オオカミ男の細っ腹
冬のある日、寒い朝の出来事。僕の出勤前準備の中の1つに、熱帯魚が泳ぐ60センチ水槽の蛍光灯を点けるというのがある。ところが今日は、何度スイッチを押しても点かない。
昨日の夜は点いてたんだけどな――と僕は思いつつ、どうしたものかと思案した。廊下にある水槽は、別に照明が無くったって、若干暗いものの問題はない。ないんだけど、毎日照明を点けてる訳で、急に暗くなったら熱帯魚に悪影響が出ないとも限らない。
少し考えて僕はすぐに閃いた。玄関の照明を点けっ放しにしていたら良いんじゃないか?さらに僕は、ある知ってる人の家を思い出し、絶対にそうしようと決めた。その家はずっと玄関の照明を点けっ放しにしているんだけど凄い豪邸で、もしかしたらそのおかげで大金持ちなのかもしれないのだ。おまけにリビングには「目指せ東大!!」なんて参考書が何冊か散らばっていたし、東大を目指したくなる知能だって備わるのかもしれない。風水か何か分からないけど、試してみる価値はありそうだ。何より熱帯魚の為だ。ちょっと電気代がもったいないと思わなくもないけど、思いきって僕は、照明を付けっ放しにして職場に向かう事にした。
職場は神戸にある小規模多機能施設「ディオーサ愛の丘」というところで、僕はそこで常勤として勤めている。僕の名前は芹沢信幸、年齢は45歳、介護歴9年の中堅で、今の施設に勤めてからは3年半になる
今日は、訪問とか送迎とか外周りがメインの仕事だったのだけど、15時から16時の間に何の予定も入っていなかった。なので、以前から施設に欲しいと思っていたHDMIケーブルを買いに行こうと思い立った。パソコンとテレビを繋いで、利用者が大きなテレビ画面で、撮りためた写真を楽しめるようにするのだ。購入許可は、前の会議の時に管理者からすでに取っていた。
さあそれでは、早速近所のコジマに施設車のワゴンRで向かおう。森福さんという87歳の女性利用者も一緒だ。外出レクも兼ねての外出、帰宅願望が強く、いっつも玄関辺りをうろついてばかりいる森福さんには、きっと良い気分転換になるはずだ。師走の澄み切った空気に雲ひとつない青空、ちょっとくらい寒くったって関係ない、うってつけのドライブ日和、愛用のiPodtouchをケーブルで繋いで、プレイレストを選んだら出発だ。
「いい天気ですね」
僕はご機嫌に森福さんに話しかけた。カーステレオでは、スピッツの「空も飛べるはず」のさよならポニーテールのカバーバージョンが流れている。なぜか森福さんと外出する時は、この曲が入っているプレイリストを選んでるなと、僕は思った。
「うわー車が多いね」
隣りに座っている森福さんは、僕の声かけには応えずにそう言った。そしてその後も「車が多いね」と言い続けた。金曜日の午後、理路整然と団地が立ち並び、ベッドタウンとしての役割を担う地方都市に車はさほど多くない。でも、森福さんはこうしてドライブする時、いっつもそう言う。もしかしたら間を繋ぐ為の常套句なのかもしれないし、驚いて見せているだけなのかもしれない。本当のところは誰にも分からない。
さてコジマに到着すると、森福さんは「うわー物が一杯やね」とばっかり言っている。これもいつもの事で、どこの店に行ってもそう言う。早速僕はHDMIケーブルを購入した。すると店員が、お得だとか言ってコジマの新しいポイントカード勧めてきた。でも僕は勤務中で、そんなポイントカードの新規会員手続きなどに時間を割いてる場合ではない。なので「また今度にします」と断った。
