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日本って? (二)



 へいよ~ ぐっつすっす。豊臣亨です。


 分からない人は無視してください(笑)。


 さて、我々は日本人としてこの世に生を受けたわけでございますが、そうは言いながら灯台下暗しで日本とはそも何なのかということは分かりづらいことでございまして、冬の寒い最中にコタツにこもって蜜柑をむきつつ「いや~、やっぱ日本はいいねぇ」などと言いますが、そんなのんきなことを言っておれるのもご先祖様がこの、日本という風土、文化、歴史を守ってくださったからこそ今の日本があるわけです。


 元寇のおり、強大なる蒙古の軍勢が攻め寄せた際、我々が知る歴史として「神風」なるものが吹いて蒙古の軍勢を蹴散らした的なことを習った気はしますが、実際には九州の武士が必死に戦って元軍を撃退し、元軍の撤退が夜間であったため暴風雨によって大軍が難破し壊滅とあいなったそうです。


 wikiを覗いてみましても、戦前は武士の活躍を喧伝しながら、戦後は左翼思考にかぶれて武士の活躍を削除し、神風をメインにすえたそうで、現地の武士がどれほど死に物狂いで戦ったかは、「アンゴルモア」という物語でもうかがうことが出来ます。余談ですが、この戦いに動員された高麗は、軍船の造船や軍役の従事、食料の供出などで国力の疲弊はとてつもなかったそうで、そりゃまたご苦労さんなこってすなぁ、といった塩梅です。


 日露戦争の最中でも、強大なるおロシアの南下に対して昨日までちょんまげ結っていた日本人が、どれほど圧倒的な国力の差の中で、神経をすり減らし超人的な努力によって勝利をもぎ取ったかは、少しでも学んだ人はその奮励に驚愕せぬはないでしょう。


 また、昭和の混迷において、頻出する大問題の連続のおり、厳しい監視と人種差別の目が光る国際社会に、日本の為政者がどれほど神経をすり減らして国の舵取りを模索されたかは、ちょっと軽々には想像だにできぬ、苦労の連続であったことはこれは日本人ならば大真面目に歴史の学問に取り組んでいただきたいところでございます。


 善だの悪だので言い出せば事の本質を見失ってしまいますが、歴史的事実として、日本人があの大東亜戦争で冗談でもなんでもなく、一億総玉砕の覚悟で闘ったからこそ、人種差別がこの世から表面上は消えうせたということを、日本人は忘れてはいけません。


 有色人種が、奴隷以外に、同じ人の子として白人社会の中で大手を振って世界に出られる、という歴史を、日本人だけが、作り出した。という事実。


 あの時、ほとんどの有色人種の国は白色人種の属国下にあり、白色人種と同等に戦争ができたのは日本だけ。その、有色人種の勇たる日本が敢然と、白色人種の弾圧、冷遇、傲慢に立ち上がったからこそ今の世界はあるのであります。


 また、世界の覇者たる英国と、昨日今日砲艦外交によって脅されて開国した日本がどうして対等の条件で同盟を結ぶことができたのか。その経緯や背景はどうであったか。歴史の授業ではさら~っと流すだけの「日英同盟」が、どれほどその当時の世界の常識を覆す驚天動地の大偉業であったか、もう少しきちんと日本人は受け止めた方がいい。


 と、前置きはこれくらいにいたしまして、安岡先生に伺う日本とは何ぞや、その(二)に参りたいと思います。今回は、日本にやってきた儒教や道教や仏教が、どのように日本に影響を与えたか、を見てみたいと思います。


 老荘思想家のおっさんは語りたい。


 


神道と儒・道二教の伝来  p51




「清純快活でありました民族生活にもその後、大陸との交通はだんだん複雑な影響を生じました。古伝によっても、また考古学によりましても、わが国と海外との交通は神代から行われていたようでありますが、それがはっきり文献の上に現れてきたのは応神天皇以後のことであります。


 応神天皇の十五年、百済王が阿直岐(あちき)を使節として良馬を献じました。この阿直岐は学問に通じた人でありましたので、天皇は皇子の稚朗子(わきいらつこ)をして彼に就いて学ばされ、翌年さらに阿直岐の勧めにより百済の博士・王仁(わに)を招き、王仁は『論語』十巻、『千字文(古く中華において習字の手本とされた)』一巻を持参し、稚朗子(わきいらつこ)の侍講になったといいます。この皇子は大変に気象の勝れた人で、『日本書紀』応神天皇二十八年の条には、高麗(こま)王の表文に「高麗こま王、日本国に教う」とあるのを大変怒って、使者に無礼を詰問し、その上表を破ってしまったと出ております。


