表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
104/152

『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の三



 中共肺炎の感染者が全国で9万人を突破したとか。


 しかし、重傷者、死者の数もそれに比例して激増しているかと思いきや、数うんぬんは聞きますが重症うんぬんはあんまり聞きませんね。感染力はあがっても劇症化はしないのなら、インフルエンザと同列視されるのもあと少しかな。もう少々の辛抱でしょうか。


 ウクライナは戦争の危機。


 中共は深刻な食料不足で大暴動の危機。


 トンガ噴火で、もしかすると気候変動の危機。


 中共肺炎程度で騒いでいられる世界情勢ではないのかも。


 おこんばんはです。豊臣亨です。



 では、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』を読む、の三 いってみよう。さてさて、お寺に預けられた寅吉少年。そこでもいろいろなことがあるわけでして。p18




【この寺に居たる時に或る人の来て、大切なる物を失ひたりと人に語るを、傍らに聞き居たるに、誰ともなく耳元にてそれは人の盗みて広徳寺(wikiでは、東京都練馬区桜台六丁目にある、臨済宗大徳寺派の寺院)前なる石の井戸の傍らに隠し置きたりと云ふ声聞こえし故に、その如く言ひしかばその人驚きて帰りけるが、はたしてその処に有りしが不思議なりとて人々に伝ひし故に、彼此(あれこれ)と人に頼まれて(うらな)ひ、


 また呪禁加持なども為たるに、ことごとく(しるし)ありし中に、富の題付(だいつけ)(当選番号を当てるくじのようなもの。何百番の何~何、とおおまかに指定して当たったらお金がもらえるんだとか。ナンバーズの走りかな?w)とかいふ物の番を、数度云ひ当てたり。そは来たりて問ふ人人題付と云ふことは言はず、千番ある物の中、一番を神社に納めむと思ふ、幾番が宜からむと云ふこと、卜ひ給まはれと云ふ故に卜ひて、前後すべて二十二三人に頼まれたるに、十六七人は取れりと云ふ。


 六七度は当らざれど、その内五度などは、我がさし教へたる番札は早く人の手に入れる故に外れたりとぞ。かく在りしかば諸人種々の事を頼み来たりて(うるさ)かりし故に、隠れて人に()はざる様にせしかど、なほ大勢来たりしかば、住持驚き、


 この(さま)にて世に弘まらむには、寅吉は弱年なれば、我が怪しき術を教へて物する如く人の思はむこと、心遣ひなりとて家に帰しぬ。この後一月ばかりは家に居たるが、おととし四月よりまた師の教へにて日蓮宗なる宗源寺(wikiでは、東京都杉並区にある日蓮宗系の単立寺院)といふ美延派の寺へ弟子入りして、この寺にて剃髪したり。然るは彼の宗に剃髪して真の弟子とならざれば、見聞しがたき秘事どもの多かればなり】




 ちょ~意訳




 覚性寺にいた時のこと、ある人が来て、大切な品物を失ってしまった、ととある人に言っているのを寅吉少年が聞いていたところ、誰ともなく耳元に、それは誰ぞが盗んだのじゃ。広徳寺の石の井戸のそばに隠してあるでよ。と教えてくれたので、寅吉少年はそのままにその人に言ったようだ。


 そうするとその人は驚いて帰ったが、果たして言われた通りの場所にあったので、不思議なこともあるもの、と人々に言い伝えたところ、色んな人がやってきて頼み事をするので寅吉少年は言われたまま、(まじな)いなども使ったところ、すべてに霊験あったという。


 そんな中には、題付けというくじがあり、それをも的中させていたという。ただ、質問した者は、くじをしている、などとはいわず、1000の番号の中で一番よい番号からでたものを神様に供えます、何番がよいでしょうか占ってください、などというので純朴な寅吉少年は疑いもせずに占ったようだ。


