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『論語と算盤』の丸写し。二、



 欧米がウクライナに対して最新戦車の供与を決めましたね。米国はM1エイブラムスを、ドイツはレオパルト2を、それぞれ送ることになりそうです。これまでは戦争激化、核戦争回避ということで大規模な武器供与は見送られていたわけですが、ここに至ってこの決断をしたということは、おロシアは核戦争に踏み切ることはない、と欧米が判断した、ということでしょう。


 この判断が正当かどうかはさておいて、核の危険が去ったと考えられるだけでも明るいニュースと言えるでしょうね。なにせ、おロシアがもつ最強の核はその名も「ツァーリ・ボンバ」


 この、ツァーリ・ボンバをネットで入力すると次に「日本に落ちたら」という文言が出てくるほど、日本人はこの爆弾に脅威を覚えているわけですが、何でも東京で炸裂すると関東圏半径300kmは灰燼に帰するそうです。この爆弾を受けたら間違いなく日本は二度と立ち直れないほどの大ダメージを受けることは必至。広島長崎にピカドンをくらってもたちまち復興したという事実があっても、関東圏の半径300kmが壊滅したらそのダメージの回復に何年かかるか見当も付きません。ましてや、そんな爆弾が落ちる頃には、北斗の拳の始まりのように、「世界は核の炎に包まれ」ているでしょうから、世界の文明が滅亡した状況下で放射線に怯えながら日本独力で復興する、などという話になる。無理ゲーもいいところですね。


 そんな核戦争の危機が(表面上は?)去った、と言えるだけでも朗報。欧米も、ウクライナにも頑張ってほしいところ。とはいえ、そうなってきますと、じゃあ日本は何をするの? みたいな話は出てこないのでしょうかね。また米国から「ショー・ザ・フラッグ」と言われるのでは? 


 ショー・ザ・フラッグとは、旗幟を鮮明にせよ、ということで、転じて、己が役目を果たせ! という米国からの叱責だったわけですね。これは2001/9/11米国の同時多発テロで、世界貿易センターが消滅した時、米国は対テロという新しい戦争に突入したわけですが、その新時代の戦争に突入するにあたっても日本はそれこそ対岸の火事、いやあ、テロとは剣呑剣呑。こわやこわや。と他人事だったわけで、それをみた米国が、小早川秀秋に大砲を打ち込んだ権現様のごとく、旗幟を鮮明にせよ! と叱責したことです。それをまた言われるのでは?w


 それこそ、北方四島に攻め込んで、おロシアのケツを炙ってやれ! とか言われたらどうなるんだろう?w まあ、世界でも最高峰のヘタレの日本政府がそんなことできるはずもないでしょうが、それをダシにまた米国様の兵器を買えよ、とか無理難題をふっかけられるんでしょうかね。ま、いつもの通りの行き当たりばったりのその場しのぎでお茶を濁して世界の失笑を買って欲しいところ。


 おこんばんはです。豊臣亨です。


 したらば、『論語と算盤』の丸写し。の二、教えを伺いましょう。p91




常識とはなにか




「およそ人として世に処するに際し、常識はいずれの地位にも必要で、また、いずれの場合にも欠けてはならぬことである。しからば、常識とは如何なるものであろうか。余は次のごとく解釈する。


 すなわち、事に当たりて奇矯(ききょう)()せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別(みわ)け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば、「智、情、意」の三者が各々権衡(けんこう)(釣り合い)を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。


 さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力が、すなわちそれである。人間の心を解剖して、「智、情、意」の三つに分解したものは、心理学者の唱導に基づく所であるが、何人といえども、この三者の調和が不必要と認めるものは無かろうと思う。


 智慧と情愛と意志との三者があってこそ、人間社会の活動もでき、物に接触して効能を現してゆけるものである。ゆえに、常識の根本原則たる「智、情、意」の三者について少しく述べてみようと思う。


 さて、「智」は人にとって如何なる働きをするものであろうか。人として智慧が十分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、この物の善悪是非の識別ができぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人に如何ほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それにつくわけには行かぬから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。


 ここを思えば智慧が如何に人生に大切であるかが知らるるであろう。ところが、かの宋の大儒程朱(ていしゅ)のごときは痛くこの智を嫌った。それは智の弊として、ややもすれば術数に陥り、欺瞞詐偽(さぎ)の生ずる場合がある。また、功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由でこれを疎外した。


 それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただおのれ一身をさえ修めて悪事が無ければよいということになってしまった。これは大なる誤思謬見(ごしびゅうけん)(思い違い)で、仮に一身だけ悪事が無いからよいと手を(つか)ねている人のみとなったら、どんなものであろうか。そういう人は世に処し、社会に立ってなんらの貢献する所もない。それでは人生の目的が那辺(なへん)(どこらへん)に存するかを知るに苦しまねばならぬ。とはいえ、もとより悪行があってはもちろんいかぬけれども、人はすべて悪事に陥らずに、多くの世務(せいむ)を果たすようでなければ、真の人間とはいわれぬのである。


 もし智の働きに強い検束(けんそく)(拘束)を加えたら、その結果はどうであろう。悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事のためにも活動する者が少なくなってしまわねばよいがと、はなはだ心配に堪えぬ訳である。


 朱子は、いわゆる「虚礼不昧(きょれいふまい)(心を空っぽにすることによって物事を見通すこと)」とか「寂然不動(じゃくねんふどう)(心を落ち着かせ山のようにどっしりと構えること)」とかいうような説を主張して、仁義忠孝を説き、智は詐術に奔るものであるといって、絶対にこれを嫌ったから、それがために孔孟の教えは偏狭に陥り、儒教の大精神を世人に誤解されるようになった点が、少なくないと思う。智は実に人心にとって欠くべからざる大切の一要件である。ゆえに余は、智は決して軽視すべからざるものとしている。


 智の尊ぶべきものなることは、実に前述のごとくであるが、しかし智ばかりで活動ができるかというに、決してそういうものではない。そこに「情」というものを巧みに案排(あんばい)(塩梅)しなければ、智の能力をして、十分に発揮せしむることができないのである。例を挙げて説明すれば、(いたずら)に智ばかり勝って情愛の薄い人間は、どんなものであろうか。自己の利益を図らんとするためには、他人を突き飛ばしても、蹴倒しても一向頓着(とんじゃく)しない。


 由来智慧が充分に働く人は、何事に対しても一見してその原因結果の理を明らかに知ることができ、事物の見透かしがつくのであるが、かかる人物にして、もし情愛が無かったら堪ったものではない。その見透かした終局までの事理を害用し、自己本位をもってどこまでもやり通す。


 この場合、他人の迷惑や難儀なぞが如何に来ようとも、何とも思わぬほど極端になってしまう。そこの不権衡を調和してゆくものが、すわなち情である。情は一つの緩和剤で、何事もこの一味の調和によって平均を保ち、人生のことにすべて円満なる解決を告げてゆくのである。仮に、人間界から情の分子を除却したら、どういうことになろうか。何もかも極端から極端に走り、ついには如何ともすべからざる結果に逢着(ほうちゃく)(出くわす)しなければなるまい。このゆえに人間にとっては「情」は欠くべからざる一機能である。


 しかしながら情の欠点は、最も感動の早いものであるから、悪くすると動きやすいようになる。人の喜怒哀楽愛悪慾の七情によりて生ずる事柄は、変化の強いもので、心の他の部面においてこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起こる。ここにおいてか初めて「意志」なるものの必要が生じて来るのである。


 動きやすい情を控制(こうせい)(抑制)するものは、強固なる意志より外はない。しかり、意は精神作用中の本源である。強固なる意志があれば、人生において最も強味ある者となる。けれども、徒に意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただ頑固者とか強情者とかいう人物となり、不理屈に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っていても、それを矯正しようとはせず、どこ迄も我を押し通すようになる。もちろん、こういう風の人も、ある意味からみれば、尊ぶべき点がないでもないが、それでは一般社会に処すべき資格において欠けている。いわば精神的の片鱗で完全の人とは言われない。


 意志の強固なるが上に聡明なる智慧を加味し、これを調整する情愛をもってし、この三者を適度に調合したものを大きく発展せしめて行ったのが、初めて完全なる常識となるのである。現代の人はよく口癖のように、意志を強く持てというが、意志ばかり強くてもやはり困り者で、俗にいう「猪武者」のような者になっては、如何に意志が強くても、社会にあまり有用の人物とはいえないのである」




 渋沢さんはこうおっさる。


 常識、とは、「すなわち、事に当たりて奇矯(ききょう)()せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別(みわ)け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである」