 一方、王仁の子孫は河内におりまして、西史部(こうちふびと)となり、次いで帰化した後漢霊帝の子孫と称する阿知使主(あちのおみ)の子孫は東史部(やまとふびと)となり、ともに朝廷の記録を司ることになりました。それから、欽明天皇の頃までに数多の博士たちが来朝してきて、朝廷の文運(学問・芸術が盛んに行われている状態。文化が起こり栄える勢い)を刺激しました。


 その第一は文字記録の問題であります。いうまでもなく、その頃のわが国にはまだ文字というものはありません。神代文字説もありますが、学者は問題にしておりません。ともかく、重要なことは「言いつぎ、語りつがれ」てきておったのですが、社会生活の発展と共に、それでは、もはや不自由に堪えなかった際でありますから、熱心に受け容れられたのであります」


 p42


「いったい、漢文字というものは非常に学習に困難なものとして今日も随分と排斥論が少なくありません。人間の発音をそのままに表し、考えを分かりやすく開陳してゆくためには何もこんなに難しいものはいらないのに、何故こんな込み入ったものを漢民族が発達させたのでありましょう。

 

 それは、


一 印象の深い自然現象、たとえば山や木や水や魚や日や月などそれからそれへと描いてゆく芸術的性能に豊かであったこと。


二 言葉をはじめすべて表現は、自然といわず、心といわずどうにも本当にはゆきかねるため、真実を尊ぶ気持ちからなる真実を遠ざからぬよう、含蓄的な語音や文字を作っていったこと。


三 言葉は時と所によって甚だしく変わってゆくため、そこに変わらぬ表現を求めたこと。


 などに大きな理由がありましょう。


 それは日本民族性にもすこぶる合致するものでありました。わが日本人はこれ幸いとどんどんこれを利用したばかりでなく、この文字の覚え難く、用い難い一面を補うため、これを巧みにくずして平仮名を作り、それをばまたもっと便利に、いつの間にか片仮名を作るようになりました。これは決して弘法大師一人の発明によるものではなく、長年の間に民間の識者がだんだんこしらえあげてしまったのです。


 そして、漢字に自由に仮名をふり、仮名でものたらぬところは漢字を当てはめ、最初には棒読みしていた漢文も、奈良朝頃には立派に訳読するような天才的芸当を演じました。


 本場の中国ではこの頃(昭和十一年当時)やっと略字や仮名をこしらえる騒ぎをやっている次第であります」




 普通、外国から何かを輸入しますと、自国の、古臭い伝統だの因習だのは捨てられ、壊されるのが世界の常識であります。それは何も言葉に限らず、日本以外にも古くは神道があったにも関わらず、新しい宗教が入ってくると次第にその民族固有の宗教が消え去ったのと同じであります。


 ですが、日本人は神様を拝みながら仏様も拝むように、古いものと新しいものを、同時にありがたがる、使いこなすという、世界に類例を見ないとんでもない才能をもった民族であります。


 ですから、今でも日本人は一文字の漢字に、大和言葉である訓読み、漢字由来の音読みがありますし、仏教関係なら呉音もあります。これらを自然と使いこなして日常生活、日常会話を行っているのですから、日本人の語学力がどれほどすさまじいか、といったところであります。


 余談ではありますが、楽しんで拝見しております『皇帝たちの中国』で宮脇淳子先生のおっしゃるには、そもそも漢人とはどこから来たのかといいますと、華夷秩序で漢人たちが野蛮人であるとさげすむ、四方の民族。東夷(とうい)西戎(せいじゅう)北狄(ほくてき)南蛮(なんばん)といいますが、この四方の民族が各々商売をするために自然と集まってきた中央の、混血民族こそが、漢人と呼ばれる人々なのだそうです。


