日常 B
どんな一日でも時間の流れ方はいつも一緒だ。60秒が過ぎれば一分となり、60分が過ぎれば一時間、24時間で一日だ。当然の如く授業が終わるのもいつもの時間通りだ。
そして、祭と帰るのもいつものこと。
「墨善、ちゃんとあたしの話聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
自分の口から出てきたのは低い声だ。思春期に訪れる変声期特有の少ししゃがれ気味の声。歳相応の声といえばこんなもの。それをあんな甲高い声が地声だと信じてる彼らは少しおめでたいと思う。この声を知ってる人は祭の他にも数人いるが、どうも用事があったらしく今日は共に帰宅していない。
その祭はというと、本日はとてもご立腹らしかった。理由はさっきから聞かされている。彼女の友人が俺を侮辱したかららしい。
「でもよ、あんま怒るなよ。お前、変な事口走りかねないからな」
そう言うと、自分のよりも相当高い位置にある彼女が眉をひそめた。身長差およそ40センチ。見上げなければ彼女と視線は合わない。
「やっぱりあんたタイミング計ってたな」
その視線が剣呑さを帯びる。それを墨善はへらへら笑って受け止めた。
「お前の机を叩く音がでかすぎんだよ。気をつけろよ、お前は加減間違うと簡単に机破壊すんだからな」
「わかってるって」
どうだかな、と肩をすくめてみせると容赦ない一撃が肩を襲った。
「だいたい、あんたが毎日毎日あんな奴らに従ってるのがいけないんじゃないか」
「そうはいってもな、俺は学校の中じゃ最下層だもんな」
学内で順位付けされた四つのグループ。その中でも一番下のグループに入れられたのは今年度の最初のこと。それ以来ずっとこんな感じである。
「お金だってよく取られてるし」
「いいじゃねぇかあんなはした金」
祭の視線が一層強みを帯びた。
「よくねぇ」
強い声だった。近くの塀で寝ていた猫が変な鳴き声と共に逃げて行った。
「よくねぇ。そんなの絶対よくねぇ。だってあのお金は墨善が文字通り命がけで稼いだ金じゃねぇか」
墨善の目元が溜息と共に緩む。
「祭、ちょっとかがんでくれるか?」
何の脈略もない発言だったが、祭は素直にうなずいてくれた。
「別にいいけど」
祭が隣で腰を折るようにして顔の位置を下げた。目測だが、若干届かない。
「もう少し」
「こうか?歩きにくいんだけど」
墨善はその手を祭の頭の上に乗せた。
「ありがとな、俺の為に怒ってくれて」
そして少し前後に動かす。
「でも、いいんだ。平和を享受してる連中の空気をぶち壊して、得なんかないんだから」
彼女の短い髪の手触りはいつでも気持ちが良い。祭にかがんでもらわないと触れないのが難点だが。
「お前が理解してくれるなら俺はそれでいいんだよ」
名残惜しいがあまり屈ませ続けるのも酷なので手を離す。屈んで少し影になった彼女に笑いかける。
「ばか・・・それとチビ・・・」
「おまえなぁ・・・」
人が気にしていることを。
とはいえ、彼女の声色から感情が収まったのを感じて、墨善は再び微笑んだ。
「んで、墨善。あんた今日暇?」
「いや、悪い。お使いを頼まれてんだ」
「そうか」
まだ傾くことを知らない太陽はこの時間でも二人を灼熱の元にさらしていた。
「今日は危なくないのか?」
「そういう話だけどな。ま、お使いに危なくない話なんてめったにないだろ」
「それはいえてるけど、無茶すんなよ」
「ああ、そうするよ」
墨善は祭と共に平屋建ての家の玄関を開けた。古き良き日本家屋。そこは彼等の下宿先であった。
「ただいま」
どちらが言ったかもわからない程に重なった墨善と祭の声が響き渡る。
「おっかえり~」
廊下の奥からは声だけで返事がある。墨善と祭は靴を脱ぎ、そのまま奥のリビングへと入って行った。
「今、帰りました」
「お~う」
気の抜けた返事をした人物はリビングの奥の和室に寝そべってテレビを見ていた。内容は最近話題の台湾のドラマだ。その前にいるのは長い黒髪が特徴的な女性。一応美人の分類に入るのだろうが、いかんせんもう齢は四十。さすがに彼女に奇妙な感情を抱くことはできない。そんな彼女こそこの下宿の管理人だった。
「本日のおやつはチップス一袋。皆でわけな」
背中越しにそう言われる。リビングの一画に視線を向けると『おやつ箱』と書かれたボックスにポテトチップスの袋が入っていた。おやつ代は家賃の中に含まれているので遠慮なくいただいておく。
「祭は食べるか?」
「食べる」
「あ、お前ら。ちゃんと手洗えよ」
「はい」
「ほ~い」
なんだかんだ世話を焼いてくれる管理人さんに返事をして洗面台に向かう。手を洗って戻ってきたところで、玄関の方から声がした。
「ただいまッス」
小さく少しかすれ気味の声は男のものだ。
「おかえり」
「おつ~」
祭と墨善で返事をしておく。声の主はリビングに来ることはなく、廊下の途中の部屋に入っていった。
「おい、墨善。時間はいいのか?」
「あ、やべ!急がなきゃ」
墨善にはこの後予定がある。のんびりしてる余裕はあまりなかった。
スナック菓子を破って開け、一掴み口に放り込み、祭がついでくれたコーヒーで流し込む。
「で、場所は?」
管理人に聞くと、面倒そうな返事があった。
「変更なし。携帯で確認しな」
「え?メール入れたか?」
自分の携帯をチェックしてみるがメールの受信歴はない。
「さっき回線こじ開けてファイルぶち込んだ」
確かに、今朝までなかった地図のファイルが入っている。
「いつも思うんですけど、これハッキングですよね?」
「ああ、そうだ」
「犯罪じゃないんですか?」
「ああ、もう五月蠅いな。さっさと行け!」
苛立った声。こうなったらこちらの言い分が通るといことはまずない。墨善は言いたいことを飲み込んで、代わりにため息を吐き出した。
「そんじゃ、行ってきます」
「門限破ったらただじゃすまさないからな」
「へ~い」
そんな手間のかかるお使いでもないでしょうに。墨善はぶつくさ言いたくなる自分を抑え込み、リビングを出て玄関で靴を履く。
「気をつけてな」
「あいよ」
見送りに来てくれた祭。そんな彼女と墨善はハイタッチをかわして、お使いへと出かけていった。