お使い A
梅雨の気配も消えていきそうな暑い日。自転車のタイヤが回転する。アスファルトが焼けるような匂いを足元から感じながらペダルをこぐ足に力を込めていく。入道雲を視線の先に見つけ、なんだかテンションが上がっていく。『夏が来た』そう思うだけで胸の奥で感情がキャンプファイアーを始めたような気がした。
住宅街を抜けて郊外へとハンドルを向けて雑木林の端を駆け抜ける。不規則なセミの多重奏をBGMにしていると、戦友とも呼べるママチャリのチェーン音が抗議の声をあげ始めた。
『次からもう少し軽いもんにしてくれ』
「そいつは無理な相談だな」
物言わぬはずの自転車に言葉を返すのは墨善だ。はたから見ればただの変人かもしれないが、そんなことを気にする様子はない。彼は腰を浮かせて立ちこぎで加速していく。
雑木林の端を抜けてアウト・アウト・アウトのコース取りで緩いカーブを曲がる。その先にはそびえたつ壁のように長い坂が目の前に迫ってくる。足のピッチをあげて更に加速していく。わずかな振動が生じ視界が急激に変わる。核反応で今日も元気に熱と光を届ける太陽が目の前だ。その隣ではさっきとは別の入道雲が壁のように立ちふさがってくる。重くなったペダルを全体重で漕げば自転車は坂道を駆け上がっていく。丘の上から見える景色を想像して乳酸が蓄積されだした足を酷使する。背中に張り付いた竹刀袋が自分の汗を染み込んで揺れる。後ろの荷台に縛り付けた剣道の防具一式が今すぐ坂を下れと訴えかける。目に入る汗を拭う余裕はない。
「お~がんばれ~少年」
坂をのんびり上っていた柴犬とご老人を追い抜いていく。もちろん声をかけてきたのはご老人のほうだ。柴犬は尻尾を振って舌を出しながら黒い目でこっちを追っている。そんなご老人に片手で挨拶をしてペダルを強く踏み込んだ。『いいかげんにしろ』と訴えかける下半身を無視してさらに上る。
あと二十メートル。
「うっしゃあ!」
声を出して気合いを入れる。髪が頭部に張り付いてくる。胸元に青い校章を縫い付けた白いシャツと黒い学生ズボンは汗でじっとりと濡れている。さっきから足の運動エネルギーを回転運動に変えているねずみ色のスニーカーは新品同様に綺麗だ。ポケットからこぼれ出たリボルバー式の拳銃を模したストラップが激しく揺れる。
残り十メートル。
あどけなさが残る顔を好奇心と疲労でぐちゃぐちゃにして坂道を駆け上がる。シャツの袖から伸びた腕はには玉の汗が浮かんでいる。シャツが翻り、覗いた腹は無駄な脂肪も無く、腹筋が見事に割れている。
「いつもならこんな坂道は何ともないのによ~畜生~」
声変わりを済ませた低い声は何度聞いても妙にアンバランスだ。
残り五メートル。
「こ~の~」
残り四メートル。
チェーンを軋ませてママチャリも頑張る。
残り三メートル。
どこかでセミが再び鳴きだした。
残り二メートル。
最後のひと踏ん張りに全身の筋肉が悲鳴を上げる。
残り一メートル。
「あ~が~れ~」
残り五十センチメートル
最後の急傾斜。
残り三十センチ。
視界が変わる。かかる重力が後ろから前へと移っていく。見上げていた空が消えて目の前に別の景色がひろがる。下っていく目の前の公共道路。遠くに広がる青い空と蒼い海壁だと思っていた入道雲がソフトクリームに変貌を遂げる。道路の先に続く港町に狙いを定めて踏み出したペダルは驚くほど軽い。
「いやっほー」
意味のない叫びを迸らせてペダルからスニーカーの底を離す。ママチャリが狂ったように加速する。手元にあるブレーキなんか知ったこっちゃない。全力で限界に挑戦しだした相棒を止めるなんて無粋なことをする気は無い。風圧にのけぞりそうになる体を押さえつけて前傾姿勢を貫く。背後で防具が不吉な音を立てだしたが関係ない。肩から外れそうになる竹刀袋を脇で固定して邪魔な要素を取り除く。再びペダルに足をかけて加速を手伝う。待ってましたと言わんばかりに自転車が風を切る。