 そして、22~3人中、16~7人は的中させたのだとか。6~7回くらいは外れたのだが、そのうちの5回ほどは、外れたのではなく別のものがすでに当てていたがために取れなかった、というものらしい。そんなことがあったものだから、人々がこぞって寅吉少年目当てに押し寄せるようになった。寅吉少年もさすがにドン引きして隠れて見つからないようにしていたが、それでも人々が押し寄せてくるので、その寺の住職が驚いてしまった。


 そこで住職は、寅吉少年はまだ年若い子どもなので、自分が寅吉少年に怪しい術を教え込んでなにか企んでいるのではないかと風聞が広がることを恐れ、寅吉少年を家に帰したという。


 その後一月ほどは家にいたようだが、二年前の四月より、宗源寺に入り、剃髪した。剃髪するということは出家するということであり、本格的にその寺の僧となることになるので、他者には教えないような大切な経文なども教えられるのでそのために出家したようだ。




 という塩梅。


 


 ここでも寅吉少年の生まれついての不思議な出来事があったようですね。


 最初は親切心から師匠から教わった占いなども駆使して人々を占っていたところ、そのうち、くじの番号を占うように聞いてくるようになり、しかもそれが的中率が高いものだからますます人々が熱狂して寅吉少年を当てにするようになった。欲得に目が血走った人々が押し寄せ、ドン引きして寅吉少年は隠れて出て来なくなったわけですね。


 親切心が仇となって欲に火を付け、元も子もなくす。ちょいちょい聞きそうなお話です。


 そして、そんな狂騒っぷりにさすがに住職が驚いてしまって、こんなことではわたしが何か企んでいるのではないかと噂になってしまうことを恐れてしまって寅吉少年を一旦家に帰してしまった。


 何せ時は江戸幕府が睨みをきかせる時代。こういう騒動は下手こくと責任者が腹を召さねばならない時代ですので、住職は慌てて火消しを行ったのでしょうね。


 で、しばらく蟄居(?)していた寅吉少年ですが、またふらっとやってきた師匠の命で出家した、と。杉山山人は、寅吉少年に神道だけを教えるのではなく、仏教も含め様々な教えを身に着けさせ、広範囲な見識を養うことを目指したのですね。


 そしてそれからまた師匠の元で修行の日々が続きまして。p21





【我は去年の九月よりこの三月まで、七月ばかりも母に別れたれば、今頃はいかにして居らむ、兄はいまだ弱年なり、父のなき後はいかに暮らすらむなど思ひ出でて打ちふさげる有り(さま)なるを、師の見尤(みとが)めて、汝は母の事を思ふ状なるが、無事にて居れば案じ過ごす事なかれ、その有り状を見よと云はれけるが、夢とも(うつつ)とも山とも家とも(わきま)へざるが、母と兄の無事なる有り状の慥々(しかしか)と見えたるが、(ことば)をかはさむと思ふほどに、師の声の聞こえたり。


 これに驚きてふり返り見れば、師の前にぞ有りける。ここに師の言はれけるは、今より暫く家に帰るべし、さて里に帰りたらむ上にも、人はただ一心こそ大事なれば、構へて邪趣の道に踏み入ることなく、神の道の修行に心を()らせよ、然れど仏道をはじめ、我が好まざる道にても必々(かならずかならず)人に悪しと争ふ事なかれ、


