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『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の四



 ついにおロシアがウクライナ侵攻。


 それまでやはり他人事に過ぎなかった戦争の危機、が一気に眼前の危機になりましたね。


 ウクライナはあくまで、話し合いによる解決を目指したが、しかし、己の野心を果たすことしか考えぬプーチンは一切耳を貸さず侵攻に踏み切った。そして、ウクライナにはかつて、ソ連時代に蓄えられた核ミサイルがあったが、米英露の共同でウクライナの安全保証をすることで廃棄を迫ったはずが、核戦争の危険回避の名目とやらで米やNATOはウクライナを見捨てた。


 これによって日本はやはり実例を目の当たりにした。


 他国を救うために出兵する物好きが本当にいるのか? と。


 確かに、日米は軍事同盟関係にあるし、そも、ウクライナはNATO加盟を目指していただけで、実際に加盟していたわけではない。よって米国やNATOが絶対に助けなければいけないという関係性はない。しかし、せっかくの自国防衛のための核ミサイルの廃棄を安全保障を担保に迫っておきながら、その約束を反故にした道義的責任は決して回避はできない。


 そして、それが日本も同じ憂き目を見ないと、誰が保証してくれるのか?


 ヒットラーの侵攻と同様、中共など共産勢力が文明国とやらの腑抜け具合に慢心し台湾侵攻、日本侵攻を企図したとき、米国は本当に助けてくれるのか。この疑心暗鬼が原爆のきのこ雲のごとく猛烈な勢いで湧いておるわけです。


 なんでも、2022~26年の合計5年の思いやり予算の総計は一兆円だそうな。米軍が日本にいるのは自国で軍備を整えるより安上がりだというものがいるが、そうではなく、その一兆円を実際に自国の軍備に回したほうがよいのではないか。


 様々な思惑が乱れ飛び世界を渦巻いております。


 まあ、なんであれ、わたしは日本の為政者に一切期待していないので、中共製アウシュビッツが出来て、自分が収容されることになった時には自分の首を包丁で掻っ切るつもりなので、憲法9条だろうが専守防衛だろうがお好きになさってください、って感じですね。結局、数千年という時間を人類は費やして、堕落はしても進化などしないということを、恐ろしいまでの実例を見せられただけ。


 にんともかんとも。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 では、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の四、を見てみましょう。前回は寅吉少年と平田篤胤の出会いの直前の顛末をちらっと見てみましたが、しかし、そこから二人が出会うまでもすんなりとはいかず、ひと悶着あった模様。これをちらっと見てみましょう。p25




【十月六日に屋代翁より、けふ夕方に美成が寅吉を伴ひ来たるよし云ひ遣はされたるに、訪ひてまた種々の事どもを尋ね、さて美成に、この童子山風の誘ひ来つれば(山風とは、多分、杉山山人から山に来いという知らせのことでしょう)、()く帰らむと計りがたし、我が方へも、いかで伴ひ()れよと言へば、明日伴はむと云ふに、(いと)嬉しく、佐藤信淵(さとうのぶひろ)(江戸時代の農政学者。経世論者)、国友能当(くにともよしまさ)(国友鉄砲鍛冶職人にして望遠鏡の発明家。国友一貫斎の号が著名)なども寅吉に逢はまほしく云ひし故に、その夜に消息すれば、皆悦びて七日に早く来集ひつ。


 童子が好むべく覚ゆる菓子、その外とも取りよそへ、小嶋主(小嶋惟良(こじまこれよし)。篤胤の門人)よりは童子に(もてなし)せむ料にとて(さや)けき魚など賜はりて待ちけるに、夕方に美成より手紙をもて、今日は伴ひかぬれば、時を見て伴ひ侍らむと、云ひ遣はせたるに、集へる人々空しく帰りぬ。


 我が家の者どもも、今や来たると待ちけるに、かく在りしかば、いと本意(ほい)なしと力を落とす。己れつらつら思ふに、美成言宜(ことよ)くは云へど、我が方へ遣はすを惜しむ(さま)に見ゆれば、遂に連れ来たらじ、その間にもし山に帰りてば、弟子どもも本意なく思ふらむ、振りはへて彼が宅へ物せむと、


