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『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の十



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて唐突ですが、【八観・六験(はちかんろくけん)】という言葉があります。これは、かの中華に秦帝国が出来上がる少し前のこと。始皇帝たる嬴政(えいせい)をひろい上げ、王への道を整えてあげながらもしかし、その嬴政によって失脚した宰相、呂不韋(りょふい)が編纂させたことで有名な【呂覧(りょらん)】にある言葉です。もっとも、史記では呂覧ではなくて【呂氏春秋】と呼びまして、こちらのほうがよっぽど呼び名としては有名ですね。これは、人間を見る時に重要な項目を述べたものでありまして、非常に剴切(がいせつ)(ものすごく大切なこと)な内容であります。開巻劈頭にご挨拶ではございますが、少し学んでみたいと思います。




 八観とは、


「通ずればその礼する所を観る」


 人間としていよいよ出世した時に、何を敬うのかを見る、ということであります。金を敬うのか、地位や名誉や名声、権力を敬うのか、それともおなごか。いやそうではなく、偉大な古人や学問を敬うのか。これをみるということ。


(たか)ければその進むる所を観る」


 身分がいよいよ高くなる、出世栄達してどういった人物を推薦するか、どういう人物を引き上げようとするか、これをみる。金や地位に汚い人間を推薦するか、イエスマンを推薦するか、もしくは、少しは自分に合わなくても有力な人物を推薦するか。これをみるということ。


「富めばその養ふ所を観る」


 金ができると何に使うか、をみる。骨董品にのめり込むか、おなごに耽溺するか、それか、お茶とか書とかに金を使うか。これをみるということ。


「聴けばその行ふ所を観る」


 人やニュースなどから情報を仕入れたときに、それをきちんと活かせるのか、をみる。正しいことを知りながらそれでも真逆のことを行う人間か、世の過ちを知ったら決して自分はそれには関わらない人間かどうか。これをみるということ。


(いた)ればその好む所を観る」


 いたる。ある程度の地位にいたり、板についてきたときに何を好むのか、これをみる。上司や上役になって、少しは学びのある書でも読むのか、それともゴルフだのパチンコだのただ趣味をするだけの日々を過ごすか。これをみるということ。


「習へばその言ふ所を観る」


 習熟し、板についたその人が何を言い出すのか、をみる。なるほど、この人には学びがあるなと思わせる含蓄あることをいうのか、それとも、くだらない下世話なことしか言えないのか。これをみるということ。


「窮すればその受けざる所を観る」


 生活に困ったりしたときに、何を受けないか、をみる。人間金に困ると魂を悪魔に売り払ってでもかまわん、みたいな人間もいますが、そうではなく、何を受けないか。金のためにそんな馬鹿なことは俺にはできん、という人間かどうか。これをみるということ。


「賤なればその為さざる所を観る」

 

 落ちぶれたときに、何をしでかすかをみる。人間、零落するとなんだってやりだす。いわゆる無敵の人となるが、どこまで落ちに落ちて、でも、それでもこれだけはしない、というその者の最低限度の節度。これをみるということ。




 六験とは、


「之を喜ばしめて以てその守を(ため)す」


 その者を喜ばせて、どれほど節度を失うか、もしくは、色眼鏡でものをみないかをためす。


「之を楽しましめて以てその(へき)を験す」


 その者の趣味だとか嗜好だとか、何を好むのかという時に、どれほど僻、かたより、クセ、どんなえげつないフェチっぷりをみせるかをためす。


「之を怒らしめて以てその節を験す」


 その者を怒らせて、どれほどタガが外れるか、もしくは、どれほど怒髪天を衝こうがこれだけはゆずれぬ、これだけは守る、という節度があるかをためす。


「之を懼れしめて以てその()を験す」


 その者を恐怖させてどれほどヘタれるか、もしくはどれほどの矜持、自立性、独立性があるかをためす。


「之を哀しましめて以てその人を験す」


 その者に悲嘆を味わわせてどれほどヘコむか、もしくは気丈に振る舞うかをためす。


「之を苦しましめて以てその志を験す」


 その者がどういう苦境、苦節を味わって人間、人物となるかをためす。



 こういうことを知って、人を見ておればその人の程度がわかってくる、ということですね。


 とある宰相経験者が銃殺されてそれ以降、犯人の目論見通りに統一教会に対する世間の目は厳しさをましているようですが、こともあろうに、こんな新興宗教にいれあげている為政者がいる、しかも結構いる、という時点でお察し。何をかいわんや。


 類は友を呼ぶ。


 日本には神道と仏教の禅があればそれで十分なのに、新興宗教に関わっている時点でその者の程度などその程度だということです。学がない、程度が低いから、程度の低いものと波長が合うのです。


 朱に交わっては赤くなる。今や日本はアカで真っ赤っ赤です。にんともかんとも。



 ま。いまさらなのでこれくらいにしまして。『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の十、今回は、山人とはなんなのか、を見てみたいと思います。山人とは仙人である、とは最初に見ましたが、そのもう少し詳しいところを伺ってみましょう。p148