 それはつまり、「智、情、意」、円通無碍(むげ)な智慧と、血の通った人情と、堅固なる意志。この三者が正しく釣り合いを保ち、いささかのかたよりもなく円満に具備した人こそ完全なる常識の備えた人である、と。


 いや~、それ常識の範疇を大きく超えてもはや聖人のレベルではないかと思いますw これらを円満に具備した人間がこの現代日本に何人居ることやらw


 さらに智とは、ただ己一人の身の安全を保つだけでは駄目で、「人はすべて悪事に陥らずに、多くの世務(せいむ)を果たすようでなければ、真の人間とはいわれぬのである」とのこと。バリバリ働け、とw


 また、智慧は知識偏重に陥り、いわゆる論語にいう、



【分、質に勝てばすなわち史】



 学識ばかりにかたよって人間性の喪失をしてしまえば官吏、官僚や役人のごとき人間になってしまう。それではいかんと。なのでどうしても人たる生き物、情がなくては、血が通わなくては世は地獄となる。いわゆる論語にいう、



【吾が党に直躬(ちょくきゅう)という者有り。父羊を(ぬす)みて、子之れを証すと。孔子曰わく、吾が党の直き者は是れに異なり、父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中に在り】


 

 誰ぞが言った。我が地元には正直者の躬という者がおる。自分の父親が羊を盗んだので躬は父の罪を告発したのだ、と。


 すると孔子様はこうおっしゃった。我が地元の正直者は違いますね。子が罪を犯したのなら父は隠し、父が罪を犯したのなら子はそれを隠します。本当の正直者はこういうことではないでしょうか、と。



 家族の、身内の罪を暴くことが正直者なのではない。


 家族だからこそ、その者を愛するからこそ、その者の犯した罪を隠すのだ。それもまた、人情のしからしむるところ、愛情の正直な発露ではありませんか、と孔子様はおっしゃるわけですね。


 ちなみに、今はどうかは知りませんが、中共などの共産国では密告を奨励するそうな。かつての戦中の日本も社会主義国だったので「隣組」という密告制度を作って奨励しましたが、父が罪を犯せば子が密告し、夫が罪を犯せば妻が密告するように奨励するんだとか。で、密告した人をものすごい褒め称えるんだそうです。そんなこんなで家族身内ですら信用できない地獄が出来上がるんだとか。さすが。


 そういう社会のあり様をおわかりであった孔子様だからこそ、家族の中では罪を追求することが必ずしも正直ではない、とおっしゃったわけですね。さすが。


 なんでもかんでも杓子定規でことを計ればよいというわけではない、家族ぐらいは理論理性より感情が勝ってもよいのではないか、ということですね。ただ、それで感情をそのままにしておいてはどうしてもダレてしまう。えこひいきだの、色眼鏡だのになってしまうから、そこは堅固なる意志で締めくくらなければいかん、と。でも、堅固な意志だけでは頑固者、頑迷固陋(がんめいころう)のそしりは免れぬから、智慧と、愛情と、意志とこの三者をうまい具合にバランスをとらせて、これでようやく完全な常識人となるのだ、と。


 さすが、幕末明治で活躍された方だけあっておっしゃることが実に高遠。幕末明治の頃ならそういう方も確かにおわしたのでしょうが、とはいえ、かの明治維新であってもそんな方は超少数派。で、そんなことは渋沢さんは百も承知。p102




偉い人と欠点のない人




史乗(しじょう)(歴史上)などに見ゆる所の英雄豪傑には、とかく智情意の三者の権衡を失した者が多いようである。すなわち意志が非常に強かったけれども、智識が足りなかったとか、意志と智慧とは揃っていたが、情愛に乏しかったとかいうがごとき性格は、彼らの間にいくらもあった。


 かくのごときものは、如何に英雄でも豪傑でも、常識的の人とはいわれない。なるほど、一面から見れば非常に偉い点がある。超凡的な所がある。普通一般人の企及(ききゅう)すべからざる点があるには相違ないが、偉き人と全き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格にたとい欠陥があるとしても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、いわば変態である。


 それに反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん、偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する。つまり、常識の人の多からんことを要望する次第である。


 偉い人の用途は無限とはいえぬが、完き人ならいくらでも必要な世の中である。社会の諸設備が、今日のごとく整頓し発達している際には、常識に富んだ人がたくさんいて働けば、それでなんらの欠乏も不足もない訳で、偉い人の必要は、ある特殊の場合を除いては、これを認むることが出来ない。


