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悟りって?



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて、久しぶりに語りたくなりまして、今回語ってみたいのは、ずばり「悟り」 



 未だ大悟徹底もしていないわたしが悟りなんてものを語るのは傲岸不遜なる次第ではございますが、しかし、仏者のみが悟りを会得するにはあらず。『弓と禅』の著者である新カント学派のヘリゲル先生は弓道の修養を通じて悟りを開かれたわけで、各人各様の悟りというものがある。なので、老荘思想家のおっさんならではの「悟り」というものもあるのでございます。



 今からおおよそ2500年ほど前に、クシャトリア階級でシャーキヤ国、釈迦国の王子、ゴータマ・シッダールタが人類史上、初めて「悟り」に至り人類初めての覚者、ブッダになったとされます。それから2500年の間に数多の人々が悟りを開かれた。昨今で言えば、スピリチュアル系のようつべあー( )(ユーチューバー)さんによれば、美輪明宏さんが「悟り」に至った人なのだとか。確かに、そう言われてみればそうなのでしょう。


 現代社会においても、悟りに至った人というのは確かにおわすであろうわけです。また、「悟り」というものをよく知らぬ人からしても、悟りというのはなにやら特別な、一段突き抜けた優れたものだと思われています。にも関わらず、それでも「悟り」というものは世にいまいち明らかにはされていない気がします。また、ようつべでも、今時はどうしたら痩せるかとか、どうすれば効率的に筋肉をつけるかとか健康になるかとか、各種様々な専門家によるハウツーものの動画もありますし、ある意味当然、仏教系の動画では仏者が「悟り」を語られるのですが、しかし、その中身は仕方がないとは言えシステム的な解説のお話が多く、こうすれば悟りを得られる、というお話はあっても、それでも一般的な理解には至っていないような気が致します。


 2500年前に「悟り」が人類に認識され、多くの仏者や、日本では剣術家だって悟りを開いているにも関わらず、どうして現代社会ではさほど「悟り」は普及していないのか。そういったところを今回、老荘思想家のおっさんなりに語ってみたいと思います。


 老荘思想家のおっさんは語るます(アーニャ風)。



 とは申せ。悟りを語るまえに、いくつかの準備段階的なことを語っておきたいと思います。


 以前にも語ったものではありますが、世にあまり明らかになっていないものの一つに「信仰心」というものがあります。人類史と信仰は切っても切れない関係にあるにも関わらず、現代に至ってもこの「信仰心」というのはふわっとした理解にとどまっているように思われますので、そういう迷惑を少し晴らしておきたいと思います。


「信仰心」とは「向上心」であります。



「神様、仏様、わたしもいつか皆様のような立派な人間になりますから、ですからどうかわたしをお守りください」



 これが信仰心です。


 古来、人々が火山や雷など、自然災害を恐れそれを崇めたのも、偉大な大自然に対する尊敬からです。区々たる我が身ではありますがいずれはわたしもそのような偉大なる存在になりたいと思います。ですので神様、災害を起こさず、恵みをもたらしてください。あなたのような偉大な存在を目指すわたしを哀れんでくださるのなら、お慈悲を。と祈るわけですね。


 このことを古人が詩という形にして残されており、それが、




【心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん】




 に見ることができると思っております。もっとも、これを残したとされる藤原道真公は人の手によって排斥されてしまったわけですが。


 心が誠の道に叶う。正しく日々を生き、堕落しないし悪意に心を染めない。そういう日々を生きておればことさら神様に祈らなくても、神様は我が身をお守りくださるであろう、というまさしく向上心を言っているわけです。他にも古くから西欧でよく似た言葉があり、




【天は自らを助くる者を助く】




 と申すようです。


 逆に言えば、向上しないものを天が助けるはずがない。実に平易です。大昔からすでに信仰心は明らかにされているにもかかわらず、現代は「信仰心」というのを勘違いしていると思う。信仰を、



「神でも仏でもデウスでもなんでもいいからとっとと俺を助けろよ」



 と思っている人が多いのではありますまいか。こういうのを「依頼心」といい、「向上心」とは全然違うものであります。自分はほとんど何もせず、他者の力をあてにする。特に、下手くそなイデオロギーが流行りだしてからこの「依頼心」が激増しておるようで、自分を変革するよりも他者を変革しようとするよこしまな思考が瀰漫(びまん)しておるようです。自分の現在の境涯を因果応報と見ず、他者による責任に帰し他者を打倒することによって状況を打破しようとするものが多くなっている。たとえば、「男尊女卑だ!」と叫びながら一生懸命女尊男卑な社会を作ろうとしている連中とか。とんでもない謬見であります。