 八日の昼まへに、妻と岩崎吉彦、守谷稲雄(もりべいなお)とを連れて美成がり行きて、昨日は待ちて在りけるに来ざりしかば、本意なく思ふ故に、家内の者ども連れて来たれり、いかで童子に逢はせ給はれと云ひ入るるに、美成が母出でて、美成は外へ出でたり、童子は今朝その母の方へとて出で行きたりと云ふに、また力なく帰れるが、(後にきけば、この童子は奥に居て、己れが店まで行きたるを見聞きしつれど、隠れ居よと私語(ささや)く故に、逢はまほしくは思ひしかど、詮方無かりしと云へり)途にて連れたる者ども、みな童子は母の許へ行きたる由なれば、彼の方へ直ちに尋ね給はばいかに有らむと(しき)りに勧むるにぞ、己れも然る事に覚へて、七軒町(東京都台東区。池之端一丁目から池之端四丁目あたり、だとか)へは間遠からねば、皆うち連れて尋ねつ。


 辛ふじてその家を探り得たるに、裡住居(うらずまい)(路地裏?)のただ一間ある家にて、母のみ居たり。寅吉が来つるかと問ふに、兄といさかひて下田氏へ行きたる後は、たえて来たらざる由にて、美成が許に居る事さへも知らざりけり。然れば美成が方にて、母が方へと出でたりと云へるは、早く偽りにぞ有りける。


 直ちに帰らむも(うら)めしければ、寅吉が生い立ち、また異人に誘われたる事の始末などを問ふに、生い立ちの事は委しく語りしかど、神誘ひに成りたる始末をば、この頃になりて人の言ふによりて、ほぼ知りたる(おもむき)なり。


 さてこの日も遂に童子に逢はで空しく帰りぬれど、母の物語りに、童子の生い立ちなど種々聞きたるに、なほ種々問ひまほしく思ふ心いや増さりて、美成がしわざの心憎くはおもうへど、こは彼が心に取るにしかじと、物など贈り、また屋代翁にも頼み、親から行きもして心を取りしかば、十日の昼なりしが、手紙をもて明日の夕方参るべしと云ひ遣はせたり。この時しも佐藤信淵来合ひたるが共に悦び、七日の日に国友能当が吾と共に遠き四ツ谷の里より、(わざ)と来たりて空しく帰れること気の毒なり、我が方より明日つとめて消息せむと云ひて帰りぬ。


 十一日の朝早く屋代翁がり、夕方に童子を伴ひ来るよし消息す。然るに下総国香取郡笹川村(現千葉県香取郡東庄町)なる諏訪社の神主、五十嵐対馬(篤胤の門人)、もの習ひにとて江戸に出でて、この日我が許へ来たれり。


 八ツ半時(PM3時頃)に屋代翁その孫なる二郎ぬしを伴ひて来たらる。国友能当、佐藤信淵も来たり、折よく青木並房(篤胤の門人)も来合いたり。小嶋氏家内みな来たらる。塾には竹内健雄(篤胤の門人)、岩崎吉彦、守屋稲尾などもあり。


 さるの刻(PM4時頃)過ぎれど美成来たらねば、皆待ちあぐみけるに、屋代翁消息したため、使ひを遣はさむとしける時に、童子を伴ひて美成来たりぬ。これぞ、寅吉が我が許へ来つる始めなりける】





 ちょ~意訳。




 10月6日、屋代のじっちゃんから今日の夕刻に、山崎くんが寅吉少年を伴って訪ねてくれる、との伝言を届けてくれたので、山崎邸に行ってさらに色々と質問した。


 さて、山崎くんが云うには、寅吉少年は師から招集がかかっているようで出来るだけ早く山に行かなければ、と気が急いている様子とのこと、だったらますますはやくこちらに寄越してくれ、と言うと山崎くんが、でしたら明日には一緒に連れて参ります、と言ってくれた。


 これは嬉しかった。また、学友たる佐藤信淵さんや国友一貫斎さんが是非ともわたしたちも寅吉少年に会いたいです! と言うのでこれまでのいきさつを話すと、みんな大喜びで7日にはさっそく我が家に皆が集まった。