 そして、漢字が使えるから漢人、なのだそうで、そもそもこの漢人とはいえ漢字は非常に難しく、漢人も漢字を自由に使いこなせなかったそうな。


 さらに、余談で、どうして孔子様のお弟子さん達が中華全土に受け入れられていったかといえば、そもそもあの春秋戦国当時の国家、晋、斉、秦、楚、衛、魯、燕、呉、越、だのはそれぞれ独自の漢字を用いており、通訳がいないと外交文書のやりとりもままならなかったそうで、その通訳として漢字に秀でた孔子門弟が各国に採用されていった、のだそうです。


 その本場たる漢人すら凌駕する勢いで漢字を巧みにこなし、躾、とか新たに独自の漢字を生み出すにいたっては日本人のすさまじさに驚くしかありません。




 p58


「推古天皇御即位とともに、その御兄・用明天皇の第二皇子・厩戸豊聡耳皇子うまやどのとよとみみのみこ(聖徳太子)を立てて皇太子に定め、徳に摂政として万機を委ねました。聖徳太子は聡明絶倫の人で、一度に十人の訴えを聞いて、ちゃんと誤りなくさばかれたと申します。したがって、つとに儒・仏の教えにも熱心に参究していられたことは申すまでもありません。かつ、すこぶる先見の明があったところへ、摂政になられたのがいまだ二十歳の年少気鋭の年頃でありました。


 当時、朝廷のありさまは豪族の嫉視排擠や陰謀闘争が深刻をきわめ、どうしても彼らの専横を絶滅して、朝権の確立を図る必要に差し迫られておりました。そのために、叔父君である崇峻天皇まで非命に倒れているほどで、多感穎悟(えいご)(優れて悟りの早いこと。賢いこと)の年若き太子の心中は容易ならざるものであったと推測できます。


 おそらく太子は内において、豪族を退けることを期しつつ、故意に事態を紛糾させることの不利なのを深慮するとともに、大いに新しい文化を入れて、朝廷の権力や輿望を重くし、頑迷な豪族を時代的に敗退させる見識であったのでしょう。そういう政治的問題の奥に、人生や社会生活について深い深い瞑想もうかがわれます。


 推古天皇は即位後まもなく、三宝の興隆の(みことのり)を発せられました。その前年には有名な難波の四天王寺ができております。多くの名臣たちは、詔に応じて、上は天皇のため、下は各自父母の恩に報いるため、競うて寺を造りました。この勢いに乗じて半島からもどんどん僧侶が布教にまいりますし、わが国最初の大寺ともいわれる法興寺も落成しました。


 その時、つまり推古天皇の十二年、聖徳太子によって憲法十七条が発布されたのです。


 その第二には、


「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。則ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宋なり。何の世、何の人かこの法を貴ばざる、人(はなは)だ悪しきもの(すくな)し。()く教うれば之に従う。それ三宝に帰せずんば、何を以てか(まが)れるを直さん」


 とあります。


 三宝とは申すまでもなく仏法僧のこと。四生とは胎生(たいしょう)(人や哺乳類など)、卵生(鳥類など)、湿生(虫類など)、化生(けしょう)(変化類、お化けのことらしいです)のことでありますが、実に徹底した仏教の信仰奨励であります。


 その翌年、天皇の詔によって、皇太子および諸王諸臣とともに丈六(じょうろく)(一丈六尺の仏像のこと)の銅繍(どうしゅう)仏像各一体を作るべく御発願があり、これを伝聞しました高麗の大興王は特に黄金三百両を献上して、できあがったものは法興寺の金堂に安置されました。その年から四月八日に灌仏会(かんぶつえ)、七月十五日に盂蘭盆会(うらぼんえ)が行われることになりました。こういういわゆる多造塔寺の像法(ぞうほう)の外に、聖徳太子はまた天皇の御前において、勝鬘教(しょうまんきょう)や法華経を御進講になり、次いで勝鬘経疏(しょうまんきょうしょ)維摩経疏(ゆいまきょうしょ)法華経疏(ほっけきょうしょ)と三経義疏を表したのであります。


 この仏教帰依は後世になって一派の非難するところとなり、十七条憲法にも仏教を奨励して、神祇におよばれぬことや、蘇我馬子に対する態度などを挙げて、不忠の評すらあるのですが、馬子に対してはずいぶん議論もあるでしょうが、神祇については決して閑却にしたのではありません。それどころか、憲法発布の後三年、(あまね)く、


