『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の六
こたびの侵略でもって改めて左翼の異常性が明らかになりましたね。無謀な侵略、民間人の虐殺、イエスマンばかりで現状をまったく理解していない独裁者、世界ニ位の軍事大国どころか、数日で蹂躙できると妄想した隣国に反撃され逃げ出す始末。この侵略が始まるまで、世界の誰が、今回の国境線間際の軍事演習が威嚇に終わらないと思っていたでしょうね。わたしもまさか本当に攻め込むなんて夢にも思いませんでした。
左翼が自国民を虐殺した人数は第二次大戦での死者の総数を超えるといいますし、日本の左翼政治家、マスコミなどは自身の過ちを一切認めない。左翼の阿呆さ加減は歴史が証明していますが、令和になろうとも左翼は永劫阿呆だらけ、ということをこれでもか、と証明しました。
まあ、だからといって日本国内から左翼がいなくなることなどないでしょうが、こうして事実が積み上がっていくことが大事。文文といい、生きている限り、阿呆さ加減を発揮し続けてほしいものであります。
おこんばんはです。豊臣亨です。では、
『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の六。続けて参りましょう。
世に天狗と呼ばれ、篤胤からは「日日津高根王命」と尊崇を受けた杉山山人。その神の如き山人から教えを受けた寅吉少年。なんと、噂が噂を呼びついには江戸幕府の重鎮にまで寅吉少年の令名が轟くようになってきました。そうなりますと、当然、そのことを面白く思わない人間というものは出てくるわけでして。前回もちらっと見てみましたが、今回はそんなお話。p59
【これより松下定年(篤胤の門人)の許へ伴ふ。
ここに滝川主水とかいふ神道者来合ひたるが、あるじの寅吉に書をかかしめ、種々幽界の事を問ふに答ふるを聞きて、尻目にあざ笑ひて、傍らの人に高津鳥の災(ここでは天狗のこと)にあへる童子よといふ声を聞きて、
笑ひながら君は神職の人にや、中臣祓(神道の大切な儀式で唱える祝詞)の詞にある高津鳥を、天狗の事と思ひ、我をそれに取られたる者と思はるるにや、我はさる卑しき物に取られたるに非ず。殊に彼の詞なる高津鳥といふは、鷲の類ひを云へるよし山にて聞きたりと云へば、神職面を赤らめて詞なし。
幽界に誘はれたるに、神と山人と天狗との差別あることを弁へざるは、すべて天狗のわざと云へば、かの神職もしか思ひ、殊に天狗を高津鳥と思ひ誤れるはいとをかし】
ちょ~意訳。
ある日、篤胤の門人の一人、松下定年のところに赴いた時のこと。
そこに、滝川主水なる神道関係者を引き合わせたところ、あるじの(主賓という意味?)の寅吉少年に書を書かせて、いろいろと仙人世界のことを寅吉少年に尋ねてはその答えを聞いていたが、やおら、それを横目にしながら鼻であざ笑い、そばの者にいうのであった。
「高津鳥の災い、天狗に化かされた子供とみえる」
と。
それを受けて寅吉少年は笑いながら言った。
「あなたは神職なのではないのですか? 中臣祓にある高津鳥を、天狗のことであろうと早合点し、わたしを天狗の関係者だとでも思ってのことでしょうが、冗談ではありません。わたしは左様な低級な存在の眷属などではありません。そもそも、中臣祓の詞にある高津鳥というものはワシのことを指す、と師匠から教えを受けております」
と言えば、滝川主水は顔を赤らめて言葉を失った。
仙人世界に誘われた寅吉少年だが、神様と山人という高級な存在と天狗という低級な存在とでは明瞭な差があるにも関わらず、不可思議なことをすべて天狗の仕業と決めつけるのは学問の足りない世の人々の言いようならともかく、よりにもよって神職の立場にあるものが弁えもせず、誤認し、しかも中臣祓の高津鳥を天狗と決めつけるのは常識がなさすぎる。
という塩梅かな。ちょっと自信ないですw
さてさて、ここでもちょいとややこしい専門用語が出ております。
『高津鳥の災い』
高津鳥の災いとはなんじゃろうか。もはやこのあたりはわたしにはさっぱりですがwikiなどによりますと、これは国津罪の一つ、なのだとか。これには、
『天津罪・国津罪』
天津罪・国津罪があり、これは、平安時代967年に施行された『延喜式』の大祓詞にある規定のことだそうな。
天津罪は8つ、国津罪は14の罪があり、それはたとえば、スサノオノミコトが高天原で馬の皮をはいで機織り小屋に投げ入れたとか、そういう神が忌み嫌う行いのことだそうな。国津鳥の災いとは、フクロウやワシなどの猛禽類による災いのことだそう。家屋損傷、とあるので強靭な爪で穴開けたりすることなのでしょうかね。
ただ、フクロウやワシの災いと、神様の忌み嫌いと、どこがどう重なっておるのかわたしにはさっぱりですw 平安に成立し、江戸時代にも通じる法令なので現代人のわたしには理解できぬものなのでありませう。