 そして寅吉少年が喜びそうなお菓子や食べ物をわんさと取り揃え、門人の小嶋くんなどは寅吉少年に喜んでもらおうと新鮮な魚まで買ってくるまでの気合の入れようだった。にもかかわらず、山崎くんがやってくることはなくその代わり手紙で、本日は都合が悪く連れてくることができなくなってしまったので、状況を見て連れて参ります、とあった。なんて日だ! と集まってくれた人々はトボトボと帰ることになった。


 我が家の家族たちも今か今かと待ちわびていただけに、このような次第にがっくりと肩を落とす有様だった。


 考えてみるに、どうやら山崎くんは寅吉少年を連れてくると言ったはいいが、いざとなるとわたしに引き渡すのを惜しんだのだろう、だから結局連れてこなかったに相違あるまい。そんなこんなでこのまま山に帰ってしまっては我が弟子たちも相当がっかりするだろうと思うと、重ね重ね山崎くんの家に行って寅吉少年を連れてこさせるように言わねば、と8日の午前中にわたしは女房と弟子の岩崎くんと守谷くんを連れて山崎くんの店にカチコミをかけることにした。


「おうおうおう。連れてくる連れてくる詐欺とはどえらいこっちゃで。わしらはもちろん、カミさんも心待ちにしとったんやで。豪勢な馳走まで用意しとったちゅ~のに、それらみ~~んな無駄になってしもうたんやで、こりゃあ、どない落とし前つけるんじゃあ? おう!?」


 という言葉はさすがに飲み込んだが。


 とはいえ、弟子たちも寅吉少年に会いたい気持ちに偽りはない。なので今日は女房までついてくる有様だ。さあ、寅吉少年に会わせてくれ、と押し込むと山崎くんの母親が応対し、山崎くんは現在外出中で、くだんのわらべは自分の母に会うべく生家に帰ったというので、また肩を落として帰ることとなった。(後で聞いたことだが、実は寅吉少年はこの時、山崎くん宅にいて奥に押し込められていたのだという。そこで、わたしが店にやってきていたのを見知っていたのだが、奥に引っ込んでいなさい、といわれて逢いたかったのだが、どうしようもなかったのだ、と彼の口から聞いた)


 帰る途中、女房や弟子たちが、寅吉少年は生家に帰ったとのこと、だったら皆でその家にカチコミかけましょうぜ! と勧めてくるので、わたしもそれもそうだな、と考えるようになり、まあ、七軒町も言うほど遠い場所でもなしとそのままみんなで寅吉少年の家に押しかけることとなった。


 そして、地図もなしに周辺を聞き周り、なんとかかんとか寅吉少年の家を探り出したが、寅吉少年宅は(多分)裏路地の、居間も台所も同じ一間にあるような小さな家で、そこには母親だけがいた。そして寅吉少年は帰ってきたか? と問うと、兄といざこざがあって家を飛び出し下田氏に奉公にでた後は帰ってきておりません、と言うばかりで現在山崎くんの家に世話になっていることなど、まったく知らない有様であった。


 となると山崎くんの家に向かった時に、母親のところに帰ったようだ、というのは真っ赤なウソということになる。とっとと帰らねばと口惜しく思ったが、せっかく母親に会ったことだしと寅吉少年の生い立ちや、天狗にさらわれたことの次第など詳しく聞いてみるが、生い立ちのことは語ってくれたが、天狗とは実は山の神に仕える山人であり、寅吉少年はその山人に弟子入りしていたのだ、ということを色んな人から聞いて、ようやく信じる気になったようだ。


 結局この日も寅吉少年に合うことは叶わなかったが、彼の母親から生い立ちなどを聞いて、ますますこれは本人の口より尋ねねばならぬ! との気持ちが高じ山崎くんの姑息な仕業に小憎らしくは思ったが、一計を案じた。


 虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。


 いや、将を射んと欲すればまず馬を射よ、か。


 まあ、どっちゃでもいいが、寅吉少年を得んと欲するならば、山崎くんに鼻薬を嗅がすのが世の習い。屋代のじっちゃんにも頼んで山崎くんの親御にも付け届けを送るように頼んだところ、10日の昼頃、山崎くんから手紙が届いた。


 内容は、11日の夕方には連れて参る、とのこと。


 この時、一緒にいた佐藤信淵さんと悦び、また、7日に四ツ谷からわざわざやってきてくれたのに手ぶらで帰らせてしまった国友一貫斎さんに申し訳がないので、わたしから明日のことの次第を国友さんにお伝えしますよと佐藤さんが言ってくれた。


 11日の早朝、屋代のじっちゃんが夕方には山崎くんが寅吉少年を連れてくる、との情報を持ってきてくれた。


 その時には、香取郡笹川村の諏訪社の神主の五十嵐対馬さんが勉学せんとわたしのところに来ており、また、夕方3時には屋代のじっちゃんが孫の二郎を連れてやってきた。そして、国友一貫斎さんや佐藤信淵さんも集合。


 折よく、青木並房くんや小嶋くんの家族もそろってやってきた。塾生の竹内くん、岩崎くん、守屋くんなどぞくぞくと集まってきた。しかし、夕方4時を過ぎるも山崎くんは訪れてはくれなかったので、皆待ちぼうけをくらってしまったから屋代のじっちゃんが催促の手紙を書いている最中、ようやく、ようやく! 山崎くんが寅吉少年を連れて来たのだ!


 これこそ、寅吉少年が我が家にやってきたその顛末である!




 という塩梅。


 悲喜こもごもがすごい伝わってその情景が目に浮かぶようでありますw


 このように、山崎美成邸を篤胤は数回訪れてはいるものの、この時は美成は頑なに寅吉少年を紹介してはいなかったようですね。そこで会わせておけばこんなことにはならなかった気がしますが、江戸時代の習わしでもあるのでしょうかw


 そして、寅吉少年は、襖越しか別の部屋とかで篤胤の声や姿を見ていたのでしょう、杉山山人の教えを聞いていて、自分が頼りになる人を知っていながら、美成に部屋に隠れているように言われて、会いたい会いたいと思いながらも隠れてその声を聞いているだけ。


 あれ、これはなんの昼ドラだろうw


 で、一度は連れてくるとは言った美成も珍客を手放すことを惜しんで会わせなくはしたが、篤胤やその家族、さらに友人や弟子をも巻き込んだ凄まじい執念にさすがに連れて来ざるを得なくなって寅吉少年を連れてくる始末。実に面白いですw


 妻や弟子たちが、寅吉少年は生家に帰ったとか。だったらこのままみんなで押しかけましょう! と言えるところがなんとも江戸時代のゆるやかな感じがします。今だったら相手の都合も考えないでいきなりお宅訪問とかせっかちな行動は慎むところでしょうけど。もちろん、これは武士たる篤胤がわざわざ家族や弟子を連れて、町民ふぜいの家までやってきたんだから意味は分かるな? みたいなニュアンスもある気はしますがw 


 とはいえ、寅吉少年と篤胤とその高尚な仲間たちとのお話とは。p28




(さて)童子にかねて約しつる岩笛(いわふえ)(石に穴を開けてそこに口から空気を送って音を出す日本古来の楽器(?))を見せけるに、自然の(さま)にて音の高く入るが、(いた)く心に(かな)ひて悦ぶ事限りなく、吹き入る音もよく入りて、止まる(とき)なくぞ吹き鳴らしける。


 この日問へる事どもは云々(しかじか)の事などなり。


 皆感じ驚く事どもなるが、中にも鉄砲ありやと尋ぬるに、鉄砲は世にある常の鉄砲なるが、外飾は(いささ)(こと)にて、大きなるも小さきもあり。また風をこめて打つ鉄砲もありと云ひ出でたるに、我も人もこの頃国友子が風砲にいたく驚きおるに、これを聞きて更に驚きて顔見合せける中にも、国友能当は殊に(いた)く驚きぬ。これ己れと共に仙炮の事を問へる始めなり(然るにこの事におきては、己れが尋ぬるよりは、国友子が尋ぬるさま、然すがにその得たる道ゆゑに、意得る事早き故に、こは能当に委ねて問ひたる趣、図に著せるが如し。実にこの事は己れいかに思ふとも、しか明らかに問ひ明かしがたき事なるを、国友無からしかば、あたら仙炮の世に伝はらずかし)。