 ちなみに、「悪人正機」を唱えた親鸞聖人。



【善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや】



 これをとらえたその当時の庶民は、【悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや】といい特に、悪人が往生するという部分を拡大解釈し、どんな悪事をなそうとも阿弥陀様が救ってくださるのなら大変結構、どんどん悪事を犯そう、という思考に染まったそうで親鸞自身嘆いていますし、そのことで親鸞は、【他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり】自力を尽くしたところで悟りになんて至れないのだから、自分の真心をすべて阿弥陀様に投げ出すことによって、初めて阿弥陀様は救ってくださるのだ、と説いています。


 他力をたのみたてまつる、自分の本性だの性格だのをすべて自覚した上でまるっと阿弥陀様にお見せする、ということですから実は、これは相当大変です。そこにはある一定以上の向上心がないといけません。自分はどんな悪事をしたとかどういう性格をしているとか、どんな癖があってどういう好き嫌いがあってどういう性癖があってどんな倫理観をしていて……、と、自分の性格、人間性、そういう自分の内面を余すことなく徹見し、それらをすべて阿弥陀様にお捧げし審判を待つ、まな板の上の鯉の気持ちになるという、相当大変な心変わりを強いられます。


 そういう虚心坦懐な、素直な心を悪人が取り戻すことができて、それでようやく阿弥陀様が救ってくださるわけですから、そりゃそこまで自身を悔いて、悔悛できたら立派なものです。しかし、そんな素直な心を、そうそう普通の人間がもてるはずがない。だから、自分に都合のよい部分だけを抜き出して、「悪人まで救ってくださるのだからありがいこっちゃ。どしどし悪事を働くべ」となるのもむべなるかな。


 実は仏教というのは常にこういう「依頼心」に汚染される恐れのあるものなのです。なぜって、親鸞が相手にしているのはまるっきり空想のキャラ「阿弥陀様」です。wikiを見てみるとよいです。阿弥陀様は、「西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持ち」というお方なわけで、つまり、どこかは知らんけどどっか西の方のなんかすごいところのえらいさん。と言っているのですから適当です。ラノベに出てくる神様と大差ありません。こんないい加減な設定の仏様を(らっ)してきてわざわざ依頼心を増長させるようなことをいうのですから親鸞も罪づくりなことをしたものであります。


 そして、こんなことは大昔からあった。お釈迦様寂滅後、500年ほどして大乗経典を制作するのがブームになったそうで、つまりは、なろうブームがインドに起こったわけです。これこそがお釈迦様がおっしゃったありがたい教えじゃ! いやいやわしの知っているこの経典こそが真の教えじゃ! なんてことをやりまくっていたのですから、インドで仏教が滅びたのもまさしくインガオホー。


 とはいえ、大乗経典を創作するブームが起こったのはおおよそ2000年前とされ、当然親鸞がそんなこと知るはずもなく、親鸞自身は大真面目に阿弥陀様に自分の人間性をまるっと丸ごとお捧げしたのでありましょう。ですが。自分がそれをできるからと言ってみんなもできると思うのは、申し訳ないですが傲慢、暴論と言わねばなりません。多くの人間はむしろ、てめえに都合の良いように受け取るもの。人は自分の信じたいものだけを信じる生き物です。


 万人を救済したいと本当に思うのならばもう少し慎重な物言いをせねばならなかったでしょう。まあ、親鸞聖人へのいちゃもんはこれくらいにしまして、他にも、神社や仏閣に詣でる時も、気にするのは「ご利益」


「ご利益」を得るために神様や仏様にすがる。金運とか仕事運とか恋愛運とか、そういう利益ばかりを重視する。「俺を救ってくれよ」とすがりつく。


 そもそも、そこにおわすのは自分よりはるかに長い年月を経られた大先輩であり、はるかに魂の成長した大先覚であるという理解はあるだろうか。まずもって自身の「向上心」を示そうと考える人がどれほどいるであろうか。


 誠の道に叶えば、祈らずとても神様は守ってくださるのであり、逆にいえば、誠の道に叶ってもいないのに、「どの面下げて」神様や仏様の面前で己の欲望を垂れ流しているのであろうか。自分がすがりつかれる立場であると考えたらどう思うか。自分ではなんにもしない怠け者が急にやってきて、金を貸して俺を助けてくれよ、などと言われて、じゃあ貸してやろうなどと思える人間が何人いると思えるのか。考えれば分かるはずですが、しかしそんな想像なんてしない。そうではなく、少しは立派に成長した自分を神様や仏様に見ていただいて、お褒めいただきたい、くらいの気持ちでお参りすればよいのです。



