日本って? (一)
しばらくゲームを絶っておったのですが、色々な方々のゲーム動画をつれづれ見ておったら辛抱たまらなくなってついに「スカイリム」に手を出してしまい、さらに辛抱たまらなくなって「ドラゴンズドグマダークアリズン」も手を出してしまった豊臣亨です。おこんばんはです。
「ドラゴンズドグマダークアリズン」はいかにも日本風なアドベンチャーRPGといった感じで自由度や世界も狭いのですが欧風のゲームに較べるととっつきやすいのは確か。
「スカイリム」は自由度は高いし世界は広いし多分、本腰入れてやったら1000単位で時間がかかりそうな魔性のゲームなのですが、キャラクターの顔つきからしてモロに欧米風でとっつきにくい。ぶっさいくなキャラみてるだけで美麗な顔になれた日本人にはナエナエ。そこで、MODといわれるアプリを入れることでぶっさいくなキャラが見事に美人に出来るのですが、MODが適用できるのは英語版のみ。なので表記が英語になってしまい、それを設定いじくって日本語化しなければいけない、とぱこそんにある程度は詳しくないと全然わからん。というハメに。
ネットを必死こいて閲覧しつつ、ぱこそんと日々格闘している今日この頃でございます。ー人ー
上記の「ドラゴンズドグマダークアリズン」もセール中で安かったのでつい買ってしまいました。久しぶりにやってみましたがやはり面白いですね。諸事情で続編ができないのならDLCでワールド拡張パックでも販売すればいいのに。と思います。
さて。
軽く近況を述べたところで、そろそろ本題に入りませう。
こうして、ゲームにおいても欧風と和風、全然別物であるわけですが、この「日本的」なるものは一体何なのか、どうしてこうも広い世界にあって日本という固有の世界が出来上がったのか。同じアジア世界であっても東南アジアや朝鮮半島、中華とはやはり日本は別物なわけです。恐らく、この後何世紀たとうと、これらは混融されることなく別世界であり続けるであろう、というのがわたしの所感であるわけですが、それはどうしてなのか、どうしてこの二百ちょいとある国々の中で日本という超特殊な国が出来上がったのか、を見てみたいと思います。
普段、異世界な文章に慣れ親しみ、親切で善良で大人しい異世界人が当たり前の「なろう」世界ですが、それらは日本人が書くからこその異世界であり、日本人の概念、常識をほとんど外れないものであるということが大前提なわけです。ぱくりじゃーぱくり野郎じゃー、と言いたくなるような作品が多いとはいえ「家畜人ヤプー」のような読み物を、どれほどの人が抵抗無く受け入れられるか。いくら斬新な異世界であっても、やはりそこには、読み手も同じ日本人であり、日本的なるもの日本風なるものが好まれるのは当たり前なわけです。
近頃、世情では労働者確保の名目で外国人を受け入れることをさしたる論議もなしに、かつ、様々な問題を棚に上げて「入管法改正案」の成立を目指しています。
こういった世相だからこそ、日本とは何なのか、日本人とは何なのか、を考えてみるのも一興かと存じます。
世界でももっとも自国に、自国の歴史に誇りも尊厳も自覚も希薄な日本人とは一体何なのか。
普段、空気や水やお日様と同様、あって当たり前でなくなることを夢想だにしないこの『日本的』なるものは何なのか。
老荘思想家のおっさんは語りたい。
とは言え、恐ろしく馬鹿でかい問題なので、例によって例の如く安岡先生の書に教えを請う次第ではございますが。
今回は安岡教学の淵源と呼ばれる、
『日本精神通義』
サブタイトルが『人生、道を求め徳を愛する生き方』致知出版社
から教えを承りたいと思います。
安岡教学の骨格をなす名著であるがゆえに、現代では少々言葉が難しいところはありますが、非常に大事な教えであるので、はたし眼になって敵中白刃のただ中を踊りこむ気持ちで拝読させていただきたいと思います。
日本民族発展の枢軸にある神道 p16
「日本の歴史を通観しておりますと、ちょうど、分家・婚姻・縁者・それからそれへと大きく拡がっている旧家の中でも、厳乎としてその根幹をなして続いている宗家の血統があるように、儒教、仏教、キリスト教などいろいろな文化の交渉や融合、発展がありますが、この中に遠く神代の昔から連綿として我が国の歴史の枢軸を成して発展してきているのは、実に神道であります。
おおよそ、世界はいずこの民族も太古は同様の心理を多分にもっていたものですが、日本民族もやはり、当時の原始的な人間として驚畏に堪えなかった火や水や日や月や星や雷や風や山などの自然現象を崇拝し畏怖しておりました。
そればかりではありません。蛇や狼や猿の類にいたるまで、何かしら気味の悪い、機嫌をそこねるとどんな祟りをするかも知れないものはみな一種の神として祭っていたものでありました。例えば、平安期末期にできた『今昔物語』に、美作や飛騨などの地方民が猿神をあがめて、毎年、生贄を供えていることが出ています。
