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『論語と算盤』の丸写し。四、



 岸田首相が公然の秘密(?)でウクライナ大統領ゼレンスキー氏と面会しましたね。これは、日本の面目を大いに一新させたと言うべきでしょう。しかも、なんたる天の配剤か同日に悪の二大巨頭たる、おロシアのプー太郎と中共のペー次郎も握手していたわけで、これこそ善と悪の二面性をはっきりと打ち出す構図となったことになり、ますます日本としては悪に屈せず、戦うべきは戦わねばならぬ、という確たる姿勢を表明したと言えるでしょうね。


 しかも、なんでも駐日中共大使の退任にあたって、岸田首相は面会もしなかったとのことで、対中、対露によりくっきりと対決姿勢を打ち出した、ことになります。これまで親中派と見られていた岸田首相の今回の一連の動きは、称賛に値すると言えるでしょう。


 そうなるとますます日本としては、これまでの事なかれ主義的日和見戦術、洞ヶ峠を決め込むことはできず、対共産勢力との戦いを敢然と行わねばならぬ、と言えるでしょう。


 とはいえ、おロシアは凋落著しいのでこれは戦力外とみて良いでしょうが、問題は中共。


 チベット・新疆ウイグルをみても明らかなように、人道だの道徳だの倫理だの国際法だの、一切合切が中共の前ではゴミクズ同然。やるとなったら本気でやるでしょうし、やってできないことなどない。たださすがに、現状米国を敵に回すような真似は避けているだけで、今後、米国がポリコレで狂乱してゴタゴタしている間に中共によってさらなる内部撹乱だって狙ってくるかもしれないわけです。気球飛ばして軍事情報をスパイしていたわけで、やれることならなんだってやる。何と言っても、かつてソ連は人間が畑で採れるといわれたほど人間を湯水の如く使ったわけで、それに輪をかけられるのが中共。米国に送り込めるスパイだのテロリストだのは無尽蔵に用意できるでしょう。


 日本は一億人死んだらそれで全巻の終わりですが、中華は一億人死んだって一割にも満たない被害にすぎない。さらに言えば文化大革命ではその数、実に一億人死んだかも、という話もあって、そこから恐ろしい速度で復活したわけですから漢人の繁殖能力はゴキブリを遥かに超える。こんな国が横にデカデカとそびえ立っているわけですからこれはどんな罰ゲームなんだろうか。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


『論語と算盤』の丸写し。四、参りましょう。p136




「義理合一の信念」を持つ




「社会の百事、利ある所には必ず何らかの弊害が伴うのは(すう)(この場合は運命の意味)の免れざるもので、わが国が西洋文明を輸入して、大いにわが文化に貢献した一面においては、やはりその弊害を免るることはできない。


 すなわち、わが国が世界的事物を取り入れてその恩沢に浴し、その幸福に均霑(きんてん)(平等に利益を受けること)したと同時に、新しき世界的害毒の流入したことは争われぬ事実で、かの幸徳一派が懐いていた危険思想のごときは、明らかにその一つであると言い得るのである。


 古来わが国には、あれほどの悪逆思想はいまだかつて無かった。


 しかるに今日そういう思想の発生するに至った所以は、わが国が世界的に立国の基礎を築いた結果で、また止むを得ざることではあるけれども、わが国にとっては最も怖るべく、最も忌むべき病毒である。


 したがって、われわれ国民たる者の責務として、如何にもしてこの病毒の根本的治療策を講じなくてはならぬ。(おも)うにこの病毒の根治法には、恐らく二様の手段があろう。


 一つは直接その病気の性質原因を研究し、これに適切な方剤を投ずるので、他の一つはできるだけ、身体諸機関を強壮ならしめて、たとい、病毒の侵染(しんせん)に遭うとも、たちどころに殺菌しうるだけの素質を養成しておくことである。


 ところで、われわれの立脚地からは、この二者いずれに就くべきかというに、元来実業に携わる者であるから、この悪思想の病原病理を研究して、その治療方法を講ずることは職分でない。むしろ、われわれの執るべき務めは、国民平生の養生の側にあると思う。


 国民全部をして強健なる身体機関を養わしめて、如何なる病原に遭うとも、決して侵害されることのないように、養生を遂げしめなくてはならぬ。ゆえにこれが治療法、すなわち危険思想防遏(ぼうあつ)(防止とか防御)策について余が所信を披瀝(ひれき)し、もって一般世人、ことに実業家諸氏の考慮を促したいと思う。