 またこの時、試みに奉書美濃紙(高級和紙。文章を残す時の耐久性を求められる時に用いられた)などを出だして、物書かしめたるに、運筆凡ならず、人々これも驚きぬ。是れぞ童子が大字を書きたる始めなりける(この前にも、事の(ちなみ)にいささかは書きつれど、ただ半切などに小字を書きたるまでの事なりしかば、見苦しき故に誰も美しき大字を書き得べしとは思はず。寅吉みづからも、世間の文字はいくばくも知らず、山にて習ひたる字は世間の字と形の異なるを、人の笑ふべく思ひて、書かざりし由なり。細字を世間に書く状に書き得ざる事は、山にて手習ふには手に砂を(つま)みて習ひはじめ、いまだ小字を書くことは習はざりしと云へり。さて童子が書、またその運筆をば屋代翁をはじめ書に賢き人々は皆驚き称する事なり。なお次々にもこの事の出づるを見るべし)。


 (さて)何くれと物語るほどに、早くも戌の刻(PM8時頃)になれば美成は帰りを急ぐ由にて暇を乞う。いと残り多く思ひて、今しばしと止むれど止まらず。ここに長笛を(つく)らしめて、世に伝えたく思へば、また近き程にと返す返す云へば、(うべな)ひて帰りぬ。


 翌十二日に岩崎吉彦を使ひにて、昨日の夜の謝を言はしめ、貸さむと約したる鉗狂人(けんきょうじん)(著者は本居宣長)の書を持たせ遣はし、更にまた笛(つく)らせむ料の竹を求めて待ち居らむ、近き程に童子を貸し給へと云ひ遣りけるに、間もなく童子を伴ひ走り帰りぬ。


 いかにと問へば、吉彦云はく、大人(うし)(のたま)はせる如く申して侍れば、美成が母出でて、寅吉は流行り子にていと(さわ)がしく今日も早く美成と伴ひて他へ行きたりと云ふ間に、童子は笛作る竹を求むといふ声を聞きて奥の間より走り出でて、笛の竹買はむとならば、我も共に行かむと云ひて、外にかけ出でたるに、美成が母は(いと)心苦しく思へる(さま)に見えつれど、又しも他へ出でたりと云へるが憎さに、いざやとて伴ひ侍りと笑ひつつ云ふに、予もをかしく、常には汝が遠慮なきを叱りたけれど、今日のみは遠慮の無きが用に立ちけりと云ひて笑いぬ。


 然るに童子は辞儀もせず、来るとやがて神前なる(p301で、この石笛は下総国海上郡小浜村の八幡宮よりいただいたものらしく、神聖な笛のようです)岩笛を吹き鳴らし、かばかり自然の面白き物はなしと悦びて、また止むる(とき)なく、人の(ことば)の耳にも入らぬ状なるを、菓子など与へ、予も共に種々の戯れ遊びなどして見合わせつつ、岩笛の成れる始めの考へ、石剣の事、矢の根石のこと、石を造る方、また石をつぐ法、月に穴あると云へること、星を気の()れる物と云へる事、空行の委しき事ども、人魂の行方、鳥獣の成り行きなどの事を問ひたりき】




 ちょ~意訳




 さて、寅吉少年にかねて約束してあった石笛を見せてあげると、石笛は笛の名ではあるがその見た目は自然の石のままの姿であって吹くと高い音色を出したところ、非常に気に入って大喜びだった。吹き込む量と音も非常に調和し、まったく飽きることなく吹き続けた。


 また、今日尋ねたことはこんな次第である。


 寅吉の返答にみんな驚き、感じ入ったようだったが、特に皆の心に残ったのが鉄砲の話で、山人の世界に鉄砲はあるのか? と尋ねたところ、寅吉少年が言うには、


「山人の世界にも鉄砲はあります。ですが、外装は随分おもむきが異なっており、また大きいもの、小さいものなどがあります。中には火薬ではなく空気の力で弾を撃ち出す銃もあります」