【寅吉云はく、山人といふに種々の別あれど、まづは俗に云ふ天狗の事と心得をりて宜しきなり。


(中略)


 山人と云ひ天狗といふ由を委しく語り申すべし。まづ山人と云ふは、この世に生まれたる人の、何ぞ由ありて山に入り世に出でざれども、自然に山中の物をもて、衣食の用を弁ずる事を覚え、禽獣を友として居れば、最初の間は獣類もこを恐るれども、後にはなれ近づきて、食をさへに運び与ふ。


 三十年ばかりも山に居れば、誰も成らるる物にて、安閑無事に木石の如く長生す。これ真の山人なり。


 また深山に自然に生ずる物あり。そは異形さまざまなれど、まづは人の状に近き故に、これをも山人と云ふ。然れどこは魑魅の類ひとも云ふべし。


 さて我が師の如きも、山に住む故に山人とは称すれども、真は生きたる神にて仏法なき以前より、現身のまま世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、その住する山に崇むる神社を守護して、その神の功徳を施し、或はその住する山の神とも崇められて、世人を恵み、数百千万歳の寿を保ちて、人界の事に(さわ)がはしく、かつて安閑無事には居ざる物なり。


 また仏法渡れる後に現身のまま世を遁れて、仏を崇むる山に住み、その崇むる仏の功徳を行ふ山人も多し。これも自在の態ありて長生なり。


 また現身を(もぬけ)の如く捨て(うつ)れるは殊に夥しく有り。これまた霊妙なる事元よりなり。但し仏道信仰の者の化れるに、現身ながら化れるにも、現身を捨てたるにも、正と邪とあり。然るは世の限り邪道を信ずと云へども、幽界に入りて始めてその道の妄なる事を悟り、正道に帰する心を生じて世人を利益す、これ正なり。


 また幽界に入りてなほ悟らず迷へる者、また悟りつつも正道に帰せず、ますます我慢をはりて、生涯の(あやまち)を改めざる者は、共に妖魔の部属に入りて、幽より事を行ひて、世人を邪道に引入れむとす、これ邪なり。彼の(さかい)にて山人と云ふにはかくの如く差別多し。


 さて前に云へる安閑無事に木石の如く長生する山人をおきて、余の山人は人を誘ふなど、折々世に知らるる態を現はすを、人は右の差別を知らざる故に、凡て天狗の態といひ、天狗と名づけたるによりて、(しばら)く彼方にてもその儘に称ふれども右(いず)れも天狗とは異なり。天狗と云ふはもと天狐の事なりと師説なり】




 ちょ~意訳。




 寅吉少年が言う。


「山人、と一口に申しましても、実はそこにいろいろ種別といいますか違いがございます。ですが、まあ俗に言う、天狗と言って問題はございません。


 では、山人といい、天狗ともいいますが、そこのところを詳しく語ってまいりましょう。


 まず、山人というのは、この世に生を受けた人が、なにがしかの理由があって山に引きこもり、人の世で出世も活躍もしないわけなのですが、大自然そのままの山中のものを使って食べたり、衣服を用意したりして生活することを覚え、イノシシやシカを友だちとして暮らします。これら動物たちも最初こそはその人を恐れて近づかないのですが、そのうちに慣れてしまって近づいてきて、食べ物を分けてくれるようにすらなるのです。


 そして、30年も山中で生活をするようになれば、誰でも山人になれるのであって、それからというもの、まるで木や石のように長生きとなり病知らずとなります。これこそがまごうかたなき山人です。


 また、これとは別に、奥深い山に、超自然的に発生するモノもありこれは姿かたちは様々ですが、おおよそ人の姿に近いのでこれも山人と区別します。ですが、これは魑魅魍魎、妖怪の一種といってよいです。


 さて、我がお師匠様も、山で生活するので山人と呼ばれますが、しかしてその本当のお姿は生きたままの神様であって仏教というものが発生するはるか、いにしえより生きたまま世に生きながらえ、その神通力は変幻自在で神道を行い、自身の暮らす山の神様の神社を守り、そこの神様のお力を人々に施し、時には人々からは神様そのものとしてあがめられ、世の人々に恩恵を施し、千才以上の寿命をもち、人々のために大いに働いてのんびりしている暇もない有様でございます。


 また、仏教が渡来してからというもの、出家して仏を祭る山に暮らし、その仏の功徳によって神通力変幻自在なる山人も多くございます。これらの人々もまた長寿です。


 また、自身の体を、まるでヘビの抜け殻のように捨て去って、山人のごとくに化けてしまうものが、これはたくさんおります。その成り立ちゆえ霊妙なことは言うまでもありませんが、仏法に深く帰依した者で、生きたまま山人になる者、我が身を棄てて山人になる者でも、正しきもの、邪悪なもの、とございます。ただの人であった時にはよこしまなことをほしいままに行ったとしても、幽玄なる世界の住人となって自身の過ちを悟り、正しい心を取り戻し、世の人々に恩恵を施そうとするものもおり、これは正しい山人です。