 では、次に「悟り」を理解するための準備運動のその二。


 

 何のためにこうして日々生きているのか。


 そこのところも多くの人が迷惑の最中かと存じます。人の身として生を受け、何のために生きるのか、何を目的として生きるのか。これが闇夜の中では舳先をどこに向ければよいかまったく分かりません。とはいえ、これは昔から多くの人にとっての悩みどころなわけで、仏教でも「無明」といいます。


 無明。明かり無し。暗闇の中をさまよい歩き、だから人生を間違え、道を踏み誤る。大昔から今に至るも、多くの人が無明にある。嘘をついても、相手を騙してでもいいから自分が好い目をみればれば良い、などと考えるのは無明の最たるものですね。


 もし。何のために自分は生きておるのか。何のためにこうして日々人間を生きているのか。という問いに対する回答として、神や仏になるために今を生きておるのだ、とひとつ指針を決めればあとは自ずとその後も決まってくる。


 この大目標を果たすために、だったら、何をしなければならないか。何をしてはいけないか。


 したいことは何か。したくないことは何か。


 出来ることは何か。出来ないことは何か。


 こういうことを毎日毎日考えればよい。毎日毎日考えて、それが間違いでも良い。間違いだと分かったのなら次は間違えねばよいだけの話。毎日毎日考えて、自分の迂愚さ、迂闊さを知ればよい。自分が愚かであると分かったのなら明日は少しでも賢くなろうと本でも読めばいいだけの話。毎日毎日考えて、自身の矮小さを知れば良い。自身が矮小で取るに足らんものであることが分かったのなら、自分以外のいろんなものが偉大に思えるでしょう。



「悟り」とは、何かでかいこと、偉大なことだと思っているのならそれは勘違いだと思います。そうではなく、あくびの出そうな退屈な平々凡々たる日常にこそ悟りはある、と思う。


 別に大きな仕事を成功させる必要はないし、博士号だの修士号だのノーベル賞だのを取らねばなれぬものでもない。大きな作戦で敵を大敗させる必要もないし、他者を圧倒する巨万の富を築かねば至れぬものでもない。


 この、平々凡々たる日常を、それでも色んな出来事の色んな物事に気がついて、理解できて、その小さな積み重ねを少しづつ少しづつ自身の血に肉に、骨に出来たその先に、「悟り」はある、と思う。



 と。ひとつの結論に至ったところで、わたしの近況を語りたいと思います。



 大悟徹底はまだまだですが、ちょいと前にわたしも小悟致しました。-人- 小悟とは、文字通り大きく悟るほどではないにせよ、少し悟った、ということ。


 わたしは今、テレフォンオペレータの仕事をやらさせてもらってます。電話で商品の説明をしたり案内したりする仕事です。多くの人が携わる仕事で何があって小悟したのか、その経験を少し開陳しますと。


 恥ずかしながら、わたしはしゃべる仕事をしておるくせに滑舌は悪いし、セリフはカミカミだしそのくせ早口でしゃべり、気の利いたことも話せずお客様によく迷惑をかけております。コミュ障なので大変ですがこれも修行と覚悟し、だから心を込めてご案内することを心がけておるのですが、ある時、分かったのです。わたしがこうして、たった一時でも、電話越しであろうともお客様に真心でご案内することによって、少なくとも、お客様にとっては悪い時間にはならなかったと思います。ちょいちょい感謝を頂きます。オペレータは笑うな、と上司に注意されておりますがそれでも仕事中よくお客様と一緒に笑っておりますし、同僚には楽しそうに仕事するね、と言われますね。楽しくなくて何が仕事か、と思っております。


 これは妄想ですが、わたしが真心で接することによってその人は、その後少しは他の人にも真心をもって接することが出来るのではないかと思うのです。わたしが起こした小さな流れは、その後にもより良い流れになるであろう、と考えられるのです。そう思った時に、少し、分かった。わたしは、大きな、この世の巨大な流れからすれば一滴のしずくに過ぎないが、それでも、良い流れを起こすことができる。世に対して、少しはより良く働くことが出来るのです。


 一滴の区々たる存在でしかないが、それでも「流れ」を作ることができる。


 この世界でたった一部分に過ぎなかったわたしは、より良く全体に働きかけることによって、全体と同調することが出来る。全体と冥合、溶け合うことが出来る。一人で生きているときには本当に一人でしかなかったけれど、仕事を通じてなら、この世と一体になることが出来る。わたしは、全体に対する「一部分」に過ぎないが、でもやはり同時に「全体」であるとも言える。


