吸血鬼 A
下宿へと続く道を選択しながら走っていたがそれ以上の追撃を受けることは無かった。尾行の気配もなく、いつの間にか見慣れた街並みの中に入っていく。閑静な住宅街の片隅の中を走りながらスピードを緩めていく。そしてようやく下宿が見えてきた。ほんの数時間の外出だったのに、やけに疲れた。停止したママチャリから降りて、庭のほうにまわる。奥にある巨大なガレージの傍のスペースに作られた自転車置き場に自転車を止める。墨善は竹刀袋を担ぎ直し、防具入れを持ち上げる。防具はこちらで処分する手はずになっているのでガレージの片隅に転がしておく。週末の大掃除と一緒に片付けてしまうことにする。日本刀は手入れが必要なので肩に担ぐ。墨善は先程奪った拳銃を弄びながらようやく帰宅した。
「ただいま~」
「お、生きとったか。チビ」
発砲したくなったがなんとか踏みとどまった。失礼な発言をしたのは短パンにタンクトップを着た女子だ。バスタオルで茶色の長い髪を拭き、口にアイスバーという装備。夏の風呂上りを体現した格好がよく似合う健康的な彼女は墨善と同学年の下宿生の一人、目黒百春だ。
「『チビ』言うな、守銭奴」
「悪いわるい、つい本音が出た」
「表出ろ。ガレージの前に立て」
あそこなら発砲しても平気だ。
「いやや。殺されそうやもん」
「殺すつもりなんだがな」
いつまでもそんな掛け合いを続けるわけにもいかない。墨善は持っていた拳銃の弾倉を抜いて、百春に投げ渡した。それを当たり前のように受け取った百春。彼女は流れるような手つきで拳銃を分解して部品を調べた。
「これ、なんや?」
「俺を殺しかけた銃」
「ほう・・・あんたをね~・・・・」
彼女は手にした拳銃の部品を様々な方向から眺める。
「おろ?なんや、このマーク?」
彼女はその手を止めた。
「わからんな。銃自体は普通のトカレフなんやけど・・・こんなマーク初めて見たわ」
部品の内側に刻印されたマーク。トカレフを製造する上でこのようなマークを使う会社は存在しない。調べるには十分な手掛かりだった。
「まあええわ。こいつはうちの仕事や。なんかわかったら教えるわ」
「急ぎで頼むぞ」
「ええけど・・・どないしようかな・・・他にも仕事があるねんけど」
「いつもの金額でいいか?」
「よっし、任しとき」
男らしく胸を叩く百春。たわわと揺れたものを意識しないようにして、墨善は靴を脱いだ。
「今、うちの胸見とったろ?まだ、お前ちっこいねん。大人になったら相手したるからな」
「それ、いつ見ても邪魔そうだよな。切り落としてやろうか?」
幸い手元には日本刀がある。
「おお~おっかね。じゃな」
そして、廊下から自分の部屋へと引っ込んでいった百春。墨善は舌打ちを一発かまして、廊下から自分の部屋に入る。報告を先にすべきなのだろうが、その前に日本刀を戻しておきたかった。
「お、生きてましたか」
「さっきおんなじ台詞を聞いたとこなんだけどな」
かすれ気味の声。部屋にいた彼も下宿人の一人だ。
この下宿は管理人の自室を除けば大部屋しかない。墨善と彼は相部屋である。
「まぁ、無事でなによりッス」
優しく微笑んだ彼は鞍馬佐助という。童顔に分類される顔立ちだが、墨善のように子供に見える童顔とはタイプが違い、子犬系列の童顔である。笑うと八重歯が大きいことも相まって本当に犬のようなイメージが強調される。墨善の後輩でもないのに敬語口調なのは彼独特の話し方だ。
「ああそうだ、昼は悪かったな。ぶつかちまって」
昼にパシられた時、墨善がぶつかったのは彼だった。
「いいッス。あれぐらい猪の突進よりは随分ましッスから」
「その例え俺にはよくわかんないんだけどな」
「少なくとも拳銃を向けられるよりは恐怖を感じますよ」
「まるで経験したような口ぶりだな」
「経験がありますからね。墨善も一度は感じた方がいいと思いますよ。『二度とできない経験を積み重ねていける人生こそ最高』ッス」
「そうだったな」
墨善と入れ違うように佐助が立ち上がる。
「先にお風呂いただきます」
「ああ、また後でな」
墨善の脇を抜けて廊下に出る佐助。扉を閉めた墨善は足元に落ちてた黒い羽を拾い上げた。大部屋を襖で二分している二人の部屋。墨善の部屋は奥の部屋を使っている。墨善は羽を手の中でいじりながら自分の部屋に入った。
ちょうど八畳の部屋。家具は本棚と勉強机そして液晶テレビがあるだけ。随分とこざっぱりとしている部屋。布団の好きな墨善にベットはいらないので随分と広い印象だ。