 他に、山人となるだけの力を得てもそれでもなお真理に気づかず迷うもの、また、真理に気が付きつつもそれに目を背けてよこしまを行うものは妖怪や悪鬼のたぐいと成り果て、幽玄な世界より人々を惑わし、自分らの仲間に引きずり込もうとするものもおり、これは邪悪なる山人です。


 一言に山人と申しても、こういうふうに多種多様な山人がいるのです。


 さて、先程申しました通り、不老長寿となった山人のことはともかく、里の人々は誰ぞが神隠しにでもあえばこういう山人に種別あることなどわかろうはずもないので、みなみな異口同音に天狗の仕業といい、天狗と呼び恐れるのであります。我々も、事細かに状況を説明するわけにもいかず、天狗と言っておりますが、もちろん、天狗とは違いますし、天狗とは以前に申した通り、上位のお狐様のことであると、お師匠様はおっしゃいます」




 という塩梅。


 和風仙人、と言ってもその中身を伺うと種々ございます、と寅吉少年は言うわけですね。

 

 で、その中身はといいますと、以前にも出ました、ただの人でも山中にこもって30年生活をすれば山人になれるよ、というものですね。この、山中で30年過ごす、というのが凄まじい修行であってそこに計り知れない功徳というか、容易には理解できない意味があるのでしょうね。仙人は雲やカスミを食べて過ごす、というように、大自然のその中で暮らすことは大自然の霊妙な力を受け取るということであり、30年の生活で体がそっくり入れ替わってしまうような何かがそこにはあるのでしょうね。


 そうすると、木や石のような不老長寿となるのであり、自在の神通力をも身につけられるようになる、と。


 毎日シャワー浴びないと気持ち悪くて布団に入れないわたしには死んでもムリw そもそも、山中のどこに虫だのケモノだのがいるかわからんところで腐葉土にくるまって寝るなど、想像しただけでムリw それができるの、ランボーくらいじゃね?w


 それはともかく、お次は、山の中に自然と発生する存在がある、と。自然霊だとか、精霊、妖精のたぐいのようです。自然と発生するだけあってその姿、形は様々なれど、たいがい人の形に近いので、それらもひっくるめて山人と呼ぶ。呼ぶけれども、でもそれらは妖怪変化の一種である、と。それらがクラスチェンジ(?)すると山人になるのでしょうw


 次に仏教伝来後のお話。仏教に帰依し出家した人も、山中に暮らすのと同じ意味をもって山人となるようですね。また、生きたまま山人になる人もいれば、「(もぬけ)の如く捨て(うつ)れるは殊に夥しく有り」と言っているように、死んでからか、ネクロノミコンか何かで自身の体を捨て去って幽体やら霊体になって山人となるものがけっこういる、んだとか。みすてりー。


 ただ、仏教系に関しては正と邪の二種があるようです。正はともかく、邪の山人は悪鬼羅刹の一味と成り果てて、地獄へと人々を引きずり込むような存在に成り果てる、と。


 この『仙境異聞』を読んでますと寅吉少年はたびたび仏教はこの邪悪の側面があることを指弾することが多いのですが、そうなると不思議に思うのが、なんで仏教には正邪の二面があるのに、神道には正邪の二面がないのか、ということなんですよね。


 神様も和御魂(にぎみたま)荒御魂(あらみたま)という二面性をおもちですが、これは一人の人間が怒っているときと笑っているときの二面性というべきもののようで、その時々の変化にすぎない。これに対し正邪は二面性というよりは両極というべきで、不変的なもの。正しいものと邪悪なものという、その時次第で性格がどちらかの面で現れるというものではない、ということなのですが、そうなると、神様はすべてがすべて性格が正しいのか。性格のひねくれた神様は一柱もおわさないのか、とすごく不思議に思う。


 ヨモツヒラサカの住人となったイザナミノミコトなんてイザナギノミコトに対して、「毎日1000人の人間を縊り◯す!」と宣言しているので思いっきり邪悪な神様のような気がしますが、ぜんぜん普通に神社で祀っているわけですよねぇ。


 そういうふうに考えますと、そもそも正邪じたいが仏教から発生したものであって古来の日本では正邪がそもそもなかったのか、みたいな益体のない考えになるのでやめておきましょうw 日本の神様に悪い神様はいない。いいね?w



 それはともかく。


 山人と言いましてもいろいろな違いがあるのは見ました。また、寅吉少年のお師匠様である、杉山山人の住む山は岩間山といい、これは茨城県笠間市泉にある愛宕山でここには13人の天狗がおわすのですが、この13の天狗に関してもいろいろ違いがあるようです。p107




