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『論語と算盤』の丸写し。一、



 なんでも、防衛費を増額するために法人税、所得税、たばこ税のこれら3点の増税を検討しているのだとか。


 まあ、おロシアがなんの正義も大義もない侵略戦争を仕掛け、覇権主義止まらぬ中共の脅威はまったなし。どこぞの北からはひっきりなしにミサイルが飛んでくる始末。この世界情勢から防衛費を増額するのもある意味当然の流れと言えるでしょうが、どうにも、泥縄的な動きに見えますね。


 共産主義者や共産国のオツムがオカシイのは19世紀から分かっていたこと。これら共産勢力の異常性は幸徳秋水のような連中が明治天皇暗殺を企てた大逆事件をみても分かる通り(幸徳秋水が事件に関与したかどうかは問題ではなく、そういう異常な思考をもった連中が日本に巣くっているということが大問題)、常識が疑われるとかそういうレベルではなくそもそもその、常識を破壊することを能事とするような連中が共産主義者というもの。しかもそれを国に仕立て上げたようなのが戦後日本の周りに盤居(ばんきょ)していたわけで、いくら日本が敗戦国とはいえもっと早くにこれらの勢力を払底する努力をしていなければいけなかった。これら異常国家、異常思考者たちの様々な跳梁跋扈を放置しておきながら、今更防衛費をあげて国防力をあげようなどというのは木を見て森を見ず、とでも言うべきでしょうか。


 ちなみに、わたしもようつべが好きなので色んな動画を見ておりますが、しかし、これら色んな作品を見ていて思うのは、異様に共産主義的思考をもった製作者が多いな、と思うことですね。動画の中で展開される製作者の思考もそうですし、数多のコメントもそっち系が多い。これらの製作者が具体的に中共と繋がりがあるとか、亡国の野望をたくましくしているとかそうことではなく、現代の日本人は異様に共産思考に染まっている人間が多いと思う。


 マルクズのごとき異常者の作った思考をありがたがり、敬っているというだけで十二分に異常(今の共産国は間違っているが共産主義自体は正しい、とか本気で言っている人が多い)。今の日本は、戦後の左翼マスコミに毒されていたときより今のほうがよっぽど草の根で左翼思考に脳みそ毒されている人間が多いのではないかと心の底から危惧するのであり、ここから啓蒙活動を初めないことには防衛費云々なんて問題ではないくらい今の日本の根幹的宿痾(しゅくあ)なのではないかと思います。


 ここからなんとかしないことには日本の内側の腐敗は治らない、と思いますが、まあ、誰も何の危機感も感じないんだろうなぁw



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて、今回は『論語と算盤』 興陽館発行 こちらを読んでみたいと思います。


 言わずとしれた渋沢栄一さんの名著ですね。わたしも20代の頃からタイトルは知ってはいたものこれまで手にする機会がありませんでした。渋沢栄一さんとは、日本の資本主義の父と言われるほどの数多の起業を成し遂げた実業界の大偉人。この間、NHKの大河ドラマの主役になったお方で、2024年、あと2年後に諭吉に成り代わって一万円札の新紙幣の顔とされるお方ですね。


 論語という東洋思想のバイブルのような書と算盤という計算器の代表的な物を合わせてタイトルにされている通り、渋沢さんは東洋思想と現代的な資本活動、金儲けは十二分に融合できると確信され、自身の経済活動に活かされたとか。まさしく、活学という言葉を実践された本当の英雄ですね。学問とは日常に活かして初めて意味を持つのであり、活かされない、日常になんの貢献もなされない学問になんの意味も価値もないわけです。


 読んでみたところ、難解な言い回しもところどころありますが全体を通して読みやすい内容でした。異常な時代だからこそ、こういう本当の本でオツムといいますか、心を洗いたいですね。今回も気になった部分を◯っと丸写ししてみたいと思います。p66




「徳川時代の末路でも、因襲のしからしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは、全く区別されておったのである。しかして武士は皆、修身斉家を本として、ただ自己一身を修めるのみではなく、他をも治めるという主義で、すべて経世済民を主眼としておった。農工の教育は、他人を治め国家をどうするかというような考えを持たせる教育ではなく、至って卑近な教育であった。


 当時の人は、武士的教育を受ける人はまことに少ないので、すべて教育はいわゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、または富豪の老人などが教育してくれたものである。農工商はほとんど国内だけのもので、海外などにはごうも関係がなかったものであるから、農工商の人には低級な教育だけで足りたのである。