 これがわたしの小悟です。


 そして、これが十代にもなっていないエルリック兄弟が理解した「一は全・全は一」であると言ってよいでしょう。「鋼の錬金術師」のなかでエドは、



「目に見えない大きな流れ――――


 それを「世界」と言うのか、「宇宙」と言うのか、わかんないけど、


 オレもアルもその大きな流れの中のほんの小さなひとつ。全の中の一。だけど、その一が集まって全が存在する」



 と言っています。十代にもなっていないエルリック兄弟が理解したことを、そろそろ50の齢が見えてくるおっさんの身で分かったわけで実に大したことはないのですが、それでもそれを理解出来た時は嬉しかったですね。ちなみに、そこに送られたら必ず死ぬという僻地、龍場に左遷させられた王陽明先生が大悟徹底した時には、手の舞い足の踏む所を知らず、というくらい狂喜乱舞したといいますし、それを見た弟子たちは、ついに狂ったか!? と、恐怖のズンドコに陥ったといいますから、大悟徹底はまだまだ遠いですね。


 でもまあ、そう考えますと、エルリック兄弟が「一は全・全は一」をあの若さで理解したことによって決して悪の道に足を踏み入れなかったのもうなずけます。それは決して、主人公だから、という理由だけにあらず。少年漫画でも悪事に手を染める主人公はいますが、エルリック兄弟が常に正しいことを行ったのはこの理解があったからに相違ありません。この世の真理を少しでも理解できたものが、悪事を行うはずがない。


 別の言い方をすれば、悪人が真理を悟れるはずがない。


 むかし、林修先生がおっしゃってました。「姿勢の良い不良はいない」これが本質でありましょう。



 では次に、「悟り」の学問をしたいと思います。人間はまったく何もわからない段階を「無明」と言いますが、これは仏教では十二因縁に配されております。「無明、行、識、名色(みょうしき)六入(ろくにゅう)、触、受、愛、(しゅ)()、生、老死」というもの。人間はこういう段階を経る、という教えです。これを学んでみたいと思います。ここは例によって例のごとく安岡先生に参じ、教えを請いたいと思いますが、今回教えを受けるのは『禅と陽明学<上>』 プレジデント社 から見てみましょう。




「人間の根本に無明、すなわち盲目的意志、ひたすら生きようとする意志がある。


 もっと人間を離れて根本的に申しますと、人間の理性だの感性だのというものを超越した、わからない働きがある。これが無明、これが人間に発動して今のような盲目的意志になる。


 無明というのはそういう人間の盲目的意志というようなものよりももっと深くて広い意味です。これは単なる観念ではなく、働きであり、活動である。無明はそく「行」である。これがいろいろに現れて人間の行動生活になる。これを「行」という。


 これは同時に、単なる働きではなくて、そこに知覚を持っている。それが「識」である。


 物を知るというような単なる知性の働きということではありません。もっと根本の知覚あるいは統覚の働きです。無明は行であると同時に、それは覚、つまり知覚、統覚といったような、いわば心といったようなものを持っている。


 そしてこれが我々の実存をつくる。形だの色だの香りだの味だのといったような、そういった実存世界をつくるのである。その実存を「名色(みょうしき)」という。無明は行であり、その行は同時に識である。知覚統覚作用を含んでいるものであり、それが実存をつくる。


 そうしてこの働きが実存に伴って我々のいろいろな器官、感官をつくる。この代表的なものをとって、眼すなわち視覚、耳すなわち聴覚、鼻すなわち嗅覚、舌すなわち味覚、身体すなわち触覚、それからいろいろそれに伴う意識、眼、耳、鼻、舌、意の「六入(ろくにゅう)」、つまり我々の感覚器官、感覚体というものをつくる。


 無明、行、識、名色、六入、そこに経験というものが始まる。これを「触」という。つまりいろいろの経験が始まる。


 ところが人間の眼も耳も、あるいは鼻も舌も身体、眼、耳、鼻、舌、身、意、そういうものの経験作用というものは決して無限ではない。必ずそこに限度がある。限定がある。他動物に比べると人間は特にその範囲が狭い。犬が見るだけの、見えるだけの視覚を持っていない。オットセイほどの嗅覚を持っていない。触覚にせよ何覚にせよ、識域というもの、つまり範囲がある。一定限度しか受け取ることができない。これはいくら視界が続いていても、いくら音が出ていても、いくら味があっても、ある範囲しか受け取ることができない。これを「受」という。つまり人間が受け取る感覚です。


