悟りって? 思案の一例
おこんばんはです。豊臣亨です。こんなタイトルで今晩も戯言をほざくつもりでございますが、その前に昨今、素晴らしいなろう作品と、残念ななろう作品に出会ったのでまずはそこからお話したいと思います。
まず、素晴らしいなろう作品のタイトルは、
『亡びの国の征服者~魔王は世界を征服するようです~』
まずは簡単なあらすじ。異世界に転生した主人公の名はユーリ。この異世界にはチョコボっぽい駆鳥や人を乗せて運べる王鷲などはいるけど、魔法などという便利なものは一切なく、しかもユーリの種族は十字軍という連合諸国家によって大絶賛侵略されている真っ最中という世界観。
転生前のユーリは、大学の研究室で働くほどの頭脳の持ち主で、で、お父さんであるルークは優れた騎士の卵であった(故あって騎士にはならなかった)ので、神様から下賜されたチート能力などは一切ないけど、その優れた頭脳と身体能力をもって、十字軍と戦う。といった塩梅。
緻密に練られた世界観と、チートやご都合主義一切なしで丁寧に描かれる物語はただただ圧巻。面白いなろう作品は数あれど、創作した宗教で宗教論争を描いた作品はこれだけだろうと思うw
物語好きを自認する諸氏は必ず読むべきだろうとは思いますが、昨今のチート無双を求める子どもたち向けでないことは確かで、また描写が時々難解に思うところがあってオツムのよろしくないわたしにはちと難しかったですw それでも最高級品の作品であることは確かです。十字軍との決戦において、どんな超兵器をもってくるのかとワクワクしていたら、よもやあれをもってくるとは予想外。ちゃんと伏線だったんだなぁ、と関心しきりw オメメメ(おすすめの最上級。ウソ)
で、次に残念な作品。タイトルは、
『ラピスの心臓』
これは異世界転生ものではないですね。ではあらすじ。その世界の人間は二種類ある。彩石という輝かしい宝石の如き石と、それに見合った魔法能力をその身にもつ貴族階級と、濁石という濁った石を持つだけで、魔法能力などはない平民階級。さらに、その世界には獣や昆虫タイプと様々な姿をもつ狂鬼という、人の戦闘力を圧倒的に上回る化け物がおり、それら化け物がいる世界を深界と呼び、人々が怯えて暮らす世界を上層界と呼ぶ。そんな世界で、主人公シュオウは、超人的な動体視力と師匠から仕込まれた戦闘能力で戦ってゆく、という塩梅。
では何がひどいかをかいつまんで取り上げてみますと、お話は少し進んだ所、主人公シュオウが、のじゃロリ公爵(100歳を超える)に寄寓していた時のお話での顛末。
そこに遊学という名で、腐った性根を叩き直すべく、のじゃロリ公爵のもとにアホ王女が送られて来ることになりました。アホ王女はなんやかんやあって心を病んでおり、リュケインの花という強い幻覚作用をもつ花にひどく依存、つまりシャブジャンキーとなっています。で、公爵屋敷にやってきたアホ王女、何かのはずみでハンカチを落としますが、それを拾おうとしたシュオウを激しく殴打。超人的な動体視力と、狂鬼をあっという間に屠る超人的な身体能力をもつ主人公は、なんの運動もしていなさそうなジャンキー王女の殴打をまったく避けることもできませんでしたとさ。めでたしめでたし。
で、さっそくリュケインの花を要求するアホ王女、しかし、自領でシャブを認めるわけにはいかないのじゃロリ公爵はそれら王女の持ち込み品すべてを破棄しておりました。とはいえ、そんなことでジャンキーがシャブを諦めるわけもなく、なんやかんやあってその花を取りに行くことに。
………は?w アホとはいえ王女が、「取りに行かせる」のではなく「取りに行く」だ?w 話の都合上そうしたかったにせよ無理があるやろw ってか、すぐに取りに行く、ってその花は年がら年中咲いとるんか?
