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『論語と算盤』の丸写し。三、



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて、わたしももちろんと言いましょうか、なろうが好きなので普段から読んでいるのですが、この前、ほほうw と思う作品に出会えましたのでぴらっとご案内をつかまつりたいと思いまする。


 その名も、


『乙女ゲー世界はモブに厳しい世界です』


 です。


 なにやら面白い作品はないかいな、とランキングを見ておりましたらこの作品が上位にあったので、まあアニメ化もされたことだしどんなもんかいな、と見てみましたら、まあ面白いw わたしも暇つぶしに色んな作品を読まさせていただいておりますが、これは相当面白いですw しかも、読んでいて、ほほう、と思った箇所がこちら。




「……言われなくても俺はお茶で嘘は吐かない。


 だって師匠に申し訳ないから」




 これは17話での主人公リオンのセリフです。とまあ、いきなりセリフだけつまみ食いされてもなんのこっちゃ、と思われるでしょうからまずは世界観からご案内いたしますと、『乙女ゲー世界はモブに厳しい世界です』はそのタイトルの通り、乙女ゲームの世界に異世界転生してしまった、というお話。いわゆる、ゲーム知識で異世界無双、というもののたぐいですね。


 乙女ゲームを下敷き(?)に構成された世界なだけあって、どこまでも女性に都合の良いように作られた世界。貴族女性ともなれば愛人は複数いて当然。専属使用人という名の亜人の奴隷までいてセクシャルなお世話もさせ、それらの費用は一切合切を男が負担するのが男の甲斐性、というところ。


 そんな世界の、辺境の貧乏男爵家の三男坊として転生した主人公リオン。未成年で50歳過ぎのババァの後妻ならぬ後夫にさせられそうになったものだからさあ大変、慌ててゲーム知識を使って初手でダンジョン攻略に乗り出し、そこに眠る課金アイテム、ルクシオンという、現状で世界最強の戦闘艦を手に入れる。と同時に、ダンジョンに眠っていたお宝を発掘し、意気揚々と帰還する、という流れ。


 で、その後資金面で不安をなくし後夫の話を蹴っ飛ばして、学園に入学する、のですが、この話がアニメ化された時には、


「いやいや、そんな大金があるんだったら学園なんかにいく必要ね~じゃんw」


 ってコメントが乱れ飛んでいましたw 確かに普通ならそう思うところですが、読んでおりますとちゃんと学園に行く理由がある。それは、リオンは大量の財宝を見つけて王家に高額納税してしまったからリオン単独で男爵位の授爵が決まってしまった。そうなりますと、貴族としての体裁といいますか、世間体として嫁さんを見つけないといけなくなる。しかも、そこいらの平民出の娘を嫁に、というわけにもいかないので、同じ男爵か、子爵あたりの女性を見つけ出さねばならない。


 この世界では20過ぎで独身の貴族男子なんてのはとんでもない不良物件、事故物件扱いとされてしまうので、いやいやでも婚活をしないといけない。なので、その嫁さんを探すために貴族の集まる学園に入学するのだ、ということですね。


 で、本来なら入学前にダンジョンを攻略し、一財産を築き上げた主人公リオンはある程度は優良物件なはずですが、やはり、田舎の男爵の三男坊とあって婚活はうまくいかない。おまけに、王太子ユリウスと愉快な仲間たちというゲームの登場人物と決闘したあげく、煽りに煽りまくってボッコボコにぶちのめしてしまい、さらに、その決闘で発生した賭けで多くの生徒からお金を巻き上げたものだから評判は最悪。婚活はまったく進展しないのであった、という塩梅。


 そして、お話は学園祭に。多くの女性を集めるためにリオンは喫茶店を開くことになりますが、隣にはなんと、ユリウスたちが喫茶店を開くことになる。しかも、リオン同様の転生者で、本来このゲーム世界での主人公であったオリヴィアの立ち位置を奪い、逆ハーレムを目論むマリエの入れ知恵によって、その喫茶店は丸っきりホストそのものであった。


 そこで、マリエから小バカにされた時のリオンのセリフが先程のものですね。師匠とは、リオンに茶道の指導を行った学園の先生(ルーカス 声、速水奨)のこと。当初はお茶の作法とかくだらねぇ、くらいに思っていたリオンだったのに、先生の完璧なもてなしにすっかり感動してしまい、それ以降茶道に対しては真面目に取り組むことになります。性格なのかなんなのか、毒を吐くことが多いリオンにあっても、師匠だけは真摯な態度を崩さない。