 しかして主なる商品は幕府及び藩が運送、販売等の機軸を握っておったので、農工商民の関係する所は実に狭いものであった。当時のいわゆる平民は、一種の道具であった。はなはだしいのは武士は無礼打、切捨御免という惨酷な野蛮極まる行為を平気でやっておったものである。


 この有様が追々、嘉永安政(1848年~1860年)頃には、自然に一般の空気に変遷を起こして、経世済民の学問を受けた武士は、尊王攘夷を唱えて遂に維新の大改革をなしえたのである。


 私は維新後、間もなく大蔵省の役人となったが、この当時は日本には物質的、科学的教育はほとんどないといってもよいくらいであった。武士的教育には、種々高尚なものがあったが、農工商にはほとんど学問はなかった。のみならず、普通の教育のことを論じても低級で、多くは政治教育という風で、海外交通が開けても、それに対する智識というものが無かったのである。


 如何に国を富まそうと思っても、それに対する智識などはさらにない。一つ橋の高等商業学校(現在は一橋大学)は明治七年にできたものであるが、いくたびか廃校せられんとしたのである。これはすなわち当時の人が、商人などに高い知識などは要らないと思っておったためである。私などは海外に交通するには、どうしても科学的智識が必要であることを、声を()らして叫んだが、幸いにも追々その機運が起こって、明治十七、八年にはこうした傾向が盛んになって間もなく、才学(とも)に備わった人が輩出するに至ったのである。


 それから以後、今日まで僅か三、四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらい物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである。


 徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ばしたことは明らかであるが、またこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少なくはなかったのであるが、今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っておるといってよいと思う。すなわち、精神教育が全く衰えて来ると思うのである。


 われわれも明治六年頃から、物質的文明に微弱ながらも全力を注ぎ、今日では幸いにも有力な実業家を全国至る処に見るようになり、国の富も非常にましたけれども、いずくんぞ知らん、人格は維新前より退歩したと思う。否、退歩どころではない。消滅せぬかと心配しておるのである。ゆえに物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思うのである。


 私は常に精神の向上を富とともに進めることが必要であると信じておる。人はこの点から考えて強い信仰を持たねばならぬ。私は農家に生まれたから教育も低かったが、幸いにも漢学を修めることができたので、これより一種の信仰を得たのである。私は極楽も地獄も心に掛けない。ただ現在において正しいことを行ったならば、人として立派なものであると信じているのである」




 ここはちょいと前のブログにも紹介した文章ですね。


 この文章を伺うだけで渋沢さんの懸念と真心を伺うことができます。世に、安岡先生といい、渋沢さんといい、心ある人はいつも、このままでは日本はどうなるかわからんぞ、と警告を発せられています。心ある人はいつも払暁(ふつぎょう)の鐘をつかれているのであります。


 さて、徳川時代の太平というのは、世界でも珍しい260年もの天下泰平、対外戦争の発生しない平和な時代を送ったわけですが、しかしてそれによって生まれた弊害というのもやはり避けることのできない宿命であった。福沢諭吉もまったく同じ時代を生きたわけで、『学問のすゝめ』にも、その当時の庶民の気骨のなさとかへりくだった卑屈な精神性などが書かれていました。それもこれも、「武士は無礼打、切捨御免という惨酷な野蛮極まる行為」がほしいままに許されていたがために、庶民は自然と卑屈にならざるを得なかったのでしょう。もっとも、『学問のすゝめ』を読んでおると、そういう庶民に対する諭吉の侮蔑の視線といいますか見下した物言いがいたく鼻についたものですが。


 それはともかく、徳川幕府は成立と同時に「元和偃武」を宣言した。武を(おさ)める。矛を収める、ということで終戦宣言が出された。終戦宣言を出した、ということは「勝てば官軍! 俺こそ官軍ー!」と大々的に宣言したということ。言ってみればしょせん、徳川の幕府と言っても豊臣政権を武力で打倒した、江戸というその当時寒村に拠点を構えた一大名に過ぎないわけでそこまでいうほどの大義名分も正当性もなかったわけですが、しかして、権現様が立派であったのは学問を、儒教を重視されたことにある。


 何故、武士が偉そうに支配者ヅラをしているのか。それは立派な学問を修めた、事実立派な人間であるから支配者ヅラ出来るのだ! ということ。武士の教育というのは藩校において四書五経、論語や孟子や大学、中庸と東洋でもっとも大事なものと見られた書物から教えを受けたことにあります。そのひとつの結実が「修身斉家治国平天下」なわけですね。