【彼の山の天狗を世に十三天狗と称すれど、十三人の山人あるに非ず。人の亡霊の成りたると、現身の成りたると、合せて四人ばかりに、鷲、鳶また獣などの(うつ)りたるが多し。その内人形(ひとがた)なるは長楽寺ばかりなり。長楽寺が首領と成れる由は、十二天狗の徒が長楽寺を引入れて手下にせむと為たるが、長楽寺はその頃の岩間の別当の知りたる人にて、異なる霊威もありし故に、殊更に敬ひて第一と崇めしかば、長楽寺元より剛強なる人なれば、十二天狗をおし伏せて、その首領と成りたるとぞ。凡て人ならぬ物の化りたる天狗は、言語も通ひ自在の業は為れど、然すがに甚だ愚なる物故に、おし伏せられしなり。長楽寺は三十歳余りと見ゆる山伏姿の人なり。(さて)師は彼の山に居らるれば、長楽寺を始め何れもその命を聞く事なり】




 ちょ~意訳。




 寅吉少年がいう。


「愛宕山には13の天狗がいるのですが、ですが、13人の山人がいるわけではありません。


 人が死んで亡霊になって山人になったのや、生きながらに山人になったのが4人。ワシやトビがクラスチェンジ(?)して天狗になったのがほとんどですね。その中で人の形をしているのは長楽寺という山人だけです。


 この長楽寺がこの13天狗のボスになった理由ですが、かつて12の天狗たちが集まって、この長楽寺を手下にしようとやってきたのですが、この長楽寺という人は愛宕山の別当の地位にある人の知り合いで、それなりの神通力も備え「殊更に敬ひて第一と崇めしかば(別当がこの長楽寺をあがめていた??)」、長楽寺は非常に強い人で、手下にしようとやってきた他の12の天狗をこてんぱんにのしてボスにのし上がってしまったのです。


 人が山人になったわけではない天狗程度は言葉もしゃべれますし神通力ももってはいますがさすがにそこまでオツムは良くないのでこてんぱんにされてしまったのです。


 長楽寺という山人は、見た目30歳ほどの山伏のようなお人です。ですが、我がお師匠様が山におられる時には長楽寺もお師匠様の命令を聞くのです」




 という塩梅。


 杉山山人はこの愛宕山に住んでいる、というのでてっきり杉山山人はこの13天狗の中にいるような気がしてしまいますが、よくよく見てみますとそういうものではないようです。なにせ、「師は彼の山に居らるれば、長楽寺を始め何れもその命を聞く事なり」と言っているので、13天狗のボスとなった長楽寺のさらなるボスが杉山山人とみるべきだからですね。ちなみに、長楽寺、というのは天狗になるまえは長楽寺というお寺の住職であったようで、天狗になった時にお寺の名がそのままその人の名になってしまったようです。寅吉少年がいうには今から4、50年くらい前にこの13天狗の仲間入りを果たして、首領、ボスになったらしい。


 ただ、この短い文章、わけわからん部分が多いw


 たとえば、「その内人形(ひとがた)なるは長楽寺ばかりなり」といっていますが、「人の亡霊の成りたると、現身の成りたると、合せて四人ばかり」といっているのでちゃんとした山人が4人いるはずなのに、人の形をしているのは長楽寺だけ、といっているのはさっぱりわからんw 仮にもし、「鷲、鳶また獣などの(うつ)りたる」に、「その内人形(ひとがた)なる」がかかっているとすると、長楽寺はワシやトビが天狗になった人になってしまうのでこれも違う、ハズw 長楽寺以外の山人たちはもはや人の形をしていないのか?w


 で、面白いのが、「鷲、鳶また獣などの(うつ)りたるが多し」と言っているので、人間が山人になったのが4人となると、残り9人はこのワシやらトビやらが天狗になったもののようです。ワシやトビが何があって天狗になれるのかはさっぱりわやですが、ただ、生まれが猛禽類だからか、「人ならぬ物の化りたる天狗は、言語も通ひ自在の業は為れど、然すがに甚だ愚なる物故」そこまでオツムはよろしくないらしいw


 また、この長楽寺が加わるまでは12天狗であったそうな。この12天狗が長楽寺を手下にしようと襲いかかったが、長楽寺はこの12人を相手にしても無双できる実力者であったようです。ただ、ワシやトビが変化した天狗はともかくとしましても、少なくとも3人はもとは人間であった山人もいるはずですが、長楽寺にこてんぱんにのされてしまったようですw


 齢数千歳の生き神様たる杉山山人がこてんぱんにのされる、というイメージが全然わかないので、やはり杉山山人はこの13天狗の中に入っている、と考えることはできないw

 

 ここでみるべきは、ワシやトビ、ケモノがクラスチェンジ(?)すると天狗になる、というところでしょうかw



 では、この天狗や山人たちは普段、何をしているのか、というお話もあるので見てみましょう。ある時、平賀篤胤の門弟たちのうち、ボンビーなのが数人集まって、人間というのは金に困って借金したり様々な労苦があるが、山人たちはそんな苦労とは無縁かな? と聞きました。その寅吉少年の答えが。p98




【寅吉云はく、山人といふ物は、神通自在にて山々に住する事は、諸越(もろこし)の仙人と同じ趣なれど、安閑無為には居らざる物なり。


(中略) 