「朕聞く、曩昔(むかし)、我が皇祖天皇の世を宰したまうや、天に(きょく)し、血に(せき)して、(あつ)く神祇を(うやま)い、(あまね)く山川を祠り、(はるか)に乾坤に通わす。是を以て陰陽開和し、造化ともに調いたりと。今朕の世に当たって、神祇を祭祀すること()に怠るべけんや。故に群臣宜しく相共に心を(つく)して以て神祇を拜すべし」


 と詔勅しているのであります。


 そして間もなく、天皇は太子および群臣を率いて、厚く天神地祇を祠っておられます。これは実に有り難いことでありました。思想信仰の問題というものは、まことに微妙な、注意すべき大事でありまして、仏教の急激な興隆なども、確かに調子に乗って、とんでもないところに逸れかねぬ危険性が多分に在ったのであります。


 西暦前千五、六百年頃からインドのパンジャーブ地方にやってきたアリアン人種が、その雄大荘厳な大自然に驚嘆讃仰の情を禁ぜずして、ここに四種の賛歌、吠陀ヴエダを作り、祭祀を始め、その讃仰祭祀内省がだんだん梵書や優婆尼沙土(うばにしゃど)哲学を生じ、この間ガンガ流域に勢力を占めるようになるにつれて、先住民族との間に生ずる惨澹たる軋轢闘争の苦悩が、中国よりもまた別趣の悲惨な社会を実現しました。この点、実にわが日本と天地の相違があるのであります。


 仏教は釈迦によって、いかにこの現実の苦悩、単に人間としての生老病死などの苦悩ばかりでなく民族的、国家的生活苦より解脱すべきかの道を説かれたものでありますから、元来はどうしても超国家的性向を免れません。現に、前述の法興寺が起工された年、というと推古天皇即位の前年でありますが、仏教とはこれを法興元年と呼び、それが後にできた法隆寺の薬師仏光背銘や伊予の湯岡(ゆのおか)碑(太子は伊予の道後に行っていた)などにちゃんと用いられているのであります。


 わが国の元号は「大化」が始めでありますが、西洋の法権、王権の対立などから考えて、寒心させられる問題であります。かような危険も日本は何の苦もなく祓いのけていっているところに真に神ながらの国体ということを痛感させられるではありませんか」




 聖徳太子の唱えられた十七条憲法ですが、その第一は誰知らぬもののない、「和を以て貴しとなす」であります。


 空気をよめ、とかKYとかいう、日本人の、和を何よりも重視する、それが悪かろうがなんだろうが、その場、お座なりを重視し調和を守ろうとする日本人的、島国根性をここに認めることができます。


 いえ、聖徳太子が始めて広めた、ということではなく、


 日本人は根幹的に和を大事にする民族だということであります。しかし、これは美徳であると同時に、どうしてもなぁなぁになってしまいがちでありまして、日本人というのはどうしようもなく優れた指導者、信長公のような革新的指導者に率いられないと変革できないという一面もあります。


 明治大帝もそうですが、変革の時に当たると、まずもって天皇陛下が率先される、という驚くべき柔軟性、先見の明を発揮されることであります。


 普通、常識的にはそういった目新しいことは、それに通じた、達道の者に指揮をとらせ、ある程度成功裏に終わってから王族も真似するもので、もしや、ことが失敗に終ったら責任者を無情に切り捨てて知らぬ存ぜぬをつらぬき通すものです。変な例ですが、きつつき戦法に失敗した山本勘助が作戦失敗の責を負って乱戦に突っ込んで戦死したのも、信玄公にその責が及ばぬようにした家臣としての義務といえるわけです。


 しかし、大東亜戦争後、マッカーサーがやってきた時、昭和聖帝は、「全責任はわたしにある」とおっしゃられた。我が皇室はそういった責を己が身にかぶって、率先して事に当る、他者に責任をなすりつけわが身の保身をはかるような、何か、まずいことがあると外国に逃亡を図るしょうもない、どこぞの王族とは根幹的に別物であり、素晴らしい王者がたくさんおわすわけです。こんなありがたいことはありません。


 大体、宗教に関しましても、日本は江戸時代、石門心学(せきもんしんがく)という方がいて、簡単に言えばありとあらゆる宗教や儒教などから、いいとこどりをして心を磨きましょう、ということをやってのけるわけです。いいとこどりといえば、節操のない猿真似と思いがちですが、しかし、キリスト教とイスラム教に別れて、惨憺たる殺戮と闘争の歴史を演じておった西欧と、何でもかんでもいいものは受容し、己が心を磨くことを本然とする、日本人。国家が興っては滅亡を繰り返す世界と、ただの一度として滅亡を経験したことがない日本と、長い目でみてどちらに分があるかは、火を見るまでもないでしょう。