 ここでの、このリオンのセリフが私的に、ほほうw なところ。こういう言葉もありますね。




【至誠にして動かざるものはいまだこれあらざるなり】




 つまり、大事なことはまごころなわけですね。これが、世に流れる本質といって良い。まごころを、青臭ぇw とかあざ笑っている人はまったく未熟w いまの世界、まごころをもったものがほぼ死滅しているから通じないだけで、本来、まごころをもって接すれば相手には伝わる。まごころをもって接するだけの価値をもった人間がいないから誰も気づかないだけで、世界は至誠で動くものなのです。やればわかるw


 それを先生はリオンにまごころをもって教えこんだから、リオンは茶道に対して、師匠に対してはまごころをもって返そうとしているわけですね。それがこのセリフに現われているわけです。


 なろうにだってちゃんと本質はある。


 ふっと思わぬところで本質を見つけてちょっと嬉しくなりました、というお話w アニメ化二期も決定しているので、ヒマヒマ星人はぜひ読もうw



 では、『論語と算盤』の丸写し。三、今夜も学んでみませう。




「正」につき「邪」から遠ざかるには

 



「およそ事物に対し「かくせよ」「かくするな」というがごとき正邪曲直の明瞭なる者は、ただちに常識的判断を下し得るが、場合によってはそれも出来かねることがある。例えば、道理を楯にして言葉巧みに勧められでもすると、思わず知らず、平生自己の主義主張とする所よりも、反対の方向に踏み入らざるを得ないようになって行くものである。


 かくのごとき、無意識の中に自己の本心を滅却されてしまうことになるのであるが、左様の場合に際会しても、頭脳を冷静にしてどこまでも自己を忘れぬよう注意することが、意志の鍛錬の要務である。もし、そういう場合に遭遇したなら、先方の言葉に対し、常識に訴えて自問自答してみるがよい。


 その結果、先方の言葉に従えば、一時は利益に向かい得らるるが、後日に不利益が起こって来るとか、あるいはこの事柄に対してこう処断すれば、目前は不利でも将来のためになるとか、明瞭に意識されるものである。もし目前の出来事に対し、かくのごとき自省ができたらば、自己の本心に立ち帰るはすこぶる容易なことで、したがって、正につき邪に遠ざかることができる。余はかくのごとき手段方法が、すなわち意志の鍛錬であると思うのである。


 一口に意志の鍛錬というものの、それには善悪の二者がある。


 例えば、石川五右衛門のごときは、悪い意志の鍛錬を経たもので、悪事にかけてはすこぶる意志の鞏固(きょうこ)(強固)な男であったといって差し支えない。けれども、意志の鍛錬が人生に必要だからとて、何も悪い意志を鍛錬するの必要はないので、自分もまたそれについて説を立てる訳ではないが、常識的判断を誤った鍛錬の仕方をやれば、悪くすると石川五エ門を出さぬとも限らない。それゆえ、意志の鍛錬の目標は、まず常識に問うてしかる後、事を行うのが肝要である。こうして鍛錬した心をもって事に臨み人に接するならば、処世上過誤なきものといって宜しかろうと思う。


 かく論じ来たれば、意志の鍛錬には常識が必要であるということになって来るが、常識の養成については別に詳説してあるから、ここには省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信(こうていちゅうしん)の思想に拠らなければならぬ。忠と孝とこの二者より組み立てたる意志をもって、何事も順序よく進ませるようにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬において間然(かんぜん)(欠点を非難すること)する所はないと信ずる。


 しかしながら、事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起こるものではない。唐突に湧起(ゆうき)(わいて出る)したり、さなくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことが、いくらもある。そういう機会にはあまり熟慮している時間がないから、即座に機宜を得た答えをしなければならぬが、平素、鍛錬を怠った者には、その場に適当な決定をすることが一寸(ちょっと)できにくい。したがって、勢い本心に反したような結末を見なければならぬ。ゆえに、何事も平素においてよく鍛錬を重ねるならば、遂にはそれがその人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであろう」




 またこれは大層な人間に求められる内容でございますね。確かに、急に挨拶を求められる場合もあるでしょうね。それで、へどろもどろになってしまって「あいつはろくな挨拶もできん」なんて馬鹿にされるわけで、平生の心のもちよう、鍛えよう、というのは至極大切なことではありますが、まあ、そういうのは人前に出てなにかしゃべるような立派な人に求められるものであって、普通に生きている人間なら、下手くそな挨拶でも致し方なし。