また、『常陸風土記』に、継体天皇の御世、行方郡に荒地を開墾すると蛇(夜刀神)がたくさんおって、害をして困るので、杭を立てて人と夜刀神の地とを分けることに定め、これだけの地は神にさしあげ、永久にお祭りもするから、今後、祟らぬようにしてもらいたいと祈ったことが書いてあります。さらに、『日本書紀』を見ますと、欽明天皇紀に、有名な膳臣巴堤便が百済に使いして、虎に愛児を奪われました時、仇討ちに出かけて「汝威神」と虎に呼びかけています。
同紀にはまた、山中で血まみれになって闘っている狼に「汝は是れ貴き神にしてあらきわざをこのむ云々」といっているくだりがあります。こんなことを一々挙げていれば限りがありません。
禽獣のような生物ばかりではありません。石や木のような非情の物から、船や剣のような道具にまで神霊の籠っていることを考えました。
そして、何よりも不思議であり不安でならなかったのは自分たち人間の存在であり、死であり、死後のことでありました。
しかし、注意しなければならぬことは、日本民族は元来すこぶる光明を欲し自然を楽しみ生命を愛する特性を持っておりまして、死ねば黄泉国にゆくものくらいに考えて、あまり死後のことについて煩悶などしなかったようであります。
人間には肉体に霊魂が宿っていて、肉体が死んでも霊魂は死ぬものではない。やはりそれ相応の生活をしていて、人間界と自由に交通することができる。この霊魂勝れたものほど偉人であって、その人は生きている間も大きな功業を立てたり、衆望を集めたり、死ねばますます人間界に神秘な作用をおよぼすものであると信じておったのであります。この、
「生命尊重―――偉人崇拝―――英霊崇拝―――人間感化―――世道興隆」
があくまでも神道の根本観念であることを忘れてはなりません。
そこで、前述の大自然の信仰に関しても、人間を滅ぼし、世の中を壊してしまうような神力ではなく、物を成し、人を生み、世を修めてゆくような、『古事記』にいわゆる「是のただよへる国を修理固成す」という創造のはたらきを崇拝しているのであります。『古事記』の冒頭を静読深思して下さい。
「天地の初発の時、高天原になりませる神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神次に神御産巣日神。この三柱の神はみな独神成り坐して身を隠したまいき。次に国稚く浮脂の如くして久羅下なすただよへる時に、葦牙の如、萌え騰る物に因りて成り坐せる神の名は、|宇麻志阿斯訶備比古遲神次に天之常立神、この二柱の神も独神成り坐して、身を隠したまひき。
上のくだりの五柱は別天神。
次に成り坐せる神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神も独神成り坐して、身を隠しはまひき。次に成り坐せる神の名は宇比地邇神、次に妹須比智邇神、次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神次に於母陀琉神、次に妹阿夜訶志古泥神、次に伊邪那岐神、伊邪那美神。上のくだりの国之常立神より下、伊邪那美神以前あわせて神代七代と稱ふ」
「是に天神諸々の命以て伊邪那岐命、伊邪那美命二柱の神に『是のただよへる国を修理固成せ』と詔ちて、天沼矛を賜ひて言依さし賜ひき云々」
すなわち、別天神から始めて、国之常立神、豊雲野神までは絶対者であり、以下の天神にいたってようやく相対的関係を生じ、いざなぎの神、いざなみの神よりして鮮やかに万象の展開を示しております。
こういう思想が民族独自のものであるか、または、大陸思想の影響であるかというようなことは論外であります。とにかくこの神話によって、いかにわが民族が創造的精神を確保するものであるか、ということを知れば足りるのであります。
この物を造り、不思議な作用をなす造化の力を「むすび」(産霊、産巣日、産日。日も霊も「ひ」で、「むす」は化生という意味。産や巣をあてたのは面白い)と称するのであります。そして、ここにさまざまな「むすびの神」を信仰いたしました。
その最も大宗は「たかみむすびの神」と「かみむすびの神」とありますが、その他に著しい二、三の神々を挙げますと、まず、「たまつめむすびの神」(玉留産日神)があります。これは肉体に生命霊魂を宿らせる神、すなわちこの身に生命霊魂となって現れた神であります。これを生み育てるのは「いくむすびの神」(生産日神)であり、これを調和満足させるのが「たるむすびの神」(足産日神)であります。
