番外編:ホウカ・キクチ① 菊地鳳華の奮闘
読まないでも大丈夫!
9月2日 15:47
「はい、はい、4日の13時ですね。……はい、ではその時に。はは、おつかれ様です。では、失礼します」
電話を切ると、男は面倒くさそうに椅子から体を滑り下ろし、所謂「腰で座る」状態になった。
デスクに膝が当たって滑り落ちそうになるのを腹筋で堪えると大きく溜息を吐いた。
「はぁ〜、明後日飯食ったらすぐ会議かぁ。食後はのんびりお茶飲んで寛ぎたい……日光の当たる冷房の効いた部屋でぬくぬくしていたい……」
「あはは、そうですね。ですが今度の仕事は大手ですよ! みんなも賃金増えるって喜んでますし、ここは根性です、根性!」
男の後ろで拳を握りしめ、返事をした女は目を$に輝かせる。
身長は平均より遥かに高い186センチ、年齢は23歳。金髪の髪をおかっぱにしている彼女の名は、菊池 鳳華。男は背後を取られたことに軽く驚いたが、集中していたから気づかなかったのだと思い軽く溜息を吐いた。
「ああ、きくっちゃん居たのね。聞いてたなら何となく分かると思うケド、明後日13時にその大手様方が来るから。今日中に会議室の掃除よろしく。重い物とかあったら大田と水澤に社長命令だと言っていいから」
男の命令に、鳳華は悲鳴を上げる。
「きょ、今日中ですか!? 私、肉体労働をする為に秘書志願したんじゃないんですけどぉ?」
「間延びした変な声を出すな菊池。頭の悪さがバレるぞ菊池。あとお前を秘書に認めた覚えは無い。見た目だけなら問題無いが、お前口軽いじゃん」
男は、ショックを受けたかのように驚いている鳳華を無視し、座り直すとパソコンを起動させた。暗証ロックを解除しデスクトップに移ると、見覚えのないアイコンが幾つかあった。
男がそれを確認しているのを認識した鳳華は、顔を青くした。男にバレないようにか、忍び足でゆっくりと出入り口へと向かう。
「……おい、きくっちゃぁん?」
驚くほど甘い男の声に、鳳華はビクッと背筋を震わせ、恐る恐る振り返る。そこには――
「会議室掃除、あと1時間内にやれ。じゃないと減きゅ――」
「大田さぁぁぁあああん! 水澤さぁぁぁあああん!」
男の羅刹の如き顔に、鳳華は瞬速で部屋を逃げ出した。出入り口にあった「社長室」の札がその高い位置にある頭に当たったのだろう、見事にへし折れるのが見えた。
「ったく、社長のパソコンでオンラインゲームとか、普通ならクビどころじゃねぇっての。はぁ、恨むぜ雪子さん……」
男は何度目になるか分からない溜息を吐きながら、散らばったアイコンを整理していく。重要なデータは経理、営業部共同の作業室兼会議室にある男のパソコンに保管してあるため、社長室のデータは盗まれても困る事はあまり無いのだ。
「つーか、本当はこのパソコン菊池が秘書になった時の為に用意したんだっけ。パスワードと基本作業は教えたんだから自主的に勉強してくれると思ったんだが、あのバカは本当にもう……」
一言一言に、男の疲労感が滲み出ていた。下請け程度の小さな会社の経営者としての責務、社員に良い暮らしをさせてやりたいという義務感に使命感、それらはいい。男だって、会社を受け継ぐ時にそのくらいの覚悟はしていたし、そのために勉強もしてきた。
「菊池鳳華。頼むから落ち着いてくれ」
男は祈る。
『菊池さん、会議室掃除ってのはここじゃないからきっと! 他社の人との打ち合わせは会議室2だから!』
開けっ放しにされたドアの向こうから大声が聞こえてきた。
『え? え? ……うそぉ!?』
ガシャァァンッ! と、とても嫌な音が聞こえてきた。
(社員諸君、任せた。俺はもう疲れたよ。ヘヘッ)
男はやれやれと悟った顔で出入り口の戸を閉めようとドアノブを掴み、
『うわぁ、菊池さんがまた商品を落とした! 説明用のサンプルは? サンプルは無事か!?』
全力で音の発生源へと走り出した。
「菊地鳳華。俺はお前の入社時、本来なら現場で学ぶはずの仕事の一切を、一週間の教育期間を設けて懇切丁寧に説明し、建物の間取りから各部署の顔合わせ、取引相手にも紹介した。各所の仕事の流れも再三に渡って説明したな。何故だが分かるか?」
