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『資本論 未来へのヒント』を読んだ。


 

 NHKスペサルを見ておりましたら、「岐路に立つ民主主義」と題して放映しておりました。混迷の世界で、資本主義的社会は行き詰まり、そこで世界的な潮流としてむしろ権威主義、共産主義になびいている。という内容です。


 最近は、共産主義のことを権威主義と呼ぶようですね。


 まあ、確かに、没義道な侵略戦争をしかけたはいいものの、思いっきり行き詰まっているおロシアのプー太郎といい、胡錦濤を追い出したとかなんとか、孤立的な独裁を行う中共のペー太郎といい、アカ共は独裁者ばっかなのでそう呼びたくなるのも無理からぬ事と言えましょうか。


 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて、今回は読書感想文でございます。読んだのは『図解 資本論 未来へのヒント』 齋藤孝著 ウェッジ社刊 でございます。


 齋藤氏の名前は昔から知っておりましたし、その著書も何点か読んだことがありました。伺っておりますと確かに素敵なことをおっしゃってはいるものの、妙に左翼的な思考を持っているな、と思うところが以前からありましたが、今回、この本を読んでああ、やはり真っ赤っ赤のアカであったか、と確信した次第でございます。


『資本論』とは言うまでもなく、かのアカの金字塔にして聖典とも仰ぐカール・マルクズの著書ですね。資本主義や資本家、また、これらによって構成される資本主義的経済活動全般を批判する書として、世に出でた人でその名を知らぬ人はいないほど有名な書であります。


 当然わたしも名前くらいは知ってはいたものの、【異端をおさむるはそれ害のみ】のお言葉通り、この手の害悪には近づかないでいたので資本論そのものはこれまで読んだことはない。でも、【敵を知り己を知れば百戦して殆うからず】なので少しくらいは知ってはおきたい。が、大真面目に読む気にもならないので解説本くらいは読みたいなぁ、くらいに思っていたところにこの書を見つけたので、これはちょうどよい、と読んでみた次第でございます。


 さて、読んでみた感想としましては、まあ、真っ赤っ赤のアカの書だな、くらいのものですね。本書すべてにおいて横溢する、偏り。腹にイチモツ抱えた人間らしい素晴らしいまでの偏重っぷりをみせつけられました。


 本文そのものは、資本主義的経済活動、その仕組みを、まずは開陳しその誤謬を指弾する、という内容で、一人の生産者に一つの品物を作らせ、それをより高く買うところへ売って利益を出す、みたいな単純な構造と、商品流通の流れとかそういうものを図解で示したという解説が主なところなので、そういった点に感心するところはほとんど見られないものの、本書の中身そのものが、いかにもアカらしい物言いに満ち満ちていたので、そこらへんを少し、見てみたいと思います。


 p60




「<貨幣貯蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣貯蔵者なのである>


 (168・第二篇第四章第一節)と、マルクスは独特の表現をしています。資本家にとってみると、単に貨幣を貯めるだけで満足しているような人は、どこかオカシイんじゃないか、ということになるのです。価値を増やすために、貨幣貯蔵者は貨幣を流通の流れから汲み上げて、それを自分の懐にしまいこむのですが、資本家は逆に、手に入れた貨幣を絶えず流通に投げ込むことによって、価値をどんどん増やし続けていくのです。お金を眠らせておくほどもったいないことはないと。


 要するに、資本の目的は金儲けをするための運動であり、資本主義社会では、これが際限なく続いてゆくわけです」




 極度の濫費家であったマルクズにとって、守銭奴は憎むべき気違いであるようです。


 資本主義社会においては、お金とは、利益を生み出すために常に回転し続けなくてはいけない、とマルクズは言っておりますが日本や世界がなんの問題もない好景気に沸いているのならともかく、いつ何時、未曾有の危機的事態が発生するかわからない現状において、多くの企業は内部留保を増して体力をつけようとしてるわけですが、これらは守銭奴的行為であり、どこかオカシイのでしょうかね。


 p72




「”労働は、本来は自分の欲求を満足させるためにするもの”であって、それは喜びでこそあれ、苦痛ではないはずです。


 ところが、資本主義社会での労働は、退屈であったり、疲れるものであったり、苦しかったりと、なにかと苦痛の源泉となっています。こうした状態は、労働が、個人が自分で決めた目的を実現させる行為ではなくなって、”資本が設定した目的=利潤を上げることを実現するための行為”になってしまっているからです。