 さらに重要なことは、日本では出家よりも在家を選択されたことであります。


 出家というのは、つまり、もはや俗世界とは永劫縁を切る、死んだも同然な状態に入ることでありまして、お釈迦様もこれで煩悶されたわけであります。釈迦というのは、つまり姓だか苗字でありましてサンスクリット語でゴータマというそうで、名前がシッダールタ。ゴータマ一族というのがあって、ある時敵対勢力に攻められたそうですが、お釈迦様は出家したということで家臣から請われても指導者として復帰することはなかった。


 そして、どういうお気持ちかは分かりかねますが、この釈迦一族、ゴータマ一族の滅亡を座視するしかなかった。


 出家というのは、一面、こういったこともあるわけで、永劫俗世と縁を切ることもご立派ではありますが、確かに、自分さえよければそれでいいのか、という批判も免れぬところでありまして、我が皇室は仏教にはこういった面もあるから、あくまで在家を選んでいるのであります。


 信玄公とか、謙信公とか申しますが、これらは在家入道でありまして、日本人は出家して俗世界とか、血縁から永劫縁を切ることを潔しとはしなかった。これも大見識であります。


 さらに、すでにこの頃から日本では論語が入っており、この和を以て貴しとなす精神も儒教の影響であります。しかも驚くべきことに本家たる中華よりもこの儒教精神は日本の水にあったとみえまして、例えば今の皇室の男子の尊名にはまず、「仁」の字があります。


 孔子様がもっとも重視されたのもこの「仁」の字でありまして、恐れ多くも、我が皇室がどれほど儒教を根本に据えられているか。たったこれだけで伺うことができるのであります。


 そして、江戸時代、士農工商に基づく身分差別を生み出したのですが、この、武士の面目も、儒教によって成り立っていることも見逃すことは出来ません。庶民を治める武士こそが、きちんと学問をなしたものである、ということであり、実際にはそうではない人もぽろぽろいたでしょうけど、建前としては、武士こそが儒教によって国家を治める資格を有するのであり、学問があってこそ武士たるのである、江戸幕府というのは本当を言えば謀略によって主君を滅ぼした軍事政権なわけですが、しかし、いわゆる「馬上天下をとるべし、馬上天下を治めるあたわず」というやつでして、武をもって天下をとってとしても、立派に儒教で国家を治めるのである、という建前を作り上げたわけで、武士の体制、精神面において儒教が果たした役割はものすごく大きかったのであります。


 また、p65で安岡先生は「太子を思えば、梁の武帝など愧死(きし)(深く恥じて死ぬこと、または死にたくなるほど恥じること)すべきものであると感じます」とおっしゃられてますが、さすがに酷かと思います(笑)。


 我が偉大なる皇室と比肩しうる王族など、世界史に何百何千あろうとそうそういはしないでしょう、と思うところですので。


 しかし、この梁の武帝というのも面白い人物でありまして、余談といえば余談ですが面白いので見てみましょう。お話はインドからはるばる禅の真底を伝えんと達磨大師がやってきたところであります。




 p116


「梁の武帝は史上有名な仏教信者で、自ら「三宝の奴」と称し、ひたすら「外護」に努めた天子であります。しかし、仏教の外護すなわち信仰を表すものとはいえ、当時の信仰は要するに供養信仰、利益信仰に過ぎませんでした。さまざまな供養をする代価として現世利益を受けようと願うのが心情です。


 南北朝時代は中国文明の爛熟期たる唐代の前駆であって、社会の騒擾、思想の混乱などのために、著しく一般に不安困憊こんぱいの気分が漂っている。そこに法楽を求める供養信仰が流行し、これに乗じて邪道の跋扈することは古今東西とのを一にするものなること、今更ここに贅言するまでもありません。


 達磨が武帝に謁見すると、武帝は早速尋ね、次のような問答をしております。


「朕、即位以来、造寺・写経・度僧(官製の僧侶)いちいち記録にすることもできぬほどである。かほどまでに仏法のために尽力しておるのであるが、どんな功徳があるだろうか」