で、皆が寝静まった深夜、なんやかんやあって馬車に乗ったアホ王女と、主人公と親衛隊隊長と4騎の親衛隊員と、のじゃロリ公爵の部下というメンツで花を取りに山に向かうことになります。そして、そのことをのじゃロリ公爵が知るのは朝になってからになるでした。
は?w この公爵屋敷には衛兵も見張りも誰もおらんのか? 門番も門兵もおらんのか? みんな仲良く夜になったらご就寝か? 馬車がとろとろ走ってるのに、誰が門を開けたんだ? なにか? センサーでもついてて自動で開閉するのか? それともこの公爵屋敷は塀も門もな~んもない、バリアフリーでストレスフリーな屋敷なんか?
どだい、わけわからん化け物が出現するような世界で、真夜中に出かけるという選択肢自体ありえへん。別に真夜中でなくても王女が花を取りに行く、という話の展開の仕方は他にもあるはず。その世界に住んでいる人間なら化け物の恐ろしさは骨の髄まで叩き込まれているはずなのに、いくらアホでも無謀に過ぎる。
ちなみに、のじゃロリ公爵には影狼という、忍者みたいな特殊部隊員がいるんですが、なんの活躍もなし。きっと全員遠方に任務で向かっていたんでしょう。さらに、親衛隊長らを含む全員が(のじゃロリ公爵の部下も含めて)、何故のじゃロリ公爵に真夜中の外出を一切報告しなかったかといいますと、
怒られるから。
小学生かw
なにか? 報告すると怒られるけど、報告しなかったら怒られないとでも思ったのか?w ちなみに、この親衛隊長たちは、王女護送中、公爵屋敷に来る前にこういう会話を行っております。
「実際、もしここで王女殿下になにかあったとしたら、自分達はどうなるんでしょうね」
「もしもの話でいうのなら、私も含めた親衛隊は全員死罪のうえ、家は取り潰しになるくらいは当然でしょうね」
……で、なんで、「王女殿下の身に何かあっては我ら死罪は免れませぬ。我らが身命をとして花を持参して参ります故、危険な深夜に王女殿下が出向かれるなどと申されますな」とか言えなかったんだらう。きっとオツムが小学生レベルだからだろうな。
で、山を登る馬車御一行。で、案の定といいますか、ハチ型の狂鬼に襲われます。なすすべもなくやられる親衛隊。そして、アホ王女を乗せた馬車は親衛隊長ごと崖から転落してしまいます(多分、記述はないと思いますがこの親衛隊長は御者でもしていたのかな?? 御者をしていて護衛が務まるものなのかな??)。
ってか、馬車ごと山登りできる山、ってどんな山なんだ………? もしかして、馬車でも登れるほど完璧に整備された山なのか? そんな人の手で完璧に整備された山に、そんなレアっぽい花が咲いてるものなのか?
しかも、いくら強力な狂鬼とはいえ、面白いほど蹂躙される親衛隊員。
この親衛隊員たちは、貴族であるから当然彩石があるのでしょうけど、魔法をつかって狂鬼を撃退しよう、などという描写は絶無。皆無。しかも、狂鬼と戦おうとしたのは主人公くらいで、ひどいのになると王女を見捨てて逃げ出す始末。
なんだろう、王女を守る気概と能力をもった人間を親衛隊員に任命してもらっていいっスか?
で、なんやかんやあって同じく崖に落ちる主人公。そこにあったのは、虫の息と成り果てた親衛隊長と、何故かまったく無傷のアホ王女であった。執拗に追ってくるハチ型狂鬼から逃げ出すも、親衛隊長は死亡。アホ王女は癇癪を起こしてこう言い放ちます。
「誰のせいでこんなことに――私に向かってこれ以上の不敬な態度は許さぬぞ!」
だ・れ・の・せ・い・で………?