まあそれはともかく、話の流れとしましては寅吉少年の摩訶不思議な話を聞いていた滝川主水なる神職が、天狗に化かされたガキのタワゴトかよw とかいうので、ムッとした寅吉少年がわたしは天狗などレベルの低い存在に師事していない。そもそも国津鳥とはワシのことである! というので、神職が顔色を失った、というもの。
延喜式の内容など知らぬそこいらの庶民が国津鳥を天狗と勘違いするならともかく、それを把握してしかるべき神職がその世迷い言をいうのは篤胤としてもちょっと捨て置けぬ。ということでしょうか。メリケンジョークを聞かされているような、はぁ…? って感じですw では、次。ちょっと短めの小話。p60
【吉田尚章(篤胤の古くからの門人)が寅吉に逢はむとて、若き医を伴ひ来つるに居合はざれば、内の者ども出でて挨拶しけるに、その医師も寅吉が事を探ぬるに、天狗の子とのみ思へる状にて、鼻のさまはいかに、翼もやや芽ぐみ侍るにやと云へりしかば、内の者ども答へにこまり可笑しかりしとぞ。この日は外も内も同じ様なる事の有りしと、寅吉も甚く笑ひける】
ちょ~意訳。
吉田君が寅吉少年に会いたいとやってきており、また若き医師を連れてやってきたようだった。
召使いなどが応対していたら、その医師も寅吉少年を探していたようで、その医師は寅吉少年のことを天狗の子供だと思っていたようで、
「やはり、鼻は大きく突き出ているのでしょうか!? 翼ももう生え揃っておるのでしょうかね!?」
などというので召使いなどもどう返答して良いものやらと困っていたので、その様子がおかしかった。寅吉少年も、この日は家の中も外もこういう人がたくさんいましたね、と大笑いであった。
という塩梅。
まあこういう、そこまで悪意もないけれども子供っぽい手合も当然いるわけでw では、次に大の仏教嫌いの寅吉少年の真骨頂(?)。めっさ長文です。p61
【廿五日の申(午後3時~5時)の時より、寅吉は兄荘吉に伴はれて、東叡山まへ広小路なる名主、岡部何某が所へ行く。
然るは始め童子の噂世に高く、事を弁へざるきはは、甚怪しき物にいひ囃せるを聞きし故に、始めはただし明らめむとて、荘吉に連れ来たれと度々云ひ遣はせたるが、荘吉はその時ごとに我が許へ来たれるを、前に屋代翁のいひ置かれたる如く、いつも云ひ遣りしかば、後には名主も呼びあぐみて、荘吉が心をとり、物など取らせていかで伴ひくれよと、切に頼み遣はせける由いふにぞ、今日は是非なく遣はしたるなり。
然れど寅吉、日ごろ名主をまたなく怖きものに恐るるが上に、名主より荘吉に、寅吉が来る日をその前日に告げてと頼みたる由なれば、決はめて人多く集へて待るべく、そが中にいかなるをこ人か有りて、彼をなじらむも知るべからずと案じられ、その出で行く程より、己れは岩間山の方にむきて、彼もし人に恥見せられば、我もいと口惜しきを、いかで恥見ざるやう守り給へとしばし祈念してぞ在りける。
然るに酉(午後5時~7時)の刻すぐる頃に、寅吉怒れる状ながら又快気なる面もちにて駈け戻る。後につきて荘吉も来たりぬ。
いかにと問へば二人が言に、侍の袴を著けざる状なる人々、名主たちなど凡て二十人ばかりも二階に来集ひたる中へ寅吉を出だし、思ひ思ひに種々の事ども問ひつれど、例の如く何を食ひて居る、雨降りにはいかにするぐらゐの問ひにて、その煩く思へるが中に、
真言僧と見ゆる僧の、三衣(袈裟の一種)を厳重に著かざりたるが来たり居て、我を卑しみたる状に物言ひけるが、進み出でて印相(仏教におけるジェスチャー。サイン)の事に及び、何の印相はいかに結ぶぞ、某の印相はいかにと問ふ故に、山にて見聞きしたる状に種々結びて見せけるに、そを元より知りたる状に点頭するが少し可笑しく、摩利支天の印相を問ふ時に、寅吉思ひつき、わざと非ざる印相を結びて見せたるにも点頭きたる故に、こは元より知らざる印相を、知りたる状に物する僧と悟りぬ。
然るは山にて見聞きたる印相は、世の僧修験者などのするとは大かた異なるを、この僧の知りて在るべき由なければなり。然る程に祈禱の事をも問ふを、そこそこに答へたるに、その僧終に寅吉をなじり出て、汝の知りたる印相はみな道家(道教の僧のこと。幽幻道士などがそれ)の印相なり、祈禱などの事は大かた荻野梅雨(荻野梅塢子(恐らく荻野八百吉)ついこの前寅吉少年に難癖つけてきた仏教学者)が教へたる由、かねて聞きたり。
偖また汝は仏を嫌ひ神を尊むといふ事をも聞きたれど、仏ばかり尊き物なければ、神を尊ぶ事を止めて仏者になるべし、吾が元より神を嫌ひなる故に、伊勢大神宮また金毘羅をさへに、したたかに悪く云ひしかど罰あたらず、これをもて神を尊ぶは益なき事を知るべしと云ふに、寅吉甚く怒りを起こして、自然に声も荒くなりて云ひけらく、そこは僧衣をのみしか厳重に著飾れども、一向に事を弁へざる売僧にこそは有りけれ。
然るは先に我に印相の事を問へる故に、山にて見聞きしたる如く形を結びて見せたるに、悉く元より知りたる状に点頭きたれど、我が結びて見せたる印相は、大かた此の世の僧修験者などの結ぶとは異にて、往古の真の状の伝はりたるを習へるなれば、足下たちの知らざる形なり。然るを道家の印相なりと云へるは舌長し。