墨善は汗だくの服を脱ぎ棄て、下着一枚で押入れをあけた。上段には布団がつめこまれ、下段には何もない。
「よいっしょっと」
その何もないはずの場所に入り奥へと進む。押入れの奥は簡単な武器庫になっていた。
墨善の愛用する拳銃や短機関銃が何種類も並び、ナイフや弾丸の類も十分に備えられている。その一画、日本刀が並ぶ中から手入れ用の綿や油脂を吸い取る紙を引っ張り出してくる。刀剣類は血や脂肪で錆びる。こいつの切れ味一つが自分の命に直結するのだ。手入れに気を使うのは当然だった。
墨善はストラップ用の銃弾も持ち出し、押入れの襖を閉めた。
「墨善、風呂上がりましたよ」
「はやっ!」
佐助がもう部屋に戻ってきたのは驚きだ。
「烏の行水だな」
「それは言わない約束ッスよ」
襖の向こうで小さく笑う声が聞こえる。疲れた墨善にとって風呂が開いたのは嬉しいことだ。だが刀の手入れが先だ。でも、汗だくで気持ち悪いのも事実。
「武器の手入れッスか?」
襖越しに佐助の声がする。
「ああ、日本刀のな」
「俺がやっときますよ、先に風呂に入ってください」
「サンキュー、持つべきものは友だな」
ルカ曰く『不誠実な金を使ってでも友人は作れ』だ。墨善はズボンだけ履き、着替えを手に襖を開ける。
「そんじゃ、よろしく」
「ウイッス」
日本刀を投げて渡し、佐助もそれを片手で受け取る。この下宿の住民の間に秘め事は存在しない。そして、墨善は本日の汗を流しに風呂に向かった。これがこの下宿に住む住人の日々だった。彼らは決して表の人間とは言えないのだった。
風呂上りに洗面所を出ると、ちょうど祭に出くわした。
「ん?なんだ、その荷物?」
彼女は紫の風呂敷に包まれた四角い物を持っていた。大きさからして弁当箱なのだろうが、この時間にどこにいくというのか?
「これ?」
そう言って風呂敷を持ち上げる祭は楽しそうに笑う。随分とゴキゲンだ。
「実は、ステラさんが来てんだよ」
「よしわかった。俺も行く」
即断即決だ。
「え!?ホント?」
「当然だ」
墨善の寝巻は大概がシャツとジャージ。近所を外出するぐらいどうってことはない。ちなみに祭も同じくシャツとジャージだった。女子力は低いと言わざるおえないが、不思議と墨善よりさまになっている。
「定子さん!俺も弁当渡しに行ってきます」
定子さん。それが管理人の名前である。
「お~う、飯は先に食っとくからな。門限までに・・・」
「わかってますって。行こうぜ祭」
「モチ」
弁当をひったくるようにして受け取り、墨善と祭は急いで靴を履いた。
「あ、墨善。刀の手入れ全部俺にやらせる気ッスか?」
佐助が部屋から首だけを出してそう言ってきた。
「もちろん。引き受けたのはお前だからな。言質は貰ってる」
それを言われたら言い返せない佐助である。確かに日本刀の手入れをやっとくと言ったのは事実。
「まったく・・・」
渋い顔だが、どうやら観念したらしい。そんな佐助に墨善は拝み手を向けた。
「悪いな、今度埋め合わせするよ」
「ハーゲンダッツ買ってきださい。グリーンティで」
「了解」
「あ、うちイチゴが食いたい」
「お前はどっから出てきた!」
いつの間にか百春も廊下にいた。
「ももっちの分はあたしが出す」
「ええの?まっちゃん?」
祭と百春は『まっちゃん』『ももちゃん』と呼び合う間柄。うちの下宿の連中は皆それなりに付き合いが長い。
「いいよ、この間のお礼がまだだったからな」
「いよっしゃ!」
ガッツポーズで飛び跳ねる百春。やはり彼女もジャージなので可愛げがあるとは言えなかった。
「そんじゃ、行こうか墨善」
「あいあいさー」
墨善と祭は玄関脇の自転車を持ち出して公道へと飛び出した。
弁当箱は協議の結果、祭の荷台に乗っている。仕事で疲れてる墨善への気遣いだったが、墨善としては自分の男の尊厳の一部が削られてしまったような気がしてならない。
二人はママチャリを転がして繁華街の一角に入っていく。飲み屋が立ち並び、客引きがちらほら現れるその区画。まだ夕方にも関わらず、既に人が集まりだしていた。ちらつくネオンサインを無視して繁華街の中に風穴のように存在している市民公園へ向かう。そこを通り過ぎる時に何人かの高校生がたむろしているのが見えた。祭の顔見知りだったらしく、彼女は片手をあげて挨拶した。その先の狭い道を抜けてショートカットし、更に左折。たどり着いたのはいくつかの金融会社がつまったペンシルビル。
目の前には地下に続く階段がある。万が一にも戦友のママチャリを取られたくないので二人で自転車をかついで階段をおりる。明かりがついていないので足元は真っ暗だ。だが、二人共仕事柄夜目はきく。そもそも、同じ間隔が続く階段を踏み外すことは無い。