親衛隊長が死んでんでんで! ちなみに、この親衛隊長、恐慌状態に陥った馬車の馬を制する動きをとって真っ逆さまに崖から転落したおかげで、どんな魔法を使ってどれほど有能な人だったのか、なんてことはいまいち不明なままご退場。予定調和で殺してるから王女も、そのことを悲しんでいるような描写もさしてなし。
ってか、せっかく作ったキャラをざつ~な展開で殺すなよw そんじょそこらのモブ兵ならともかく、親衛隊長ならもっと活躍させてから名誉の戦死をさせてやれよ。真夜中に馬車で山に登って滑落死しました~~とか、いやそりゃそうなるよ、って誰しも思うし親が聞いたら憤死するって。何より可哀想だろw
で、なんやかんやあって見事、王女を救出し生還を果たした主人公。英雄的大活躍を見せた主人公に国から与えられたものは、
ちょっとした昇進と、最前線送りでした~~。
うん。ここまで読んだらもう十分っすw
最初の、貴族娘たちの卒業試験に参加したお話までは面白いと思っていたのですが、それ以降は矛盾のオンパレード。矛盾がひどすぎて怒りを覚えるレベルw 途中で作者が入れ替わっているんじゃないかとすら疑わねばならないレベルw
途中で読むのを諦めた作品としては、アニメ化された『転生貴族の異世界冒険譚』もわたしには厳しかったですが、しかしこのラピスの心臓は転生貴族をはるかに凌ぐダメっぷりでした。亡びの国の征服者を読んでから次にこれを読んでしまったから、余計に落差の激しさを味わってしまいますた。
これに比べれば転生貴族は、アニメは面白いw Tか橋Nつ子女史をシリーズ構成に迎えた作品ですが、ギャグに振り切っててなろうよりは遥かに見られますね。特に、「どうも、この国最大の圧力です」は面白かったw
では、前置きのなろう論評を終えたところで、悟りについてまたもや語ってみたいと思いまする。以前に、多くの人間が悟りに至りたくないのだ~、と言いながらまた悟りの話をするのも阿呆な次第ではございますが、1億も日本人がいれば悟りに至りたい人も一人くらいはいるかもしれないので語っておきたい所存。
さて前回では、悟りとは、その人の人生の最終局面、もはや酸いも甘いも噛み分け、また人間(世の中)での学ぶべきを終えた人間が至るべき境地であるとお話しました。今回は副題の通り、悟りに関してひとつの思案をしてみたいと思います。
wikiで悟りを見ますと、「迷いの世界を超え、真理を体得すること」
と出てきます。簡単に言えば、悟りとは分かること、理解すること、この世の物事のいろいろなこと、いろいろなものを理解しているので、迷いがなくなる。迷わなくなるわけですね。
例えば、大金持ちになる人生と、悟りを開く人生、どちらか好きな方を選べ、などという選択肢があったとしますと、多くの人は大金持ちになる人生を選びたくなるでしょうが、悟りに至る人間というものは、悟りを開く人生を迷いなく選択できるだけの学びと理解があるわけです。つまり、学びと理解と経験の総和が、悟りなわけですね。
つまり、「あー、そーゆーことね。完全に理解した」←わかってない
ということですね。矢印の部分はさておいて、完全な理解、確信、とも言えます。確信するまで理解することが重要なわけですね。
「邯鄲一炊の夢」という言葉があります。
これは中国は唐の時代、盧生という貧乏な青年のお話。趙の国の都の邯鄲で道士の呂翁と会った時、栄耀栄華が思いのままになるという不思議な枕を借りてそれで寝てみました。その後、彼は有力者から嫁をもらい、役人としてトントン拍子に出世し宰相にまで至り、子孫にも恵まれて老衰するという人生を味わったのですが、実はそれは夢で、しかも夢から覚めると先ほどから炊いていたご飯がまだできあがっていなかった、というもの。
そこで、ご飯を炊くような短い時間に人生の盛衰を味わった彼は、人生というものはなんともはかないものである、と悟った、というものですね。
現実には一炊の時間ですが、夢の中では自身の人生を丸々生きたわけで、それだけの学びがあればそりゃ悟りにも至れるでしょ、ってとこですが、それだけ大切な学びを得た。人間がこうして生きている行為とは、いうなれば人生の栄枯盛衰を知るため、経験するための一炊の時間とも言えるでしょう。茫漠たる悠久の時間からすれば人の一生なんてまさしく一炊のごときもの。