 というのでみんな驚いたが、その中でもやはりいちばん驚いたのが国友一貫斎さんで、皆が顔を見合わせて驚く有様だったが国友さんの驚きようはなかった。これが、わたしと国友さんが山人世界の鉄砲のことを詳しく尋ねるその最初である。


(なにせ、鉄砲のこととなれば専門家である国友さんの右に出るものはなく、寅吉少年の話に即座に理解を示すことはわたしなどには及びもつかない。なので、こと鉄砲に関しては専門家にお任せしたからこそ山人鉄砲を詳しく後世に残すことができたと密かに自負している)


 またこの時、奉書美濃紙を使って寅吉少年に書を書かせてみたところ、その筆の運びは到底15歳の少年のものではなかった。これも人々が大変驚いた次第であり、寅吉少年が書道家としての力量を見せた初めであった(かな? ネットで調べたところ弐、参、肆、という字を大字(だいじ)というそうなのでもしかすると古文字を大字といい、現代文字を小字と言っているのかも知れませんが)。


(実はその前にも少々文字を書かせたこともあったが、なにぶん落書き用にと小さな紙に書かせただけであったので、見たところ誰もそれと認めるようなものではなかったのでここまでの達筆の書をなすとは思いもよらなかったのだ。また寅吉少年自身も、わたしは師匠から文字を習いはしましたが、外界とは随分様相が異なる文字であったので笑われはしないかと文字を書くこともなかったのです。手紙などで使うような日常の文字使いの書き方は外界ではいまだ習わず、お山では砂をつまんで書き習いをしていたくらいで、日常の文章の書き方などはまだきちんとは習ってはおりません。と、寅吉少年は素直に吐露するが、だがしかし、屋代のじっちゃんなど、一家言ある書道家などは寅吉少年の達筆具合に非常に驚き感じ入った模様だ。なお、こういった驚くべきことが次々と起こることを理解しておくこと(かな?))


 さて、何くれと寅吉少年の語ることを聞いておると早くも夜の8時であれば、山崎くんがいそいそと帰り支度を初めた。まだまだ質問したいことは山のようにあったので、もうしばらく留まってはくれないかとは相談したが、fufu…… 話を聞いてくれません。


 なんとか寅吉少年の歓心を買うべく長笛を作らせて、世間に広めたいと言うと、それはまた次の機会に。と山崎くんが寅吉少年を連れてとっとと帰ってしまった。


 翌12日に岩崎くんに昨日の会合を感謝していると言ってもらい、我が師の書たる鉗狂人けんきょうじんを貸し出し、更にまた、近々岩崎くんが笛を作る材料とする竹を探して待っているだろうから、また寅吉少年を連れて来てくれ、と使いを頼んだところ、なんと寅吉少年を伴って帰ってくるではないか!


 これはどうしたことか? と問うと、岩崎くんが言うには、わたしが言う内容を山崎商店で申し上げたところ、またもや山崎くんの母が応対し、寅吉少年はもはや噂の的であり同じような訪問客が絶えることがなく非常に忙しいので、今日も早々と山崎くんとともに外出してしまいました、といっている最中のこと、わたしが笛を作るための竹の良材を求めていると聞き、なんとその外出中のはずの寅吉少年が奥の間から飛び出してきたのだ。


 そして、笛の材料の竹を買うのならばわたしも行く! と外に飛び出してきたので、山崎くんのご母堂が何故出てきた! という顔をしていたが、いま外出中、と言ってしまったばかりに言い訳のしようもなく止めようもなかったので、寅吉少年は岩崎くんと、では参りましょう! とやってきたのだという。


 それを聞いてわたしも笑ってしまった。


 本来なら、居候させてもらっている立場の寅吉少年は、ねんごろな対応で山崎くん邸を出なければならず叱らねばならないのだが今回ばかりはその無遠慮にわたしは大いに助かった、ということだ。