 余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生(文化文明を興し人々を豊かにすること)と仁義道徳の結合がはなはだ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、はなはだ不都合の次第である。


 この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛嘆()く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟の教えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。


 後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数(この場合ははかりごと)を用いるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処(さしょ)とは天地懸絶す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を推し進めて考えれみれば、かのアリストートル( )(アリストテレス)の「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人()みた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。


 かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)(宋代の程朱学派)の儒者によって捏造された妄説に外ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行われ、学問といえば、この学説より外になりと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊を(もたら)しているのであろうか。


 孔孟教の根底を誤り伝えたるこの結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、はなはだしきに至っては、法網を潜られるだけ潜っても、金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって、今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねないという、情ない状態に陥っている。


 もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔は益々はなはだしくなり、社会はいよいよ浅間(あさま)しい結果に立ち至ると予想しなければならぬ。これ誠に、孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が、数百年来跋扈(ばっこ)していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争が倍々(ますます)激しくなるは、自然の結果といってよい。


 しかるにこの場合に際し、もし実業界がわれ勝ちに私利私欲を計るに汲々として、世間はどうなろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っておれば、社会は益々不健全となり、嫌悪すべき危険思想は、徐々に蔓延するようになるに相違ない。


 果たして、しからば危険思想醸成の罪は、一つに実業家の双肩に負わなければならなくなる。ゆえに一般社会のためにこれを匡正(きょうせい)(矯正)せんとするならば、この際われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながら、且つ仁義を行い得る例はたくさんある。義理合一に対する疑念は今日ただちに根本から一掃せねばならぬ」




 令和になってもなんにも変わることにない事態でござりまする。


 一億総中流なんて概念はとっくの昔に葬り去られ、貧富の格差はまだまだこれからも激しくなるに違いありません。儒教と経営の融合、義理合一なんて夢のまた夢、そもそも、儒教なんて概念ですら人々に理解されない現代。渋沢さんの言うように、共産思考の瀰漫(びまん)は、実業家にもその責任の一端があるということを理解できるているものがどれほどいることやら。


 もっとも、資本主義、なんて概念はマルクズの捏造したものにすぎませんが、しかし、王侯貴族を打倒した後に現れた支配層が資本主義、つまり資本家であり、そういった資本家たちの行き過ぎた拝金思考が貧富の差を拡大させ、戦争ビジネスを加熱させ、そこから必然的に発生する恨みが、共産思考に流入しているわけです。


 その結果として、今の米国におけるポリコレの瀰漫であり、ディズニーなどというポリコレの巣窟を生み出すに至ったのは、ある意味ざまーみろとあざ笑ってやるべき醜態です。このまま米国が衰亡するのは自業自得な歓迎すべき未来ですが、しかし、そのツケは確実に日本に波及するでしょうし、手放しで笑っておれないのも事実。本当に邪魔くさい世の中であります。


「わが国が西洋文明を輸入して、大いにわが文化に貢献した一面においては、やはりその弊害を免るることはできない」

 

 作用があるところには必ず反作用があるわけで、西欧文明をほとんど鵜呑みにした結果、


「新しき世界的害毒の流入したことは争われぬ事実で、かの幸徳一派が懐いていた危険思想のごときは、明らかにその一つであると言い得るのである」


 共産思考が入ってきたことも、間違いのない事実。幸徳一派とは、幸徳秋水を代表とする革命分子のことでありまして、大逆事件を起こしたテロリスト共であります。大逆事件とは、恐れ多くも、明治天皇に爆弾テロを仕掛けようとした事件であり、幸徳秋水はこの事件には積極的に関わっていないのではないか、と言われますが、しかし、こんな異常な思考をもった連中が存在すること自体が罪。抹殺されて然るべき連中であります。


 こういうものが入ってくるのは恐るべきことであり、忌むべきことではありますが、しかし、これは中共肺炎と一緒。もはや入ってしまった以上根絶は不可能。これをうまく処してゆくしかない。では、どうすべきか。


「一つは直接その病気の性質原因を研究し、これに適切な方剤を投ずるので、他の一つはできるだけ、身体諸機関を強壮ならしめて、たとい、病毒の侵染(しんせん)に遭うとも、たちどころに殺菌しうるだけの素質を養成しておくことである」


