序章 きっかけはいつだってそんなもの。
逢沢先輩に話しかけるタイミングを探っていた。
逢沢紫音先輩。
高校の入学式の日、成績優秀者つまり首席が壇上に立って祝辞を述べる人物であった。祝辞の紹介からの情報によると二年生のようだ。
彼女の長く腰のあたりまである艶やかな黒い髪、大和撫子を地で行くような極めて端正な目鼻立ち、そしてすらっとしたスタイルと真っ直ぐに伸ばした背中は品の良さを象徴するようであった。
換言すれば、とんでもない美人であった。
彼女を初めて目の当たりにした時(かなり遠い位置ではあったが)身体中の血が湧き上がるような、あるいは体が数センチ浮遊するような不思議な陶酔感を感じた。
いわゆる「一目惚れ」。
しかし、俺はどこにでもいる一般の高校生として持ち合わせている矮小なプライドを多分にもれず身につけているため、逢沢先輩に対して特段のアプローチをするわけでもなく気がついたら5月に入りゴールデンウィークも過ぎ、クラスの同級生たちも少しずつ学校に慣れてきている様子だった。
そして、また逢沢先輩に出会った。いや見かけたというのが正しい。
「運命」というにはあまりにも大げさであろう。
放課後いつものように机の横から鞄を持ち上げ、同中の坂田と池袋と一緒に教室を出たところ、彼女が教室の前を長い黒髪をたなびかせながら通り過ぎて行ったのである。
心なしかふわっと花のような可憐な香りが鼻を掠めた。
無意識のうちに俺の目は彼女を補足し、頭は彼女の情報を欲した。
坂田と池袋に「悪い」と一言詫びを入れ、逢沢先輩の足跡を追った。
その行為が
————今後巻き込まれることになる非日常的出来事の数々に対する「罪」なのだろう。
彼女は数センチ浮いているのではないかと錯覚するほど足音を立てずにスーッと歩いていく。
一方俺はある時は何でもないただの通行人のように、ある時は廊下の曲がり角のような場所に軽く身を隠すようにしながら、彼女を行き先を追っていた。
話しかけることが最終的な目的であったが、急に知らない後輩が話しかけてきたらどんな反応をするのか、そもそも何の話をすればいいのか全く分からず、結局話しかけるタイミングと勇気の源が見つからないまま、ただ追跡することしかできなかった。
逢沢先輩は教室のある新校舎を離れ、今はあまり使われておらず物置と化している旧校舎に慣れた様子で入っていった。
実際高校に入って一ヶ月半になるが旧校舎には入ったことがなかった。
入学してから入る機会もましては必要性もなかった。
俺は気付かれないように先輩が入った後少し時間を置いてから旧校舎に入ることにした。
足を踏み入れると木でできた床板が今にも崩れ落ちそうな様子でミシッと音を立て、俺は旧校舎の倒壊の心配をする羽目になった。
こんな校舎を残しておいて大丈夫なのか。
少しネズミが柱をかじったら天井から崩壊が始まりそうだ。
ガラス窓はガムテープでお茶を濁してはいるが隙間風は容赦なく屋内に入ってきているし、外に這っているツタのような植物は一部室内に入り込んでいる。
しかも、もう五月も中旬に入ろうとして気温も日光に当たれば汗ばむほどの陽気であるのに、旧校舎の中はひんやりとして肌寒い。
特に信仰深くも信心深くも無くその点においては全くの無頓着だが、何か人ならざるものでも住んでおり今にも飛びかかってきそうな感じだ。
こんなところに一晩でもいたら何かに取り憑かれて発狂でもするのではないか。
そんな想像が掻き立てられる空間だ。
一段一段足を置くたびに悲鳴をあげる階段を、いつ崩れても驚かないようにイメージトレーニングをしながら慎重に手すりにつかまって登ると、二階の廊下の一番遠い端の教室に入っていく逢沢先輩を目撃した。
こんな人気のない不気味な旧校舎で逢沢先輩は一体何をしているのか。
秘密を抱えた小学生のような胸のときめきを久々に感じていた。
足音を立てないようにそれでいて早足で移動するという普段なしえないような奇妙な歩行テクニックを駆使しながら、先輩の入っていった教室の前にたどり着いた。
ふと教室の横開きの扉に目を向けると、赤外線を吸収し少し黄ばんだA4の印刷用紙に妙に達筆な筆使いで
『奇異現象研究同好会』
と書かれていた。
その用紙を見つめその意味を模索していると、用紙ごと扉が横滑りしたと感じるや否や、にゅっと隙間から細くて白い手が俺の手首を信じられないような力で握り、反応することもままならないまま教室の中に引きづり込まれたのだった。
これが日常的常識的な日々と非日常的超常的な日々との狭間となった出来事である。