男は椅子の上から鳳華を見下ろす。鳳華は正座をしながらおろおろと視線を彷徨わせていたが、男の質問に鳳華は胸を張って答えた。
「はい、私が極めて可愛いからです!」
「張り倒すぞゴラ」
えへへ、と照れながら頭をかく鳳華に、男のこめかみに浮かんだ青筋の量が増える。
男は何処からか取り出したピコピコハンマーを振り下ろす。
「お前が、秘書に、なりたいと、取引相手の前で、土下座して来たから、だ!」
「だって、そうでもしないと社長は私を秘書になんてしなかっただろうし」
「今も秘書じゃないがな」
男の言葉に、ムッとした顔で鳳華は男を睨みつける。
「前も言ってましたね。じゃあ、私は何なんですか!?」
「雑用係」
ふらふらと、目眩でもしたかのように崩れ落ちる鳳華。男は面倒だと顔に手を当てると、鳳華を改めて見る。
顔は整っており、可愛い系の美人だ。背も高く、体型もモデルの様だ。隠れ巨乳だと自分で言っていたのを思い出す。服装は黒のスーツ。スカートタイプではなくズボンタイプがお好みらしく、生足が見えるなんてことはない。
少々背が高すぎるが、見た目だけなら格好良い。可愛い系なのに格好良い。頭も良さそうだ。出来る女感が何故か溢れて見える。中身までしっかりしていたなら取引相手にも侮られないだろう。
「酷い、私、大好きな社長の為にここまでしてるのにぃ!」
「お前が好きなのは俺じゃなくて給料の多い地位だろ」
バレちゃった、てへ☆とでも言わんばかりのあざとい仕草に、遂に眉間にまでシワが寄った。
「だいたい、こんな小さな会社の秘書になった所で、給料なんて雀の涙。俺だって給料は水澤と同じくらいだぞ」
「うう、もしそうでも、それでも私は、スーツを着て社長の脇に控えるクールビューティーで才色兼備なスーパーウーマンになりたいです。だって、私は社長の事が……!」
鳳華は男の手を握ると、潤んだ瞳で男の顔を見つめる。鳳華の思いを正確に受け取った男は、一度肩の力を抜いて項垂れ、すぐに顔を上げた。
男は優しげな顔で、ピコピコハンマーを振り下ろす。
ピコピコハンマーは柄からへし折れた。
「あいったぁっ!?」
「ダァホ。30超えてるオッサンはチョロいと思ってんじゃねぇよ。その手にかかるのは水澤と大田みたいなアホだけだ」
鳳華は真っ赤な顔で立ち上がると、男を強く睨みつける。今までにない強い意志を感じ、流石の男も少し怯んだ。
「社長のアホ! 馬鹿! 間抜け! あんぽんたん! 鈍感! 意気地なし! ちび! ヘタレ! ゴリラ! タコ! イルカ! ハムスター! お好み焼きィッ!」
「ごファッ!?」
鳳華は男の鳩尾の当たりを手のひらで思いっ切り突き飛ばすと、泣きながら部屋を抜け出した。
男は痛みに悶えながら瞳に涙を堪え、掠れた声で一言だけ呟いた。
「ゴリラからは、お前の好きなモノ、じゃん」
9月2日 18:08
「社長のバカ! バカ! バカ!」
鳳華の震える声が、夕暮れの空に溶けていく。帰宅路の途中にある、人気のない河川敷を、寂しげなオレンジ色が優しく包み込んでいた。
「確かにお金は好きだけど、社長の事だって」
あの男は覚えていないようだが、鳳華は中学生の頃、彼と面識を持っていた。
中学生の頃には今とほとんど変わらない身長を持っていたため、男子にはバスケをしよう――鳳華は運動が嫌いなのに――と絡まれ、女子には見た目と男子からの変な人気、更には抜けた性格から嫌われていた。
鳳華が自身を隠れ巨乳だと言うのも、渋々男子とバスケをした時に、男子のラフプレーでブラジャーのホックが外れてしまった為だ。その事件以降、彼女の中学時代のアダ名は隠れ巨乳。身長より胸に目が行ったのは思春期だからだろう。
その事件から、ただでさえ嫌われていた彼女は、さらに嫉妬の嵐に直面する事になった。
洗いたての体操着は泥水に捨てられ、教科書は隠され、すれ違いざまに肩を――身長差で肋骨に――ぶつけられ、それでも直接呼び出されて殴る蹴るは無かった。彼女は運動が嫌いだが、苦手では無いからだ。
バスケだって身長だけで男子から誘われた訳ではない。彼女は基本的なスペックは――集中すればだが――高い。今でこそドジを連発するが、彼女がしっかりしていれば、社長も栄養ドリンクを箱買いして机の下に常備する必要もなくなるはずなのだ。