 汝が前身は神の道に深き因縁ある者なれば、吾また影身にそひて守護すれば、兼ねて教へたる事どもの、世のため人の為となる事は施し行ふべし、ただしその人の得ざる限りは、(みだ)りに山にて見聞きしたる事を明かし云ふ事なかれ、また我が実名をも人に明かさず、世に云ふままに天狗と称し、岩間山に住む十三天狗の中にて、名は杉山組正(これが杉山僧正で、杉山山人)といふ由を云ひ、古呂明(ころめい)(寅吉少年の兄弟子にあたる人物。平田篤胤が杉山山人の分身か? と問うほど杉山山人のそばに付き従った)の事を云ふときは、しばらく白石丈之進と称し、汝が名も我が授けたる嘉津間(かつま)といふ名は名告(なの)らず、白石平馬と称せよと(おし)へて、平馬の二字を花押(かおう)(意匠化されたサイン)に作るすべを教えられ、師みづから古呂明、左司間(さしま)(古呂明と同じ兄弟子。名字は高山)と共に送られしが、途なる大宝村(たいほうむら)(wikiでは、茨城県真壁郡にかつて存在した村。現在の下妻市の北部に位置する、とか)の八幡宮に参詣せしめ、神前に奉納の刀剣の(おびただ)しく有るが中を択びて、一振りの脇差をとりて差料(さしりょう)(自分の腰に差す刀)とせしめ、空行して暫時(ざんじ)の間に人足しげき大きなる二王門ある堂の前に至りぬ。


 ここに古呂明のこれより汝が家にほど近し、一人にて行けと云はるる故に、こは何処にて侍ると問へば、浅草観世音(浅草寺)の前なりと言はるるに、驚きて見れば実然(まこと)にぞ有りける。空行に伴はれ、ふとここに置かれし故に、いずこと云ふこと思ひ惑へしなり。これにて師に暇乞いして、一人家に帰れり。そは三月二十八日なりけり】




 ちょ~意訳。




 寅吉少年は去年の9月から翌3月まで、7ヶ月も山にいて母親たちとも離れ離れであったので、今頃どうしているだろう、兄も自分と同様、まだ若輩なので父もおらずどうして暮らしているだろうかとふさぎ込んでいると、師匠はそれを見逃さず、お前は母親を心配しているようだが、ふむ、大過なく過ごしているようだぞ、心配するでない。まあ、その様子を見せてやろう、と言われると、夢か幻か、ここは家にいるのか、山にいるのかと訳がわからなくなったものの、確かに母親と兄が無事に暮らしているのが見えたので、思わず声をかけようとしたが、師匠に声をかけられびっくりして振り返れば、なんぞ知らん師匠の面前であった。



7ヶ月も山にいたら、そりゃ里心つくでしょw



 なので師匠が言った。しばらく家に帰りなさい。ただし。


 人は真心が大切なことであって、うつつを抜かして変な道に入ることなく、無心となって神となる修行を続けなくてはいかん。とはいえ、仏教をはじめ、自分が好きではないものがあっても、決して人にそれは間違っている! 異議あり! くらえ! などと争ってはいかん。


 お前の前世は、神の道にそれはそれは浅からぬ因縁があったのだ。だから、わたしもお前の影に隠れたかのように守ってやるから、世のため人のためになると思ったことならどしどしやるとよい。


 しかし、その者が本当に信用するに値すると確信が得られるまでは、みだりにこの山で見聞きしたこと、学んだことをひけらかしてはいかん。また、ワシの本当の名も、軽々しく人に言ってはいかん。世の人々が言うように、天狗とでも言わせておけ。岩間山の十三の天狗の一人であって名を杉山僧正と言い、兄弟子古呂明の事を語ることがあれば、白石丈之進とでも言い、お前も、ワシが授けた名、嘉津間とは名乗らず白石平馬と名乗れ、といい、サインの方法までも伝授した。


 そして、師自ら、古呂明、左司間と一緒に帰らせたが、その途中大宝村の八幡宮に参拝させ、神様に奉納されてある様々な刀剣の中から一振りの脇差を選び、それを寅吉に与えた。


 そこから空を飛びしばらくすると、人々がたくさんいる二王門あるお堂の前に到着する。


 すると古呂明が、お前の家はすぐ近くだ、ここからは一人で行きなさい、と言うのでここはどこでしょうか? と寅吉が問うとここは浅草寺の門前だよ、というのでびっくりして見れば確かにそうであった。空を飛んでバビュッと到着したのでどこに到着したのか混乱した寅吉少年だが、これにていったん、師から暇を出され家に帰り着いた。それは、3月28日のことであった。