 この社畜まんせーな現代では、もっともなご意見なような気もしないでもないですが、ちょっと待った。


 日本や世界、また欧米では、そもそも労働という概念からして違いますが、欧米での労働とは、確か、禁断の果実を食べてしまってエデンを追放された人間に課せられた罰だったはず。なので、そもそも労働というものが欧米人にとっては苦痛であるはず。だから、欧米人は、資本を生み出したら晩年にそれらを売却し、その売却した元手で悠々自適の隠居生活を送ることこそ人間のあるべき有りようだと思っているはず。


 だいたい、資本主義というものが生み出されるはるか前の中世時代の欧州なんてのは、一握りの王侯貴族や宗教家以外は生き地獄に等しい時代で、人間なんて掃いて捨てるほどいる家畜の一種でしかなく、しかも、馬や牛のほうがよほど価値の高い家畜であったくらい、平民は大変な時代であった。むしろ、仕事があるだけありがたい、というくらい、生きるだけで大変な時代であったわけで、自分の欲求を満足させるに足る労働、なんてものが普及してきたのは一体、いつ頃のお話なのでしょうかね。


 もう少しいちゃもんつければ、疲れない労働というものがどこにあるのか教えて欲しいものです。


 p78




「<労働という形態は、労働日が必要労働と剰余労働に分かれ、支払労働と不払労働に分かれることにいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現れるのである>


 ある商品の生産について考えてみましょう。


 この商品1個の生産には、材料として2000円かかります、そして、材料を製品に変える労働には、労賃として日給1万円が支払われるとします。”労賃は、(中略)労働力の再生産に必要な費用”にあたります。1万円あれば、翌日も働けるということです。生産に必要な労働時間は、5時間とします。


 商品を1日に1個作ると、1万2000円の元手がかかることになります。これを同じ1万2000円で売ったのでは、なんの儲けもでません。


 そこで、資本家は考えます。5時間ではなく、10時間働いてもらうことにしよう。商品は1日に2個できる。かかる費用は、材料代2個分4000円+日給1日分の1万円=1万4000円。できた商品を1個1万2000円で売れば、売り上げは2万4000円。2万4000-1万4000円=1万円の儲けが出る……。


 この時、労働力の売り手である労働者は、労働力の買い手・資本家と、互いの自由意志にもとづいて、対等に、労働力という商品の売買を行っています。そして、いったん売られた労働力は、もはや売り手のものではなく、どのように消費するかは買い手次第。その日1日の労働は買い手のものとなり、買い手はさらに、儲けまでも手にすることになりました。いいかえますと、労働力の価値を決める”労働力再生産費(=賃金)と、労働が生み出す価値とは、大きさが違っていた”ということになります」




 いきなり2倍、無賃で働かされて文句を言わない労働者なんているのか??  


 でこのあとすぐに「こうして不法でも不正でもなく、資本家は商品交換の法則どおりに労働者と契約して、1万円の儲けを手にすることができました」


 そんな契約で満足する労働者がいるなら見てみたいもんだ。まあ、ものの例えで言っているわけで、こういうことは世の中にざらにあるでしょうけど、労働者にだって仕事を選ぶ権利はあるわけで、いつまでもその状態が続くのかどうか。


 p168




「<資本関係を創造する過程は、労働者を自分の労働条件の所有から分離する過程(中略)以外の何物でもないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである>


 資本主義的な生産が成り立つためには、一方に生産手段を持たず、労働力を売るしかない労働者がいて、もう一方に生産手段を買って労働者を雇うことができるお金をもつ資本家がいなければなりません。


 ”本来生産者がもっていて、それを使って生産していたはずの生産手段が、どうして分離して資本家のものになってしまったのか”、それを考えることにしましょう。


 これは、むかしむかし、一部に勤勉で利口な人たちがいて、せっせと自分の富を蓄えていったのに対して、残りの怠け者で無能な人たちは、だんだん窮乏してしまい、もはや自分の労働力を売って生活するほかなくなった、こうして生じた従属関係が現在まで続いているのだ、といった、のんきで牧歌的なお話ではないのです。