この世にて、そこ達の物する印相は、本を知らざる世々の僧らが、次々に云へ謬れるにて、本の真の状に物する僧修験者を一人も見たる事なく、人々各々結びざま違ひて、何れを真の印相と決むべき由なきが、元にて習ひたる我が印相を、違へりと云ふは、かく人多き中ゆゑに、我をかすめて人に物知りめかさむとの心なるべけれど、今我が摩利支天の印とて結びたるは、真の印に非ず、汝知らざる事を知れる顔にもてなすが憎さに、非ぬ形を結びて試みたるなり。
然るを汝うなづきたるは、真の印を知らざる事は更にも云はず、汝が輩の常に結ぶ誤りの印相をさへに知らずと見えたり。また祈祷などの事を、荻野氏に習へりと聞きたるよし、そは何者かしか云へる、先ごろ平田先生の許に、荻野氏の来て物語らるるを聞けば、彼の人我に印相を教へたる由いへり。然れば其の辺より然る説を聞きて云へるにや。山崎美成といふ人に探ね見よ、荻野氏はかへりて我が印相を見て、返す返す問はれたるをや。
偖また我が神を尊ぶ事を異見がましく云へども、仏はもとこの国の物に非ず、神はこの国の物にて、我も人もその御末なる故に、順道をたどりて、その道を第一とすること、我が師の教へにて、これ真の道なり。汝こそはそのよる仏道の事も生知りなれば、早く還俗して神の道に帰るべし。
また汝は神を嫌ひなりと云へども、汝も仏の子孫には非ず、神国に生れたる人として、神を嫌ひといふは、この国を嫌ふ理りなれば、この国に居らぬがよし。僧と云ふ者は、大かた汝が如く、心ひがみて穢らはしき者故に、我は元より僧を嫌ひなり。
偖また天照大神、金毘羅神などを詈り奉れるに、罰当らざるをもて、神には利益なしと云へるが、神は大らかに座します故に、汝が如き穢れたる者に罰を与へ給はざりしならむ。もし誠に神はいかに申しても罰の当らぬ物と思はば、今試みに大神宮、金毘羅宮などを詈りて見よ、我ここにて彼の宮に祈り訟へて、忽ちに御罰を蒙らせてむと、散々に詈りて帰り来つといふ。
猶その末の事を問ふに、よくも答へざれば、又兄に問ふに、我は玄関に居たる故に、委しくは知らざるが二階にてしたたか人を詈る声きこえたるが、暫くして階子をかけおり、玄関に出でて帰らむといふ、後より家あるじと、二人三人送り出でて、また重ねてといふを聞き入れず、かく不興なる家にいかで二度来たらむと、すげなく云ひて飛ぶが如くに駈けて帰るを、吾は後より静かにといへど、駈ける故に追ひかけて途なる盛土につまづき、膝をかくすりむきたり。名主の所にて、寅吉が如く荒ぶる者を遂に見たる事なし。定めて後にて、我に尤あらむと舌をまきてぞ語りける。
後の事は知らねど、まづ恥見ず帰れる事を、己れも悦びて在りけるに、二三日すぎて、佐藤信淵わざと来たりて云ひけらくは、去る廿五日の夜に広小路名主の宅にて、寅吉が甚く僧を詈りたるよし、その席に居たる何某といふ者に聞きたり。
その人は甚く感心して語りしかども、然る事ありては、ますます人に憎まれ謗らるる事なれば、この後にも然る事なきやう、禁め給へといふにぞ、そはいかに聞きつると問へば、始め終りは、兄弟が言の如くにて、彼の僧の神を詈りても罰は当らずと云へるを尤めて、今我が前にて詈り見よ、大神宮、金毘羅神に告げて今立ち所に罰をあて給ふやう祈らむ、いざいざと責めけるに、満座の者ども興をさまし、甚く恐れて、僧に向かひ、この子は彼の界に使はるるなれば、いかにも祈らば忽ちに験あるべし、出直し給へといふに、
その僧まけ惜しみの苦笑ひしつつ、しか仇をせられては迷惑なり、我も神の道を知らざるに非ず、今汝にその道を説き聞かせたく思へども、魔なりと云へること三衣を着ては三宝に対し恐れある故に、説くこと能はずと云ふに、ますます怒り、いかにも然る穢らはしき物きて、神の事を申しては恐れあり、但し汝はその帰依する所の仏道をさへに能くも知らざるを、いかで神の道を知るべき、そはただ負けをしみの詞なり、もしそれ負け惜しみならずば、いかに一事も説き見よ、汝が如き売僧のいかで誠の事を知るべきや、大勢の中にてかく云ふを口惜しとは思はざるか、いざ神の道を講釈せよと、返す返す責めけるに彼の僧の顔は火の如くなりて、何やらむ、くだらぬ言をつぶつぶ云ふを、寅吉なほ甚く詈りしかば、家あるじと今一人、寅吉が傍らに居たるが、すかし宥めて、あの御僧は格式高き人なれば、然な云ひそと制するを聞き入れず、僧の徳といふものは三衣の厳重なるや、寺格などによる事に非ず。この僧あたまを丸めて、三衣は立派に著かざれど、そのよる所の仏道も知らず。
況して神の道を知らずして、神を悪口し、我に恥を与へむと為たる穢らはしき坊主なれば、いかに云ひたりとも何てふ事かあらむ。大抵世の出家といふ者、俗家を欺き、物とりて衣服を飾り、寺格などにほこりて人を見下すが憎きゆゑに、我は元より坊主を悪ひなり。我が坊主を嫌ひと云ふ事は、兼ねて聞き伝へたらむに、切に我を招きつつ、何とてかかる売僧をよび置きて、我に恥与へむとせられしぞ。
我が師は、釈迦よりも遥か前より、世に存らへ給ふが、常の物語を聞くに、仏道といふ物は、愚人を欺きて、釈迦の妄りに作れる道なりと聞きたり。思ふにここに集へる人々は、大かた仏ずきの人々にて、神の道を知らざる故に、世間の訛れる評を聞きて、我を怪しみ試さむ為に、この坊主をよび寄せたるならむと云ふに、人々すまひて然る事には非ず、彼の御僧は今夜不意に来たり合ひたるなり、