しかし僕の隣りにいる森福さんが「あっそうなの」とか言って、新しいポイントカードにいかにも興味を持ったかのように1歩踏み出した。だから途端に笑顔が20%増幅した店員は、いざ出陣とばかりに、今度は森福さんにポイントカードの説明をし始めた。確かに森福さんはパッと見た感じ、黒髪をきっちりセットして身成も整っているし、姿勢もしゃんとしてサクサク歩くし、普通のお婆ちゃんに見える。だけどおばちゃん店員が、勝算ありと食いついたその人は、新しいポイントカードの事なんか、多分何ひとつ理解出来ないし、そもそも古いポイントカードすら持っていない。さらに言えば、今後死ぬまでにコジマに訪れる可能性もほとんどない。とういう訳で、店員にとってのこの勧誘は全くの徒労で無駄な時間だ。
でも僕は隣りで黙って見ていた。
嬉しそうにおばちゃん店員は森福さんにカードの説明をしている。森福さんも「あっそうなの。それは良さそう」とか言って笑って聞いている。店員の話しの内容なんて何ひとつ分かってないはずなのに、興味深そうに聞いている。恐らく森福さんは、誰か他人がわざわざ自分に何かを丁寧に説明して勧めてくるのが嬉しいのだ。きっと私が必要とされていると感じられるのだろう。
施設ではそんな場面はない。せっかく外に出ても、職員に「こっちですよ」と手を引かれて席に戻され、他の利用者にも「私の部屋に入らないで」とか注意され、自分の行動を否定され続ける日々だから、新しいコジマカードを勧めらている今この時間は、恐らく特別な時間なのだ。施設でも、洗濯物を畳んでもらったり、洗い物を手伝ってもらったりして、役割を持ってもらおうとはしているけれど、失われた私を充足させるのには全く足りないのだろう。
という訳で、僕はしばらく隣りで様子を見ていた。そして、なんだったら僕が新しいカードに更新しても良いかなと思っていた。しかし話しを聞いていくうち、その新カードはイオンと提携したクレジットカードで、面倒な手続きが必要そうな事が判明してきた。そろそろ切り上げ時だ。僕は森福さんに声をかけた。
「でも森福さん、今日カード持ってきてないでしょ」
「そやねえ、持ってきてないわ」
「じゃあ、また今度入りましょう」
「そやねえ」
笑顔の森福さんはこの場に名残惜しそうであったけど、僕は「さっ行きましょう」と森福さんの腕を引いてその場を離れた。
さあ、用事は終わった。ワゴンRを発車させ施設に戻ろう。流れ出したのはandymoriの「楽園」だ。
帰り道、やっぱり森福さんは「うわ~車が多いね」とばっかり言っている。僕はパソコンとテレビを繋いだ後みんなでスライドショーを見ながら、女子職員に「芹沢さんってパソコン詳しいんですね」と羨望の眼差しを受けている場面を妄想していた。
施設に戻り、僕は颯爽と歩きながら、HDMIケーブルの箱を勇ましく引きちぎり、その足でフロアの奥まで行って空箱を豪快にゴミ箱に投げ捨てた。素早く振り向くと、HDMIケーブルをほどきながら玄関傍にあるパソコンに――さながらローマ帝国の戦士のように――向かった。
いよいよ勝利の瞬間が近付いている。僕はパソコンの前に立つ。そして屈む。さあ今こそ、ぶち込んでやるのだ!!HDMIケーブルを!!
セッート!!――天に突き上げた剣に光が降り注ぎ、勝利の鐘が高らかに鳴り響く、これぞ、栄光の瞬――あれ?
なんかおかしい――思ってたのと違う。
家のパソコンにはHDMIケーブルを繋げたので、何の疑いも持っていなかったのだけど、この施設のパソコンにはHDMIケーブルを繋ぐ穴がない。どこをどう見てもない――さっきまでの戦士の妄想画は色を失って静止し、そしてガラスのように割れた――嗚呼、シーザー、僕はどうすればいいんだ?