 資本主義的な生産が行われる以前の封建制の社会では、直接に従事する労働者は、領主の支配下で、土地にしばりつけられて働く農奴でした。また職人たちも、同職連合の支配を受けた徒弟や職人でした。


 こうした封建制度に守られているかぎりは、働く人たちも一応生活はできましたが、生産力が上がってくるとともに、余剰の生産物が商品となって流通し、貨幣経済が浸透してくると、商品の自由な売買活動を求めて、封建制の社会は崩れていきます。


 すると、これまで領主や同職組合のもとで働いていた農奴や職人たちは、独立自営農民や独立手工業者となって、土地や道具など自分の生産手段を持って生産するようになります。


 こうした人たちが、今度は”自分たちの生産手段から引き離され、その生産手段を手中にした資本家たちに、自分の労働力を売るしかできない「自由な」賃労働者になってしまった”のです(中略)。


 農民や職人たちも、それまで自分を支配していたくびきから開放されると同時に、新たな隷属へ、つまり賃労働者として資本に隷属させられていくようになります。こうして資本主義的な生産を用意する基礎ができあがり、資本の本源的蓄積が開始されたのです。最初の資本は、このようにして生まれてきました」




 なるほどー。そうなのかー。と思ってしまいそうですが、ちょっと待った(ヒゲじい)。


 これこそが資本主義の萌芽だ! みたいなこと言ってますけど、この中でもいっているように、中世時代から人々は王侯貴族や宗教によって支配されていたわけでしょ。で、王侯貴族や宗教は、その支配によって生み出された富によってこの世の春を謳歌していたわけでしょ。


 資本主義だの、資本家だの言ってますけど、そもそも人間が歴史を作ってきた、金儲けの流れが封建制から資本家に変わってきた、というだけでなんかすごい歴史的大転換が行われたわけでもなんでもない。人間がそこにいる限り、必ず、絶対的に行われることにすぎない。それが善であれ悪であれ、人間という生き物が、精神的大成長を果たさない限り永劫に行われるものにすぎないわけで、何もそれは資本主義などという、特殊で奇っ怪な思考の萌芽でもなんでもないわけです。ごく普通でごく当たり前の人間の営み、と言う他はない。


 そもそも、革命によって王権や教権を打倒したのはアカの仕業だし。まあ、そういうことは絶対、一切、語りませんけどね。


 そもそも、なんで人々が王侯貴族や宗教に隷属しなければならなかったかといえば、なんでもない、武力があったからです。全世界で、歴史上多くの侵略行為や民族大移動が行われ、それに人々は塗炭の苦しみを味わってきたので、それらから庇護してくれるものを求めたらそれが、王侯貴族だの、宗教だのだった、というだけのお話です。


 敵に攻められ殺されるくらいなら、王侯貴族に帰順するほうが、まだちょびっとだけマシ、というお話です。


 それが、近代化によって王権、教権が打倒され、国境が自由に行き来できるようなくらいに平和になった、そこで、王権や教権の代わりとなる金持ちが資本家になった、というだけのお話で、マルクズの言う、「労働者を自分の労働条件の所有から分離する過程(中略)以外の何物でもないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである」などという歴史的分離過程などというものなどそもそもない。大体、「生産手段をもった生産者」、なんてものは、歴史的にみるとほとんど存在できないものであった、と言わねばならない。一体、どこの世界に、国家にも宗教にも帰属しない「生産者」なんて存在があったのか。まあ、都市国家といえば、一つの都市が国家のごとき体をなした状態と言えますが、それにしたって「生産者」は都市という「国家」に帰属していると言える。


”本来生産者がもっていて、それを使って生産していたはずの生産手段が、どうして分離して資本家のものになってしまったのか”


 この言葉そのものが、そもそも歴史的にみてあり得ない、存在しない架空の設定のお話に過ぎません。


 古来、国にも宗教にもどこにも所属せず自由自在に、自身の生産能力を駆使して独自に幅広く商取引を行える生産者、などというものがあったとしても、そんなものは特殊な一例で終わる他ない。