まづ怒りをしづめてと、菓物など進め、紙筆を出だして書を請ふに、常の小さき筆に半紙をそへたりしかば、紙も筆もけちなりと喃きつつ、硯に厳しく突きて深くおろしたれど、猶細く、殊に怒りの最中なる故に、能くも書かれざりしと見えて、吾は何方へ出ても、かかる悪しき筆もて書きたる事なし、筆のもそつと大きく宜きを出し給へといふに、家内に尋ねて出したるも、なほ小さけれど、それをとりて、めつたに六七枚かき散らして、紙筆ともにあしく、殊に坊主のをる故に、今夜は不出来なりなど喃く間に、膳を出してまづ寅吉にすすむるに、彼の坊主が居ては穢らはしくて食もくへずといふに、是非なく、主人をはじめ、人々かの僧に、この子は出家を嫌ふといふ事かねて聞きたり。
貴僧のおはしては、この怒り静まるまじければ、帰り給へといふに、彼の僧はしぶしぶに立ちて、居ゑたる食をくひもやらず、なほ捨語に負けをしみを云ひつつ、階子をおりて帰れるに、寅吉はなほも怒りの顔色とけず、世人の神道を知らず、仏道に淫すること、出家の不行状なる事など、喃きつゝ一椀の食に菜を残らず食らひて、物付きたる状に、食を九椀かへて食ひたり。人々余りの大食なり。すぎまじきかと云へば、食にあたると云ふことは無き事なりといふ。
またあるじ傍らより、何ぞ心にかなへる菜をかへてと云ひしかば、鯛の焼物の替りを請へるには、甚く困りて、暫くして密かに調じたる状なり。また柿と蜜柑とを、盆に三四十ばかり盛りて出しけるに、そは彼の僧と問答の間に、謾りにとりて皆食ひ尽せる故に、また同様に盛りて出したるに、それをも二十ばかりは食しぬ。かくて僧と問答の間は、目はいとど大きく光りて別人の如く見えて、座中の人々冷ましく覚えしとなり。
さて食事をはると、早帰らむと立上がるを、人々なほ心をとりて、しばしと止むれど止まらず。かく不興なる家に長居は好まずと云ひて、暇も請はず、階子をおりて帰りつと、舌をまきて語りしと云ふに、己れも始めて其の時の事を委しく聞きて、そは決はめて双岳山人の幽より守護して然る振舞ひを為さしめたる物ならむと悟りぬ。
かくて後に、その僧は何者といふこと聞きまほしくて、この事美成に語りしかば、美成が因を求めて探りたるに、下谷金杉町(ネットによりますと、現在の台東区下谷三丁目、入谷一・二丁目、竜泉二丁目、三ノ輪一丁目1~25番、竜泉二丁目20番、根岸三~五丁目あたりだとか)なる真言宗の修験者、真成院といふ者にて、今流行る江戸風の仏学をものする才僧なりと言へり。
さて同月廿六日寅吉が兄荘吉来たりて云はく、名主がたにて昨日寅吉がものせる時に、機嫌を損なひて帰れる事を快からず思ひて、いかで再び伴ひてと請ひ遣はせて侍りと云ふを、寅吉ききて、我決はめて彼の家へはまた行かじと云ふを、荘吉わびて、己れに云ひけらく、弟がかく申す上は力無けれど、我は名主の支配下に住む者なれば、然は云ひがたし、何卒こなたの御弟子奉公にして賜はれかし、然もあらば名主より呼びに遣はせたりとも、その由を云ひて断り候べし、然もなくては支配下の我ゆゑに、断りを云ひがたしと云ふにぞ、
実に然る事に覚えて、この事屋代翁と議りけるに、苦しからず荘吉が願ひの如くし給へと云はるる故に、兄より例の如く諸色まかなひ、弟子奉公の証文とりて、今まで著たる汚き服物を脱ぎ替へさせ、新しき布子、羽織袴、大小なども与へて、我が家に置く事と成りしかば、侍の形になりしとていたく悦びぬ】
ちょ~意訳。
25日の午後4時頃。寅吉少年が兄の荘吉に連れられて、東叡山の前にある広小路の岡部なんちゃらという村役人のところに行った。
それは、当初は寅吉少年の令名、噂話が色々と巷間に流布するにあたって、やはりというべきか当然というべきか、悪い噂や陰口のたぐいも多く、それを伝え聞いた岡部なにがしさんが当人を呼びつけて審議せねばならぬと思っていたようで、兄荘吉に命じて、寅吉少年を連れてくるように、との命令をたびたび発していたようなのだが、荘吉はわたしのところへ来て屋代のじっちゃんと相談して、寅吉は篤胤宅に招かれているのでこちらからはなんともできませぬ、などと言っていたから岡部なにがしさんも呼びつけにくく思っていたようだ。そこで岡部なにがしさんも進物を荘吉に送り、丁寧に招待するという形をとることで懇請するので荘吉も断りきれず、いよいよ寅吉少年を連れて行くことになった次第である。
だがしかし、寅吉少年は以前にいろいろやらかしてしまって、村役人をことのほか怖がっているし、岡部なにがしさんから荘吉に、寅吉を連れてくる日を前もって知らせておくように言いつけてそれに合わせてたくさんの人間をかき集めていたから、中には寅吉少年のことを快く思わぬ人間が、寅吉少年をキ◯ガイ呼ばわりするのではないかと心配してしまい、寅吉少年が恥をかいてしまうのはわたしも口惜しいことなので、彼らの出立にわたしは杉山山人のおわすお山に向かって、彼をお守りください、と祈念するのであった。