血の気が引いていく。もしかしたら3000円もしたHDMIケーブルを僕が引き取らないといけないのか?でも家では今のところ使い道がない。落ち着け。落ち着いて考えろ。うむうむう~。
しばらくあたふたとフロアを往復して考えたけど、どう考えたって使い道がないのだから返品するしかない。僕はHDMIケーブルを両手で持ち、そこにいた女子職員に聞いていた。
「これパソコンに繋げれなかったんですけど、返品できますかねえ?」
「そりゃ出来るんちゃう。使われへんねやったら」
僕は女子職員の言葉で力を得た。さっさと返品に行こう。16時から訪問が3軒あるけど、その前にコジマに急ごう。
という訳で、僕はさっき捨てた箱を拾いに行ったのだけど、乱暴に引きちぎったものだから、所々凹んでいる。なぜもっと丁寧に開封しなかったのかと激しく後悔した。それから、必死のパッチでケーブルを輪の形にまとめて箱に入れた。
車中も全然落ち着かない。音楽なんか聞く気にならない。果たして、こんな痛んだ箱で返品を受け付けてくれるのだろうか?
さてコジマに到着し、返品するつもりのHDMIケーブルを持って、とりあえずケーブル売り場に行った。もしかしたら、返品せずともうまくいける方法があるかもしれない。施設のパソコンに繋げるように変換する物がないものか見てみたら、それっぽい物が見つかった。でもそれで上手くいくのか、サッパリ自信が持てない。なので、店員に聞いた。すると答えはあっさり返ってきて「無理」という事であった。それで僕は何もかもを諦めて言った。
「このケーブルは返品できますか?」
僕は持っているHDMIケーブルの入った箱を差し出した。
「開封していなければできます」
店員は言って、HDMIケーブルの入った箱を受け取って、いろんな角度から見ている。
「無理ですかね。開けて、ケーブル使えるか試してみて、無理だと分かったんですけど――」
僕は言った。だが、死ぬ前の蚊が飛ぶ音くらいの声しか出ない。
「そうですね。開封されてケーブルも出されたとなれば、このままでは売れませんからね」
「返品出来ないんですか?」
夢も希望もない。真っ暗闇に堕ちたような気分だ。もう泣きそうだ。
「この状態でしたら開封したお代を頂く事になります。商品の1割ですので、300円になりますね。それでよろしいでしょうか?」
「よろしいです」
そんな訳で、僕は300円払い、利用者宅を訪問するべくワゴンRで向かっている。
それにしても残念でならない。これじゃあ、わざわざ300円を損するためだけにコジマに行ったようなもんじゃないか。今後の人生では、今回の事を教訓にして、テレビとパソコンをケーブルで繋ぐなどという危険なヤマにはアタックしないでおこう。分相応に生きていこう。そう強く心に刻んだ。しかし、刻んだものの相変わらず気分は落ち着かない。ダメージは思ったより深いようだ。僕は沈んだ気分を盛り上げる為、iPodを再生させた。しばらくしてスピッツの「ルナルナ」が流れてきた。僕は大声で唄った。今の僕に出来る事と言ったら「ルナルナ」を大声で唄うくらいじゃないか。
1軒目の訪問が終わり次へと急ぐ。5時前になりだいぶ暗くなってきて、正面には白いまんまるの月が見える。「ルナルナ」を唄ったおかげだろうか、月を見る余裕が持て始めたようだ。
その後、その他2軒の訪問を手早く済ませると、もう5時45分だった。コジマなんかに行っていたから時間がない。6時から3名の利用者を自宅に送らないといけないけど、今から施設に戻って利用者を乗せる頃にはもう6時だろう。僕はそう思うと焦ってきた。別に絶対的時間厳守を課せられている訳ではない。ただ単に僕が帰宅時間の7時を1分でも超えるのが嫌なだけだ。当然、急ぐせいで運転は少々荒くなる。でもそのおかげか、あっという間に施設に着いた。しかし施設の前にはすでに2台も車が止まっており、僕の車が停める場所がない。さあ急げと、駐車場を見渡したけど、駐車場も一杯だ。これは困った。ボサッとしてる場合じゃないのに畜生――ん?よく見ると駐車場の一角に車1台分のスペースがあるじゃないか。