そういう意味ではだから、昔から人は歴史を学ぶわけでもある。歴史を学ぶということはまさしくこの一炊の夢そのもの。
誰がどう生まれ、どう成長し、どう挫折し苦難を味わい、それをどう乗り越え、どのように出世したか、はたまた没落したか、歴史を学ぶとそれこそ様々な時代、国家、民族、有能無能、男女の別なく限りなく味わえるわけで、こういうものを学ぶことも大切な学びとなるわけですね。
でも、そうなると歴史学者はすべて覚者、悟りを開いているのかと思いきやそんなことはないわけで。論語読みの論語知らず、で、論語を読んでいるからといって、孔子様のごとき人間にはそうはなれぬもの。
ここで重要だとわたしが思っているのが、悟りに至るためには、いろいろな物事を理解すると同時に、いやそれ以上に、天、または神や仏に対し絶対の信頼をする、ということになるでしょう。
だって、悟りを開く、ということは人間を終える、人間という修行段階を終える、というわけですから、そこには当然、「次のステージ」があるわけです。ない方がおかしい。もしなかったら、悟りに至った人間も何の修行もしていない人間も、同じゴールということになってしまう。観鈴ちんだって、あの短い夏に人生のすべてをやり終えたと思ったからこそ「ゴールするね」と言えたわけですが、やり終えた人間とやり終えることなく没した人間が同じゴールであるはずがない。そこには必然、差があると考えなければ、生きる甲斐がなくなってしまう。そして、その甲斐とは何かと考えますと、天、神や仏になるための次の修行、と考える他はないわけです。
孔子様も、
【天、予に徳を生ぜり。桓魋 それ予を如何せん】
天がわたしに徳を授けてくださったのだ。その偉大な使命があるわたしに対し、桓魋ごときがわたしを害せるはずがない。
桓魋は宋の国の人。孔子様が宋の国に行った時に、孔子様を殺そうとしたのが桓魋で、それを受けて孔子様がこのセリフをおっしゃったわけですね。
孔子様の、この天に対する信頼感はまさしく確信といってよいでしょう。他にも、
【天を怨まず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者はそれ天か】
どんな不運、不幸があろうと天を恨んではいけない。人の罪科を責めてはいけない。こつこつと日々学問をすればやがてそれは真理へと至る。わたしを本当に知るもの、それは天以外にはあるまい。
とおっしゃっているように、孔子様の天に対する信頼は揺るがないです。まあ、孔子様も、顔回さんが亡くなられた時には「天、予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり」と激しく慟哭されたわけで、普通の人間だったら到底耐えられないような苦労を味わわれたわけで、誰よりも天を怨んでもよいような気はしますが、それでも決して孔子様は天につばを吐くような真似はされなかった。また、老子でも、
【天網恢恢疎にして漏らさず】
天の網、つまり摂理は網目が大きいのでスッカスカにみえるが、決して何物も漏らさない。
と言っているように、これは孔孟思想だろうと老荘思想だろうと、天に対する信頼は揺るがないですね。また、これまた有名な四知。
【天知る、地知る、我知る、汝知る】
これは後漢の時代のお話。楊震という政治家に、昇進に関して恩を感じた王密が賄賂送ろうとしたところ、楊震は拒絶するのでそこで「誰も知っている者はいませんから」と王密が言うので楊震がそれに答えた時のセリフですね。この当時ではワイロはある意味お歳暮みたいなもので、むしろないほうがおかしいレベルのものですね。ワイロをよこせ、と人に要求し過ぎるとさすがに駄目ですが。
これは、実は四知といいながら、本質は自分が知っておればそれで十分、ということなのですが、自分が知っているということはすなわち天もつながって知っている、ということになりますね。これも、天に対する絶対の信頼によっています。
人間生きていれば、天、神などの存在を信じる他ないような出来事のひとつはあるはずで、悟りに至るほどの人であるならば、神や仏は自然と、普通に信ぜられる人である、と言ってよい。