 (さて)山々に神のおはし座さざる山は無く、また山人の居らざる山も無きが、その山によりて秋葉山、岩間山などの如く、世間にても山人ある事を知りて、天狗と称し祈り崇むるは云ふに及ばず、山人ある事を知らず、ただその山に鎮座し給ふ神に祈りても、その山に住む山人、その祈願を遂げさする事なり。


 然るは我が師の本山は浅間山(長野県北佐久郡軽井沢町近辺)なれど、世間の人は、かつて師の名をだに知らざる故に、祈願ある時はただ浅間神社に祈る。然れどもその願ひをば師の聞き受けて、神に祈りて遂げさする類ひなり。夫故(それゆえ)に象頭山の御神(金刀比羅宮。香川県仲多度郡琴平町)の如く時めき給ふ神の、鬧がはしく御座(おわ)します事申すも更なり。


 彼の山には山人天狗ことに多かれど、手の回らざる故に、諸国の山々より、山人天狗かはるがはる行きて山周りするなり。その上にも猶手回らず事多き時、また人間の祈願さまざまなる故に、その山々にて祈願を遂げしめ難き難事も多かり。然るをりは他山の山人たちにこの祈願を遂げさせむ事は、如何にせば()からむと探ぬるを、我が師にまれ誰にまれ、まづ聞き受けて自分に能はざる事は、また他の山人に付託する故に、難儀なる事は、先より先へ云ひ送りて、本の出所を失ふ事も有り。


 しか云ひ送る間にその事に得たるが有れば、次々に本へ送りて祈願を遂げさするとぞ。山々より互ひに巻物を廻らして、名を(かか)しむる事もこの故にて、こは山々の山人今ごろ自分の山に在りや、他山にありやと云ふ事を改め置きて、某々得手なる事を付託し合はむが為なり。それ故にこの巻物には、他山にて称する名は(しる)さず、実名を記す定まりなり。


 この故に山人の事多く鬧がはしき事云ふも更なり。一事につきて数百里を、数度空行往来する事もあり。常に何処より(いか)なる事の付託あらむも知るべからねば、世に有る程の事は、何によらず知り弁へて心にたもち、用ある時を待ちて在る故に、事を博く知りたるほど、処々よりの付託は多かれど、自然に位は高くなる。


 我が師は四千歳に近き人にて、知りたる事の多き故に、山人の多かる中にも多用に鬧がはしきなり。常に苦行するも、ますます霊妙自在を得て、人間の(ため)をせむとてなり。然れば山人と云ふ物は人間よりは苦労多し。是れをもて人間は楽な物ぞと常に羨まるるなり】




 ちょ~意訳。




 寅吉少年がいう。


「山人というものは、神通力を自在に駆使し、山に住まうことは中華の仙人と同じですが、しかし、中華の仙人が日がな一日ぼへーと過ごすのに対して、山人にそんな暇はありません。


 さて、数あるお山に神様がいない山はないように、山人のいない山もありませんが、有名なお山となりますと秋葉山、岩間山のように世の人々もそこに山人、天狗がいることを知っているので、天狗を祈りあがめるのはもちろんのことですが、山人がいることなど知らなくても、ただただその山におわしたまう神様に人々は祈願するのですが、山人はその願いを遂げさせようと働くのです。 


 我がお師匠様の本拠地は浅間山ですが、世の人々はもちろん杉山山人の名など知りませんから、ただ霊験ある浅間神社でお祈りします。お師匠様はその願いを聞き届けて神様にそれをお伝えするのです。それゆえに、金毘羅の神様のように忙しく立ち働かれることもあることも申すまでもありません。


 金毘羅の山には山人や天狗が数多おわしますが、それでも忙しく人々の願いを叶える手が回らないので、諸国の山々より山人や天狗が交代交代で行って手伝いをするのです。ですが、それでもなお、山人手が足らず、押し寄せる人々が数多の願いをするので、その山ではすんなりと解決できそうにない祈願もけっこうあったりするのです。


 そんな難題難問なお願いに、お手伝いにやってきてくれた山人たちが叶える際には、どうすればよいかということを我がお師匠様や色んな山人に相談したり、また、自分ではできそうにない場合はさらによそのお山の山人に仕事を回したりするので、伝言ゲームとなって結局、大本は誰それの願いであったか分からなくなることもあるそうです。


 ともあれ、そうして伝手を頼ってその祈願を叶えられそうな山人が現れたらその人に叶えてもらうのです。そういう時に使うのが、このお山の山人はどこの山にいる人で、いまはどこにいて、次にどの山に行くのかとか、どういう願いに霊験あらたかなのか、ということを記した巻物をみんなで回し合うのです。なのでこの巻物に名を書く時はペンネームではなく実名を書く決まりです。