 そういう経験から感覚を生ずると、それに感情が加わる。これを「愛」という。


 そしてこういう感覚を受け取って、それに感情が伴ってくると、それに対する欲求というものが生ずる。これすなわち意欲。これが「(しゅ)」である。これは実存といった方がいいだろう。


 無明、行、識、受、愛、取、ここに有漏(うろ)とか有情(うじょう)とかいう「()」、すなわち実存という我々の実世界、実存在が開けてくる。そうしてこれに人生というものが営まれる。そうして年をとったり死んだりする。すなわち「老」「死」。そうしてまた無明に帰する。


 これが輪廻する。これがいわゆる「十二因縁」という仏教の根本思想の一つであります。


 これを人生に照らして、こういう因縁によって実人生というものは限りなき苦の世界であると観ずる。すなわち「苦諦(くたい)」。そういうものの諸々の結集から生を観ずる、これが「集諦(じったい)」である。そういうものをいかに滅するか、解脱するかというものが「滅諦(めったい)」。それにはこうしなければならないという真理実践の考察が「道諦(どうたい)」で、苦諦、集諦、滅諦、道諦、と四つあるから四諦(したい)という」




 これが人の生であります。では、次にどのように修行すべきか。これを見てみたいと思います。禅の始祖とされる達磨大師が示した教えを「二入四行」といいます。理入、知識や学問を通じて修行を行う理入。行入、ひたすら実践し、実行する行入。そして、その修業である、報冤行(ほうえんぎょう)随縁行(ずいえんぎょう)無所求行(むしょぐぎょう)称法行(しょうほうぎょう)これを教えていただきましょう。




「二入四行の文献に出ている「これ即ち理と冥符し、分別有る無し」という一句によく現れている。真理と冥符、つまり冥々の間に、すなわち超意識的、あるいは無意識的に符節を合するようにぴったりと一つになる。そこに分かちがない。自分と真理がぴったり一つになってゆく。そこに主観とか客観とか、自己と真理といったような分別がない。そういうふうに行くのが本当の宗教である、道である。したがってそれは実践である。観念の遊技あるいは欲望の満足などというものではなくて、着実な実践である。


 その実践の第一は「報冤行(ほうえんぎょう)」というものである。

 

 冤という字は「恨みつらみ」という文字、兎に網をかぶせる、生命の躍動を抑えるという文字である。報という字は十如是にある如是因、如是果、如是報の報で、一つの作用に対する反作用あるいは循環である。したがって報冤とは、いろいろの恨みつらみの起こってくる本に返ってやり直すという意味である。


 我々は枝葉末節に走れば走るほど、いろいろの問題が起こる。恨みつらみが盛んになる。そういうつまらない枝葉末節に走らないで、根本に立ち返って、つまり出直して、くだらない生活の屑のような問題、こせこせとした他愛もない人間の煩悩、そういうものを追わないで、そういうものに捉われないで、思い切ってそういうものを振り捨てて、人間としての根本問題に返る、これが第一。これができなければ道に進むことはできない。これが報冤行である。


 その次に「随縁行(ずいえんぎょう)」、縁に従って行ずる、人間はいくら理想をもって実践に励もうと思っても、手がかりがなければ観念の遊戯、煩悩になってしまう。手がかりというものがすなわち縁である。いかなる因も、因からそのまま果にはならない。因果と言うけれども、因から一足飛びに果にはならない。因には何かそこに手がかりがあって、そこから果が生まれてくる。これを縁という。


 すなわち縁から起こる、縁起である。因果は言い換えれば縁起である。だから十如是も如是因、如是果の間に如是縁というものをおいてある。それが如是報というものになる。


 因果は限りないけれども、すべてこれは縁から起こってくる。そこでどういう縁を持つかということが一番大事である。そこで縁という字を日本語に訳す時には「()る」と読む。いろいろの問題が起こってくるのは、限りない要素であるところの因が、何かを手がかりにして、そこから起こってきて限りない果を生む。それがいろいろの反動を生んでくる。すなわち報になってくる。これは面白いですね。


 因果ということは、これがだんだん普及していくうちに悪い方の意味に「何の因果でこんな目に遭う」なんて、もっぱら使われておりますね。因果というものは悪いものばかりではない。善いことも因果なんですが、人間は善いことはあまり感じない。虫がいいといいますか、悪いことはよく覚えている、深刻に感ずる。だから人から恵まれたこと、好遇されたことは忘れやすいもので、いじめられたこととか何かはよく覚えている。善というものに対しては案外関心が薄い。悪というものに対しては非常に感じが強い。