 達磨はこう答えました。


「どれもこれも無功徳です」


「そりぁまた何故功徳がないのか」


「これらはただ人天(にんてん)の小果(人間界。天上界のわずかな報い)、有漏(うろ)の因(漏は煩悩。いろいろな欲望や迷いの心の原因)、影の形に随う如く、()といえども実ではありません」


「それでは真の功徳とはどんなものであるか」


「浄智妙円、体自空寂、如是の功徳は世俗の観念で求められるものではありません」


 武帝は達磨大師の厳峻なる喝破にあって狼狽せざるを得ませんでした。そこで帝は、


「それでは聖諦(せいてい)(最高の真理)第一義とはどんなものか」


 と食い下がります。


不識(ふしき)(知らない。または、言っても理解できまい。な意味)」


 三宝の奴と称し、王者の身をもってこれほど仏法の外護に任じている自分こそは、まさに聖諦第一義を悟れるもの、無量に功徳あるものと思い込んでいた矢先、かくのごとき人天の小果、有漏の因に傲れる黄金骨を慈悲の鉄槌をもって微塵に撃砕してくれた達磨の心は、しかしながらついには武帝には領会(りょうえ)(理解すること)ができませんでした。達磨も武帝ではまだ苟合(こうごう)(みだりに迎合すること)せず、また、かかる利益信仰の(やから)の下に、ことには帝者の俗権に苟合して在ることを快しとしなかったのでしょう。彼はそのまま飄然として江北に去り、嵩山(すうざん)の少林寺に籠ってしまいました」




 この問答は禅問答、公案の一番目にあるそうです。


 こういったご利益をありがたるのは別に昔に限った話でもなく、TVでもお寺や神社を紹介するときは、必ずと言っていいほどご利益を喧伝いたします。どうにも世情の人々はこのご利益がないとありがたみを感じない、たいしたものでもないと考えがちではありますが、達磨大師はそうではない、とおっしゃるわけです。


 仏教の本質は、禅にいたって究極に進化したと思うわけですが、禅では、


「即身成仏」


 と申します。


 つまり、身は、即ちにして仏と成る。


 何らかの超越的、超人的修行や学問、得度の果てに仏になるのではなく、自分は実は生まれた時から仏であったのだ。成長し、色んな区別がつくと共に、欲やら煩悩やらが肥大し、本来の仏の本性、仏性を覆い隠しているにすぎない、と悟ることこそが大切なのであります。とはいえ、ただぼんやりと生きておればそれでいいというのでもありませんが。


 そういう意味では、ご利益だの何だのが、どれほど仏教の本質から外れるものであるかよくわかるかと思いますが、残念ながら武帝はご利益信仰の権化のような人で、最後までそれは理解できなかった。


 とはいえ、この梁の武帝、


「皇帝天下を忘れ、天下皇帝を忘れる」


 といわれるほど仏教に帰依し、乞食に身を落としてまで修行に励んだ人物なので、その最後もまた、哀れと申しますかさすがと申しますか。詳しくは安岡先生の書「禅と陽明学」に詳しいので買って読んでください(笑)。


 ともかく、この達磨大師がインドから禅というものを中華に持ち込んだわけで、そこから禅は日本にやってくるわけです。




 p121


「我々はここに禅の精神が自ら無限の困難を冒して転迷開悟すること、その道を進むにあたっては、自己のあらゆる不純な精神を掃討して、真に不惜身命の覚悟より発すべきこと、いわゆる懸崖に撒手(さんしゅ)して絶後に蘇る覚悟を要するものなることを味識することができます。


 これ禅と武士的精神の深き契合あるゆえんでしょう。武士が白刃の下を潜り、矢石(しせき)の前に身を(さら)して、君のために、武のために、死して厭わざる覚悟はいかん。意気相許し、然諾相重んじて、去留を利禄に繋ざる襟懐(きんかい)はいかん。


 まさしく剣禅一如です。


 家康の臣下で百戦の場数を踏んできた剛の者・鈴木正三、後に僧となって正三老人と号し、禅を楽しんで多くの弟子をも薫陶した人ですが、弟子に向かって、


「洒落仏法、抜殻(ぬけがら)座禅は何の用にかならん。眼を据え、歯を嚙みしめ、果たし(まなこ)になって、群がる敵中に踊りこみ、敵の槍尖(やりさき)に突っ切ったる覚悟にて修行すべし」