そして、午後6時を回る頃のことである。寅吉少年が非常に立腹し、また、快気なる(興奮しながら?)様子で駆け戻ってまいった。さらにその後に荘吉も帰ってくるのであった。
不安が的中してしまったか、と思いながらどうした? と聞けば二人が言うには、呼ばれてみれば武士や村役人方など20人ほど2階に集まっており、寅吉少年を来させて様々な人間が思い思いに質問をするがそれらはよくある、普段は何を食べているのかとか、森の中でどうやって雨風をしのいで暮らしていたのかなどという他愛のない質問ばかりであって、寅吉少年はまたこの手の質問か、耳にタコができたっちゅ~ねん、と思っていたようだが、その中に、
真言宗とおぼしき、威儀正しく袈裟をまとった僧がおり、寅吉少年を小馬鹿にした様子で質問をしていたようだが、こと質問が印相、仏教のサインに話が及び、これこれの印相はどう結ぶのか、誰それの印相はどうなっているのか、と質問するので、寅吉少年は教授されたことを結びて見せたところ、それをさも、もとから知っていますが何か? 的にウンウンとうなずいていたのがおかしく、質問が摩利支天のサインになった時に寅吉少年は一計を案じたという。
それは、わざと間違ったサインを結んでみせたにもかかわらず、その僧はウンウン左様左様とうなずいていたので、ああ、こいつは何も知らぬ僧であるな、ということがわかったという。
そもそも、お山で教授されたサインは、世俗にいる僧侶や修験者のするものとは全然違うものであって、そんじょそこいらのザコが知り得るようなものではないのだ。その僧は祈祷のことなども質問するに及んでくるのでほどほどに答えていたら、ついに寅吉少年を問い詰め始め、お前の知っているサインは道士のするものであって大間違いである。それに祈祷の方法など荻野梅雨に教わったものであろう、聞き及んでおるぞ、といい出したのであった。
さて、またお前は仏を毛嫌いし、神を拝んでおるとも聞き及んでおるが、さてはて、真に尊きものは神ではなく仏であり神を拝むことなどやめて仏教に帰依すればよいのだ。拙僧などは大の神道嫌いであるからして伊勢大神宮や金毘羅であろうがさんざん口汚く罵ってきたがこれまで神罰を受けたことなど一度もないぞ。これをみれば尊きは仏の方であって、神など拝むに値しないことを理解すべきである。などといい出すので、寅吉少年の怒りが頂点に達してしまい、怒気荒くこう言い放ったという。
「そなたの方こそ、袈裟をちょこざいに着こなしておるつもりだろうが、何も知らぬエセ坊主ではないか! そなたは先程わたしにサインのことを聞いてそれらを訳知り顔にうなずいていたが、わたしが我が師匠より直々に伝授されしサインを結んでみせたものは、俗世の僧侶や修験者のするものとは全然別個のもので、太古より伝わりし正伝のサインでありそなたごときが知るはずのないものである。それを何も知らぬくせに道士のサインなどといい出すのは噴飯物である!
俗世のエセ坊主などが訳知り顔に行うサインなどは、太古の正伝を知らぬがゆえ誤り伝わったもの、わたしはこれまで正伝のサインを知悉し、結んでみせた僧侶や修験者などただの一人も見たことなどない。誰も彼も間違ったサインなのは正伝を知らぬからで仕方のない事ではあるが、わたしが教授されたサインを間違いなどというのは、これだけ人が多いからわたしの目が届かないのをいいことに(かな?)、皆さんに物知りだと自慢したいのであろうが残念であったな!
先程、わたしが摩利支天のサインと言って結んでみせたのは正伝のサインではない。そなたが知りもしないことをさも、知っているかのようなたわけた振る舞いを見せるからわざと間違えてみせたのだ!」
まったく分からんもんが正しかろうが間違っていようが、分からんもんは分からんw
「にも関わらず、それを左様左様とうなずくのは正伝のサインを知らないからに他ならない。のみならず、そなたらが常に間違えてサインを結ぶのはそもそもサインをまったく知らぬからに他ならない。また、祈祷の方法などを荻野に習った、などといい出すが、その者とのいきさつを語ってやろう。せんだって平田先生のところに荻野とやらが来て何を言い出すかと思えば、あの者、言うに事欠いてわたしが荻野からサインを習ったなどといい出したのだ。そこら辺で聞きかじった無駄知識をさも正しいことのように言っている、などとな。山崎美成に聞いてみよ。事の真相が明らかになるはずである。しかし考えてみれば、もし荻野がサインを知っていたのなら、どうしてわたしにサインの事を繰り返し繰り返し質問する必要があるであろうか(かな??)。
それに、わたしが神様を拝むことを間違っているかのように言うが、そもそも仏は我が国のものではなく、神様こそが我が国のものであり、わたしも世の人もその末裔、氏子にあたるのであり、その順序を転倒せず惟神の道を第一にすることこそが我が師匠のありがたい教えであり、これこそ正しい教えである。そなたこそ自身の拠り所とするべき仏教も生半可に取り扱うエセ坊主であるから、とっとと坊主などやめて神様に帰依しなさい!