 およそ人の青年期ほど思想が一定せず、奇を好んで突飛な行動に出でんとする時代は少なかろう。それも年を経るにしたがい、次第に着実になって行くものだが、青年時代には多くの人の心は浮動している。しかるに常識というものは、その性質が極めて平凡なものであるから、奇矯を好み突飛を好む青年時代に、この平凡な常識を修養せよというは、彼らの好奇心と相反する所があろう。偉い人になれと言わるれば、進んでこれに賛成するが、全き人となれといわるればその多くは苦痛に感ずるのが、彼らの通有性である。


 しかしながら、政治の理想的に行わるるも国民の常識に()ち、産業の発達進歩も実業家に負う所が多いとすれば、否でも常識の修養に熱中しなければならぬではないか。(いわ)んや社会の実際に徴するに、政治界でも、実業界でも、深奥なる学識というよりは、むしろ健全なる常識ある人によって支配されているを見れば、常識の偉大なることは言うまでもないのである」




 これを伺いますとやはり、渋沢さんのおっしゃる常識と、いま通用している常識とはちょいとニュアンスが違うことがわかりますね。


「偉い人になれと言わるれば、進んでこれに賛成するが、全き人となれといわるればその多くは苦痛に感ずるのが、彼らの通有性である」


 ここを伺うに、渋沢さんのおっしゃる常識とは、今でいうと徳、人徳と解釈すべきで、現代の常識とはルールとか最低限の規範とかですね。全く、とは完全に、という意味なので、徳は完全を目指しますが常識は完全を目指さない。むしろ、あって当然。無いやつが社会にしゃしゃり出てくるんじゃねぇ。という塩梅。


 そういえば、この前からスシローで容器をねぶって戻した動画を垂れ流し、スシローに100億以上の損害を与えた常識知らずがいて、請求されるであろう損害額でもう人生終わったな、みたいなことが言われていますが、これを見ても渋沢さんはこんなんは常識ではない! とかおっしゃるでしょうねぇw


 とはいえ、


(いわ)んや社会の実際に徴するに、政治界でも、実業界でも、深奥なる学識というよりは、むしろ健全なる常識ある人によって支配されている」


 日本の政治で、健全なる常識ある人によって支配されていたことがどれくらいあったんだろう、と思うのはわたしだけでしょうか。


 さて、お次も渋沢さんの高邁なる教えを伺います。p112




人生は努力にある




「予は本年(大正二年)、最早七十四歳の老人である。それゆえ数年来、なるべく雑務を避ける方針を取っているが、ただし全然閑散の身となることが出来ず、まだ自分の立てた銀行だけは依然、その世話をしているという次第で、老いてもやはり活動しているのである。すべて人は、老年となく青年となく、勉強の心を失ってしまえば、その人は到底進歩発達のするものではない。同時にそれらの不勉強なる国民によって営まるる国家は、到底繁栄発達するものではない。予は平生、自ら勉強家のつもりでいるが、実際一日といえども職務を怠るということをせぬ。毎朝七時少し前に起床して、来訪者に面会するように務めている。如何に多数でも時間の許す限り、たいていは面会することにしている。


 予の如き七十歳以上の老境に入っても、なおかつ、かくごのとく怠ることをせぬのであるから、若い人々は大いに勉強して貰わねばならぬ。怠惰はどこまでも怠惰に終わるのであって、決して怠惰から好結果が生まれることは断じてない。すなわち、座っていれば立ち働くより楽なようであるが、久しきに(わた)ると膝が痛んで来る。それで寝転ぶと楽であろうと思うが、これも久しきに亘ると腰が痛み出す。怠惰の結果はやはり怠惰で、それが益々はなはだしくなるくらいが落ちである。ゆえに、人は良き習慣を造らねばならぬ。すなわち、勤務努力の習慣を得るようにせねばならぬ。


 世人はよく智力を進めねばならぬとか、時勢を解せねばならぬとかいうが、なるほどこれは必要なことで、時を知り事を(えら)む上には、智力を進めること、すなわち、学問を修める必要がある。とは言うものの、智力如何に充分であっても、これを働かさねば何の役にも立たない。


 そこで、これを働かせるということは、すなわち勉強してこれを行うことであって、この勉強が伴わぬと、百千の智もなんら活用をなさぬ。しかしてその勉強も、ただ一時の勉強では充分でない。終身勉強して、初めて満足するものである。およそ勉強心の強い国ほど、国力が発展している。これに反して、怠惰国ほどその国は衰弱している。