そればかりではありません。国土そのものにも「むすび」を認めて崇拝いたしました。『古事記』のこの文章に続く神話によれば大八島六島みな、いざなぎの神、いざなみの神より生まれ出たのであります。これらの島々に、伊予には愛比賣、讃岐には飯依比古、土佐には建依別というふうに人格神の名がついております。これがやがて「くにだまの神」(国魂神)の信仰になり、国々処々の繁栄隆祥を祈願しております。
ひるがえって、そのかみのわが国情はといいますと、人皇第一代、始馭天下之天皇である神武天皇は、天業(帝王の事業)を恢弘(事業などを大きくして押し広めること)し、天下に光宅(天皇の徳が遠くまで広まること)するに足るべき地を求めて、日向より東征し、
「吾れ必ず鋒刃の威を借らず、坐ながらにして天下を平げむ」
との人道的大理想をいだき、幾多の辛酸を経たのちに大和の柏原に、上はすなわち乾霊国を授けるの徳に答え、下はすなわち皇孫養正の心を広めようと、都を定めたのを紀元元年として大和を中心に次第に皇化は広まったのであられます。諸方に割拠していた土豪、いわゆる八十梟師もだんだん帰服し、それに伴って統治も組織だってきたのであります。
「むすび」を尊ぶ日本民族はこうして必然的に、
イ 祖先を尊ぶ
ロ 伝統を重んじ
ハ 帰服者を寛容し敬重する
という美質を備えてゆきました。
そして、同一の祖先より出たと信じる血族団体を氏と称し、これに属する諸部および奴婢などを包容して大きな氏族を実現してゆきました。天皇よりはそれらの氏族ごとに姓を賜わり、彼らはそれぞれ職を分かって皇朝に奉仕しました。その氏族の統帥を氏上といい、多くの子孫、族類から畏敬され、神格化されていったのであります。
ここにまた深く留意すべきことがあります。それは、日本国民の神の観念についてであります。ちょっと考えると諸方の原始民族と変わらず、日本人も生気崇拝、自然崇拝、庶物崇拝を出ない素朴な多神教のようにとれるのでありますが、実は単に何かしら超人的な威力ある者、不思議な恐ろしいものすべてを神とするという観念があります。
さらに、一面、われわれ人間のすぐ上にあるもの、影身に添うものというように親しく考えられ、人物を神格化すると同時に、神を人格化し、神人合一の自由で微妙な心情を持っており、また、氏族と皇室、皇室と造化の神との有機的統一は、キリスト教のような一神教の天主とか世界の主とかいうかけ離れた神の信仰とはまるで違って、
天神―――国神―――祖神の間に何の矛盾もない。
国家の紀元もべつだん宗教的紀元によらず、教権と政権ともいっこうにヨーロッパのような扞挌(二者が互いに相手を受け入れないこと)を生ずるわけがないのであります。実にありがたい不思議な国家ではありませんか」
ここらでよかろうかい。
さて。
いきなりとんでもないお話から始まっておりますが、皆様、ご機嫌はいかがでしょうか(笑)。
日本で最高峰の頭脳から、日本の根源を尋ねるとこうなりますよ、という一例でございます。ー人ー。
もう、神様の真名(?)が出ている時点で脳が過負荷に処理が追いつかなくなることもしばしばではございますが、しかし、ここで面白いのが多神教はよいとしましても、古代日本人はよくもここまでたくさんの神様を想像? できたな、と思いますね。
もちろん、漢字一字に意味がありますから、それぞれ特別なありがたい神様でありますが、こんなありがたい最上級の偉い神様でもうこれだけおわすわけですから、八百万の神様、もこれだけで実感できるではありませんか。
恐らく、この「むすび」の部分も初耳の方もいらっしゃるかと思いますが、日本人がどれほど神様を神聖視し、産む、育てる、創造化育の力を、これほど、ありがたい、有り難いと思っている民族もそうはいないでしょう。
どこぞの唯一神は、人間が堕落した、といって罰を下すようなおっかない慈悲もへったくれもないですが、日本の神は、いま生きている存在、いま芽吹いている存在を祝福してくれる、愛してくれる、いつくしんでくれる、本当にありがたい素敵な神様なのである、ということを分かっていただければよいかと存じます。
日本は、日本人は、こんなありがたい神様を「上」に戴いて、しかも、それを唯一神として絶対視することなく、自分も死ねばやがてそうなるもの、やがてそこにいたるものと思っていたことに、今更ながらに驚嘆するではありませんか。
この、懸隔のない、分け隔てのない、差別のない連続性、魂の自然な流露こそが、日本の、日本人の根本的精神なのであります。こんなありがたい信仰をもった民族が日本以外でどれほどおわすでしょうね。
また、我が皇室の始祖、神武天皇のお言葉を振り返ってみましょう。
「吾れ必ず鋒刃の威を借らず、坐ながらにして天下を平げむ」
つまり、刃によって平定することを目指さない。座して万民をしろしめすことを目指されたのであります。