また、そなたは神様を嫌っている、などとほざいているようだが、そもそもそなたは仏の末裔ではない。神のおわす国に生まれた日本人なのである。それを神様を嫌うなどというのは自分の住む国を嫌っているなどということであり、そんなことを言い出すような阿呆はとっとこの国から出てゆけば良い。だいたい、僧侶などという輩はそなたのように心がひがんで穢らわしいものばっかりであるから、わたしがそういう連中を毛嫌いするのは当たり前のことである。
他にも聞き捨てならぬことがある。
天照大御神様、金毘羅様などを口汚くののしっても神罰を受けたことなど無いとのたまわっているようだが、それも見当違いがはなはだしい。大いなる神様はおおらかにおわすのでありそなたのようなケガレであろうといちいち罰を下すなどということはなさらないのだ。
もし、神様をどれほど悪罵しようとも本当にどんな神罰もくだらないなどと思うのなら、今この場で伊勢大神宮や金毘羅宮などをののしってみせよ。わたしがかの宮に直に祈り訴えてただちにお前に神罰を下してみせようぞ!」
と、これでもかと馬鹿にしてやって帰ってきました、と言う。
で、その後はどうなったのか、と聞くがうまく聞き出せないので荘吉に聞いてみるが荘吉は、
「わたしは玄関に待っていましたので詳しくは把握していませんが、2階から怒声が聞こえたかと思えば寅吉が階段を駆け下り、帰る! と言い出したのです。その後を村役人様と他に2~3人やってきて」
「このようなことになって残念だがまた来てくれ」
「と言われましたが、寅吉はこのような不愉快なところになど二度と参りませぬ! と吐き捨てて飛び出すのでわたしも仕方なく後を追って帰ってきました。興奮する寅吉を見てわたしは冷静に、と自分に言い聞かせましたがなにぶん、駆け足だったのでころんでしまって膝を擦りむいてしまいました。
しかし、村役人様のお宅で寅吉のようにああも怒声を発したものなど見たこともありません。この一件が落ち着いたら、わたしはどのようなおとがめを被ることでしょう」
と怯える始末である。
しかしまあ、これが後にどうなるかはともかく、寅吉少年が恥をかいて泣きべそかきながら逃げ帰るようなことにはならず、ひとまず安堵したが、2~3日後佐藤さんがわざわざ来て語ってくれたことによると、あの25日の夜の広小路の村役人の宅で寅吉少年がそこにいた僧侶を激しく面罵したとのことで、その席にいた人に詳しく聞き知ったとのことである。
その人が非常に感じ入ったようだが、このような醜態が世に喧伝されてはますます寅吉少年の悪口雑言は止むことなくなるから、今後このようなことがないようきつく言い聞かせねばならないと言うとか。その人は他にどのようにおっしゃっておいででしたか、と佐藤さんに聞くと最初と最後は寅吉兄弟の言う通りであったが、あの僧が神様をののしってもなんの神罰も下らぬ、との放言を聞きとがめた寅吉少年が、
「いま、我が面前にてののしってみせよ! 伊勢大神宮、金毘羅宮に告げたてまつりて、たちどころに神罰を下してみせよう! さあ、いざいざ!」
と寅吉少年が責め立てるのでその場の全員が非常に恐れ、僧に向かって、この寅吉少年は仙界に師事したものであれば、どのような神罰が下るやも知れぬ、ここは出直しなさい、と皆で僧に言った、ということであった。
しかしその僧は負け惜しみの苦笑いをもらし、
「かような呪詛をされても迷惑千万。駄菓子菓子、拙僧も神の道を知らぬ訳ではない。いま、お前にその道を説き聞かせたく思うが、魔なりと云へること(間が悪い、とかそういう意味かな??)このように袈裟をまとっては仏法僧に対し恐れ多いことなので詳しく説明することはできぬ」
と言うので、寅吉少年がますますいきり立ち、
「そのような穢らわしいものを身にまとい、神様を語るは恐れ多いこと。
だがしかし。
仏の道にも精通せぬそなたが、神の道を心得ているなど世迷い言もはなはだしい。どうせ、その言いようも負け惜しみであろうが。もし、その言いようが負け惜しみでないと申すならわたしを説き伏せてみよ。そなたのような腐れ坊主がどれほどの真理を語るか見ものである。このような集いのなかでわたしのような子供に面罵されて口惜しいと思うのなら、いざ神の道を聴かせてもらおうではないか。さあ講釈せよ!」
とさんざん責めるのでかの僧の顔色、烈火の如く赤くなり、なにやら下らぬ繰り言をブツブツブツブツつぶやくので、
仏仏……。坊さんだけに。んむ。うまくない。
寅吉少年はかさにかかって責め立てる。村役人とあと一人が寅吉少年をなだめすかし、
「あの僧は格式高き寺の僧であればそのように口汚くののしるのはやめよ」
と言うが激高した寅吉少年は聞かず、
「僧の徳というものは袈裟が立派であることに比例するのでしょうか。寺の格式に比例するものでありましょうか。そうではありますまい。この坊主、頭を丸め、たいそうご立派な袈裟を着込んではおりますが、その実仏法のなんたるかもわきまえず、ましてや嫌いな惟神の道も知るわけもなく、恥知らずにも神様をののしり、わたしに恥をかかせようとするような穢らわしい腐れ坊主であり、こんなエセ坊主をどのようにののしろうと、それがどれほどのことが有りましょうか。大体、世の出家僧という者、俗世間をあざむき、金を溜め込んで衣服をご立派にし寺の格式などを誇って人を見下すような者ばかりで、わたしは毛嫌いしております!