 ちなみに、挨拶とは本来は、ぴったり合う、という意味だそうな。なので、手痛い指摘をうけた時に、「これはご挨拶痛み入ります」なんて返すわけで、おっしゃる通り、と恐縮するわけですね。まあ、今どき鋭いツッコミを受けて「ご挨拶痛み入る」なんて大人な対応の取れる人がどれほどおわすか。真逆に顔を真赤にしてキレ散らかすようなのが多いのではないでしょうか。


 それはともかく、これも真心によって立つものであるといってよいと思われます。


「およそ事物に対し「かくせよ」「かくするな」というがごとき正邪曲直の明瞭なる者は、ただちに常識的判断を下し得るが、場合によってはそれも出来かねることがある。例えば、道理を楯にして言葉巧みに勧められでもすると、思わず知らず、平生自己の主義主張とする所よりも、反対の方向に踏み入らざるを得ないようになって行くものである」


 例えば、ちょっと大きなお話にはなってしまいますが、ウクライナを支援するとなった時に、何をするのが日本の真心となるでしょうか。いつもの通り、お金だけ出して後は我関せず、でよいのでしょうか。それとも、各国と肩を並べて兵器を供与すべきでしょうか。難民は無制限に受け入れるべきでしょうか。また、いざとなったら北方四島に攻め込んでおロシアを焦眉(しょうび)の急に叩き落としてあげるべきでしょうか。


 普段、日本は武器輸出三原則だの、憲法9条だの、集団的自衛権の行使うんぬんだの、周辺と摩擦を起こさぬように平身低頭してきわたけですが、勘違いしてはいけないのは、日本は中立国であるのではなく、米国の同盟国であるということです。


 中立国とは、どの国とも同盟しない。つまり、極端な話、全世界が敵に回ろうとも自国で対処する、という姿勢です。


 日本は核の傘といわれる米国の軍事力の傘下にある以上、米国の同盟国であり、米国の協力国なわけですから、米国と基本的には歩調を合わせなければなりません。とはいえ、ちょいと前のイラク戦争のように、「大量破壊兵器を出せ!」と恫喝した米国が無法にもイラクに攻め込んだような状況にも歩調を合わせねばならないかと言えば、そういうわけにもいかない。無道には無道である、と毅然とした態度も取らねば真心とは言えない。


 今回はおロシアが先に侵略したわけで、おまけにナチズムがどうのと、もはやプー太郎のおつむの正常化を疑問視せざるをえない以上(共産主義者にまともなオツムの奴がいるはずもありませんが)、最大限ウクライナに支援し、積極的に今回の戦争の終結を早めることのほうが真心ではないのか。


 そうでなくても今回の紛争でエネルギー問題が起こり、電気やガス代の高騰を招いているわけで、しかも、今後はエネルギー問題のみならず、ロシアやウクライナの穀物が入ってこない以上、食料問題も起こるかも知れない。資源のことごとくを海外に依存している日本が、これまでと同様に対岸の火事と座視しているのは真心と言えるのか。今後をにらみ、平生の主義主張とする妥協的平和路線を踏襲せず、あえて断々乎として武断に舵を切ることも真心といえるのではないでしょうか。


 まあ、紛争惹起(じゃっき)から一年もたっておきながら、いまだに日本の為政者がゼレンスキー大統領と直の会談も行っていない以上、なにをかいわんや、ですけどね。


 こういうことは、何も国家のみならず、自分の身にも毎日のように起こるわけで、何が真心か、は常に自分自身に問わなければいけない。そこで重要になるのが、


「頭脳を冷静にしてどこまでも自己を忘れぬよう注意することが、意志の鍛錬の要務である。もし、そういう場合に遭遇したなら、先方の言葉に対し、常識に訴えて自問自答してみるがよい。


 その結果、先方の言葉に従えば、一時は利益に向かい得らるるが、後日に不利益が起こって来るとか、あるいはこの事柄に対してこう処断すれば、目前は不利でも将来のためになるとか、明瞭に意識されるものである。もし目前の出来事に対し、かくのごとき自省ができたらば、自己の本心に立ち帰るはすこぶる容易なことで、したがって、正につき邪に遠ざかることができる」


 自省。


 省みること、です。


 省みるといいますと、論語で有名な言葉がありますね。




曾子(そうし)曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。伝えるを習わざるか】




 孔子様のお弟子さんの曾子さんが言った。わたしは、たびたび我が身を振り返るのです。誰かのために動いた時に、ちゃんと真心で動けていたであろうか。友達との付き合いで真実ではないいい加減なことを言わなかったであろうか。先生から教えられた大切な教えをきちんと復習出来ているだろうか、と。