 ポール・ヴァレリー(フランスの詩人 1871~1945)が言っていることに、「人々は、朝起きて新聞を見て何か非常に悪いことでもないと、今日は何もないと文句を言う」という名高い話があるが、そういう妙な人間の心理的な事実で、後世「因果」ということを悪い意味にもっぱら使うようになってきた。その反対に面白いのは、「果報」ということになると、これは悪いものも入っているわけですが、「果報」というと善いことに使うようですね。妙に長い間の慣習的な用い方である。


 因果も果報も縁から起こる。そこで人間の大事なことは縁から起こるのだから、縁から起こすこと、これが我々の実践実行の大事な問題、それをつまり随縁というわけだ。縁起イコール随縁行。客観的にいえば縁起である。これを主観的・意志的・実践的にいえば随縁行である。縁に(したが)ってやっていく。


 だから例えば人を愛する、人に尽くす、人を助けるということは、我々の道徳上のもっとも本質的な問題である。しかし人類の幸福のために、世界の平和のためにやるのだ、などというのは、これは景気がいい。聞いていて盛んだけれども、これは事実においては空虚であります。


 そんな世界だとか人類だとかいうものは、たいてい人間の概念もしくは気分であって、事実上の縁起にならない。我々が本当の人類のためだとか、世界のためというような感じは、直接人間の接触面から始めなければならない。それは何だといえば家族である、親族である、朋友である、隣人である。あるいは職場である。そこからやってゆかねば具体的事実ではない。


 これは真理でありますから、何の教えでもそうである。キリスト教をとってみても、パウロが「目の当たりの汝の兄弟を愛することのできない者が、どうして目に見えない相手を愛することができるか。人間は常に目の当たりの兄弟から愛さなければならない」ということを言っている。これは当たり前のことで、これが随縁行である。随縁行のできない人間に限って、跳び越えた大言壮語をやる。


 禅の修行、禅の問答などというものは、何か普通の人間が思いも及ばぬような飛び離れた奇矯なことのように考える傾向があるが、これは後世の禅が生んだ一つの余弊である。そんなものではなくて、達磨禅、禅の本来は非常に着実なものである。


 まず第一に、つべこべ泣き言、繰り言を言わない。そういうことは綺麗さっぱりと捨てて、人間の大事な根本問題、本質の問題に立ち返る。そうして自分の縁から始め、手がかりをつかんで、そこからやってゆく。跳び越えたことはやらない。気分や観念に浮かされたことはいけない。すなわち随縁行である。


 第三に、人間には欲というものがあり、欲に望むという字がついて欲望、すなわち欲というものからいろいろなものを望む、欲しがる、それが欲のためにだんだん貪る、貪欲になる。そこで求という字は、欲から生ずる「求む」という意味と同時に、「むさぼる」という意味を持つ。


 我々は報冤、随縁と同時に、我々に抜き難い欲から起こるところのむさぼり、貪欲、それをなくして道に(したが)い、真理に随って行ずるのでありますから、我々の個人的な欲望、感情から生ずるところのいろいろな貪欲、そういうものを捨てて、ひたすら根本に立ち返って報冤、道に随って真理に随って無心になって行じていく。これが「無所求行(むしょぐぎょう)」である。


 これをだんだん修練してゆけば次第に理と冥符し、道と合致する。すなわち真理、道そのものになる。これを法という。法のまにまにという意味でこれを「称法行(しょうほうぎょう)」という。この四つに帰着させることができる。


 その「理」から入るのと「行」から入るのと、どっちから入っても同じになる。理から入っていっても身体で普及して道と冥符する。真理と合体する。実践から、日常の行から入っていって称法行に入る。理と行とそこで一つになる。だから二入四行というけれども、それは差別観に即しているのであって、そっちから入っていっても結局は同じこと、一に帰する。これが達磨の本当の教えであります」




 こういう学問をちゃんと行うのが「理入」なわけですね。理でも行でもどちらでもいい、どれから始めてもよいが、しかし、どちらが欠けるということはいけない。論語でも、




【学びて思わざれば則ち(くら)し、思いて学ばざれば則ち(あやう)し】 




 と孔子様はおっしゃっておいでです。思う、とは日常生活上の実践のことと考えてよいでしょう。学んだことを日常生活で活かすのが大切。また、日常生活を正しくするためには学問がなければいけない。両輪あって正しく生きられる。こういうのが学問であります。