 という塩梅。


 寅吉少年は去年の9月から翌3月まで、7ヶ月も山にいた。鬼かw 子どもなんだから帰してやりなさいw しかし、すかさず杉山山人は、寂しがる寅吉少年に離れて暮らす母親や兄の様子を寅吉少年に見せる、と。もうなんでもありw 


 もし杉山山人がこっちの世界のテレビだのカメラだの見たら、ほ~、人間界も少しは進化したなぁ、とか思うんでしょうねぇw


 それで、さすがに7ヶ月も山に置いたのはさすがにまずいか、と思ったかどうかは知りませんが、家に帰してあげることとなった。そこで、お前の前世は神道に深いゆかりの有る人間であって、と、スピリチュアルなお話も平然と言ってのける。そこにシビれるあこg(ry 


 さて。杉山山人としても仏教のことは全然好きではないにしても、まだ子供の寅吉少年が軽々に仏教を排撃するのはよくない、と戒めます。まあ、その後いろいろ寅吉少年は騒動を起こしますけどねw 


 そして、帰る途中、大宝村という村の八幡宮に詣で、そこに奉納されている脇差を寅吉少年に与えた。神に仕える山人なので、神前に奉納されてある刀をあげるなんてどうってこともないのでしょう。


 で、バビュッと空を飛んで人のいる里に降り立つと、そこは浅草浅草寺であった、と。


 いろいろぶっ飛んでますなぁ。さて、家に帰った寅吉少年。せっかく我が家に帰ってきたのですが、さっそく騒動が待っています。p23




【さて母と兄とは、また寺に行きて、出家を遂げよと勧めしかど(うべな)はず。然るは我生まれつきて、三宝(三宝は仏法僧で、仏はお釈迦様、法は大切な教え、僧侶のこと)の道は(きら)いなるを、前に剃髪したるは、師命にて望むことの有りし故なり。


 然れば今は還俗せむとて、下山したる三月より六月まで家に居たり。然るは我が髪は、去年の夏宗源寺にて剃りたるままの、イガ栗頭にて、結び挙ぐこと(あた)はざれば、そを延ばさむとてなり。然るに我が家の宗旨は、一向宗にて、母も兄も明け暮れに阿弥陀仏を称え、神をきらひ卑しめて抹香くさき事どもを、常の所行とするを、吾はそれに替わりて、太神宮(だいじんぐう)(天照大神を祀った神社)の御玉串(おたまぐし)(神様への供え物)を棚になほし、手を拍ち拝すれば、兄は穢らわしとて塩をまき散らしなどするを、我もまけず、仏壇こそ汚けれと、唾など吐きし故に、兄弟の間宜しからず、山より持ち来りつる物ども、天気を見る書、その外雑々(さまざま)の法を記せる書、また薬方の書なども、母と兄に皆焼き捨てられ、師の賜へる差料をも、古鉄買に売り払われたり。


 然るに六月の末頃は、すでに髪も生え延びたりし故に、野郎頭(ネットでは、後頭部の髪を残して広く剃り、総髪を頂きで束ねて結った、ちょんまげなのだとか)となり、いささか由ありて七月より或る人の家を主としけれど、我元より大抵は山に育ちて、現世の人に仕ふる道を知らず、(しもべ)の態にも習はねば、馬鹿々々と云はれ、役に立たずとて、八月始めに返されつ。