 最後の部分ですが、習わざるを伝えるか、と伝えるを習わざるか、とふたつ解釈がありますね。前者なら、いまだ自分の中で完成していないにわか仕込みの説を吹聴していないか、になりますし後者なら、孔子様から教わった大切な教えを反芻することなく受け流そうとしていないか、になります。


 どちらが正しいとか間違っている、とかではないので、こういう場合は自分の好きな方を選べば良い。なのでわたしは後者を取りますw


 自省がきちんと出来れば、「自己の本心に立ち帰るはすこぶる容易なこと」である、と。


 自分自身を省みる、常に自分自身を客観視し、第三者的視野をもって自分を鳥瞰することは大切なことです。これが常日頃から出来ておれば、大激怒しておってもちょっとしたタイミングで冷静さを取り戻すこともできる。


 まあ、これも学問がないとよくなしうるものでもないので、普段、どれだけ書を読んでいるか、も相当重要な要素になります。単純に考えて、たくさん本を読んでいる者と、まったく読まない者、どちらがより厚重な生き方が出来るかは言うまでもありますまい。


 後、ここでは鍛錬、がよく出てきますね。


 鍛錬、と言われて想起するのが、懸崖撒手(けんがいさっしゅ)ですね。崖に身を乗り出し手を離す勇気をもつ、というもの。これは、命を捨てるほどの根性を身につけるとか、俗世における未練を捨てる、そういう精神性を身につける、というものです。


 これは、不惜身命なるがゆえに但惜身命(たんじゃくしんみょう)にも通じます。我が身を惜しまぬ。だからこそ、我が身を惜しむ。我が身はこの世界に生を受けた、親やご先祖様のおかげで生を得た尊い、大切なものである。確かに、大切な存在であることは間違いないが、しかし、数千年の人類史、もっといえば数十億年の地球史に比ぶれば区々たるものである。


 100年やそこらで生を終えてしまうような微々たる我が身であるからこそ、そんなちっぽけな生に拘泥する要はない。正しい教えであるとか、真心などを大切にしたい。そして、その教えを受けた我が身が限りなく愛おしい。大切な教えを後世に残すためにも、我が身を粗略に扱うことは許されぬ。


 我が身を惜しまぬからこそ、我が身を惜しむ。


 大切なのは拘泥しないこと。未練を捨てること。100年やそこらで終えてしまうような生にそこまで固執しない。必要があれば保有もするが、不要ともなればあっさりと捨てる。そういうメリハリを身につけることである。それよりもっと大切なことがある。もっと惜しむべき教えがある。そういうことを理解するため、会得、体得するための必死な修行が懸崖撒手なわけですね。


 また、こういうお話もあります。


 戦国末、肥後は細川藩に寄寓した宮本武蔵に、藩主細川忠興(ただおき)が我が藩に御身の眼鏡にかなう者はおりますか、と質問したそうな。すると武蔵は、都甲太兵衛(とこうたへえ)というもの、あれはなかなかです、と答えた。


 すると忠興は驚いたそうな。太兵衛といえば、藩内でも腕前は未熟と知られている。そのものがよもや武蔵の目に留まるとは思わなかった、と。すると武蔵は、ならば呼び出して聞いてみると良い、というので早速呼び出すと太兵衛はこう語った。


 わたしはおっしゃるように、腕前は未熟で、なかなか上達いたしません。なのでむしろ逆に、わたしはいつ斬られて死ぬかわからぬ、据物のごとき心構え、藁束や畳表をバッサリと斬る、その据物の気持ちとなって修行に励みました。


 とはいえ、当初は恐ろしく体の自由もききませんでした。ですが、じっくりと取り組んでいるうちにその恐ろしさも消え、今ではいつ斬られても恐ろしくないという気持ちになったのです。


 と。


 そこで武蔵が、この心得が大切なのです、と言ったとか。


 鍛錬しだいで生の執着も擺脱(はいだつ)することもできる。我が身という小さな生から開放されることによってより精神は自由になる。


 武蔵は「独行道」にいう。


 世々の道に背くことなし。


 よろず依怙(えこ)(えこひいき)の心なし。


 身に楽をたくまず。


 一生の間欲心なし。


 善悪につき他を妬まず。


 恋慕の思いなし。


 これが、生の執着を捨てた本当の心の自由を得た人の教えですね。そう考えますと、現代はなんちゃらのひとつ覚えのごとく「命だいじに」を強調する。剣術を漫画にした『るろうに剣心』ですら命だいじに、です。それもこれも、共産イデオロギー、左翼イデオロギーのせいですね。