 やってきた寅吉少年は挨拶もろくにせずやって来た途端、神聖な岩笛を吹き鳴らし、このような自然そのままの楽器は面白いものです、と喜んだ。なので止めても人の言葉も耳に入らないくらいに熱中して吹きまくった。


 お菓子などをあげ、わたしも寅吉少年と一緒になって遊ぶ。そこで、どうして古代の人が石に穴を開けて笛にしようと思ったのか、その所感を言ったり、石で作られた剣、矢じり、石を造る方石をつぐ法(古代石造り建築法?)、また、月には穴が開いていること、星とは様々なエネルギーの巨大な集合体であること、空を飛ぶ詳しい方法やどこまでゆけるのかなど、人は死んだらどこへゆくのか、様々な生物がどのように進化を遂げてきたのか、そういったことを尋ねたのであった。




 といった塩梅。


 さて、今回は色々濃厚なお話でございました。


 篤胤邸を訪れた寅吉少年に、まず篤胤は約束していたという石笛を見せました。石笛の画像を検索すると分かりますが、本当に石に穴をくり抜いた程度の、笛と呼ぶのもおこがましいような素朴な品物w 一応、これは5000年前から日本に存在する最古の楽器なんだそうなw 多分、誰でも試したと思いますが、ペットボトルを吹いて音を出したように音を出すようです。穴も小さいから、高い音がでるのでしょうね。


 で、様々な質問が寅吉少年を襲いますが、そのなかで注目されたのが鉄砲。


 山人世界には鉄砲まであり、さらにその当時の最新技術といえる空気銃まで山人たちは所有しているという事実に、集まった人々はそれは驚愕するわけですね。特に、鉄砲鍛冶職人の国友一貫斎が食いつくわけです。歴史好きなら、国友の名を聞けば鉄砲鍛冶職人の名工と分かるわけですが、その国友が篤胤の門に学んでいたのも、これも偶然ではない必然というものでしょうか。


 ちなみに、空気銃、と言われるとモデルガンの事かと想像してしまいますが、空気銃とは空気を圧縮して弾を発射する銃のことで15世紀からその原理が考えられており、同じ初期の銃である火縄銃は天候に弱いという欠点があるが空気銃はそういった天候の影響を受けにくく、大きな音も発生しないという利点があったそうで、オーストリア軍がナポレオン軍相手に使った歴史もあるのだとか。


 で、交易関係にあったオランダの銃が日本に伝来していた。wikiによるとこの銃はおもちゃだったそうな。その銃に刺激を受けた一代の天才、国友一貫斎が仕組みを真似て空気銃を造り、気銃と名付けた。これには十分な殺傷能力があったそうな。「オランダ風砲のごときおもちゃの数十倍の威力がある!」といったそうで、伝来したのがおもちゃならそりゃ威力に差があってもおかしくはないw しかし、空気圧、とかいう概念もない江戸時代に空気を圧縮するポンプなどを作り上げるにはやはりすごいw その噂がまたたく間に世間に伝わり、水戸徳川家から発注があったとか。


 寅吉少年からその空気銃の話を聞いて、国友の名を背負う一貫斎が鼻息を荒くしたのもむべなるかな、といったところでしょう。


 次に人々を驚かせたのが寅吉少年の達筆さ。ですが、大字、小字、細字、の意味が分かりかねまして、wikiでは「壱」「弐」「参」と続く字を大字と呼ぶそうです。また、書道などの用紙に一文字一文字を大きくしっかり書くのが大字、欧米と同様に手紙などを筆記体のように書くのが小字、細字、みたいな区別を言っているのかも知れません。


 篤胤のもとに集まった人々はそこには神主さんもいたり、国友鉄砲鍛冶の棟梁がいたりなので書も達筆な方々が揃い踏みだったのでしょうが、寅吉少年のとうてい15歳とは思えない達筆具合にこれまた一同驚愕するわけですね。


 他にも様々な質問が飛んだのでしょうが、ここに書いてあるのはこれくらい。で、夕方4時頃にやって来て、当然歓迎の食事などをはさむでしょうから、時間の経過がものすごいはやい。気がつくと夜の8時頃であった。この頃はろうそくや油なども当然安いものではなく、庶民はだいたい夜が更けると床につく時代なので、夜の8時といえば今の10時、11時ぐらいの感覚でしょう。そろそろ帰りましょう、となるわけです。