 是よりまた少し(ちなみ)にて、上野町の下田氏に居たりけるに、山崎美成の来たりて、ほぼ我が事をきき、珍しがりて我が許に来たれと云はれし故に、母にも云はず、九月七日より彼のぬしの家に往き居て、事の因みにいささか山の事も、我が身の上も語りしかば、人にも語られし故に、人々聞き伝へて多く来たられしが、荻野先生(恐らく荻野八百吉。ネットでは江戸城天守閣の警備を勤めた。また仏教学者でもあった、とか)、また山崎ぬしなどの如く、仏法を好み信ずる人には、問はるるまにまに、その道の事ども、印相(いんそう)(手や指で作るサイン・ジェスチャー。例えば仏像で親指と人差指で輪っかを作るもの)の事など答へて、師の(いまし)めの如く、仏法を悪しき道とは言はざる故に、然ばかり仏法の事を知りたれば、俗になるは惜しき事なり、我等いかにも世話すべし、僧になれと屢々(しばしば)勧められしかど、我は師の言の如く、実に宿縁ありし事と見えて、仏法を好まざる故に辞退して在りけれど、吾が誠の心を語る人なく、事を弁へざる徒は、何くれと悪しざまに評し云ふ由なども聞こえ、また我は世間の交じらひ世の所業も知らざれば、いかにして宜けむと、吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間山の空を眺めて日を送りけるに、その月の晦日に、美成の店なる者の使ひに行くに伴はれて出でけるが、途にて同友高山左司間に行逢ひたり。


 然れど人と伴ひたる故にお互いに物も云はで別れしが、決はめて師の使ひに我が方へ来つるならむと、心に待ちて在りけるに、その夜果たして我を呼ぶ声きこえし故に、それとなく出でて見れば、左司間にて、師の言ひ遣はされたるは、近き間に汝が頼りとなる人有れば、して物思ひする事なかれ、さてまた極月(12月)三日より寒(修行の一種)に入る故に、例の如く三十日の行あれば、十一月の末までに登山せよ、然れど師もし讃岐国の山周り(山人たちでくじ引きで山々に臨時のお手伝いに出る事)に当たるれば、寒行は休みなる故に、また里に帰されむとの事なり、と云ひ置きて帰りぬ。

 

 これに力を得て、美成ぬしに同友左司間が来て、極月には例の如く寒行はじまる故に、十一月の末までに、登山せよと云ひ遣はされたりとのみ語りて在りけるに、十月朔日(ついたち)に、大人(うし)(江戸時代で先生のことで、平田篤胤のことでしょうね)と屋代先生と訪ひ来まして、何くれと問ひ給へる事どもの、人の問へることは事替れるが、心に応え、ことに大人の美成ぬしを制して、僧に成れとは()勧めそ、入り立ちたる道を遂げしめよと言へるが、いと嬉しく(かたじけな)く、我が許へ来たれと返す返す(ことば)を残し給へりしかば、直ぐにも参らばやと、心すすみて、師より左司間を使ひにて、近きほどに汝が頼りとなる人有りと云ひ遣はされしは、この人々の事ならむと頼もしく、時を待ちて侍りしと、後に委しく語りけり】




 ちょ~意訳




 さて、寅吉少年の母と兄は、寅吉少年にまた寺に行って出家しなさい、というが寅吉少年は拒否した。


 そして言うには、わたしはもともと生まれつき仏道は嫌いなのであって、前に偽って髪を落としたのは師匠の言いつけで行ったにすぎない、なので俗世に戻る。と言って、3月から6月まで家にいたのだという。



師匠って誰?? って大騒動でしょうねw



 で、嘘の出家をしたからイガ栗坊主なので髪を伸ばさねば、と思ったようだ。


 また、寅吉少年の家族は一向宗であり、母も兄も熱心に阿弥陀仏を拝んでいたのだが、寅吉少年は神への供え物に替えてしまいそれで柏手を打つなどするので、兄は汚らわしいと塩をまいて毛嫌いしたところ、寅吉少年も対抗して仏壇こそ汚らわしいと唾を吐くなどしたから兄弟の仲が悪くなってしまった。


 しかも、寅吉少年が杉山山人から授かった不可思議な書物を母親と兄が皆焼き捨て、脇差などは古鉄屋に売り払ってしまった。



せめて質屋にもっていけよw 



 とはいえ、6月も終わり頃になると寅吉少年は元通り、マゲを結えるまでに髪が伸びた。


 そして7月頃、少々縁あってある人の家に奉公に出たようだが、寅吉少年は奉公をするといった礼儀作法には通じていない、召使いのお行儀なども知らなかったので、その家の者にはさんざんバカにされたあげく一月で追い出されたようだ。