逆に言えば、神や仏をまったく信じていない、無神論者が悟りに至ることなどあるはずがない。と断言しても良いでしょう。
悟りとは、仏教における阿羅漢であり、輪廻転生の輪から解き放たれた仏であるわけで、人間以上の存在、人間以上の状態にあることを指します。人間以上の存在、状態を「確信すること」が悟りであるわけで、そういう存在、状態を否定する無神論者に、悟りがあるはずがないわけです。
だから、無神論者、共産主義者ほど、現実に固執する。
なにせ、奴らにとっては死=無なわけですから、この世にすがるほかない。この世で快楽、悦楽そのすべてを味わう以外に価値がない。奴らには善行も悪行もあるわけがないので、やってやれないことはない。スターリンだの毛沢東だのが人々を粛清することに一切の躊躇もないのも、奴らには、落ちる地獄もないから。
いや、ないはずはないんですが、奴らのオツムの中にはありません。だから、どんな悪行も出来る。当然、善行など行う訳がない。行ったって、それを活かす来世なんて概念も奴らのオツムにはありませんしね。自身の求める快楽、悦楽を邪魔する存在があれば、全力で排除しようとするのも現実に固執するからに他ならない。
今の日本でも、「ヌチドゥタカラ」生きる以上の価値はない、という思考が瀰漫しているのも、この左翼思考の影響ですね。本当は、命というのはいま申している、悟りを開くための手段なわけですけどね。
なので、わたしが福沢諭吉の『学問のすゝめ』を否定するのはそういうことでもあります。福沢は無神論者であり無宗教者。それで、世界四大聖人のお一人である孔子様を面罵するようなふざけたことをするわけで、こんな阿呆を許せるわけがない。いくら『学問のすゝめ』がその当時300万部売れたような書物であろうがそんなことは関係ない。わたしにとっては福沢は阿呆。これがわたしの確信です。世がどうとか他人がどうとか、全然関係ございません。
こういう確信を積み重ねる行為こそが悟りなわけです。誰はばかっても致し方なし。
ちょっと信じてる、とかでは駄目ですね。確信まで至らないといけない。老子にも、
【道を聞かば、上士は努めてよくこれを行う。中士は存るがごとく亡きがごとし。下士は大いにこれを笑う】
とあります。ここで見るべきは中士。「存るがごとく亡きがごとし」とは、あるようなないような、であり半信半疑なわけで、結局のところ信じてないから道を行わない、ということに他なりません。つまり、道、この世の真理、例えば因果応報など絶対不変の法則を、信じているのは上士のみで、それ以下になると信じていない、ということになるわけです。上中下、ではなく実は上下下、ということになります。
ここにも悟りに至れる人間とは何か、という違いが見て取れます。因果応報ともなりますと、確信できないといけないし、確信できるまで魂のレベルを上げなければいけない。悟りには至れない。善因善果悪因悪果、これをきちんと正しく確信できないようでは、まだまだ未熟、ということになります。
ちなみに、わたしがよく見ているスピリチュアル系のようつべあー(ユーチューバー)さんによると、因果応報というものは必ず行われるのですが、しかし、あまりにも罪が大きすぎるとその者に罰を下すにはその人の魂が耐えられないことがあるので、その人の魂が耐えられるレベルになってから罰を下すそうな。
つまり、何回か生まれ変わり、輪廻転生を経た後に罰を下すことがあるそうです。
まあ、そういうことはそういう能力のある人しか分からないことなので、鵜呑みにするのも何なのですが、輪廻転生を経て罪を償う、ってそれって、因果応報にはツケがきく、っていうことなるのであって、それは非常におかしいことになるんですよね。
因果応報とは、犯した罪に応じた報いがあるわけで、罪を犯したその人に下さないといけないはずで、生まれ変わったら本来リセットされているはず。そのようつべあーさんも、別のお話では生まれ変わったら前世と今世はもはや別の人生なので分けて考えるように、と言ってはいるんですが、それなのに、別の人生なのに、前世で犯した罪だけはきっちり精算させられても、当人にどれだけの自覚があるのか、まったく分からないことになるはずです。かの、女子高生コンクリ殺人事件の被害者も、結構前の前世で相当な罪を犯したから、それに応じた報いを受けた、ということなのだそうですが、いや、知らんがな! って思ったそうです。そりゃそうでしょ。当たり前です。