 我が身を修めることによって我が家を(ととの)える。そういう家がいっぱいあれば国は治まり、だから天下は太平となる。


 もはや現代においては儒教を学ぶ人もほとんどいないので何の事かピンとこないでしょうが、簡単にいえば、道徳で国家を治めようとする思想であると言って間違いありません。


 これが成功したか否かは260年の歴史を伺えば明らかですが、武士は儒教の精神に立って日本を鎮護したわけで、この「修身斉家治国平天下」も道徳教育の重大徳目と言えます。この道徳教育を武士は受けた。徳川の支配体制は、明らかに武断政治、軍事政権であったわけですが、どこぞの軍事政権と大きく違って教育を重視した。武士と平民と身分が分かたれているのは、武士は立派な教育を受けた身分であるから、政治を携わるに十分な資質を備えた存在である、そんな武士が平民の上にあって治めるのは当然のことである、という正当性を作り出したわけですね。


 それが様々な問題、弊害を起こしたのは紛れもない事実ですが、少なくとも260年の太平を作り上げたし、少なくとも維新を成し遂げたのは武士です。平民ではありません。


 西欧では啓蒙以降、イデオロギー思考が巻き起こって平民が立ち上がり王権、教権を打倒せしめましたが、日本はきちんと教育を受けた武士が維新を遂行しました。ある側は佐幕、ある側は倒幕と別れはしましたが、それでも慶喜公は「大政奉還」を成し遂げました。これは支配者が支配権を手放す、ということであり、普通、日本以外の歴史では絶対に起こり得ないことです。


 支配権を手放す、というのはある種の無条件降伏であり、それ以降の自身の命すら後の権力者に任す、ということになります。ブルボン王朝やロマノフ王朝が根切りの憂き目を見たように、権力を失った権力者がどうなるかは歴史を振り返るまでもない。そんなおっかないことを決断し得た慶喜公は紛れもない名君と言えますが、しかし、これこそが武士の教育、道徳教育と言えるでしょう。


 大事な場面で大事な決断を、決然と成し遂げる。


 幕末、維新の色んな場面でまあ、これも色々ありますがしかし決定的に国を滅ぼすような決断は避けられた。佐幕派も倒幕派も、最低でも諸外国の横やりは許さなかった。そして内戦を日本国内だけで収めた。これができなかったインド王朝はエゲレスのエサ場となってさんざんむしゃぶりつくされました。もし、慶喜公がフランス公使ロッシュの策どおりに北海道を担保に金を借りるなどということが起こったのなら、その後何が起こったことか。渋沢さんはこの一橋公に仕えたわけですから、どれほど公に感化されたのでしょうね。


 また、


「私は常に精神の向上を富とともに進めることが必要であると信じておる。人はこの点から考えて強い信仰を持たねばならぬ。私は農家に生まれたから教育も低かったが、幸いにも漢学を修めることができたので、これより一種の信仰を得たのである。私は極楽も地獄も心に掛けない。ただ現在において正しいことを行ったならば、人として立派なものであると信じているのである」


 この一文も重要なお考えであります。わたしもようやく学問がものになりつつあるのか、信仰心も芽生えてきましたね。


 これまでは見向きもしなかった初詣も参るようになりましたし、正月飾りも少しはするようになりました。時々清酒を買っては神様に供えるようにもなりました。学問を修めれば人は自然と信仰にも向かうものであり、また、そうなるようにするのが学問というものでしょう。


 北宋の学者、張横渠(ちょうおうきょ)先生の詞で、安岡先生が終戦の詔勅を起草した時に用いた言葉があります。




【天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ。万世の為に太平を開く】




 天地があるからわたしが生まれた、その徳や恩に報いるために我が心を立てるのだ。心を進化させるのだ。


 今を生きる人々が迷わぬよう、間違わぬように、正しい学問を打ち立てるのだ。


 今はなき偉大な先達のために、失われてゆく教えをわたしが受け継ぐのだ。


 この人の世がとこしえに、恒久に平和であるように太平を開くのだ。永遠の王道楽土を作り出すための大理想を打ち立てるのだ。



 ということ。ちなみに、陛下の「以て万世の為に太平を開かむと欲す」というお言葉には、現状を鑑み、このまま戦を継続することはもはや正義ではない、事態の無惨を知りながら継戦することこそ悪と断ぜねばならぬ。すべての人々に、後の世の子々孫々にまで心を配るがゆえにここに「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」矛を収めるのだ、という意味があるわけですね。ぼっこすこにやられ負けました~、という情けない心情を吐露したことではないということだったんですが、本来、安岡先生としては「義命の存する所」としていたのを、時の当局が義命などと言われても庶民は分からんだろう、ということで「時運の(おもむ)く所」、に変えてしまったそうな。時運の趨く所では、戦争おっぱじめましたが武運拙くやっぱやられました~、という意味になって締まりがない。当局にそんな使命感などなかったということでしょうか。