 また、戦国末期で徳川家に使えた武士である鈴木正三(しょうさん)(1579~1655)のちに僧となって正三老人と号し、多くの弟子を教えた正三老人はこういうことを申されています。




【洒落仏法、抜け殻座禅は何の用にかならん。眼を据え、歯を噛み締め、果たし(まなこ)になって、群がる敵中に躍り込み、敵の槍先に突き立ったる覚悟にて修行すべし】




 禅はなにやら知的な香りがしてオサレな感じですが、しかし、遊びではないのであります。


 まあそれはともかく、さて、「悟り」というものが良いものであることは万人が認めるものでありましょうが、ではどうして未だに世に「悟り」はそこまで明らかではないか。これを見てみたいと思います。そしてそれは、どうしたら悟れるか、ではなく、どうして悟りを開けないか、から見たほうが悟りを理解できるのではないか、と思う次第で、ここからが今回のわたしの語りたいところ。


 

 では、現代に至るも、多くの人はどうして悟りに至れないか。


 簡単です。


 そもそも、多くの人が悟りなんて至りたくないからです。


 悟りとはもはや輪廻転生しなくともよい段階。人生という修行の最終地点。煩悩だの、業だの、怒りだの嫉妬だの執着だのそういう心の汚れをも清めて到れる境地です。観鈴ちんの言う「ゴール」です。


 そして実は、多くの人はゴールなんてしたくないんです。


 多くの人は、人生を楽しみたいと思っているわけです。人生を楽しむために生まれてきていると思っているのです。ましてや、娯楽や旅行、観光などが整備されまくった現代社会、人生を楽しまない、というのはある種の自分に対する冒涜である、と思っている人も少なくはないでしょう。


 お金持ちになりたい。出世したい。権力を握りたい。有名になりたい。ちやほやされたい。美味しいものが食べたい。よい異性にめぐり逢いたい。いいものを着たい。いいものを持ちたい。いい家に住みたい。


 これら、この世にある様々なものを楽しむために今を生きていると思っているのです。だから、一人でいることは孤独であり、一人はつまらない、と思っている。外に出て恋愛しよう、色んな人と楽しくおしゃべりしようと思っているのです。


 だから、悟りに至る、なんてまったく思考の埒外(らちがい)


 まあ、百歩譲って、悟りに至るのも良いでしょうが、それは人生の旨味のことごとくを味わい尽くした、その先の先の先にあるものであって、今ではない。と思っている。だから、そのための修行とか、修養とか、学問とかに時間を費やすなど、人生の無駄遣いでしかないと思っている。

 

 それよりもこの厳しい人間社会を生き抜くためのスキル、資格を持たねばならないし、学歴は当然必要だし、株やデイトレード、外貨預金や電子マネーなども検討すべきだし、様々な困難や苦労を切り抜けるために有益な友達が必要だし、人生を彩りよくするためのパートナーが必要だし、そのための生活空間を確保せねばならないと思っている。


 考えるべき、行動すべきは「今」であって「その先」なんかじゃあない。


 大昔から、天国や地獄を語るものは多い。ちょいと前も「あんた地獄に落ちるわよ!」と言っていたオバハンは、今や地獄に近いところにおるそうな。現代でも、人は手軽に地獄を語る。しかし、人類史において、天国や地獄を証明してみせたものは皆無です。


 だから、多くの人は、天国だの地獄だの言われても信じていない。


 死後に安寧があるなんて誰も信じていないんです。だから、現実に固執するのです。今しかないんです。自分の目で見えるもの、自分の手で触れるもの、味わえるもの、理解できるものしか信じられないんです。今が幸せじゃないと、それ以降がどうなるかなんてまったく分からないんです。


 自分が死んだらどうなるか、なんてクソ真面目に考えてられないわけです。


 ましてや、今申しましたように、「悟り」とは人生の最終段階、ゴール地点であって、長い長い人生において、経るべき輪廻転生で行うべき修行は悟りだけというわけでもない。


 人によっては家族であったり、恋人であったり、友達であったり、仕事であったり趣味であったり、様々な人生の膨大な出来事からなる経験や体験が重要な修行なのであって、すべての人間が最終段階である悟りに到れるほど修行が完成しているわけでもない。金儲けをやるだけやってそこから得る経験も大事な修行なのであり、恋愛もやるだけやってそこから得る経験も大事な修行。


 老荘思想家を標榜するわたしみたいな生き物は悟りを目指せばよいでしょうが、すべての人間が一斉に悟りを目指したらむしろ大変ですね。一気に文明が江戸時代まで退化してしまいます。長い長い人生において「悟り」は大切な修行には相違ないが、だからといって手放しに目指すものでもない。