だから、それを見た周囲の人、つまり中士の人々だって正しく因果応報が行われたのか分からないから、結局半信半疑になってしまう。それを信じられるのは、それだけの学問と研鑽を積んだ上士だけ、ということになる。
この、「ツケがきく」ことによって因果応報が行われても、それが分かるのはスピリチュアルな人だけ、ということになり、だから、この世では善因善果悪因悪果がいまいち広まらない、ということになるのです。
これが本当かどうか分かるのは、スピリチュアルな能力をもった人だけなわけですが、もし、これが本当なら、天は、その人の、罪を犯した人の魂の成長を願ってそういうシステム(?)にしたのかも知れませんが、中士の成長にはまったくつながっていない、むしろ逆効果になっているわけで、天としては、必要なのは上下下の、上だけで、下下はそこまで重視していないのだろう、と考える他ありません。なんとも罪なことをされたものです。
それはさておき、悟りに至るほどの人の特徴としてこういうことがあります。孔子様は、
【道を志して 悪衣悪食を恥ずる者は 未だともに議るに足らず】
人徳を志して、それなのに粗衣粗食、粗末な衣服や食事で満足できないような者はともに重要な話し合いはできぬ。
また、宮本武蔵も同様のことを言っており、「独行道の十九箇条」には、
三、身に楽をたくまず。
四、一生の間欲心なし。
十一、居宅に望みなし。
十二、身一つに美食を好まず。
十七、老後財宝所領に心なし。
といった心得を遺されています。孔子様と同じですね。
最初に言ったことともつながるのですが、大金持ちになる人生と、悟りを開く人生、どちらか好きな方を選べ、という選択肢があったとして、孔子様や宮本武蔵は間違いなく、悟りを開く人生を選択される方々なわけですね。
それはなぜかと言えば、金や財物など、結局のところ、得るのは物質的、肉体的な安楽のみであって精神的、永久的な安心立命などを得ることができないからです。
米国など、資本主義として世界最大の財と軍事力を得て、それでもなおなんらの安心を得ることもなく常に敵と戦っているのは分かりやすく象徴的な存在と言えるでしょう。まあ、その敵にしたって自分自身でこしらえあげた側面もあるのでまったく自業自得なわけで、そういう、永劫に視野や心を向けることなく、常に近視眼的、唯物的な思考しかもっていないことが米国の決定的な弱点であり、どこまでいっても滅亡に怯えるしかない哀れな存在なわけです。
ですが、孔子様や宮本武蔵などは、身分や財物には恵まれなかったとしても、その人生において築き上げた高潔な魂は永劫に揺るがない。これも確信です。
米国のように、常に、最後まで、滅亡するその時まで滅亡に怯えて暮らすしかないのとは天地の相違があります。他を圧する財や、軍、陰惨な策謀をもってしても決して安心を得ることがない。力を以て他を圧するしか能のないものは、力をもつ他者に怯える他はない。
孔子様は、
【朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり】
朝に真理を会得したのなら夕方に死んでも悔いはない。
とまでおっしゃるわけで、これこそ、確信を積み重ねた方の最終的な見解と言えるでしょう。強大な他者に命を脅かされるような弱者であろうと、その心根まで殺すことは出来ない。「匹夫も志を奪うべからず」ともおっしゃってます。また、西郷隆盛公のお言葉、『南洲翁遺訓』では、
【道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也】
真理を得ようと志すものは、自ずから困難苦難が襲いかかってくるものでありどんな苦境にさらされようとも初志を貫徹するのみで、自分のなす事業が成功するか失敗するか、自身の生死などこだわってはいけない。