 それはともかく、「天地の為に心を立つ」この短い文章に不尽の味わいがあるわけですね。


 天地とはこの世のことであり、この地球のことである。天地の化育。この地球には、数え切れぬほどの数多の生命を生み、育み、進化成長させてゆくだけの無尽の、無窮のエネルギーというか、懐の深さといいますか、母の胎内の如き創造性がある。無限の化育がある。


 その途方もない数の生物の息吹や進化が積み重なりに積み重なって、化育の頂点にある人という存在がこの地に生み出された。この広大無辺な地上に二本の足をもって何者の束縛も許さぬ、決してその歩を止めぬ人という存在がついに現れた。


 それまでの生き物は観察するとどうやら生きるに汲々としているだけで、心を立つ、心を進化させるというような高度な精神性はもっていない(お狐様とかはもっておられるようですがw)。人間はあらゆる生物の中で、望めば神や仏にだって至れるほどの精神性を有する。そんな自分を生んでくれた、育ててくれた、地球や父母、いろんな方々や物事に素直に感謝すれば、それはすなわち己の心を立派にさせないではいられない。自分が立派に心を育てることが、地球や父母に対するご恩返しであり、孝行と言える。


 そういう孝行心が自然と信仰心になる。


 父母やご先祖様、また、往聖に対する信仰となる。


 学問を敦厚(とんこう)に着実に積み重ねてゆけばごく自然に信仰に至るもの。信仰心をもつに至るもの。信仰心とは、その人が進歩成長すれば自ずと現れてくるものであり、花が咲けば実を結ぶように次の段階へと至るもの。


 信仰は押し付けるものでも、押し付けられるものでもありません。いかに親が立派な篤信ある信者でも遺伝子のようにその子に信仰が受け継がれるわけではありません。その親がなんであれ、兄弟や祖先がなんであれ、己の心を育むのは、己の心のみ。


 心が立てば信仰心は自然と現れるし、まただからこそ正しく生きられる。両々相まってさらなる進化を自身に与える。


 渋沢さんがおっしゃるのはこういうことですね。同様に四書五経を学んでおきながら、前述『学問のすゝめ』で孔子様を馬鹿にしまくった無神論者の福沢のオツムはどうなっていたのやら。


 それはともかく、お次は渋沢さんの人生を少し伺いましょう。p85




「「余は十七歳の時、武士になりたいとの志を立てた」、と言うのは、その頃の実業家は一途に百姓町人と卑下されて、世の中からはほとんど人間以下の取り扱いを受け、いわゆる歯牙にも掛けられぬという有様であった。しかして、家柄というものが無闇に重んぜられ、武門に生まれさえすれば智能のない人間でも、社会の上位を占めて(ほしいまま)に権勢を張ることができたのであるが、余はそもそも、これがはなはだ癪に障り、同じく人間として生まれ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考えた。


 その頃、余は少しく漢学を修めていたのであったが、『日本外史(頼山陽著、1826年作)』など読むにつけ、政権が朝廷から武門に移った経路を(つまび)らかにするようになってからは、そこに慷慨(こうがい)の気というような分子も生じて、百姓町人として終わるのが如何にも情けなく感ぜられ。いよいよ武士になろうという念を一層強めた。しかしてその目的も、武士になってみたいというくらいの単純なものではなかった。武士となると同時に、当時の政体をどうにか動かすことはできないものであろうか。今日の言葉を借りていえば、政治家として国政に参与してみたいという大望を抱いたのであったが、そもそもこれが郷里を離れて四方を流浪するという間違いを仕出来(しでか)した原因であった。


 かくて後年大蔵省に出仕するまでの十数年というものは、余が今日の位置から見れば、ほとんど無意味に空費したようなものであったから、今このことを追憶するだに、なお痛恨に堪えぬ次第である。


 自白すれば、余の志は青年期において、しばしば動いた。最後に実業界に身を立てようと志したのが(ようや)く明治四、五年の頃のことで、今日より追想すれば、この時が余にとって真の立志であったと思う。元来自己の性質才能から考えてみても、政界に身を投じようなどとは、むしろ短所に向かって突進するようなものだと、この時、漸く気がついたのであったが、それと同時に感じたことは、欧米諸邦が当時のごとき隆昌を致したのは、全く商工業の発達している所以(ゆえん)である。