 ひとつはそれを徹底的に調べ上げ、ワクチンの如きものを作って対処することである、と。


 もうひとつは体の免疫能力の向上を図り、己の免疫能力でこれを撃退することである、と。


 しかし、悲しいかな、これらでは共産思考を撃退することなど到底できないことは事実。なにせ、齋藤孝のような共産まんせーな学者などが世界的にうっじゃうじゃおって、いつまで経っても共産まんせーな本をだし、害毒思考を垂れ流しておるのですから、これに対するワクチンを作るなど不可能。ましてや、免疫力をつけようにも、本来、こういう腐った思考を撃退すべき学者連中が、むしろ率先して共産まんせーして、無学無知な大衆に垂れ流しておるわけですから、やんぬるかな。


 ソ連や中共が恐ろしいまでの数の自国民を虐殺し、令和の時代にあっても侵略戦争をしかけておるような異常性をこれでもかとひけらかしておるにもかかわらず、それでも世界のほとんどの人々は共産思考はむしろ正しい、などと思っているわけで、なんちゃらにつける薬はない、と言う他ない。


 しかし、もう一点、こういった共産思考に対処する方法があるはあります。


 それは以前にも取り上げたことのある、孔子様の行われた事例。「少正卯(しょうせいぼう)を誅す」


 これは、孔子様のおられた時代、少正卯という音に聞こえた有名人を、恐らく孔子様がなんの罪もなしにとっ捕まえたあげく、処刑してしまったというお話ですね。


 これにはさすがに孔子様のお弟子さんも、かの有名人たる少正卯をぶっ殺すのはマズくないっすか!? と聞いたのですが、孔子様は毅然と、




【「()れ、吾れ汝にその故を語らん。人、悪あしき者五有りて、盗窃(とうせつ)(あず)からず。 


 一に曰く、心達たつにして険。


 二に曰く、行い辟かたよりて(けん)


 三に曰く、言ことば偽りて(べん)


 四に曰く、記すること()しくして博。


 五に曰く、非に(したが)いて沢。


 此の五者は人に一つ有るも、すなわち君子の誅を免るるを得ず、しかるに少正卯は兼ね之を有せり。


 故に居處(きょしょ)は以て徒を(あつ)めて群を成すに足り、言談(げんだん)は以て邪を飾りて衆を營まどわすに足り、剛は以て是れに反して独立するに足り、此れ小人の桀雄なりて誅せざる可らざるなり】




「座りなさい。理由を語ろう。人間にはおよそ、許すべからざる悪というものがある。はっきり言ってしまえば、盗人のごときは実は小物だ。盗人なんぞ比べ物にならぬ許せぬ悪が五つある。それは、


 ひとつ、色々と目端が利くくせに、心根が性悪である。


 ひとつ、やることなすこと偏屈で捻じくれ曲がっておるくせに頑固だ。


 ひとつ、何かと言えば嘘偽りが多い、そのくせ口達者で言い逃れをする。


 ひとつ、様々なことを記憶しているがよりにもよって邪なことを世に広める。


 ひとつ、悪事をなして悪人どもに恩恵を与える。


 この五つは人間にひとつあっても君子として見逃すわけにはいかん。にもかかわらず、件の少正卯はこの五つを兼ね備えておった。だから、屋敷ともなれば手下が群れ集まり徒党を作る。言葉を発すれば人々を幻惑する。非常に剛強な性格をしておるから独立勢力を保持することができる。これは、つまらぬ人間の頭領となりうる者であって処刑しないでいられるわけがないのだ」




 ああいえば上祐。みたいな、世に害悪を垂れ流す存在であるからぶっ殺さずにはおれんかったんだ。とおっしゃったわけですね。害悪に対するこれまた毅然とした方法でありますが、悲しいかな、こんな強硬策がとれるのは孔子様のみでありましょう。


 他の人間がこれをやれば、どういう判断基準かさっぱりわからぬまま、それこそ恣意的に人が処断されてしまうわけで、だから思慮深い渋沢さんとしてはこれを言い出すわけにはいかなかったのでありましょう。


 看護婦とは何事か! 看護師と呼べ! 