 しかし、待ちに待った寅吉少年の来訪に、それこそ篤胤の中では質問項目が目白押しであったと考えられ、まだまだ聞きたいことがたくさんあります! というわけですが、出し惜しみする山崎美成はとっとと寅吉少年を連れて帰ってしまった。


 が。帰ったはいいが、興奮冷めやらぬ様子の篤胤はその翌日には門人を発して次回の来訪を催促する始末w アセリスギィw で、その門人に鉗狂人(けんきょうじん)をもたせて貸そうとするわけですが、この鉗狂人(けんきょうじん)もなかなか興味深い書物。


 これは、藤貞幹(とうていかん)という学者がだした、「衝口発(しょうこうはつ)」という書に対する、本居宣長の反論の書のことだそうです。


 とうていかん、などというからどこぞの半島人かと思いましたが一応日本人の模様w で、このトウテイカンが何を言うかと云いますと、スサノヲはどこぞの半島、新羅の王であるとか、神武天皇は中華人であるとかそういう日本に昔からいる中華ヨイショのたぐいのこと言っている書で、そのことに反論して出した書が鉗狂人(けんきょうじん)なのだそうな。鉗とは罪人の首にかませる鉄の器具のことだそうで、タワゴトをほざく狂人をこらしめる書、という意味でしょう。凄まじい剣幕を題名から感じますw


 いくら篤胤は本居宣長の弟子を自認するとは言えそんな専門の書を寅吉少年に貸し出そうとする所に、いかに歓心を買うか心を砕いているのが面白いw ちなみに、篤胤は宣長の生存中には会えず、死後書に触れて弟子を自称するのですが、わたしが安岡先生の死後に書に触れ、その学問を広めようとするのと同じようなものですw


 で、岩崎という門人にお使いを頼むわけで、また山崎商店にまでいくと、また山崎の母親が出てきて、二人とももう出掛けました。といつもの居留守を使うのですが、だがしかし! 篤胤の使いが来たことを知った寅吉少年が笛を作る竹を買いに行くのですか!? わたしも行きます! と飛び出してくるw


 ご母堂の面目丸つぶれw


 もう出掛けました、と言って嘘がバレたからといっていないはずの人間をそこで引き止めるわけにもいかず、まんまと山崎邸の脱出に成功。寅吉少年はルンルン気分(超古い)で篤胤邸にやってくるわけですw 


 まさか、門人を使いに出したら姫君を連れ帰ってくるとは思わないからさすがに篤胤もびっくりしてしまうw とはいえ、居候させてもらっておきながらちゃんとした挨拶も謝罪もなしにその家を飛び出すのは本来ならすごい非礼なことであり、国学者としてはコラ、と怒らなければいけない立場的にはあるのだけれど、今回ばかりは寅吉のその非常識に助けられた、とw


 そこでもはや気兼ねなく数々の質問をするわけですが、


「岩笛の成れる始めの考へ、石剣の事、矢の根石のこと、石を造る方、また石をつぐ法、月に穴あると云へること、星を気の()れる物と云へる事、空行の委しき事ども、人魂の行方、鳥獣の成り行きなどの事」


 石笛が出来上がる歴史的経緯とか、石の剣? やじり? 石造建築? また月のクレーター? 星の正体? 舞空術? 魂の帰る場所? 鳥や獣の進化の成り立ち? 


 など実に様々なことを聞いているわけです。


 ちなみに、先の国友一貫斎は望遠鏡を作って天体観測も行っており月のスケッチも残していたようなので、月には穴、クレーターがある、というのも知っていたのでしょう。江戸時代の知識レベルも分かって実に興味深いですw


 

 さてさて、いよいよ本格的に篤胤邸に寄寓することになり、その知識や摩訶不思議な術を披露する寅吉少年。それを次回は伺ってみたいと思いまする。


 では今回はこれにて。


 したらばな~。




 だんご大家族を聴きながら。

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