彼女は抜けているが、弱くは無い。嫌われて心が沈むことで余計なあれこれを考えなくなった彼女は、本来あるべきスペックを遺憾なく発揮出来るようになっていった、というのは皮肉だろうか。
だが、すこし変わってはいるが、彼女だって普通の女の子だった。いじめられれば悲しくなるし、汗をかかせよう、隠れ巨乳を見ようと色んな好奇の目で見て来る男子は精神的に幼く、しかし数が多いので怖かった。
「なんで、私は大きいんだろうなぁ」
泣き続ける事に体が疲れたのか、涙は出なかった。家の近くの河川敷に座り込み、虚ろな瞳で夕焼けを眺める。
ふと、鐘の音が聞こえてきた。近くの小学校のチャイムの音だ。夕方6時を告げる音。小学校からはたくさんの幸せそうな笑い声が聞こえて来て、不幸せな鳳華は歪に笑った。
「……ん?」
河川敷の下、川の辺りに一人の男がいた。キレイにスーツを着こなした男だ。身長は、だいたい175センチ。鳳華より小さかったが、鳳華には何故か大きく見えた。
男は両手で三角を作り、口元に当て、叫ぶ。
「書類作業面倒くせーッ! 田口たまには俺に茶ぐらい入れろーッ! 雪子さん頼むから仕事はある程度選んで取ってきてくれーッ!」
男は叫んだ。どれだけ不満が溜まっていたのだろうか、鳳華はどん引きした。自分だって不満だらけだ。どうしょうもない不満なら沢山ある。しかし、流石に抜けている彼女でも自分の不満を大声で晒すという羞恥プレイは出来ない。人として。ましてや社会人がとか。
そんな男に対して酷い事を考えていると、男はこっちに向かって草の生えた斜面を登ってきた。一瞬呆けそうになったが、体育座りだったのを思い出し、慌てて下着が見えないように手で隠す。
男は慌てる鳳華を気にも止めず、彼女の前に立つと笑いかけた。
「お前の番だ」
「……え?」
男は鳳華に手を差し伸べてきた。これは、どういう意図だろうか。握手? 握手なのかな?
困惑を覚えながらもその手を掴むと、男は鳳華を引き寄せ、体が当たる前に避け、彼女を転がした。そう、坂から転がりながら落ちる鳳華は、顔が地面にぶつかることで「ふぎゃっ」という乙女にあるまじき声を出しながら理解した。
「ちょっ、ハァッ!? 何、何、何?」
怒りと困惑の中、鳳華は大声を張り上げながら男を睨んだ。
「ガキが俺より絶望のどん底ですみたいなキモい顔をしていたからつい。気晴らしに来たら余計気分落ちたから仕返し?」
「聞くなし! アホ! バカ! 間抜け! あんぽんたん! ハゲ! イジワル! ちび! スーツ! ゴリラ! タコ! イルカ! ハムスター! お好み焼きィッ!」
思いつく限りの罵声を浴びせ、息切れしながらも男を睨んだ。男は困惑した顔で、こう切り返す。
「スーツとかハムスターとかお好み焼きとか、文句なのか?」
「ゴリラもイルカも含めて私の好きなモノよバァカ!」
鳳華がカバンを投げようと手元を見れば、カバンは無く、目で探せば男の足元にあった。それが余計に腹立たしい。
「で、気分は晴れたか?」
男が何を言っているのか分からず、一瞬思考が停止する。そして、気づいた。さっきまでの胸のムカムカが、幾分良くなっている。
「勉強でストレス溜まってるのは分かるがな、ストレスは吐き出さないと大変だぞ?」
男はそう言って、何かを投げてきた。慌てて取って見ると、所々剥げた黒の長財布である。
「やるよ。それで旨いものでも食え。あ、クーポン券しかないからな。それはスリ対策で、本命はこっち」
男はそう言って、折りたたみ式の財布をポケットから取り出した。なんとも安そうなボロボロの財布だった。
「え? え?」
困惑しながら財布を開けてみると、クーポン券らしき紙がいくつか入っているだけで、お金は1円もなかった。
「じゃーな。綺麗な顔を汚すなよ」
理解の追いつかない鳳華にひらひらと手を振って去る男。男としては、泥まみれになった彼女の顔に対しての皮肉くらいに思っての発言だったが、抜けた彼女にとっては違って聞こえていた。
(はわわ、綺麗な顔を汚すなって、つまりは綺麗な顔を沈んだ顔で台無しにするなってことだよね? つ、つまり、オトナの男の人に褒められちゃったの?! キャー!)