 日本も現状のままを維持するだけでは、いつの世か彼らと比肩し得るの時代が来よう。国家のために商工業の発達を図りたい、という考えが起こって、ここに初めて実業界の人になろうとの決心がついたのであった。しかしてこの時の立志が、後の四十余年を一貫して変ぜずに来たのであるから、余にとっての真の立志はこの時であったのだ。


 (おも)うにそれ以前の立志は、自分の才能に不相応な、身のほどを知らぬ立志であったから、しばしば変動を余儀なくされたに相違ない。それと同時にその後の立志が、四十余年を通じて不変のものであった所から見れば、これこそ真に自分の素質にも(かな)い、才能にも応じた立志であったことが(うかが)い知られるのである。


 しかしながら、もし自分におのれを知るの明があって、十五、六の頃から三十歳頃までには、十四、五年の長日月があったのであるから、その間には商工業に関する素質も十分に積むことができたに相違なかろう。仮にそうであったとすれば、あるいは実業界における現在の渋沢以上の渋沢が見出されるようになったかもしれないけれども、惜しいかな、青年時代の客気(きゃっき)(若さ故の過ち、みたいな一時の迂闊なむーぶめんとw)に誤られて、肝腎の修養期を全く方角違いの仕事に徒費(とひ)してしまった。これにつけても(まさ)に志を立てんとする青年は、宜しく前車の覆轍(ふくてつ)をもって後車の戒めとするが宜しいと思う」




 ああ、一橋公、貴方様との時間は無駄だったそうです。ー人ー。


 それはともかくw 多分、これは渋沢流の冗談だと思いますけどねw 人生において無駄な時間なんぞ何一つもありはしません。-人- あれ、これ無駄かな? と悟るだけでもそれまでは無駄だった、と理解する意義があるのであります。ましてや、


「自白すれば、余の志は青年期において、しばしば動いた。最後に実業界に身を立てようと志したのが(ようや)く明治四、五年の頃のことで、今日より追想すれば、この時が余にとって真の立志であったと思う。元来自己の性質才能から考えてみても、政界に身を投じようなどとは、むしろ短所に向かって突進するようなものだと、この時、漸く気がついたのであった」


 ここの、「短所に向かって突進するようなもの」


 これこそが人生における重要な修行の一つなんですよね。人間にとって、すべてがすべて自分にとって得意な、順風満帆に行えることだけをすることが修行なわけはない。むしろ、嫌々、苦心惨憺して乗り越えた時こそが重要な修行の一つなのであって、短所をいかに克服すべく苦慮したか、いかに短所を長所に変えられるように努力したか、がその人生におけるきわめて貴重な修行の時間なわけで、一橋公に仕えて東奔西走したあの時間こそが渋沢さんにとって欠くことのできない重大な修行なわけです。


 また、渋沢さんはこれら無駄な時間を過ごすことなく、若い頃から商工業の道に進んでいたらもっと優れた自分があっただろう、などとおっしゃいますが、しかしてこれが他人の目から見た時にどうでしょうか。「一橋公に仕えた有能な幕臣」、と「ず~っと商売していただけのどこぞのおっさん」、とどちらに人物評価として軍配が上がるかは言うまでもないでしょう。渋沢さんは維新になるとほどなく大蔵省で働くようにと、大蔵次官であった大隈重信から招聘されたそうで、一橋公の幕臣として活躍した時間がなければ、どうしてこんな明治維新のど真ん中で活躍できるような機会に巡り会えたでしょう。ましてや、その後の実業家としての活躍が起こり得たかどうか。周囲の人々は渋沢さんの活躍ぶりを見ていたからこそ、その実力を高く買っていたのであり、その後の活躍をも期待したのでしょう。


 地元で商売していただけのそこらのおっさんに、誰が日本の将来を背負ってもらうような期待をしたでしょうか。幕末明治のど真ん中にいた人だからこそ、人々はその辣腕に期待したのであります。こんな当たり前のことを渋沢さんほどの方がわからないはずはないw 


 まあこれは、自身の至らぬところを知る渋沢さんなりの謙遜でしょうね。


 

 さて。つまらぬ人間の書は読めばすぐわかりますが、偉大な大人物の書も読めばすぐわかるというもの。優れた書に触れ合うと非常に嬉しくなるものであります。なので、ここしばらくは『論語と算盤』を丸写ししてゆく所存。-人-


 今宵はここまで。


 したらば。






「ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル」のOP・EDを聴きながら。


 やっぱLiaさんはイイ。


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