一度踊り場を経て地下一階にたどり着く。目の前にあるガラスがはめ込まれた扉には剥げかけた文字がくっついていた。
「シアワセローン」
うさんくさいことこの上ない。ガラスの奥ではほのかにオレンジ色の光が揺れていた。ステラが現在在宅中だということを示す明かりだ。自転車を固定して、弁当を掴む。祭がドアを開き、二人はその中に足を踏み入れた。
ここはかつて闇金の事務所であった。何年か前に警察が踏み込んで発砲ざたになったのはよく覚えている。近くで起きた事件だけあって学校でも結構噂になった。足を踏み入れた部屋の内装にはその残骸が未だに残っていた。ところどころに穴の開いたソファが二つ。その間には木製のテーブルが置かれていた。周囲の壁紙の色はよく見えないが、染みのようなものが飛び散っている。それが何の染みなのかは考えなくてもわかる。右側にはいくつか金属製の棚がある。だが、ドアは錆びつき、中身は入っていないように見えた。左奥にパーテーションで仕切られた区画があり、それ以外はドアも何もない。
なんだか殺風景な部屋だったが、隅に転がっている真新しいコンビニの袋が生活感を出していた。そしてテーブルの上に乗る乾電池式のランプ。その光を頼りにしてパーテーションの奥に移動する。そこはのぞき窓も何もないステンレス製のドアがあった。
ただ一つ、真ん中に取り付けられた白いプレートに名前が彫ってあった。
『Stella Heck Colchester』
その扉を三回ノックする。
「はーい」
中から聞こえてきたのは女性の声だった。くぐもってよく聞こえないが、その声が落ち着きを携えた深い声だというのは知っていた。テノール歌手のような美声だと褒めたこともあった。「だったらあなたがソプラノを担当してね」と言われたのは墨善の記憶にはまだ新しい。
「俺です。墨善です」
「祭で~す」
扉越しに挨拶をすると、ドアの向こうで彼女の裸足の足音がした。
「はいはい。もう来てくれたんだ」
目の前のドアが開錠される音が鳴り、ドアが開くと同時に明るい暖色光がこぼれる。その奥から女性の姿が浮かび上がった。
唐突だが、一般に吸血鬼と言えばどんな姿を想像するだろう。
狂喜に走った目、尖った八重歯、生血の滴る口元、人間離れした筋力、空を舞う羽、圧倒的な再生力。
それらは正しい。明確な吸血鬼の姿はそれでいい。
だが、吸血鬼と人間との間に産まれた女性ならどうだろう?
その完成例が目の前にいた。
白百合の花弁のようにきめ細かい白い肌。一本筋の通った引き締まった目鼻立ちは高貴な姫君のようだと常々思う。上質の絹のような美しい黒髪が流れるように揺れて彼女の腰まで垂れていた。細見で長身、引き締まった四肢、くびれた体、彼女はいっそモデルでも食いつないでいけそうにも見える。
今日の彼女は黒いワイシャツとダークグリーンのジーンズというラフな格好。全身黒を主体としたコーディネートはいつものことだ。
そして、そんな外見以上に目を引くのはその瞳だった。黒曜石を溶かし込んだような黒い瞳は今まで見てきたどんな類の宝石をも上回る輝きを持っていた。それが彼女の心を映すかのように輝きを変化させるのだから、それだけで芸術品のようなものだ。時代が時代ならその瞳を求めた好色家に懸賞金を掛けられていたという話さえ嘘には思えない。この美しさは人間には出せないだろう。
彼女、ステラ=ヘッケ=コルチェスターはヴァンアパイアと人間のハーフである。
だが、残念なことがある。彼女は太陽に嫌われる。
昼日中に出ればあっというまに焼け死ぬそうだ。試したことがないので死ぬまでの時間まではわからないらしいが、率先して試したいことではない。太陽の下に出れば燃え上がるのは吸血鬼の特徴なので彼女がそれを所持していることは何ら不思議ではないだろう。
彼女の吸血鬼としての特徴は他にもある。聖水がかかると熔ける。十字架に触れると体が壊れる。にんにく料理も白木製の家具も苦手だ。彼女は父である吸血鬼からこれだけのものを受け継いだ。
『これだけ』だ。
一応、中途半端に長寿を受け継いではいるらしいので、彼女は見た目をはるかに超える年齢ではある。それでも受け継いだ吸血鬼の特徴はこれだけなのだ。
怪力、変身、再生力。
その他、吸血鬼の恐怖を象徴する部位は何一つ受け継いでいない。吸血行為だって、気が向いた時に知人の血を吸うだけである。彼女はよく自虐的にこう言う。
『私は世界最弱の吸血鬼』