 と禅の心要を説き聴かせました」




 日本人に広く浸透した仏教は、大雑把に言えば庶民向けと武士向けに別れました。庶民向けが浄土宗、浄土真宗でして、浄土宗とは、単純に言えば、念仏さえ唱えれば仏に成れる、という何とも簡単な教えでありまして、その簡単な教えのために広く民間に普及いたしたわけであります。


 大した学も無ければ、すごい修行に明け暮れるような覚悟も信念もない庶民にとってこの教えは実に都合が良かったわけです。南無阿弥陀仏、と唱えれば、「他方仏国土」という、どこの世界か次元かは存じませんが、とりあえずこの世界におわす仏様とはまったく関係のない世界からしゃしゃり出てきた阿弥陀様、という仏様が我々を救って下さる、という教えなわけです。


 庶民の如きは、そんなご都合主義の塊のような教えで満足できるのでしょうが、武士の方はそういうわけにはまいりませんでした。


 ひとつ前の大河ドラマの井伊直虎さんでも出てきましたが、まさしく、「懸崖に撒手(さんしゅ)して絶後に蘇る」という大決心の後に深く己を見つめなおし「眼を据え、歯を嚙みしめ、果たし(まなこ)になって、群がる敵中に踊りこみ、敵の槍尖(やりさき)に突っ切ったる覚悟」が必要であったわけです。


「懸崖に撒手(さんしゅ)して絶後に蘇る」とは、わずかに足を持ってもらう程度で断崖絶壁に身を乗り出し、命をすべて投げ捨てる覚悟と決心を要求される修行のやりかたなわけですね。


 そして、鈴木正三老人は、さすが戦国時代の武士だけあって、とんちを利かせた程度のダジャレ仏法や、魂のこもらぬ、蝉の脱け殻みたいな座禅でどうする。敵中に踊りこんで白刃のど真ん中に突っ込むくらいの覚悟で持って修行にあたれ。とおっしゃるわけです。


 武士は、剣の道に己を捧げるわけで、その剣の道を剣道、と申しましすが、とかく日本人はそこに技があったらそれを精神的なものに昇華せしめないと気がすまないわけです。外にも、柔道、合気道、書道、華道、茶道などありますが、これらはことのほか精神面を重視するわけでありまして、安岡先生いわく、ここまで何事につけ精神世界にまで至りたがる民族というのはないのだそうで、そういわれて見ますと、中華でも少林寺拳法とか武術なら道を極めた達人がおわすのでしょうし、書道でもその道の達人の話は伺いますが、さすがに茶道や華道などにおいて達人のお話はあまり伺った記憶がございません。まあ、あれだけ大きな歴史と人口をもつ国なのでどこぞにはおわすのやも知れませんが、少なくとも、茶道や華道、といった体系立ててはないはずでございます。


 ましてや、西洋において武士道と比せられる、騎士道のごときは鼻でせせら笑う程度のお粗末なものだったそうです。まあ、これも国情を考えれば当然なことで、日本人は何より恥をかくことを恐れましたし、卑怯者だとか不忠者といった行いをなにより恥じたわけで、皆が皆そのように行動をとれば、必然武士道も確立するわけでして、騎士道、といいながらその実は正反対のお寒い状態なのも、これも民族性の相違なわけでそういう点では欧米人を憐れむべきなのであります。


 余談ですが、だいぶ知られるようにはなりましたが、十九世紀のフランスのパリではお丸に用を足して、街中に糞尿をぶちまけていたわけで、日本人が想像するよりはるかに欧米というのは文化的に劣等な一面があるということを知ることも無益ではないはずです。そんなフランス人なので、いまだに水洗便所でも使用後に水を流す、という文化が定着しないようですね。そもそも、学校でも掃除などは掃除係員のすることで、生徒に掃除をさせるなどもってのほか! という考えなのだそうです。そりゃ、便所の水を流す文化も育たないわけですよ。


 それはともかく、日本人は常に、問題の根本を己においていたわけです。簡単にいうと、己を棚の上にあげなかった。


 すべて己の問題であり、己をどうするか、こそが大問題であった。


 だから自分が取り組むことにおいて、それが精神性にまで昇華するのもある意味当たり前なことなわけです。そういう意味で言えば、日本人が取り組むことにおいて精神性にまで至らないものはどうであろうか、と考えた方がいい、ということになりましょうか。