物事には生まれつきの有能無能、うまく出来る人、出来ない人があるわけで、人の心を動かす人もあるけれども、人は元来、悟りを開くために生まれてきているわけで、そのために上手や下手、また悟れない人などもいるはずもない。
ただ、ひたすら真理に向き合い、真理とともにあり、もし、さらなる困難苦難に遭遇してこれを克服しようと思うのならば、ますますもって真理とともにあってそれを楽しめる人であらねばならない。
わたしはある程度の年齢の頃から困難苦難に出会いまくっていたので、もはや動揺することはないだろう。それだけは幸せかな?w
とおっしゃっております。これも確信の総和ですね。また、こうもおっしゃっています。
【正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受るに至らん】
道義的行動を重んじて国家は運営されるべきで、そのためなら城を枕に討ち死にしてもかまわんという気概がなければ、諸外国との外交などうまくゆくはずはない。
それどころか、対する国の強大さに萎縮し、物事を円滑に進めることだけのみを主眼とし、自身の信義を捻じ曲げて他国の思うままに従うとなってしまえば侮りを招き、かえって友好など消し飛び、最終的には他国から支配されるのみである。
なんでも、岸田首相はとある半島の貿易関係をホワイトに戻すのだそうな。
レーダー照射事件や慰安婦像設置など、諸問題は一切解決も謝罪もされることなく、ただ、日本で会談をおこなった程度で貿易関係をホワイトに戻せるのなら、彼の国からすればどんな問題があろうともないものとして判断すれば良い、ということになる。
別にとある半島に限ったことではない。
中共の脅威もますます増大するばかりですが、日本がこれに対してどこまで取り組むのかまったく未知数。こちらとしては、中共に内乱とか革命とか起こって自滅してくれるのが一番ですがこれも希望でしかない。
ましてや、日本にとっての最大の敵でありがん細胞、寄生虫とも言える米国がいる以上日本に真の自立もなければ自由もない。常に掣肘を受けて生きる他はない。
安岡先生が大正時代からおっしゃられる通り、日本の未来は暗澹たるものであり、わたしなんぞはこの国はもう駄目だろうという確信しかないのですよね。
だから、とっとと悟りを開きたいわけで。
生まれ変わっても、日本以上の素晴らしい国など他にあるわけがありませんし、しかしだからといって、また日本に生まれても恐らく今以上に大変な事態になっているだろう、という思う他ない。これから日本に生まれてくる人たちは塗炭の苦しみを味わうことになるのであろう、という確信しかない。
中共が自滅して侵略の恐れがなくなったとしても、それ以外の諸問題がはるかにうず高く日本に山積しておりますし、それを日本人が華麗に解決してしまうだけの学問も、日本人としての気概があるとも思えない。
米国は愚かな国であることは確かですが、しかし、そこで生きる為政者は自分の国のために生きていると信じられます。しかし、日本において、自分の国のために生きている為政者が何人いるだろう。中共のため、北のため、南のため、米国のため。他国のため、他国からもえらえる金のために生きている人間はうっじゃうじゃいますが、自分の国のために生きている為政者がいるとはまったく信じられない。信じられるだけの材料、情報が何もない。
「あれは、ザクか!? 連邦に降ったか……その姿は忍びん」
という名言を残した偉人が過去にいたように、愛するからこそ現状を認めるわけにはいかないのです。
しかし、それを何とかする方法など、わたし一人にあるわけがない。だったら、とっと悟りを開いて輪廻転生の輪から脱する他なし。人生が楽しくて楽しくて明日が待ち遠しくてしょうがない人ならともかく、今の日本に危機感を抱いている人は、とっとと悟りを開くべし。
お釈迦様を始め、どうして優れた人ほど出家されたか、また、時の政権から遠ざかったか。遠ざけられたか。
遁世もまた、人の世の宿業のゆえ。
三十六計、逃げるにしかず、ってね。
といったところで今晩はこれまで。したらば。
女神のカフェテラスのOP・EDを聴きながら。
物語自体はありがちなボーイミーツガールですが、OPが格別に良き。やっぱ歌は明るいものに限るw 失恋ソングもたまにはよいが常に聞くならこういう歌が良き。