ましてや、わたしが仏教嫌いを皆様御存知でありましたでしょうに、こうしてわたしを呼びつけて、何故このような腐れ坊主に引き合わせ、わたしに恥をかかせようとなさったのか。
そもそも、我が師、杉山山人は齢は3000をこえ、お釈迦様より古くから生きておられます。
俗世の話をいろいろ聞いておりますと、仏道というものは物知らぬ人々をあざむき、お釈迦様の教えを違えたものと聞いております。思いますに、ここに集まった皆様はおおよそ仏教を信仰する方々であり、神道にはそこまで精通しないから世間がわたしを悪く言うのを聞いて、わたしを試す気持ちがあったからこのような腐れ坊主と引き合わせたのでございましょう」
と言ったので、皆が争って(かな?)そういう訳ではない、かの僧侶は今夜、約束もなく不意にやってきたのであって我らがたばかって引き合わせたのではない。まあまあ、怒りを静めて。と、果物を勧め、紙や筆を取り出して、何か書いてくれないか、ということで通常の小さい筆に半紙を添えたのだが、寅吉少年はなんと、紙も筆も安物だ! とわめきながら硯にドスッと筆を突き刺すように墨をつけたが、それでも筆先が細く、しかも激怒しながらなので筆が定まらない。で、何を言うかと思えば、
「わたしは方々で書を書いてきましたが、このようなお粗末な筆は見たことがありません。もっと大書しやすい筆はありませんかッ!」
というので家の者に命じて他の筆を探させるがあいにく大きな筆はなかく、書きなぐるように6~7枚書いてみたが、紙質も筆もよくないとみえて、さらにさらに、気に食わない僧侶がいるからと、今夜はうまく筆が進みません、というのでご機嫌取りに、料理をだして寅吉少年にすすめるが、かのド腐れ坊主がいては美味しいご飯も不味くなる! というので、仕方なく、村役人をはじめ、周囲の人々が
「この子はかねて大の仏教嫌いということを聞き及んでおり、故に、貴僧がいたままではこの子の怒りは収まりますまい、申し訳ありませんが、今宵はお引取りを」
と皆で僧を説得するので、しぶしぶ僧は席を立ち、せっかく用意された料理に全然手を付けられずに、なおも負け惜しみをブツブツとつぶやき、
仏ブt(ry
階段を下りて帰えられたが、寅吉少年はあまりのことでしばらく怒りのあまりフーフー言いながら、
「世の人々はまるで神の道を知りもせず、仏教を鵜呑みにして盲従し、さらに出家僧の破廉恥行為など目に余る!」
などとわめきながらもりもりとご飯を残らず平らげ、まるで、取り憑かれたかのようにご飯を9杯も平らげたのであった。それをみた周囲の人々がさすがに食い過ぎ! 腹壊すで! とツッコミを入れるも、
「わたしはどれほど食べようと食あたりを起こすことなどありません」
などと無駄に豪語する寅吉ニキ。
まあ、寅吉少年の機嫌が直るなら、と村役人の主人が何か食べたいものはあるか、と問うので、
「鯛の尾頭付き!」
などと言い出したので、主人は非常に困った様子だったが、しばらくして密かにと調理させたようだ(かな??)。
また、柿やみかんをお盆に3~40個ほど盛って置いていたが、寅吉少年はかの僧侶との口喧嘩の最中にやったらめったら食いまくってみんな食べ尽くしていたので、
意外と余裕あるなぁw
また同じ数を盛ってあげると、これも半分ほど食べてしまった。
かくして僧との口喧嘩の間は、寅吉少年の目は炯々と光り輝き、なにかに取り憑かれたかのようであったので、満座の人々の心胆を寒からしめたのであった。
さて、いよいよ食事が終わると、とっとと帰ろうとするので、人々が引き留めようとするが翻心しない。このような面白くもないところには長居はしたくありません。といって、招いてくれた村役人に帰りの挨拶も満足にせず、階段を下りて帰ってしまった、とその人は驚きの様子を語ってくれた。
そうしてようやく事の真相を聞き終わり、それはきっと、双岳山人(杉山山人??)が、仙界より寅吉少年を操縦していたのではないか、と理解するのであった。
またその後、寅吉少年にけんかを売ったはいいが、ほうほうの体で逃げ出したかの僧侶は何者かと知りたくてこの事を山崎くんに語ったところ、山崎くんがつてを頼って調べてくれた。それは、下谷の金杉町の真言宗の真成院という名の修験者であるらしく、流行に流された江戸風の仏教を能事とする天才肌の僧だという。
さて、同じ月の26日。兄荘吉が来て、昨日、村役人様のお宅に寅吉と共に招かれたが、たらふく食べたくせにへそを曲げて帰ったので村役人様は機嫌を損ね、また寅吉を連れて来るようにと仰せだ、と言えば、それを聞いた寅吉少年はわたしは二度とあのお宅には行きません。というので、荘吉は申し訳無さそうに、
「寅吉は生来の頑固者でこうなってしまってはわたしでは言い聞かせることができません。ですが、わたしは村役人様の治める地域に住む関係上、そのように申し上げることなどできようはずもありません。篤胤様、なにとぞ、わたしを弟子として召し上げてくださいまし。そうすれば、今後村役人様の呼び出しを受けたとしましても呼び出しをお断りする理由を作ることができます。そうではなくては、今後、どのようなおとがめを被るか計り知れません」
と、わたしに言うので、まあもっともなことであるな、と思い、この事態を屋代のじっちゃんに相談したところ、屋代のじっちゃんもかまわんかまわん。荘吉の言う通りにしてあげたらどうかね? と言うので、支度を整え、荘吉と弟子入りの誓詞を交わし、着た切り雀の小汚い衣を捨てさせ、新しい衣装に羽織袴、大小の太刀をも授け、我が家に置いておくこととなった。
つまり、荘吉を武士身分として取り立てる形となったわけだ。荘吉の喜びようはなかった。
という塩梅。
んむ。長かったw しかし、長い分見どころがもりだくさんです。
まずは、今度は名主に呼び出された寅吉少年。ここでは村役人、と簡単に訳してみましたが、岡部某、とあるということは徳川幕府の直臣である可能性もありますね。
なにせ、寅吉少年からまた鯛を食べたい! と言われて、渋々ながらも焼いていたところをみるに鯛の買い置きがあるようなお宅ですから、相当なお金持ちであることは確かでしょう。そこいらの田舎の村役人ならともかく、江戸の町を取り仕切る村役人ですから、そこそこの実力者なのでしょうね。兄の荘吉が、寅吉がへそを曲げて不調法に帰ってしまったので、どんなお咎めを受けるかわかりません、と言っていましたが、確かに、手打ちにされても文句の言えないくらいの身分差はあるでしょうね。
また当初は、「甚怪しき物にいひ囃せるを聞きし故に、始めはただし明らめむとて」と、寅吉少年を呼びつけて怪しげな噂を垂れ流す不届き者として吟味しようと思っていたのでしょうが、阿部備中守(恐らく、阿部正精)、大久保加賀守(恐らく、大久保忠真。二宮尊徳翁に小田原藩の藩政改革を任せた)という、幕府老中に呼び出しを受けるようになったので、「いかで伴ひくれよと、切に頼み遣はせける由いふ」と言う風に、猫なで声を出すようになるくらいに態度が軟化してきたわけですね。
名主を始め、招待客が20人ほど2階に集まっていた中に、坊さんがいた。1階、ではなく2階に、20人も集まれるようなお屋敷ですからやはり豪邸で間違いない。まあそれはともかく、例によって例のごとくイチャモンつけられた寅吉少年。烈火の如く怒りだします。
ここで着目したいのが、「偖また我が神を尊ぶ事を異見がましく云へども、仏はもとこの国の物に非ず、神はこの国の物にて、我も人もその御末なる故に、順道をたどりて、その道を第一とすること、我が師の教へにて、これ真の道なり」また、「神国に生れたる人として、神を嫌ひといふは、この国を嫌ふ理りなれば、この国に居らぬがよし」
仏は我が国古来からのものではなく、神様こそが我が国古来からのものなのだ。
わたしも、皆様も、その神様の恩恵を受けし氏子なのであって、神道に邁進することが正しい生き方なのであると、常々我が師匠は仰せである。
神様のおわす日本に生まれておきながら、神様を嫌いなどと言い出すのは、つまりこの国を嫌っているというのと同義であり、だったらとっとと我が国からでてゆけば良いのである!