 己をどうするか、と、真剣に考えなければいけないのに、どうしてその大切な自分を、どこの馬の骨ともわからぬ想像上のキャラクターである阿弥陀様に預けることができるでしょう。


 いえ、他力本願を否定しているのではなく、最終局面においては他力本願にならざるを得ないわけです。どうしたって人間いつかは死にますし、死んだ後のことなど知ったことではありません。ならば、それから先は神様仏様にお任せいたします、となるわけですが、とはいえ、初っ端から自分をほったらかしにしてどうする。と、言いたいわけです。


 そして、武士というのは徹頭徹尾、その己を完璧にしないと気がすまなかった。


 その武士の中でもわたしが大好きな武士が山岡鉄舟さんです。


 山岡鉄舟さんは鬼鉄というあだ名があったほどの剣聖にして、禅でも大悟徹底、書でも大成されたほどの幕末三舟の偉人です。

 

 この前の大河ドラマでも出てこられまして、MHKの扱いには唖然とさせられましたが、そもそも江戸城無血開城を成し遂げたのはこの山岡鉄舟さんなわけです。


 だいたい、あのドラマではちょい役で終わってますけど、って主役が主役ですから仕方ないことかもですけど、官軍である西郷隆盛の陣営にのこのこでかけるだけでも豪胆なお話なら、西郷さんの切り出した条件である、


江戸城を明け渡す。

城中の兵を向島に移す。

兵器をすべて差し出す。

軍艦をすべて引き渡す。

将軍慶喜は備前藩にあずける。


 のうち、慶喜公の身柄の安全は絶対に保たれなければならない。とつっぱねた訳です。そこで、西郷さんも命令である、とすごむのですが、鉄舟さんは、反対の立場になった時、島津公がこのような状況下に陥ったならば、家臣の心中としてそんなことが承服できるのか、と切り替えされ、さすがに西郷さんももっともなことである、と慶喜公の身柄の安全は確約されたわけです。


 あのMHKでは確かそんなことは一切約束されることなく、ほとんど単騎で西郷さんが江戸城に乗り込んでいってますが、開城に関して何らの確約もなしに、敵の総大将がのこのこ敵の本丸に乗り込む、何てことが常識的に出来うるでしょうか。


 そして、ほとんど単騎で江戸城に乗り込んで勝海舟さんと談判に及んでますけど、恐らくですけど、その前に幕府側の武士に切り殺されてますよねぇ。幕末の武士がどれほどの殺人マシーンだったか。ましてやその西郷さんもど真ん中で倒幕やってたお人ですから、分からないわけが無いですよね。いくら平和ボケした平成とはいえ、ちょっと考えれば分かりそうなもんですけどね。


 まあ、それはともかくとしまして、当初は新撰組の前身団体である虎尾の会、浪士組を結成するなど佐幕派として行動なさるわけですが、自身は結局、ただの一人も殺さなかったそうです。


 そして、明治に時代が移り変わるも、むしろ、敵側ともいえる薩長組が醜い政争に明け暮れる中、しょうもない人間が出仕を要請してもいっさい肯んぜず、終始お金にも出世にも血眼になることの無い恬淡とした生活を送られ、多くの人々に敬われたそうです。


 そんなお人だからこそ、西郷さんのお言葉である、「南洲翁遺訓」では、




「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬ」




 己の命も、名誉も、出世も財もいらぬ。


 こんな人はまことにどうにも動かしようもないから始末に困る。しかし、こういう人でなければ苦労を共にしての国家の大事業は成し遂げられないのである。


 だが、悲しいかな、凡眼にはこういう人はわからん。


 と申されたそう。


 結局、明治新政府の凡骨には、西郷さんも、鉄舟さんの偉大さもさっぱりわからず、あのような次第と成り果てたのであります。


 尊欧卑亜に染まった凡骨によって、どれほど東洋の美が潰されたか、東洋の精神が死んだか、新時代になったというのに、政府に対して反旗をひるがえさなければならなかった西郷さんや色んな方々の胸中を思うと、暗澹たる気持ちにならざるをえないのであります。


 書をものすごくすっ飛ばし、しかも安岡先生のお言葉を伺うだけではありますが、少しはわたしも語り得たので、


 日本って? (二)はこれまで。


 したらば。


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