 共産主義者は神を否定する。死後も否定する。


 人の死が、本当に何もない生の消滅、全巻の終わりでしか無いのなら確かに、生に執着せざるをえない。生にしがみつくしかない。「命だいじに」になるほかはない。だから、日本でも世界でも、無神論者は生にしがみつくしかない。享楽に耽るほか無い。人生を楽しむ以外に価値は一切ない。その愉悦を邪魔する敵がいるなら粛清でも暗殺でもなんでもする。


 しかし、このような愚か者の思考とは天地の相違で、人の死後にははるかな世界が開けている。いやむしろ、厭離穢土欣求浄土で、この汚れた欲望にまみれた穢土よりも、浄土にこそ本当の理想がある。人のゆくべき極楽があると信じる。


 そう信じるからこそ、人は極楽に行けるように徳を積む。善行が出来る。


 悪業を犯してはならぬと恐れる。


 共産主義者が、どのような極悪な犯罪を犯しても屁とも思わないのは、善行も悪業という概念もないからですね。当然、死後がないんだから善行も悪業もあるわけがない。徳を積んだところで得することなどあるわけもない。あるのは我が身ひとつのみ。その我が身の享楽を願うのみ。だから、享楽を得るためにはなんだってする。やって出来ないことがあろうか。女子高生をコンクリに詰めて沈めることがなんだというのか。


 今の日本は確かに、こういう左翼イデオロギーの思考に毒されている。しかも、これが常識になっているから誰も疑いもしないし他の価値観を探りもしない。


 ただただ区々たる生にしがみつく他ないから社畜にだってなんだって成り果てられる。今の現代人は金の子牛を拝んだヘブライの民を笑えないでしょうね。むしろ、みんなして子牛を拝むのではないでしょうか。目に見えないデウスではなく目に見える子牛を拝んだほうがよほど現世利益がありそうですし。


 左翼イデオロギーが日本にのさばっている限り、日本人の本当の心の自由はない。ですが、考えてみますと、渋沢さんは悪の権化として石川五右衛門を一例としてもってきましたが、これも時代の懸隔を感じるような気はしますね。


 石川五右衛門のごときは、結局、太閤殿下という権力者によって処刑された程度の小悪党でしかない。


 しかし、現代は権力者が、独裁者が悪をなす。歴史上の誰もやったこともない、想像したこともないような大悪を犯す。独裁者が悪をなした場合、これを裁くものなど世界に存在しない。金王朝の独裁者はいまもこの世の春を謳歌しておりますがこれを掣肘(せいちゅう)するものなどどこにもいない。ヒットラーしかり、毛沢東しかり、スターリンしかり、ポル・ポトしかり、現代では独裁者が国で一番の悪事をなすから、悪の尺度があまりにも拡大しずぎて日本のごとき小悪党なんぞ誰も気にもとめないのでしょうね。


 渋沢さんの時代までなら、まだこのような悪党は姿を表さなかった。だから渋沢さんにとっての悪は石川五右衛門になった。今の渋沢さんに、堅固な悪の意志をもつ者は誰かとお尋ねしたら誰をあげるのやら。そう考えますと極悪な権力者が発生しない日本は本当に幸せ、と言えるのでしょうね。ならば左翼イデオロギーに汚染されているくらいは可愛いものなのか?w 


 そういえば、抗血清というものがあります。


 毒を少し含むことによって毒に対する耐性を身につける。抗体を生み出す。それを医療に使用するわけで、本場に比べると今の日本の薄い左翼イデオロギーは、やがて世界中がそれらから克服するための必要な過程なのかも。


 だって、あの米国ですらポリコレなんぞという共産思考に脳みそ毒されて大喜びしていますが、日本は冷静にそれら共産狂いから距離をとっておるわけで(取れてないのもおりますが)、この日本こそが世界を救うために必要な、重要な有り様なのかも知れませんね。


 そう、前向きに考えると面白いものですがw


 まあだからこそ、学問を修めることは重要なのですよ、とw 


 学問とはなんと書いてあるか。


 学んで、問う。と書いてあるのです。学んで問う。何を問うのか? 己に問うのです。お前はどうするのか? 書には立派な偉人、君子がおわすのに、それに触れておきながらお前は何も変わらないのか? どうする? お前はこれから何をする?


 こうして己に問うからこそ、その先を、自分の未来を、己自身で作ることが出来るのであります。-人-


 

 とまあ、丸写しといいながら大半はわたしの妄想の陳列でありましたが、まあ、そういうこともあるということで今回はこれまで。


 したらば。






『ハイスコアガール』のOP・EDを聴きながら。


 むふー!


 ってか dアニメ、ハイスコアガールがリストにないw リトルウィッチアカデミアもないし、わたし好みの作品は無いことのほうが多いw


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