抜けた秀才は、そこそこ乙女趣味だった。白馬に乗った王子様より意地悪な王子様が好き。壁ドンと顎クイは3度の飯より好きなのだ。普通は八つ当たりで女子中学生を河川敷から引き落とし、中身の無い廃棄予定の財布を恩着せがましく押しつけただけの最低なオッサンなのだが、彼女にとっては王子様なのだ。
(このお財布も、きっと私のお財布が盗まれたからだよね。他人から貰ったお財布はお金が貯まりやすいって聞いた事があるし、あの人はきっと「こんな事でめげちゃダメだぞ」って励ましてくれたんだ! だって、綺麗な顔を汚すな、だもんね!)
勘違いは加速していく。
(じゃあ、最初に不満を吐き散らしたのも、私のため? 私が落ち込んでいるのを察して、しかもその姿からイジメられているのを察して! じゃあお財布は、もしイジメられてて盗まれていれば代わりとして、そうじゃなかったとしてもカモフラージュとして使えるように? スリ対策の件はここに繋がっている……!)
彼女は加速していく。乙女フィルターは荒唐無稽な推測をあり得ると判断させ、抜けた秀才は抜けた結論へと辿り着こうとしていた。
(これらの事を踏まえた上での最初の愚痴。私の推測が正しければ、この財布の中には……)
そう言ってボロボロの財布――彼女の乙女フィルターにとってはビンテージ的な財布――をくまなく調べてみると、クーポン券の隙間に名刺が見つかった。
(やっぱり! あの人社長さんなんだ。つまり書類作業とお茶……つまりは身の回りの世話をしてくれる人が欲しい訳だ。それに自分の意思をはっきりと社員に伝えられるような人が。つまり、彼が求めている人材とは……!)
彼女は間違った答えに辿り着くと、小躍りしそうな気持ちになった。
(秘書! あ、でも秘書は美人じゃないと難しい……ハッ! 綺麗な顔っていうのはここまでの伏線!?)
そこまで考えが至って、彼女は震えた。かの男の智謀の深さに。
「なぁんて、実際に入社してみたら普通に忘れられていた訳ですが、っと!」
何となく路肩に置いてあった石を跳び越えながら、鳳華は思案した。
(あの頃の妄想は全部幻想だった。なら、今私は、本当に社長に憧れているのだろうか?)
集中して考え始めた鳳華は、斜面に生えている草の上に腰を下ろした。
「……うん、私の気持ちは、変わっていない」
あれが全部嘘だったとしても、きっと沈んだ私を彼なりに励まそうとしてくれた事は本当だろう。そのくらいは、流石の鳳華でも分かる。彼は基本的に、優しくて不器用で、ほんの少し意地悪なのだと。少なくとも鳳華はそう感じていた。
「そんな社長の事が、私は……」
そこで少し間を置き、後ろを振り返る。50メートルほど向こうに男の姿が見えた。会社から駅へ向かう道もこちら側なのだから不思議では無いのだが、鳳華はやれやれとばかりに肩をすくめ、とても楽しそうに微笑んだ。
「少女漫画的に言えば、ここで声をかけられるんだけどねぇ」
そんな残念なところも、とだけ呟いた鳳華は、こちらに手を振っている男の元へ走り出した。
「社長! 夕飯奢って下さいよね!」
読んでくれてありがとう!