 などとほざき従来の秩序を破壊して得々としておる精神異常者がそこにおって、有無を言わさずとっと叩き潰せればよかったのでしょうが、さすがに現代社会においてそんな強硬手段をとるわけにはいかず、あれよあれよと言う間に資本主義の巨頭たる米国においてもポリコレが大輪の花を咲かせる始末。


 もはやここまで来たらどうしようもありますまい。


 ましてや、ロシアだの中共だのは、法も倫理も道徳も国際法も一切合切意に介さず、好き放題悪事を働ける国。こんな国がもはや世界第2位の国力や軍事力をもつ現代。このことのもつ意味を、それでも現代人は理解できないのか、したくないのか。なんで戦中の陸軍で、戦陣訓、「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて言葉が生まれたか。自分の身でチベット・新疆ウイグル人と同じ目にあってようやく分かるのかも。


「仁義道徳は仙人()みた人の行うべきこと」


 結局、そうなってしまいましたね。多分ですが、きっと人の世は、数千年経とうとも仙人でもないと仁義道徳を身につけたりできますまい。p181




人間の価値とはなにか




「人間は万物の霊長であるということは、人皆信じておる所である。同じく霊長であるならば、人々相互の間における、なんらの差異なかるべきはずなるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図(ほうず)(際限)がなく、下を見るも際限なしといっている。現にわれわれの交際する人々は上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、その差異もまたはなはだしいのである。


 一郷一村に見るも、すでに大分の差があり、一県一州に見れば、その差はさらに大きく、これを一国に見れば益々懸隔して、ほとんど底止(ていし)(どん詰まり)する所なきに至るのである。人の智愚尊卑において、斯様かように差等を有するとすれば、その価値を定むるもまた、容易のことではない。(いわ)んやこれに明確なる標準を付するにおいてをやである。


 しかし人は、動物中の霊長としてこれを認むるならば、その間には自ずから優劣のあるべきはずである。ことに人は(かん)(おお)って後、論定まるという古言より見れば、どこかに標準を定め得る点があると思われる。


 人を見て万人一様なりとするには一理ある。万人皆相同じからずとするのもまた論拠がある。したがって人の真価を定むるにも、この両者の論理を研究して適当の判断を下さねばならぬから、随分困難なことではあるが、その標準を立つる前に、如何なる者を人というか、まずそれを定めてかからねばなるまいと思う。


 しかしこれが、なかなかの困難事で人と禽獣とはどこが違うかと言うような問題も、昔は簡単に説明されたであろうが、学問の進歩に従って、それすら益々複雑な説明を要するに至ったのである。昔、欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う。


 これは事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解るのである。四肢五体具足して人間の形を成しておるからとて、われわれはこれをもって、ただちに人なりと言うことはできぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人(しんじん)と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価あると言いたいのである。したがって、人の真価を極むる標準も、この意味について論ぜんとするのである。


 古来歴史中の人々、何者かよく人として価値ある生活をなしたであろう。往昔(おうせき。大昔)支那の周時代にあっては、文武両王並び起って殷王(いんおう)の無道を誅し、天下を統一して専ら徳政を()かれた。しかして後世文武両王をもって道徳高き聖主と称している。してみれば文武両王のごときは、功名も富貴もともに、得られた人というべきである。しかるに文王、武王、周公、孔子と並び称せられている夫子はどうである。また聖人として崇められ、孔夫子に対して四配と言える顔回(がんかい)曾子(そうし)子思(しし)、孟子のごときも、聖人に()ぐものとして推奨せられているに関わらず、これらの人々は終生道のために天下を遊説(ゆうぜい)して、その一生を捧げたものであるけれども、戦国(春秋戦国)の際、一小国すら自ら有することはできなかった。


 されど徳においては文武に譲らずして、その名もまた高いものであったが、富貴という方面からこれを物質的に評するならば、じつに雲泥霄壤(うんでいしょうじょう)(天地)の差ありて比較にならないのである。ゆえにもし富を標準として人の真価を論ずれば、孔子は確かに下級生である。しかし孔子自身は、果たして左様に下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子、皆その分に満足してその生を終わったとするならば、富をもって人の真価を標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。


 善くその人のもってする所を視、そのよる所を観て、しかして後その人の行為が世道人心に如何なる効果ありしかを察せざれば、これを評定することはできぬと思う。


 わが国の歴史上の人物について見るも、またその感なき能わざるものがある。藤原時平と菅原道真、楠木正成と足利尊氏、いずれを高価に評定し、いずれを低価とすべきか、時平も尊氏と共に富においては成功者であった。しかし今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕す対象としてのみ評さるるに過ぎない。