 ちなみに、この中でも出てくる同職組合、いわゆるギルドですが、例えば、豚の煮込みを作るギルド員はその豚の煮込みしか作ってはいけなかったそうな。同様に、羊の焼き物を作るギルド員は羊の焼き物しか作れなかったそうな。そんなある日レストランというものが歴史的に発生した時、レストランでは、「自由に」、豚や羊などの焼き料理や煮物料理を振る舞ったそうな。で、それをみたギルド員は、ギルドの取り決めに従っていない! 違反だ! と訴えたそうな。しかし、裁判官は、レストランとギルドは別物なのでレストランでは自由に料理を振る舞ってOKとなったそうな。


 そんなこんながあってギルドは廃れたそうな。


 資本主義だの資本家だのの影響を待つまでもなく、人々はごく当たり前に自由を求めていたし、自分の生産手段を自分のために使えるようになっていったなんてのは、なんでもない、他国から侵略される恐れの無くなったつい最近しかありえないでしょう。まあ、それも大資本によってぶっ潰されることもあるでしょうから、積極、物を言うのは武力(金)でしょうけどね。金もってる奴がつおい。これも古来なんの変わりもない。


 マルクズが言っているのは、王権だの教権だのが「先行者によって」打倒されてしまったから、その次の打倒すべき相手を探しているに過ぎないわけです。自分が目立つために。あわよくば、自分がそいつらの首領にのしあがるために。そのために、ただ単に、いちゃもんを付け、悪口雑言を撒き散らせるものがあればよかった、というだけのことで、その手っ取り早い攻撃相手が資本家であったというだけに過ぎません。もちろん、別に、労働者を助けたいとか、世界を良くしたいなどという善意の心があるはずもないのです。


 p178




「<アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらの出来事は資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。


 このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのである。これに続いて、全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる(779・第七篇二四章第六節)>


 15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパでは海外への進出が行われ、いわゆる「大航海時代」を迎え、ヨーロッパの側から見た「地理上の発見」がもたらされました。航海や造船の技術、天文や地理の知識など、科学技術の進歩によって、海を渡って遠くの国々まで行けるようになったのです。


 その結果、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスの国々が、アフリカ、南北アメリカ、アジアにどんどん進出していきます。そして、先住民を追い払ったり、農園や金銀の鉱山で酷使したり、黒人を奴隷として売買し、各地に植民地をつくって、多くの富を略奪したのです。


 いまや原料や労働力の市場は世界に広がり、各国はこぞって、この新たな市場獲得に狂奔することになります。「全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる」のです。


 アメリカで黒人奴隷が、綿花プランテーションで劣悪な労働を強いられたことは、よく知られていますが、先住民インディアンに対しても過酷な法律があったことを、マルクスは記しています。たとえば、12歳以上の男の皮1枚には100ポンド、男の捕虜には105ポンド、女と子どもの捕虜には50ポンドの賞金がかけられています。


 このような不当きわまりない暴虐が行われ、資本は世界を舞台に、その増殖をむさぼっていったのです。


「”ヨーロッパの外で、略奪や奴隷化や強盗殺人によってぶんどられた財宝は、本国に流れ込んで資本に転化した”」とマルクスは書いています。


 植民地によって、ヨーロッパの成長したマニュファクチュア(工場制手工業)は、生産した商品を販売する市場を確保することができ、独占された市場によって、資本がさらに蓄積されていくことが保証されたのです。


 こうして、植民地と奴隷労働が、資本の本源的蓄積を確実にしていきました。


 マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの共著である『共産党宣言』(1848年)では、資本の世界進出について、次のように記されています。


「ブルジョアジーは、(中略)あらゆる民族を、もっとも未開な民族までも文明にひきいれる。(中略)ブルジョアジーはすべての民族に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式を採用するように強制する。(中略)一言でいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである」


 こうした”外国からの略奪によって、資本の本源的蓄積が急激に進み、産業資本家が生まれてきた”のです。「資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から、血と汚物をしたたらせながら生まれて」きたと、マルクスは資本の残虐なモンスターぶりを表現しています。


(中略)


 現在では、かつて植民地だったアジアやアフリカなどの国々が独立して、植民地そのものは減ってはいます。しかし、名目上の独立のかわりに、先進資本主義国が発展途上国に対する軍事同盟や経済援助などを通して資源を確保し、実質的にその国を支配してしまう、といったケースも増えています。これは「新植民地主義」と呼ばれて、いまなお世界の国家間の問題となっています」




「アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらの出来事は資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている」


 資本主義者どもは大航海時代から奴隷産業を発達させ、世界を汚染していったのだッ!!