 現にわが隣国支那などは、いわゆる不勉強の好適例であるゆえに、一人(いちにん)勉強して一郷その美風に薫じ、一郷勉強して一国その美風に化し、一国勉強して天下靡然(びぜん)(なびくこと)としてこれに倣うというように、各自はただに一人のためのみでなく、一郷一国ないし天下のために、充分勉強の心掛けが大切である。


 人の世に成功するの要素として、智の必要なること。すなわち学問の必要なることはもちろんであるが、それのみをもって、ただちに成功し得るものと思うは大なる誤解である。論語に、「子路曰く、民人あり、社稷(しゃしょく。国家)あり。なんぞ必ずしも書を読みて、しかる後に学ぶとせん」とある。


 これは、孔子の門人の子路の言である。すると孔子は、「このゆえに()の佞者を(にく)む」と応えられた。この意は、「口ばかりで、事実行われなくては駄目である」ということである。予は子路の言を善しと思っている。されば、机上の読書のみを学問と思うのははなはだ不可のことである。


 要するに、事は平生にある。これを例にすると、医師と病人との関係のごときものである。平常衛生のことに注意を怠っていて、イザ病気という時に、医家の門に駈けつけるというようなもので、医者は病人を治すが職務であるから、何時でも治してくれると思っては、大違いである。医家は必ず平常の衛生を勧めるに相違ない。ゆえに予はすべての人に、不断の勉強を望むと同時に、事物に対する平生の注意を怠らぬように心掛くることを説きたいと思うのである」




 七十を過ぎられてもまったく体を休めることなく職務に励行されるとは、まったく頭の下がる思いでございますが、わたしなんぞは70歳まで生きられるかどうかもわからぬ。もっといえばそんな年まで生きたくないと思う所存。

 

 渋沢さんは1931年で世を終えられているので大東亜戦争もご存じなかったでしょうが、もはや今の世は令和五年。戦争に負け、米国の奴隷と堕し、国内は腐ったイデオロギーに脳みそ毒され、朝鮮半島にまで舐められるような体たらく。為政者は国家の安危ではなく自身の懐具合だけを気にする時代。


 日本がいつまでもつかも分からぬ、もしくは、チベットウイグルのように中華に蹂躙されるのではないかと心配までせねばならない時代。未来に希望などなく、眼前に広がるのは絶望のみ。無邪気に、無心に、国家の発展を信じられるような時代ではなくなりました。まだ、高度経済成長期なら「モーレツ社員」「終身雇用」とか、バブル時代なら、「24時間戦えますか?」などという、無邪気に、無心に国家の発展を信じられた時代がありました。今はもはやありません。少し前なら、倒産する会社でも「社員は悪くありませんから!」と、号泣する社長がいた。そういう情のある人が今の日本にいるのでしょうか。たった100年程度で日本がここまで激変するのも驚きですが、明治維新に日本の堕落はすでに始まっておったのであろうと思う他はありません。


 結局、日本の道徳の最後の生命線は武士が担っていたと思います。


 確かに、武士も功罪の、罪の部分がたくさんあったでしょうが、しかし、江戸時代、儒教を体認し260年の安寧を実現し、外国勢力の影響を見るや明治維新を導いたその能力はやはりさすがの一言。庶民はすべて蚊帳の外でエエジャナイカと踊る程度。


 また、武士は世界で唯一、落ち度があれば自身の腹をかっさばく、という自裁すら行った。ここまで自身の命ではなく、名誉や家名を重視した支配階級は日本人しかいないでしょう。名誉や尊厳を大事に思うからこそ、家名を汚すような無様な真似、愚かな行為は厳に戒めた。大政奉還が日本史の常識なので日本人は誰も驚きもしないでしょうが、権力者が、自ら権力を捨てる、などということを行えた民族が日本人以外にいるか探してみるのも面白いかもしれません。


 また、庶民は浄土系に帰依し、「念仏唱えれば即浄土」というある意味手前勝手な都合の良い信仰だったのに比べ、武士は剣禅一如で、武道も精神修行も同等に行った。日本人がもつ美風、美徳のほとんどは、実は武士が担うものであったといって決して過言だとは思われません。そして、その武士が消えてくなった以上、あとはその残り滓しかなかった。しかもその残り滓も、左翼イデオロギーやら米国の奴隷化やらでほぼ雲散霧消。