 これに反して道真の名は、児童走卒(そうそつ)(下僕)といえども、なおよくこれを記憶している。しからば、いずれを果たして真価ある者と目すべきであろうか。尊氏、正成二氏について見るも同様である。けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難は、これをもって知らるるのであるから、人の真価というものは、容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属する、いわゆる成敗(ここでは成功や失敗)を第二に置き、よくその人の世に尽くしたる精神と効果とによって、すべきものである」




 お次は人物評価。


「人間は万物の霊長であるということは、人皆信じておる所である」


 霊長というからにはそれなりに精神的にも霊的にもいくばくか長じておるのかと思えど、さにあらず。ずんぶと(青森弁)ばらばらですし、また何をもって優劣をつけるのかも、その物差しによっても計り方が違ってきます。なので、


(かん)(おお)って後、論定まる」


 死後、棺に蓋をしてようやく総合的な評価が下せる、と言える。


「なかなかの困難事で人と禽獣とはどこが違うかと言うような問題」


 これは論語にも面白いお話がありまして。




【今の孝は、是れ能く養うをいう。犬馬に至るまで、皆な能く養うこと有り。敬せずんば何なにを以って別たんや】




 今どきの親孝行を言うものは、よく養うことをもってよしとするようだ。しかし、馬や犬だってよく養われているではないか。親は馬か? 犬か? 違うであろう。親と禽獣との相違は、そこに尊敬の念があるかどうかだ。




 これは孔子様が孝、親孝行を説いたものでありますが、人と禽獣を隔てるものとして、敬、がでてくるわけですね。親を養うように、家畜やペットの動物だって同じように養ってやる。しかし、家畜やペットと、親との最大の相違は、そこに人としての敬いの念があるかどうかだ、ということ。


 子供だってそうです。子供だって、親から敬われたいわけです。親からきちんと敬われた子は、きちんと親を敬います。しかし、虐待されたりいじめられたりで、親からきちんと敬われなかった子は、当然親を敬わないし、そして、自分自身をも敬えないんです。その価値を、認めてもらっていないから。


 昨今、自滅的な人々が増えていますが、その人を見る前に、その親を見たほうが良いでしょうね。親になんの問題もなく、問題を起こせる子はそうはいないでしょう。敬、これは人を人として成り立たせる最重要要素ですが、悲しかなこれを理解できるものも現代でどれほどいますでしょうね。


「欧州のある国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、なんらの教育も与えずにおき、成長の後、連れ出してみたが、二人とも少しも人間らしい言語を発することができず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったと言う」


 これはきっと、フリードリッヒ二世(1194年 - 1250年)のことでしょうね。wikiによると彼は、「ラテン語・ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得」するほどの天才であったとか。wikiにも少しありますがわたしが聞いた所によりますと、多言語を駆使する彼は、人は何をもって人語を解するのか不思議に思ったので、身寄りのない赤子を集め、で、その世話係に一切話しかけず一切微笑むな、との命令を発したとか。そうするとその身寄りのない子らは、ほどなく全員死亡したとのことです。


 愛情を受けない子は、生きることすらできぬのでしょう。それはともかく、渋沢さんの言いたいことは、


「人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人(しんじん)と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価あると言いたいのである。したがって、人の真価を極むる標準も、この意味について論ぜんとするのである」


 ここですね。


 孔子様は世界四大聖人に選ばれるほどの徳を修めた方であったが、しかし、大金持ちになったわけでもないし、国家の頂点に君臨したわけでもない。いうなれば塾長として終えられたにすぎませんが、後世への影響は絶大です。


 渋沢さんがおっしゃるのは、こういう永遠に通ずる有益な貢献を成しうるのが、人のなし得る最大の評価であって、功名富貴もさしたるものでもない、ということですね。


 戦国時代でもそう。信長公、太閤殿下、権現様と三人いらしたら、どうしても人気は信長公や太閤殿下に集まるでしょうが、しかし、権現様はいち早く藤原惺窩や林羅山を招いて儒教を学び、幕府の治世に儒教を取り入れ、武士の治世の根幹を作り上げたお方です。この儒教という柱がなければいっかな徳川幕府といえど260年の安寧を築けたかどうか、わからないでしょう。