 大変な鼻息ですな。


 無理くりなこじつけにお忙しのところ恐縮ですが、奴隷そのものは古代ローマ時代からありましたし、別に奴隷は資本主義のお家芸というものでもない。キリスト教徒がイスラム教徒を奴隷にしたら、反対にイスラム教徒がキリスト教徒を奴隷にし、ガレー船の漕手にしたという話もある(ガレーの漕手は過酷すぎて短命に終わるらしい)。また、戦国時代に日本にやってきた宣教師は、デウスの教えを日本にもたらしたと共に日本人を奴隷として、ザパニーズは出荷よ~、していたことも有名。


 奴隷そのものも、それがなんであれ、人間の行ってきた歴史の一つにすぎない。


 とりあえずこじつけられることがあるなら強引にこじつけるところは、現在のアカ政治家などをみていればよくわかるので、そもそもその淵源であるマルクズからこうであった、ということですね。にんともかんとも。


 p188




「<資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義的時代の成果を基礎とする個人的所有を作り出す。


 すなわち、協業と、土地の共同専有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有を作り出すのである(791・第七篇二四章第七節>


(中略)資本主義的な生産は、それ自体を突き進めていくうちに、壁に突き当たることになってしまいます。それは、現在でも労働者の失業、貧困、格差がなくならない、というよりもさらに増えていることや、資本の集中巨大化、グローバル市場の展開による未開発国からの収奪、環境の破壊による災害の頻発などによって、資本主義経済の未来がどうなるのか、不安感がぬぐえない、ということに、よく現れています。


 それでは、オルタナティブ(代替案)な新しい社会はあるのでしょうか。あるとすると、どんなものになるのでしょうか。


 自分が労働して生産したものを自分で所有し、消費するという形態を否定してきた資本主義的な生産は、さらにもう一度自分を否定せざるを得なくなる。これが引用文でいう「否定の否定」です。それは「資本主義的時代の成果を基礎とする個人的所有」であるが、労働者の私有をもう一度取り戻すことではなく、労働者どうしが共有することによって成立するものだ、とマルクスはいっているのです。


 マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』では、こう述べています。「”階級と階級対立とをともなう旧ブルジョワ社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会が現れる”」


 そして、『資本論』では、この共同社会は、「”各個人の十分な自由な発展を根本原理とする、より高い社会形態”」であると述べています。


 商品やお金や資本といった「物」に支配された社会ではなく、自由で平等な人間が主体となった社会になる。いつも欲望に突き動かされ、たえまなく労働を強いられることから解放された人間社会が現れるのです。そして、”主体はあくまでもアソシエートされた(意思をもって自発的に集まった)個人であって、そして、国家や機構や権力ではありません”」




 1867年に『資本論』の第一部が発行されて、ソ連や中共のような強大な共産主義者共がありながら、自発的に集まった個人による社会などというものがいまだに現れていない。


「”各個人の十分な自由な発展を根本原理とする、より高い社会形態”」


 そんな世界が実現できたら面白いでしょうけど、そもそも人間そのものが、ほとんど進化することのない、むしろ歴史的にみれば劣化してばかりの欲と得にまみれた薄汚い生き物でしかない以上、そんな世界は起こり得ません。そういう世界を目指すのならば、むしろこんな腐った書物を読む前に論語を読め。


 こんなのが資本主義に対する代替案とか、鼻で笑うしかありませんが齋藤氏は何をトチ狂ったか最後のあとがきでこんなことを言います。


 p200




「私自身はマルクス主義者というわけではありませんが、いまこの時期に、問題を提起する書物として、改めて『資本論』の概要を理解していくことには、大きな意味があると考えています。


 私自身も大学生時代には、『資本論』をはじめ、『共産党宣言』『経済学・哲学草稿』『賃労働と資本』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』など、マルクスの著書を、共感をもって一通り読んでいました。また、廣松渉先生の『マルクス主義の地平』や、見田宗介(真木悠介)先生の『現代社会の存立構造』などは、大学の授業でテキストとなっていたのです。大学の哲学や社会学の多くがマルクス主義関連で占められていた、そういう時代でした。


 マルクスを研究する人たちに共通する思いがあるとすれば、それはきつい職場で働いている人たち、労働者に対する共感、やさしさなのですね。そういうものをもった人たちが、マルクス主義に傾倒していったはずです。