ということですね。
左翼が、日本は悪の国だとかよくののしってますが、よくそんな国にいられるものです。よっぽど心の中が悪に凝り固まっているのでしょう。寅吉少年にとってかの坊主は、現代の左翼と大差ない程度の存在なのでしょう。
また、杉山山人が、仏は渡来ものなのだから、古来からある惟神の道に生きることが日本人の正しい、あるべき姿なのだ、というのは、
『先哲が説く 指導者の条件』 で読む 熊沢蕃山 三
でも見ました、
【儒道と申す名も、聖学と云う語も、おおせらるまじく候。そのままに、日本の神道を崇め王法を尊んで、廃れたるを明らかにし、絶えたるを興させ給いて、二度ふたたび神代の風かえり申すべく候。からめいたる事は、何もあるまじく候。国土によって風俗ありといえども、天の神道は二なく候えば、儒といい仏といい道と云う名を、その国ならぬ国へ持ち来る事は道をしらぬ者のしわざにて候】
日本には日本のあるべき教え、あるべき宗教があるのであるから、儒教だの仏教だの異見を立て、あれが正しいあれが間違っている、これが優秀これが劣等などと競おうとするのは「道をしらぬ者のしわざにて候」なわけですね。
また注目すべきところが、「我が師は、釈迦よりも遥か前より、世に存らへ給ふ」、ですね。我がお師匠様はお釈迦様より古くからおわすお方である!!
すごいパワーワードですw これが言える人間は世界史でもそうはいますまいw 日本の仙界にはこんな現人神がわらわらいるかも、と想像するのもまた面白いw
そして、すごい剣幕で坊さんを追い出したら食事の時間です。ここで注目すべきなのが、「一椀の食に菜を残らず食らひて、物付きたる状に、食を九椀かへて食ひたり」ご飯10杯は食べてますねw 江戸時代はおかずが少なく、ご飯をもりもり食べる人が多いとは言え、それでも15歳の子供がご飯10杯は食べ過ぎw でもそれだけにあらず。「柿と蜜柑とを、盆に三四十ばかり盛りて出しけるに、そは彼の僧と問答の間に、謾りにとりて皆食ひ尽せる」「また同様に盛りて出したるに、それをも二十ばかりは食しぬ」恐らく、柿やみかんを5、60個は食べているのでしょうw どこに入るのか?w
さすがに周りの人もびっくりして、「人々余りの大食なり。すぎまじきか」食べ過ぎw というと、「食にあたると云ふことは無き事なり」食あたりを起こしたことなどありません(キリッ
寅吉ニキ、パネっす。
そんな話を人づてに聞いた篤胤。思わず、「そは決はめて双岳山人の幽より守護して然る振舞ひを為さしめたる物ならむと悟りぬ」双岳山人は杉山山人だとは思いますが、杉山山人が遠隔操縦で寅吉少年を操っていたに相違ない、と悟るわけですね。
齢3000歳の現人神なら、遠隔二人羽織もお手の物なのでしょうかw もしかすると、寅吉少年の胃袋は、杉山山人と異次元でつながっていたのかしらん?w とまれ(ともあれ)、そんな杉山山人が寅吉少年に乗り移って、伊勢大神宮や金毘羅宮に直に訴えて神罰を下してみせよう! などと大激怒を発したら、殺人マシーンたる武士もそら震えあがったでしょうねw
しかし、考えてみますと、このお話は「申(午後3時~5時)の時」から「酉(午後5時~7時)の刻すぐる頃」。最大見積もっても4時間くらいの出来事なわけで、寅吉少年も忙しいですねw
で、一番最後に着目すべきが、兄荘吉です。ご飯をもりもりたらふく食べておきながら、こんなけったくそ悪いところ長居できるか! とろくな挨拶もしないで名主の家を飛び出した寅吉少年と荘吉。なのでどんなお叱りをうけることやら、と怯えるので、「何卒こなたの御弟子奉公にして賜はれかし」と、篤胤に弟子入りを願うわけです。で、それもそうか、と思った篤胤は「新しき布子、羽織袴、大小なども与へて、我が家に置く事と成りしかば、侍の形になりしとていたく悦びぬ」弟子入りどころか、士分、武士として取り上げてあげることになった。武士にしてもらった荘吉は大変喜んだ、わけで、寅吉少年といい兄荘吉といい、ちゃっかりしてんなぁw といったところw
といったところで今晩はこれにて。次は、寅吉少年の他にも山人などに関わった人々のお話でも見てみたいと思いまする~。では、したらば。
「ふらいんぐうぃっち」のOP・EDを聴きながら。