 こんな次第なので、山人が多忙なことは申すまでもありません。ことによっては一つの願いを叶えるために、時には1000キロ往復して空をとぶこともあります。常にどこからどんな願いがあるかを、ある程度は把握しておかねばならず、世の人々がどんな願いをするのかを知ってそれを叶えるだけの実力を備えると、もちろん、回ってくる仕事量も増えますが、その果たす仕事に応じて地位も高くなります。


 我がお師匠様ともなると、4000歳に近い齢のお方なので、知っていることもそれこそ膨大。日本に多くの山人がいたとしてもお師匠様ほど忙しく働かれているお方もそうそうおりますまい。なので常に苦労されておられますが、ですが、その分ますます霊験あらたか、そしてその御業をもってますます世の人々の願いを聞き届けるのです。


 そういう次第で、山人とは普通に生きている人間よりはるかに多忙で、その職責も重い。これをもってとある山人などは人間のなんと気楽なことかと、羨ましく思っておられるほどです」


 


 という塩梅。


 山人、とただ聞きますと、中華の仙人のように、雲に乗ってそのクモやカスミを食べて日がな一日何をするでもなくぼへーっと過ごしているように思ってしまいますが、さにあらず、と。


 それどころか、世の神々も、世の山人たちも、人々の願いを聞き、叶えるために日夜忙しく働いているとのこと。なんともありがたいお話でございますが、当然、山人にも得手不得手があって、人々の、ある意味勝手な願いにはその山人ではちょちょいと解決できないような願いもあったりするので、そういう時は他の山人に相談したり、また他の山人に回したり手伝ってもらってなんとかかんとか叶えようとするのだ、と。


 しかも、それが難問であればあるほど出来る山人も限られ、その願いが色んな山人にたらい回しにされている間に、それがどこの誰の願いであったか分からなくなる、とw


 そういう次第なので、どのお山の山人はどういうことに得意で、今どこにいるのか次にどの山に向かうのか、みたいな連絡帳が山人間では出回っており、それをもって人々の祈願を回している、とw


 そういうわけで、ただただ自分勝手に神様に願いを祈っているだけの人間は、なんとも気楽な家業じゃあねぇか、と言い合っている、とw


 実に興味深いw


 また、「我が師の本山は浅間山」といっているように、やはり愛宕山の13天狗の一員と考えることはできないようですね。それはともかく、日本人は世界の民族と比べても仕事が大好きな民族であると言われていますが、それを古来、天照大御神が機織りをしているところに着目し、神様も働くのであるから人も働くのは当然だと言う人もいますが、なんのことはない、山人や天狗になっても大いに働くわけで、そりゃ人間が忙しいのも当然である、ということですね。


 そうして、世の人々の祈願を果たすために忙しく働いてくださっている、と考えますと、やはり、日本の神様は慈悲深い、邪悪な神様などいないようにも感じますね。ここまで数多神様がおわして、人々のために頑張ってくださっている国が日本以外にあるか。出雲の国なんて、「神無月」ではなく「神在月」といって、日本中の神様が10月に集まって様々なことを話し合っておられるそうで、こんなすごい国は日本以外には存在しない。ありがたいことでございます。-人-


 

 また、ある意味当然といえますがこういうことを寅吉少年にいう人もいます。p331




【或人戯れて、寅吉に謂ひけらく、我はこの世に住み侘びたれば、山人に成りたくと思ふを、山に帰るときいかで我をも伴ひ給へと云へば、


 寅吉真と思ひ、居直りて云はく、それは以ての外なる事なり。


 神を置きては世に人ほど貴き物はなきに、山人天狗などの境界をききて羨ましく思ふは、心得の宜からぬなり。人はこの世に住みて、この世の人のあたり前の事を務めて終るが真の道なり。


 山人天狗などは自由自在がなると云ふばかり、山人には日々に種々の行ありて苦しく、天狗にも種々の苦しみあり。それ故に彼の境にても、人間といふ物は楽な物ぞと常に羨み居るなり。此方にては彼方を羨み、彼方にては此方を羨む、これ皆その道に入りて見ざる故の事なれど、人と生まれたからには、人の道を守りて外を願ふまじき事なり。


 我が師を始め山人となり天狗と成れる人々は、何か因縁ありて成れる物なるべく、我とても小児(こども)にてありし時よりの事を思ひつづけ、また願ひもせずして彼の境に伴はれたるなどを思へば、何か定まれる因縁ありげに思はれ、我が身で我が身の事すら知られず、今日にも明日にも迎ひが来るやら、この儘こちに居る事やらそれも知れず、それ故に時々ここらの事を思ひつづけては、かく成れるも善き事か悪しき事か分からぬから、身の毛の立つやうに恐ろしく思ふ事もあり。


 夢のやうにも有るが、とてもかく成れる上は天道様の御さしづ次第、また師匠の心次第と打ち任せて居るなり。然るに好みて成りたがるは、要らざる事なり。


 それよりは人間相応の勤めを第一にし、身の行ひを正しくして、死後には神になる様に心を堅むるが肝要なり。この事に限らず、一体外を願ふといふは宜からぬ事なり。(ついで)なる故申すが、世に仏法を信仰してその身の貴き事を思はず、卑しき仏に成りたがるも外を願ふなり。