 しかし、『資本論』が聖典のようになって、その理解をめぐって、相手に対してマウントをとるといったことが見られました。マルクス主義を信奉していた仲のよい友人と、うまくいかなくなってしまった時期があったりして、私はこうしたところからは距離をとっていたのでした。


 私が『資本論』に触れてから40年ぐらい経ちますけれども、現在になって、そうしたセクト性もなしに、冷静に『資本論』を読むことができるようになった、個人史的にも、感慨深いものがあります。


 現在、資本主義世界の末期症状ともいえる時期にきて、もう一度、『資本論』が必要な書物として、みなさんの財産になればいいな、と思っているのです」


 



「私自身はマルクス主義者というわけでは」ない、などと言い訳じみた妄言をかましながら、返す刀では、「『資本論』をはじめ、『共産党宣言』『経済学・哲学草稿』『賃労働と資本』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』など、マルクスの著書を、共感をもって一通り読んでいました」と熱烈に愛読していることをカミングアウトする。アカの時点で目糞鼻糞。


 しかし、「いまこの時期に、問題を提起する書物として、改めて『資本論』の概要を理解していくことには、大きな意味があると考えています」などというので、この書物の発行時期を見てみますと、2022年3月20日 第1刷発行 とありました。


 それこそ正気かと言わねばならない。


 ロシアのプー太郎がウクライナに侵攻を開始したのが2022年2月24日。


 ロシアもそうだし、中共も一帯一路で資本主義的覇権をすすめて世界から嫌われるなど、資本主義の終焉どころか、共産主義国家そのものが吹き飛びそうな勢いではないか。そんな中でこんな書物を出しておきながら、「冷静に『資本論』を読むことができるようになった、個人史的にも、感慨深いものがあります」などと言えるのであるから、冷静は冷静でもイデオロギーによって完全に思考が、人間性がオカシクなっているとしか思えません。


 そして、この本を頭から爪先まで読んで、そこに通底しているものをひしひしと感じるものがあります。それはなにかと言いますと……、まあ試みに、こういうアカとは一線を画す文章を読んでみましょう。



 読んでみますのは、『論語と算盤』 渋沢栄一著 興陽館発行


 p66




「徳川時代の末路でも、因襲のしからしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは、全く区別されておったのである。しかし武士は皆、修身斉家を本として、ただ自己一身を修めるのみではなく、他をも治めるという主義で、すべて経世済民を主眼としておった。


 農工の教育は、他人を治め国家をどうするかというような考えを持たせる教育ではなく、至って卑近な教育であった。当時の人は、武士的教育を受ける人はまことに少ないので、すべて教育はいわゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、または富豪の老人などが教育してくれたものである。農工商はほとんど国内だけのもので、海外などにはごうも関係がなかったものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである。


 しかして主なる商品は幕府及び藩が運送、販売等の機軸を握っておったので、農工商民の関係する所は実に狭いものであった。当時のいわゆる平民は、一種の道具であった。はなはだしいのは武士は無礼打、斬捨御免という惨酷な野蛮極まる行為を平気でやっておったものである」




 おわかりでしょうか。


 武士は、「修身斉家を本として、ただ自己一身を修めるのみではなく、他をも治めるという主義で、すべて経世済民を主眼としておった」


 しかしながら、「武士は無礼打、斬捨御免という惨酷な野蛮極まる行為を平気でやっておったものである」


 武士にもいい面がもちろんあるが、しかしながら目を背けたくなるような悪い面も確かにもっていたのである。ときちんとおっしゃっておられる。これが、人格者の文面でございます。


 齋藤氏のように、ロシアのプー太郎が侵略戦争をほしいままにしておきながら、「マルクスを研究する人たちに共通する思いがあるとすれば、それはきつい職場で働いている人たち、労働者に対する共感、やさしさなのですね。そういうものをもった人たちが、マルクス主義に傾倒していったはずです」などと言えるのは、悪い面には一切触れない、自分たちの都合を押し付けるしか能のないアカの一大特徴と言えるでしょう。