 その後、これも縁あって上野町の下田という者の家にいた時、山崎君が訪れて寅吉少年から話を聞いて、非常に興味をもってわたしの家に来なさい、と言ってくれたので寅吉少年は母親にも告げずに山崎君のところに行き、全部ではないにしろ聞かれるままに、山の生活やこれまでの不可思議な生い立ちなども話したのだという。それでますます珍しがった山崎君が色んな人にそのことを話たので、(多分)荻野八百吉先生など、仏法に通ずる人がやってきては色々と質問するので、印相など仏教に関して少しは理解があったので答えた。


 そして、杉山山人が戒めたように、仏教に関して悪口を言わなかったので、



あれれ~? おかしいぞ~? 唾を吐いてなかったかな~~??



 還俗するのはもったいない。我らでどうにでも力添えするので、僧となって仏教隆盛に尽力しなさいと勧めてはくれたのだが、わたしは杉山山人から生まれついて神道に強く深い縁があるものと言われているので、出家はちょっと、、、、と拒否した。寅吉少年の本心を語れるような人間が周囲にはいなかったので、あれだけ世話をしてもらったのに僧になることを拒否するとは罰当たりモンめ、と陰口を叩くものがいたという。


 また、寅吉少年は世故たけて世渡り上手な性格でもなかったので、これからの人生、どうしようか、と途方に暮れ、火の見に(日の出を見に??)外に出るといまや懐かしい愛宕山を眺めて日々を懊悩として過ごした。


 そして9月の月末に、山崎君の店員のお使いに一緒についてゆくことになったところ、道の途中で兄弟子の左司間にばったり出くわした。しかし、使いの最中であったので両者とも言葉もかわさず別れたが、これはきっと、師匠が兄弟子を使者として遣わしたのだと寅吉少年は心待ちしていると、その夜、果たして寅吉少年を呼ぶ声があったので出てみると、左司間が、


「師匠から言伝を預かった。近々、寅吉が信頼できる者がやってくるのであるから、そうクヨクヨするでない、とのことだ。


 さて、また12月の3日より、例年通り寒中の修行が始まるので、11月の末には愛宕山に来なさい。しかし、ワシはもしかすると香川の山神様の使いの当番に当たるかもしれないので、もし当番になってしまったのなら、寒中修行は止めになるのでその時は里に帰りなさい」


 と伝え帰った。


 師匠はわたしを見捨てはしなかった! と、このことに奮起した寅吉少年は山崎君に、兄弟子の左司間がやってきて、これこれこういう次第でわたしはまた山に往かねばなりません、と語ったところ、10月1日に、噂を聞いて駆けつけてきたわたしと屋代のじっちゃんが、色々と質問攻めにし、人の問へることは事替れるが(ここは意味がわかりませんでした。人によって質問する内容は変わるが、とかそういう内容? もしくは替の字があるので、君では話にならん。わたしに質問させろ、って事??)、寅吉少年の気持ちを大事にしてやりなさい。といって、わたしは山崎君を牽制して、


「簡単に僧侶になれ、などと言ってくれるな。寅吉少年の立場を尊重してやりなさい」


 といったので、そばで聞いていたのだろう、寅吉少年はその言葉がとても嬉しく、有り難かったようだ。


 そして、わたしが何度も何度も、寅吉少年をわたしの家に来させるように。と念を押して帰ったので、すぐにでも参りたい、と心がせいたようで、杉山山人が左司間に言わせたように、自分が頼りになる者が近々現れる、とおっしゃったのはこのことに相違ない! と今か今かと待っていたのだ、と、その事を後々寅吉少年から委しく聞かせてもらったのであった。