これも驚くべきことであります。
古代といえば血なまぐさい、人を人とも思わぬ、殺して奪うのが当たり前と思ってしまいますが、そうではない、徳によって、人徳、威徳によって万民を悦服させるのだ、という大理想をもちえた大王が、古代に、どの国にいたでしょう。
これは、あまり有名ではありませんが、わたしも取り上げたことのある、文中子さんのお言葉ともぴたりと合致するものであります。
文中子さんに関しては、
文中子。 2015/07/06
で取り上げさせていただいておりますが、すなわち、
「子曰く、天下をもって一民の命をあなどらず」
とまったく同じことなわけですね。
すなわち、どうしても天下を平定する、天下を手中におさめる、となりますとその大義だの使命だののためにどれほど血が流れようと構わん、どれほど殺そうが死のうが、天下を取ってしまえばよいのだ、という思考になってしまいがちで、ヨーロッパはもちろん中華だって大昔から今に至るまでその歴史の繰り返しなわけですが、文中子さんはそうではない、とおっしゃるわけです。
天下のためだろうがなんだろうが、そのための民の一人の命だっておろそかにしない。粗末にしない。粗略に扱わない。
天下だ、大義だ、革命だと、言葉で飾って、嘯いて、繰言ほざいて、結局やっていることは虐殺、殺戮、弾圧である、そんなのは本当の善ではない、本当の人としてのありようではない。
本当の聖人君子の目指す道などではないのだ。
これこそが本当の王道政治というべきでありましょうね。
そして、神武天皇は、その王道政治を敢然と決行された本当の聖王なわけであります。
こんな素晴らしい天皇を戴いた民族も、日本以外にはそうそうありますまい。
そして、だからこそ、帰服者を皆殺しにしたり、虐待したり迫害したりすることなどなかった。帰服者を尊び、お互いに尊敬しあって仲良くやっていた。
何でも、
すべてを水に流す。
何てことをやれるのは世界でも日本だけなのだそうな。
すべてを水に流して、昨日の敵を今日には友として受け入れる。
これこそ、日本人が世界でも敬われる、尊敬される、大事にされる根本的美質であります。
どこぞの、恨み千年忘れず。なぞと言ってとくとくとしておる為政者のごときは、こういった精神に触れたら恥ずかしくて憤死してしまうでしょうが、まあ、そういった恥ずかしいという感情すら持ち合わせていないからとくとくとしていられるのでしょうけどね。
人を呪わば穴二つ。
こんな当たり前のことすら理解できないとは、恥ずかしい生き物もいたものであります。そんなに嫌ならそっちから国交断絶すればいいのに、と思うのはわたし一人でしょうか。
こういうところに、日本人の特質とは、こんな古代から醸成されていたことに、いまさらながらに気づかされるわけであります。そして、その特質が1000年経ても受け継がれていることに、今更ながらに驚かされるわけです。
つまり、1000年もの間、こんな小さな島国に、固有の民族が固有のまま命脈を保ってきた、ということの奇跡を、どれほどの日本人が理解しているでしょう。
世界の歴史では、戦争攻伐の果てに、民族がほとんど消え絶えるということが少なからず起こるのであります。古代ギリシャ人も、古代ローマ人も、もはやすでに跡形もなく消え失せいまいる人々とは何の連続もないのだそうで、中華においても同様で、八割九割の人民が死んでしまうこともたびたびあったそう。
そんな殺伐とした、まさしく明日をも知れぬ歴史が当たり前の世界にあって、これほど平和に、のんびりとした歴史をつむいできた国が、日本以外に、あるわけがないのであります。
最後に、わたしが大好きな万葉集の歌をみて終わりにしたいと思います。
「河の辺のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は」
わたしはこう想像するのです。
のんびり川くだりをしながらら、暖かな陽気にうつらうつらしながら椿をつらつら見るけど、飽きが来ないものだ。巨勢(蘇我川)の春の野原は。
万葉集の成立は759年とか。1000年以上経ても、こうして、歌の気持ちを感じ取れる、歌の気持ちを考えられる。
民族の断裂がなく、国家の没落も分裂も経験していない、世界で唯一、日本人だけが味わうことの出来る至福の瞬間であります。
知れば知るほど、日本に対して誇りが持てる、日本人であることを嬉しく思う。
こんな国はそうそうないのであります。
勉強して本当によかった、としみじみ思うのであります。
と、いうわけで、日本について少しは語り得ましたが、安岡先生の書はまだまだ取り上げるべき点がありますのでまた語りたいと思います。
それではまた。
日々学問。
強引に10文字以上をルビにしましたが、不具合でたら申し訳ございません。ー人ー