 恐らく、「いまこの時期に」などと言っているのは、ロシアの侵略、中共の世界的強権によって共産主義そのものが非常に動揺著しい、共産主義そのものが頭のオカシイ連中の吹き溜まりであることがいよいよ明らかになってきたから、NHKといい齋藤氏といい、共産良いとこ一度はおいで、と言っているのでしょう。


 自分たちの生き残りに汲々としているような連中が「やさしさ」を語るな、と言いたい。もし、本当にやさしさがあるのならば、侵略戦争なんぞおこさんし、そのことについて一言でもあるべきであった。それがないということは、つまりそういうことです。


 こういう、資本主義を悪ととらえ、敵と認識したからには徹底的に叩かねば気がすまぬ、という姿勢。そのくせ、自分たちを冷静に顧みるという視野は一切もたないという視野狭窄。


 これがアカの特徴であり、それが本書に横溢しているのをただちに感得することができるでしょう。


 どだい、ソ連やロシア、中共などが資本主義を目の敵とし、そうではないパラダイスを建国できたのならともかく、それどころか正反対に、中共のごときはまさしく、マルクズのいう言葉をそのまま使うなら、



「ブルジョアジーは、(中略)あらゆる民族を、もっとも未開な民族までも文明にひきいれる。(中略)ブルジョアジーはすべての民族に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式を採用するように強制する。(中略)一言でいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである」



「中共は、(中略)あらゆる民族を、新疆ウイグル自治区までも共産主義にひきいれる。(中略)中共はすべての民族に、滅亡したくなければ中共の生産様式を採用するように強制する。(中略)一言でいえば、中共は、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである」



 この言葉そのものではないか。


 そのくせ、アマゾン、グーグルなどのいわゆる、GAFAガーファもしくはFANGファングのような巨大資本企業がなぜロシアや中共からは現れないかといえば、簡単なお話です。アメリカには、少なくとも正義がある。法がある。建前がある。建前上自由な競争がある。その中からアイデアをしぼって他者を出し抜き、巨大な企業へとのし上がったわけで、ロシアのプー太郎や中共のペー太郎の独裁以外は認めない、正義も法もプー太郎やペー太郎の前ではゴミくず同然などというものとは違う。イエスマンしか許されないようなガッチガチの監視社会とは住む世界が全然違うからです。


 ちなみに、なんでもこの前、ロシアで選挙やったそうでして、選挙員の後ろに機関銃を持った兵士を立たせそれで選挙をやったそうで、一応、独裁者のごときでも建前は気になるそうですが、まあ、こんな虚仮威しになんの意味も価値もない。むしろバカにされる材料を提供しているに過ぎない。


 そして結局、ロシアも中共も、やっていることはアメリカのマネごとであり、劣化資本主義をやっているのは、なんでもない、資本主義などとイデオロギーで呼ぶがそもそも商いとは人類が不断に行ってきたなりわいに他ならないからであり、生きるために必ず行わなければいけないものだからです。それが悪だろうが害だろうが、歴史の必然として資本家が現れ、巨大資本によって世界を牛耳ろうとするのも、これも人間という生き物の本質と言わねばならない。


 それを、王権も教権も打倒してしまって目下の敵がいないからといって、資本主義のブタめ! などといったところで、商いは人間の日常の行いである以上それを否定することも拒絶することも出来るわけがない。かつての修道院での行き過ぎた禁欲と一緒。そんなことをやったところで結局どこかで反動が出るのです。


 ではしからばどうするか。


 巨大資本にいいように蹂躙されるに任せるか。


 先にみた、渋沢栄一先生は「論語と算盤」でおっしゃるように、道徳と商売は決して相反するものなどではなく、これは両輪でうまくいけるものだとおっしゃっておいでです。


 また、



【義は利の本なり、利は義の和なり】



 道徳があるから利益が生ずる。道徳が調和して利益が生まれる。


 と春秋左氏伝にあります。学ぶのはマルクズのごとき腐ったイデオロギーなどではく、東洋の古典なのであります。日本人のくせして、自分たちのご先祖様に学ぶことも出来ず、異端を蔓延させるなど情けない。


 しっかし、権威主義、ねぇ。


 自分たちで生産を共同で所有する、という「共産」を生み出しておいて、それでやってみれば、出てきたのは「独裁者」のみ。


 草。



 といったところで、今回はここまで。したらば。





「夏目友人帳」のOP・ED、なかでも「愛してる」を聴きながら。



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