 犬公方、綱吉も儒教にどっぷりのめり込んでなんとか治世に儒教を活かそうとしたように、そもそも、武士とは槍や刀を振るのがその生業であり、武士の生活のどこにも儒教のじゅの字もなかったわけですから、権現様がどれほど武士の意識改革に勉めたか。綱吉の頃、ようやく戦国の血気盛んな時代を過ぎた頃であり、つまり、約100年経たないと戦国の気風が廃れず、儒教の機運が盛り上がらなかったことからもその意識改革の大変さが少し分かるような気がします。


 そんな最中に、殿中で刃傷沙汰起こす奴がでてきたとかw そりゃ綱吉もブチギレでしょうねぇw


 まあ、それはともかくとしまして。その江戸の時代があったからこそ、明治維新が起こった。明治の人が起こしたのではなく、江戸の人が維新を起こしたのです。武士が、維新を起こしたわけです。


 とはいえ、その明治に行われたのが、


「勝てば官軍負ければ賊軍」


 下野した西郷隆盛公を謀略で西南戦争に引きずり込み抹殺。新政府に逆らう武士たちをまとめて不平士族として十把一絡げに抹殺。


 幕末を伺うと、山岡鉄舟さんや山田方谷先生のような、儒教や仏教の集大成のような方々が確かにおわしたにも関わらず、明治になったらそれらの学問はすべてゴミ箱にポイ。『学問のすゝめ』などというくだらん書物がその当時300万部売れたという事実から見ても、儒教が捨てられたのは明らか。そして、勝てば官軍という、いうなれば強いもんが正義、という身も蓋もない弱肉強食を明治政府は推し進め、国民の意識に刷り込んだわけです。


 そう考えますと、日本が大東亜戦争に負けたということは日本は賊軍であり、それ以降、現代に至るまでの米国への隷属化、アジア周辺国への卑屈な平身低頭っぷりも、明治政府によってきっちり調教されたおかげ、ともいえるでしょうか。


 因果応報とはこういうことをいうのでしょうかね。そういう意味で言えば、西郷隆盛公の偉大さを全然理解できなかった明治新政府の元勲たちは、揃いも揃ってバカばっか。ということになるわけですけどね。


 徳を捨て、欲を最優先させればどうなるかすら分からないような人達ですから、そういう評価になるのは致し方なし。自分たちが好き放題した日本が、今まさに滅亡の瀬戸際に追いやられているのを、天上でどのような気持ちで見ているのか、死んだら聞いてみたい気はしますw とはいえ、腐っても幕末明治を戦い抜いた英雄豪傑。わたしなんぞが近寄ったところで「推参なり!」と一喝をくらうでしょうねぇ(推参なり! とは、身分をわきまえよ! でしゃばるな下郎! ということ)w


 世界史の奇跡と呼ばれるほどの大発展を成し得たあの明治維新ですら、結局のところ、今日の日本を生み出すための仕込みでしかなかったと考えますと、威風堂々たる英雄豪傑と言えど、欲に目が眩めばそこにいるのは破滅への尖兵でしかないということになる。


 またさらに、そう考えますと、歴史的にありとあらゆる失敗を重ねまくった挙げ句に、それでも今がある中華と、たった一回大戦で敗北したくらいでヘタレて永劫米国の奴隷を選択した日本。両者の力量差は明らかです。

 

 まあせめて、チベット・新疆ウイグルの二の舞いにならぬよう、米国の提灯持ちとして苟全と生きる道を模索してくだされ。



 といったところで今夜はこれまで。


 日本のことを学べば学ぶほど、ここまで悲しくなる国は他にはありません。かつての日本には偉人がいた。叡智があった。深謀遠慮があった。分別があった。英邁な決断があった。屈せぬ武威があった。清冽なる覇気があった。深い懐があった。


 せめて、偉大な書を読むか、なろうを読むかしか逃げ場がない。


 本当に、笑ったり泣いたりできなくなる前に、心から笑っておきたいもの。心残りのないように。


 皆様も、いつ笑ったり泣いたりできなくなるか分からぬ時勢ですので、今のうちに笑っておくとよいでしょう。-人-


 したらば。





「勇者が死んだ」 OPを聴きながら。


 お話の内容はともかくとして、今のところ今期で一番好きなOPですねぇ。また、オーイシマサヨシさんの人柄が歌に合ってて良き。


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