 この国は仏国に非ず神国にて、我も人も貴き神の末なれば、何でも神に成らむと心掛くべき事なり。それは社々に祭りて在る神々にも、本は人なりしも多く、神は尊く仏は卑しきことは、今の世にも貴き人また(すぐ)れたる人をば(なに)大明神とかいふて、神に祭る事は有れど、某仏といふて祭ると云ふことなきを以ても知るべし。


 然るに仏に成りたがる人のあるは、山人天狗になりたがると同じ事にて心得わろし。坊主が戒名付けたればとて、天竺の仏の末でないから仏には成らず、神の末なる故に善くも悪しくも神となるなり。


 そは桃の実より桃の木が生え、梅の実より梅の木の生ずる理りに同じ。然れば人は生涯の善念を立てとほして、善神となるが道なり。但し世に最期の一念によりて、善悪の生を引くと云ふなれども、生涯の一念を通さねば、生を引くといふ程に最期の一念も通らぬ物なり。生涯の一念のかために依りて、神にも何にも成らるる物ぞと師に聞きたり。事は何でも成就せまいと云ふことを思ふべからず、何でも成就すると心得てものすべし。何でも自分で、思ひつめてすれば、出来ぬことなしとぞ】




 ちょ~意訳。




 ある者がふざけてこういった。


「わたしは貧しく、この世で生きるのも大変なので、いっそ山人になりたい。寅吉くん、お山に帰る時はどうかわたしを連れてってくれないか」


 と。


 寅吉少年はそれを真に受けて、居住まいを正してこういった。


「それはもってのほかでございます。


 神様を頂点とするならば、その次に人間ほど尊きものはございません。それなのに、山人や天狗の世界の話を聞いて羨ましく思うのは良い心がけとは言えません。人間と生まれたからには、人間として生き人間として生をまっとうするのが真の道にてございます。


 山人や天狗が自在に空を飛び回り、神通力を自由自在に駆使するとは申しましても、山人には毎日のように様々な修行がありましてそれも並大抵の苦労ではございません。天狗は天狗で相応の苦しみはあります。


 そういうわけなので、向こうでも人間というのは楽な生き方しておるな、などと羨んでいるような次第。あっちはあっちでこちらを羨み、こっちはこっちであちらを羨む。これらはすべて、物事の本質をわかっていないことから発生するものではありますが、それでも、人として生まれたからには、人としての生き方を守るべきで、隣の青芝をこいねがうなどあってはならぬこと。


 我がお師匠様を始めとしまして、山人となり、天狗となられるような方々は、それ相応の因縁、宿縁があって自然とそうなってゆくものでありますれば、かくいうわたしも子供の頃のことを考え、お師匠様から思いがけず仙界に連れて行っていただいた時のことを思い返しますと、やはり、何らかの宿縁あることを想起させられましたし、こうして山を降りておりますが、自分のことすら自分で分からず、今日か明日にはお迎えが来るか、いやそうではなく、ずっとこちらにおらねばならないのか、とかそれも分からず、それゆえにこれまでのことを思い返しては、こうなった次第もよいご縁なのか悪いご縁なのかもわからぬから、身の毛がよだつほど恐ろしく思ったこともございました。


 こうして今あることも夢のようではございますが、ともかくこうなった以上はお天道様のご命令と思い、また、お師匠様のお気持ち次第と心得て我が身をお任せしております。わたしがこうしているのも、様々な宿縁、ご縁の成り行きであるわけでして、それなのに自分から山人になりたいなどと思われるのはもっての他でございます。


 それよりは人として相応の勤めをはたし、日々の行いを正しくして死後には氏神様の眷属に連なることを願うのが一番の肝腎。いえ、山人や天狗を抜きにしてもうつつを抜かすのはよろしくありません。


 せっかくなので申しますが、世に仏法を信仰して、もったいなくもせっかく神様から人の身をいただいておきながら、卑しき仏になりたがるのもよろしくありません。


 この国は仏国ではなく、神国であります。


 わたしも誰も、みな等しく尊き神様の係累であれば何が何でも神様になろうと心がけるべきであります。それは多くの神社で祀られる神様も、本来は人として生を受けながらも神様として祀られているということは、それはつまり、聖人や英雄を何々大明神という神様として祭ることはあっても、なにがし仏として祭ることはないように、神道は尊く、仏法が劣っていることの証左に他なりません。


 そうであるにも関わらず、仏になりたがるようなお人は山人や天狗になりたがる人と同じで、その心がけはよろしくありません。坊さんが坊さんの仲間入りをして戒名を付けたとしましても、インドのお釈迦様の係累ではないので結局仏にはなれず、我が神様の係累であるので中途半端な神になるのでございます。


 それは桃のタネから桃の木になり、梅のタネから梅の木が育つのと同様。そう考えれば、神国日本に生まれた我々はその生涯を通して自身を正しく生きることを心がけ、ただしく神様になるのが一番。


