しい学問があれば、自暴自棄に陥っただけの愚物をこのように表現することは決してなかったでしょうね。無敵、敵無しとは、敵対しない、敵を作らない、ということです。敵対関係をやめ、和解することを目指すものです。自暴自棄になったことを言うのではありません。
正しい学問がないから世迷い言を言い始める。正しい学問があれば、物事をもっと多角的に、多面的に、長期的に見ることができるはず。そういう心を養うのも、学問なのであります。元気なのであります。
元気があれば何でも出来る、ものなのです。
とは言え、こうして学問的に取り扱うから少し分かりにくくなるわけでして、もっとも簡単なのは、偉人の歴史を学ぶのが一番簡便です。孔子様はこういうことをおっしゃっておいでですね。
【これに先んじ、これを労す。益請う。曰く、倦むこと無かれ】
子路さんが為政者の要諦を訪ねました。そうすると孔子様は「民衆よりまずは自分自身が率先して働きなさい。しかし、民衆の働きにはきちんと労いなさい」とおっしゃった。
子路さんはその言葉の意味が分からず、「それくらいっスか?」と言った。それを見た孔子様はすかさず言葉を重ねられた。
「飽きて放り出すなよ?」
「倦むこと無かれ」
非常に重い忠告であります。こういう、素晴らしい偉人の教え、歴史を学ぶことが何より自分自身を磨くための教材となります。こういう教えを受けていれば、少なくとも、お店の容器をねぶりまくって動画で拡散するような人間にはならずにすんだのでしょうね。
といったところで、『論語と算盤』の丸写し。五、はここまで。
したらばな~。
「青のオーケストラ」のOP・EDを聴きながら。
今季のOPの中では最終的にこれが一番好きかな。EDなら「地獄楽」が一番好きですね。今季は内容と言い、歌といい、豊作ですね。アニメ好きとしてこれほど喜ばしいことはありません。
世知辛い世の中でも生きてる甲斐もあるというものです。-人-。