 これが、2500年前にお釈迦様によって「悟り」が明らかにされていながら、それでも多くの人にとってそれでも悟りが縁遠いものであることの理由です。そして、「悟り」に至るほどの人はそういうことが分かっていたから、


 you悟っちゃいなよ。


 とは言わなかったわけですね。



 そして、結論として。


「悟り」とは何かと申しますと、


「悟り」とは「理解」なのだな、と思うのです。いや、そもそも悟りは理解だろ、と思うでしょうが、それでも、改めてそう思うのです。


 悟りは、理解です。色んな、大小様々なこの世の事柄を分かってゆく、のが悟りなのだと思うのです。


 例えば、多くの人は人を殺したりしませんが、それでも殺人事件がなくならない理由は、それこそ簡単です。人を殺せばどうなるか、分からない人間がいるからです。


 因果応報、などと言われてそれを本当に理解できるくらい学問がある人間が、そもそも人殺しなんてするはずもない。わからないから人はなんだってやる。


 今の日本人は資本主義こそが正しい社会だと思っている。そして、争いは何も産まない、などと綺麗事は言うが、こと商売においては何をやってもよいと思っている。他者を出し抜こうが騙そうが、騙されたやつが悪い、情弱が悪い、と思っている。脱税しようがそれはマネーロンダリングという手法であり、出来ることをやって何が悪いか、と思っている。「お金儲けして何が悪いんですか?」と本気で言える。


 また、世界にはいまだに共産国家がある。共産党もある。


 共産主義者が何人人を殺したか。一説には文化大革命で一億人が殺されたそうですが、それでも共産主義は良いものだと本気で思っている。問題視すべきは問題を起こした人間であって、共産思考そのものは実に優れた思考だと本気で思っている。


 多くの人は占いとか霊媒師とか、そういうよくわからんものは結構鵜呑みにする癖に、論語や般若心経や正しい学問などまったくなくても何の問題もないと思っている。


 こうして世を見回すと、そういう諸々がわかっている人がどれほどいるか。理解がないから毎日毎日争っている。始終いがみ合っている。


 ですが。昔の人は本当に分かっていた。

 

 藩政改革を成し遂げた山田方谷先生や、恩田木工民親(たくみたみちか)公。藩政改革を成し遂げるためにお二人がまず決意をしたのは、



「嘘をつかない」



 という決意であった。


 民衆にとって、平気で嘘をつく信用のならない為政者と、絶対に嘘はつかない為政者と、どっちが頼りになるか。このことを「分かって」いたお二人は、藩政改革の始まりに「嘘をつかない」という決意を周囲に打ち明けたわけです。そしてこれは、孔子様のおっしゃる、




【民はこれを由らしむべし。知らしむべからず】




 の教えをまっすぐに行うものなのです。このお二人に並び立つ政治家は、現代で言えば世界一貧乏な大統領として著名なホセ・ムヒカくらいでしょうか。とはいえ、大麻を合法化したりと賛否もあったようですが。


 また、剣に一生を捧げた宮本武蔵が、剣の道に生きるものの心構えとして『独行道』という書を残しましたが最初の一条は、




【世々の道に背くことなし】




 です。西郷隆盛公の残した言葉、『南洲翁遺訓』では、




【作略を以てやりたる事は、その跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也】




 と申された。でも西郷さんも若い頃は倒幕のため策謀も働かれたと聞いたことがありますので、いろいろ悔いあって二度と策略はしないと決意されたのかも知れません。


 古人は真剣な求道の先にこの世の真理を徹見され、至誠こそが重大事であると理解されていた。心をもって接することが第一と理解されていた。だから、大真面目に「嘘をつかない」という決意を周囲に吐露した。悟りを目指す奇特な人がいるなら、古人のお言葉に耳を傾けるといいです。そして、そういう書を読んで現代の生活で汚れた心腸を雪ぐと良い。こつこつこつこつと理解を深めた日々のその先に、悟りはある。


 どうせ、人間に生まれてしまった以上、やがて悟りに至らねば、永劫輪廻転生を繰り返す羽目になるわけですから、腹をくくって本当の学問をして欲しい。


 自分が本当に惜しい、と思えたら出来ると思いますよ。



 2500年の長い長い歴史を誇る「悟り」を語り尽くすなどどだい不可能なわけで、なので、老荘思想家のおっさんならではの「悟り」を語ったところで、今回はこれまで。



 したらば。




「スペースダンディ」のOP・EDを聴きながら


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