 という塩梅。


 さて。


 杉山山人から、「然れど仏道をはじめ、我が好まざる道にても必々(かならずかならず)人に悪しと争ふ事なかれ」と言われていたにも関わらず、寅吉少年は仏教を信ずる家族と悶着を起こしてしまったわけですね。


 もともと疳の虫の強い寅吉少年なので、ちょっと暴走しやすい、猪突猛進! 猪突猛進! なところが強いのでしょう。とはいえ、貴重な書物をすべて燃やし、師匠から頂戴した家宝と言っても差し支えない脇差を、まるでクズ鉄のごとく売り払われてしまっては、さすがに腹に据えかねるものがあったのでしょうね。それで、師匠から賜った大切な品を燃やしやがって! とか大騒動になって、当然、師匠って誰やねん! となるので、とはいえ自分の師匠や山の内容をくわしく語ることは禁じられていたので、天狗に連れてかれて………とか言ってると、天狗にさらわれた寅吉少年、というのが近隣で噂になった、という次第でしょうか。まあ、杉山山人は寅吉少年のそういう気質もすべて見抜いていたのでしょうけど。


 そんなこんなで家にいずらくなってしまった寅吉少年は、ツテを頼りにいろいろな人のところでお世話になった。しかし、奉公に出る勉強、修行もしていない寅吉少年は、誰かの下で召使いとして働くということができず、バカバカと言われ追い出されてしまった。


 そんなある日、天狗にさらわれた少年、という噂を嗅ぎつけたのか、そこに山崎美成という人物が現れて、その境遇やら不思議さを珍しがって、珍客として家に招いてくれた。「母にも云はず」と書いてあるので家族には何も言わずに招かれたわけで、その頃の寅吉少年と家族の確執が見えてきますね。


 とはいえ、いそいそとやってきたはいいものの、そこでもいろいろな人から、僧侶になれ僧侶になれ、と詰め寄られるので、すっかり困ってしまった寅吉少年。


「吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間山の空を眺めて日を送りける」


 15歳にして、すでに人生に行き詰まって途方に暮れてしまい、ただただ今は懐かしい愛宕山を眺めて過ごす日々。


 吾身ながらに持ちあぐみたる心地、というのがなかなか身につまされます。ですが、そんな時にやってきたのが兄弟子の左司間。近々、お前が信頼できる者が現れるので、そう落胆するではない、と伝言し、寅吉少年は元気百倍! となります。もう、杉山山人が未来を語ろうとも予言をしようとも、それくらいの摩訶不思議さなんてへっちゃらっすよw


 そして、杉山山人の予言のごとく、「大人(うし)と屋代先生と訪ひ来まして」とあり、この文章では何故か寅吉少年の視野で語られているので、寅吉少年が「先生」と言うほどの人物といえばここでは平田篤胤しか考えられない。その篤胤がやってきて、寅吉少年の気持ちも考えずに、そんな軽々しく僧侶になれ、などと言ってやるな。と山崎美成の軽挙妄動を諭すわけですね。


 ここでは、まだ寅吉少年と篤胤は面会していないわけです。ここの仔細は次回に見てみたいと思いますが、別室でそのやりとりを聞いていた寅吉少年が、師匠がおっしゃった頼りになる人はきっとこの人のことだ! と確信するわけで、落胆して己の身を持ちあぐねた寅吉少年がどれほど嬉しかったか、ありがたく感じたか。他人事ながらちょっと感動してしまいますw


 なので、最初に篤胤と寅吉少年が面会した時、あなたは神様ですね。と言ったのも、むべなるかな、といったところでしょう。こうしてみますと、やはり、寅吉少年と平田篤胤は、出会うべくして出会ったわけですね。


 と、この両者が出会うまでのいきさつをちょこっと覗いてみたところで、今回はここまで。


 次は、いよいよ篤胤屋敷に招かれた寅吉少年。そこで彼が語る摩訶不思議な物語とは。-人-



 したらば。


「トトリのアトリエ」のEDを聴きながら

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