 日本人、朝鮮人、中華人、この三者を並べて、何がどう違うのか。どういう歴史を歩みどういった精神性、文化、学問を涵養にするに至ったのか。確固たる自覚ある人が幾人いるでしょう。


 本を読めば読むほど、過去の栄光と現実の落差に愕然とするしかありません。それでなお、未来を信じて勉学に励むような堅固な意志はわたしにはありません。まあ、ゲームは楽しいのでそれだけは救いですかね。「ゲームがあるからギリ生きてる」というようつべあー(ユーチューバー)さんのセリフがありますが、満腔の共感をおぼゆる次第。


 渋沢さんも、100年後の日本がこんな有様になってしまってどう思われるのか、気になるところではあります。不勉強の好適例たる中華に、ここまで圧迫されるようになるとはさすがに渋沢さんも夢想だにされなかったでしょうしね。ちなみに、一郷の郷は日本では村、という意味ですね。


 さらにちなみに、渋沢さんのおっしゃる、「子路曰く、民人あり、社稷(しゃしょく)(国家)あり。なんぞ必ずしも書を読みて、しかる後に学ぶとせん」の部分。渋沢さんは子路さんの言うことももっともである、とおっしゃられていますね。これは、



【子路、子羔(しこう)をして()(さい)たらしむ。子曰わく、かの人の子を(そこな)わん。子路曰わく、民人あり、社稷(しゃしょく)あり、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん。子曰わく、是の故に()の佞者を(にく)む】



 というもの。


 子路さんが、子羔さんを費という町の為政者に推薦した。それを聞いた孔子様は子羔はまだ未熟であり、市長はまだ早すぎなんじゃないかねとおっしゃった。すると子路さんが、町には民がおり、治めるべき地域があります。職務に従事していれば自然と必要なスキルは磨かれるのであります。どうして机にかじりつくだけが学問といえるでしょう。と言った。それを受けた孔子様が、これだから口が達者な奴は嫌いだ。とおっしゃった。



 こういうお話ですね。


 この一文、おおよその解釈としましては子路さんの早計を非難する向きが強いw


 確かに、習うより慣れろ、という言葉もあるので、机にかじりついて本を読むだけが学問ではない。実地で実務に携わるほうがよほど身につくものがあります。むしろ百聞は一見にしかず、座学をどれほどやるよりも実践したほうがよほど骨身にしみて学べるでしょう。


 ですが。


 子羔さんは孔子様に「愚」と評価されたお人。愚とは、愚直とかの意味でテキパキと事務をこなすよりは、とっくりと取り組まないとものにならない、というようなお人であった模様。そんなお人に急に大役を押し付けるのは結局、子羔さんも損なうし、費の町の人にも迷惑になるのではないか、と思われたわけですね。確かに、政務に従事する能力がない連中が政務を行う悲劇を、日本人は知るでしょうから、未熟者が為政者になるのは厳に戒めねばなりません。にもかかわらず、子路さんは自身の非を認めないばかりか、口先の言い訳をした。

  

 だから佞者は嫌いだ、とおっしゃったわけですね。


 渋沢さんはここでは子路さんの言い分をとられたわけですね。しかし、実は。『実験論語処世談』という書では孔子様の言をとられていますw 何があった?w


 まあ、それはともかく、100年前の日本では、為政者は当然の理として国家のために働くのが常識であった。


 しかるに現代日本では、為政者は自分の国のために働かないことが常識となった。


 自分の国のために働く。そんな当たり前のことが誰も出来ないと、誰もしやしないと、もはやそれが常識となってしまった。この確信はこゆるぎもしない。それで、世界のどこかで戦争が勃発し、食料危機、エネルギー危機が叫ばれている今。舵なき小舟たる我が国はどこへ流されてゆくのでしょうね。


 …当分は飢えて死ぬこともないでしょうし、それをもう少し見ていましょう。



 といったところで今回はこれまで。

 

 過去にどれほど英邁な人がおわしても、現代に生きる人々にはなんら響かない。でもだからこそ、自分だけは正しく教えを伺いたいものです。


 したらば。






「新世界より」のOP・EDを聴きながら。


 あの世界観はいまでもすごい。核心に迫ってゆくほど、怖いもの見たさという感覚があってドキドキさせられましたね。

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