でもそこには原付が停まっていて、今まさに出ようとしているところであった。はよどきやがれ、駐車場に原付なんか停め腐ってからにダボハゼが、なんて思いつつ見ていたら、なんか怪訝そうにこっちを見ながらではあったけど、出て行ってくれた。
よし急げ!!僕は素早く車をバックさせる。なんかいつもより幅が狭い気がするけど、まぁ良い。とにかく急げ!そのうち車止めにタイヤが当たるだろう。
「ガン!!」
僕は咄嗟にブレーキを踏む。何だ今の音は!?車止めじゃない何かにぶつかった音だ。やっちまったのか?顔をしかめ、恐る恐る車を降りて確認に行く。するとワゴンRの右後方が、柱の角に当たっていた。
やっちまった――。もうすぐこのワゴンRを返して新車が来るから、絶対に傷付けないようにと、管理者に言われていたところだったのに――。でも何でだ?どうして車止めではなく、柱なんかにぶち当たるんだ?そんな馬鹿な事に何でなるんだ?僕はあちこち辺りを見渡して、ようやく気が付いた。
そこは駐車場じゃなかったのだ。施設の自動ドアの前の、人が出入りする為のスペースだったのだ。
「はあああああ~」
僕は金剛力士像のような口スタイルでため息をついた。やっちまった。やりすぎてしまった。
でも、もうどうしようもない。とりあえず車に戻って車を出そう。なんと言っても、そこは駐車場じゃないのだから。何度もため息をつきながら車に乗る。やっぱりなぁ、HDMIケーブルダメージが深かったなぁ、300円も損したもんなぁ、などと僕は事故の原因を考えながら、車を前に出した。急いでいた事ももちろんある。でも無駄に300円損し、落胆して落ち着かない気持ちになっていたのが最大の要因だったと思う。それから「ルナルナ」を大声で唄って、月の存在を感じれるようになったから、すっかり回復したのかと思っていた。しかし「ルナルナ」で月を認識する事は出来ても、駐車場をちゃんと認識出来るようになるまでには至っていなかったようだ。いっそ「ザ・ガレージ」とかいう唄が流れてくれれば良かったのだ。じゃあ、あんな場所をガレージだなんて勘違いしなかっただろう。でも、もうどうしようもない。スピッツに「ザ・ガレージ」なんて唄はないのだ。
僕は慎重に車を出して施設の前に停めた。それからワゴンRの右後ろを確認する。凹んでいる。結構目立つ。これは事故報告に始末書にいろいろ書かないといけない。残念だ。残念でしょうがない。でも僕には、まだこのダメージある車で利用者を家まで送り届けるという任務がある。
だから僕は、利用者の元へ向かうべく階段を上る。その時僕は、さっき怪訝そうに出て行った原付がいた事を思い出した。あの時僕は「ダボハゼ」だなんて心の中で毒づき睨みを効かせてしまっていた。どこの職員か知らないけど、明日噂になっているかもしれない。あ~嫌だ。
その後はこれ以上転落してたまるかと、なんとか崩壊しそうな心をなだめ、慎重に運転したので何事もなかった。そして事故報告を書いてから帰宅すると、僕は真っ先に玄関の照明を叩くように消した。
何が豪邸だ!何が東大を目指す気になる知能だ!何が熱帯魚だ!アホか!
玄関の明かりをずっと点けてるだけで何か良い事なんてあるものか!!それどころか、電気代は無駄になるし、最悪だ!!
それから僕は、玄関の照明を付けっ放しにしている家の事を思った。もしその家の主みたいに僕が金持ちだったら、300円如き損したって、太っ腹なので何のダメージも受けず、何事も起こらなかっただろう。でも僕の腹は、たった300円ぽっちで下痢クソ下すような細っ腹だった。そして細っ腹だったばっかりにこんな事になってしまったのだ。
「ワオーン!!」
僕は窓を開けてオオカミみたいに吠えた。なんと言っても今日の月はまんまるだから――。