この瞬間がたまらない。
自転車を法定速度内に保ちながら墨善は港街をのんびりと走っていた。向かう先は港の方だ。商店街と住宅街の間のような街を涼しげに駆け抜けて港にたどり着く。一面海の情景に少し心を躍らせながら彼は海岸に沿って走り続けた。小型のクルーザーやヨットなど個人の趣味の船や錆が目立つ使い古しの漁船など様々な船を右手に見ながら目当ての船を探す。白い自転車に乗る警官とすれ違い、走り続ける。そしてようやく見つけた。視線の先にある大型クルーザー。他のクルーザーと間違えないように予習はしてきたのだが、実際に見てみると細かいクルーザーの違いは見分けがつかない。
面倒だったので情報収集の手を抜いていたのが最大の原因だった。ただ、青地にカサブランカの模様のあるアロハシャツを着ている白髪の男性を見逃すということは無かった。指定を受けた場所も適合するので、間違いないだろう。
何気ないふりをしながら周囲を警戒するがこんな平和な日にテロリストや戦争屋などいるはずもなく、徒労に終わる。墨善はペダルを漕ぐ足を少し緩めてそのクルーザーの前で停止した。
「こんにちは、釣りかなんかですか?」
さっきまでとは違う幼稚園児のような甲高い声。それは自分の背格好にあっていることは知っている。
「ああ、今帰ってきたんだ。今日は大漁だったぞ」
そう言って大型のクーラーボックスを担ぐ男性。そう言っているわりには中身は軽そうだ。全身の筋肉の使用具合からそう判断し、目的の人物だということに確信を持つ。
「少年は部活の帰りかい?」
「ええ、まあ。おつかいを頼まれちゃいまして」
「剣道の荷物を持ちながらなんて大変だな」
そう言ってねぎらうような笑みを向けてくる男性にこちらも笑みを返す。
「仕方無いんですよ。『カサブランカ』を入れてくるにはこれしかなかったんですから」
意図的に普段の低い声に戻す。その瞬間に男の表情が硬くなる。それは突然声を変えたからではないだろう。この反応はおおかた予想がついていた。
「そうだ少年、実はな『クロダイ』を釣り上げたんだ。見るか?」
「まじですか!見たいです」
磯釣りの王様、黒鯛。正直興味は無い。それでも同意する。近づく男性。目の前で開かれたクーラーボックス。中には予想通り何も入っていなかった。
「な?生きがいいだろ?」
荷台の荷物の中に手を突っ込む。探るまでも無く目的の物にたどり着く。滑りを帯びたものの掴みやすい部分が手につく。もっとも、取出しやすい配置にしたのは自分だ。誰かが瞬きをするよりも速く中の物を滑らせるようにしてクーラーボックスの中に放り込む。
「本当ですね」
そして、蓋が閉じられた。簡単にロックがかけられる。だが、これで中を開けるのは目の前のアロハの男性だけとなった。
「んじゃ、俺行きますね」
「おう、気をつけてな」
再び自転車をこぎ出す。さっきよりも抵抗は遥かに軽かった。そこに少し違和感を覚えながらも進む自転車はなんだか安堵の溜息を吐いてるような気がした。
後ろに視線を感じた。
なんとなく振り返れば、さっきの男性がクルーザーの最も高いデッキから手を振っていた。片手でわずかに手を振りかえす。
墨善はハンドルを切って横道にそれた。後は帰路のサイクリングを楽しむことにしよう。『おつかい』も終わったことだし。さすがに『河童の首』を運ぶ仕事は神経をすり減らした。今は早く帰って眠りたい。
高校二年生にして現役の『運び屋』をやっている少年のペダルは軽い。
陽炎が乱反射を繰り返すアスファルトの道をタイヤの音が駆け抜けていった。