 ただし、末期の決意で来世が良くなったり悪くなったりするといいますが、それとて、その人生を正しく全うできねば来世に期待できるほどの決意にもなりえません。


 人は一生の決意の堅さ次第では、たちまちにその後に神様にもなれるということを、わたしはお師匠様より聞き及んでおります。なんであれ、願ったとて叶うはずもあるまいなどと諦めていてはいけません。


 それがなんであれ、自身の願い通りに叶うものであると心得えて取り掛かるべきであります。それがなんであれ、自身の力で成し遂げられると思って行動すれば、出来ぬことなどありはしないのであります」




 という塩梅。


「或人戯れて」とある人が冗談交じりに、山人になれば楽に生きられるのになぁ、などと言ってしまったがためにさあ大変w


「寅吉真と思ひ」真に受けてしまった寅吉少年。居住まいを正してこんこんと説教を始めてしまいますw よもや軽い気持ちで山人になりてぇ~な~。パラダイスみてぇな国にしてぇ~な~。と口に出してここまでコンコンと説教くらうとは夢にも思わなかったことでありましょうw その人がどれほど鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているか想像するだに面白いですが、寅吉少年の説教は続きますw


「神を置きては世に人ほど貴き物はなき」神様をいったん置くとしましても、神様のその次に尊いのは人間であります。にもかかわらず、山人や天狗になりたい、などと思うのは以ての外。人として生まれたのなら、そのまま人として生を全うするのが真の道にて候。


「山人天狗などは自由自在がなると云ふばかり」山人や天狗が自由自在に神通力を駆使し、思うがままの生活をしているなど、実際はそう見えるだけ。彼らは彼らで、その権能を維持するために苦行を己に課さねばならず、天狗と一言に申してもなったらなったで労苦の連続。そんなわけだから、山人や天狗は、人間っていいな~♪ といい、人間は人間で、山人や天狗っていいな~♪ というのも、物事の本質をわきまえない繰り言にすぎない、と。


 寅吉少年が100日断食したり、30年山で引きこもりしたりというのは山人になるための過酷な修行であり、しかも、山人になったあとも、それを維持するために過酷な修行は終わりなく続くのじゃ~。と、言っているわけですね。((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル


 杉山山人を始め、その他、山人になった人、天狗になった人もそうだし、寅吉少年も前世の関わり、因縁や宿縁でそうなってゆくのであって、これは、自然とそうなるのであって、無理矢理にそうしたわけではない。好き好んで人間をやめようなどと思ってもいけない。人として、人としての生を全うし、順当に神様の眷属になることを望むのが真っ当である、と。なるほど。


「この国は仏国に非ず神国にて」この国は仏国土ではない。神国なのだ。わたしもみなさんも神様の係累なわけなので、そのまま神様になろうと心がけるべきなのだ。世を見てみなさい、多くの神社でかつては人であった方々をいまは神様として祀ってはいても、なにがし仏とか、なにがし菩薩とかの名で祀っていないことからも明らかなように、仏法よりはるかに神道が偉大だからである。……いや、その理屈は分からんw


 桃のタネから桃の木が生え、梅のタネから梅の木が育つのと同じように、神国日本で生まれたわれわれ日本人は、そのまま神様になるよう生きればよいのだ。


「世に最期の一念によりて、善悪の生を引く」これは太平記にある言葉のようです。因果応報、善因善果、悪因悪果によって、次の人生が良くも悪くもなる、というもの。ただ、その人生をきちんとまっとうせずしてどれほどの一念となろうか。と寅吉少年はいうわけですね。正しく人生をまっとうするからこそ、その一念が来世に通ずるのであって、山人になりたい、天狗になりたい、などという遁世(とんせい)の根性で来世の道が開けるものか、と。これは、ご挨拶痛み入ります。-人-


 その生涯における一念のかたさによっては、神様にも何にでもなれる、と杉山山人はいう、と。


「何でも成就すると心得てものすべし。何でも自分で、思ひつめてすれば、出来ぬことなしとぞ」これは、実に深い忠言でございます。


 よもやそのお人も、寅吉少年から人生の真理をコンコンと説き伏せられようとは夢にも思わなかったでしょうが、これは実に切実な、懇切丁寧なありがたいお説教でございます。


 そして、最初に戻ってみましょうか。



「聴けばその行ふ所を観る」



 こんな有り難い説教を聞いて、その後そのお説教を自身にどれほど活かせるか。もしくは活かせないぼんくらか。これこそがその人をみる最大の目安となるわけです。


 というわけで、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む。これまでといたしましょう。他にも面白い記述はあるのですが、この寅吉少年の有り難い説教以上の面白いお話はそうはないので、これまででございます。


 したらば。






「その着せ替え人形は恋をする」のOP・EDを聴きながら。


 OPの良さもさることながら、EDも「キルラキル」のEDの2「新世界交響楽」にも似た雰囲気でなんか好きですね。ようつべで「その着せ替え人形はラジオをする」も楽しかったw



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