予兆 C
墨善はステラの自宅でお茶をごちそうになっていた。
「で、昨日祭に何吹き込んだ」
「怖い顔ね」
「だれがさせてると思ってんだ」
残念ながら墨善はお茶を味わっている余裕は無かった。
祭とは長い付き合いだ。彼女が何を言われたのかを想像するのはそんなに難しくはない。
「おおかた、押し倒せとかなんとか言ったんだろ?」
「あら、正解。よくわかったわね」
墨善はあからさまに溜息をついてうなだれた。
「わからいでか。あの反応を見せられてわかんねぇのは余程の朴念仁だ」
「そんなにわかりやすい反応だったの?」
「俺の顔見りゃ赤面して、簡単な単語にも過剰反応。で、ステラへの伝言は『作戦失敗』だってよ」
ステラはそれを聞いて笑った。久々にステラが大口を開けて笑うのを見た気がする。おおかた、祭の反応は予想通りの反応だったのだろう。
「まったく。ステラの娯楽好きにも困ったもんだな」
「墨善も面白い経験ができたんじゃない?」
墨善は今日一連の祭の行動を振り返る。確かに面白いと言えば面白かった。今後、身内の席でいじり倒すにはちょうどいいネタではある。
「確かにな」
その時のことを想像して、墨善は素直にそう言った。
「ならお互い損は無いでしょ?」
「なんか納得いかねぇんだが。まあ、いいや」
墨善は差し出されていたコーヒーに口をつけ、お茶請けのラスクをかじった。
「あ、このラスクおいしい」
「そう?そこのスーパーで買ってきたものだけど?」
「庶民にはちょうどいい味なのさ」
「私だって庶民よ」
「で、感想は?」
「ラスクは本場の焼き立てが一番おいしいと思うわ」
世界を股にかける旅人が庶民なのかどうかは甚だ疑問である。
「それで、なんか入用じゃなかいのか?ステラはいつも定子さんに注文入れるだろ?」
「ええ、その話もしたいのだけれど。仕事の話をティータイムにするのはちょっと無粋じゃない?」
「ごもっとも。それじゃあさ、この前話してた友人のメデューサってどんな人?」
「どうしたの、いきなり?」
「いや、なんかステラの話によく出てくるけど、メデューサってこと以外よく知らないから。どんな人かなぁって。一応は神様なんだろ?」
「ええ、そうよ。でもメデューサって死ぬ神様だからね、むしろ妖怪に近いわ。特に私の彼女はその気が強いわね」
「『彼女は』ってことは、メデューサって世界に何人かいるのか?」
「日本にもいるわよ。確か人間の自衛官と結婚して、二人の娘がいたはずだけど」
「ステラの友好関係ってどうなってるんだ?」
「女は秘密を持って美しくなるのよ。それを掘り下げるなんてよくないわよ」
「ステラがこれ以上綺麗になったら、追ってくる人間が増えて大変だからちょうどいいんじゃないのか?」
「そうね。でも『ネズミ』にまとわりつかれるよりましよ」
「アハハハハ」
乾いた笑いで答え、墨善は話を戻した。
「で、ステラの友人はどんな神様?」
「ん~・・・そうね、恥ずかしがり屋で物静かで、泣き虫かしら」
「それって神様なのか?」
「それで二挺拳銃の達人」
「いま、無性にその神様に会ってみたくなったな」
メデューサといえば女性だし、それでいて二挺拳銃の達人って言えば興味もわく。
祭も仕事の時は拳銃を二挺携帯していくが、あれは二挺同時に撃つことは無い。リボルバーに弾を込めるより、二挺目を抜いた方が早いから持って行ってるだけだ。
純粋な二挺拳銃の使い手など、墨善もまだ数える程しかお目にかかっていない。
「会いにいくのは大変だけど、向こうからそのうち会いにくるかもね。彼女、結構日本が好きだから」
「へ~・・・それじゃ、彼女の観光案内の話がきたらぜひこっちに話を回してくれ」
その後も、墨善とステラは彼女の出会ってきた人物達の話に花を咲かせた。
「お、もうこんな時間か」
墨善はそう言って、まだ残っていたコーヒーの中身を飲み干した
「んじゃ、そろそろ帰るわ」
「そう、またね」
墨善は学生鞄を肩にかける。
「そのうち祭も直接顔出すと思うから」
「ええ、わかったわ」
そう言ったステラの表情は楽しそうだ。
「からかい過ぎるなよ」
「私も他の友人に彼女のことを話さなきゃいけないからね。二度とできない経験は重ねとかなきゃ」
そのおかげで墨善も面白い話を聞けているのだ。あまり文句を言いすぎるわけにもいかないだろう。
「んじゃ、そのうち定子さんとこにも顔出せよ。歓迎するぞ」
「ええ、楽しみにしとくわ」
そう言って、墨善はステラの自宅を後にした。
墨善が一歩外に出ると、外は既に日が落ちて真っ暗になっていた。
ビルの向こう側から繁華街の灯りが漏れているのでそんなに暗くは感じない。公園方面から帰るか、と墨善は独り言のように呟いて足を向ける。
ふと、人の気配を感じた。
まだそんなに遅くは無い時間帯。人がいることは珍しくはない。だが、墨善は脚を一歩後ろに下げた。
これは、単純な人の気配とは思えなかった。
「こんにちは」
視界の隅。そこに異質な人物をみつけた。
「お初にお目にかかります」
シルクハットと燕尾服。暗いながらもその人の肌が死人のように真っ白なのはすぐにわかった。背中にやけに巨大な荷物を抱えている。
「わたくし、ステラ=ヘッケ=コルチェスターさんにお会いしたく参上した次第でして。できればお取次ぎ願えますでしょうか」
男性の声である。だが、そこには随分と年期が入っているような感じがした。
目の前にいるのは壮年の男性。だが、間違いなくそれ以上の年齢を生きている風格が漂っていた。
墨善も何度か仕事で遭遇したことがある。
「吸血鬼の・・・方ですか・・・」
「はい。お話が早くて助かります。われわれ吸血鬼は招かれなければ他者の邸宅を訪れることはできませんので」
吸血鬼の特徴の一つである。
こういう輩に会わないようにステラはあの部屋に表札を掲げているのだ。
表札がある限りあそこはステラの自宅だ。人間相手には効果はないが、こういった妖怪の類にはよく効く。
「ご用件を先にお伺いしてもよろしいですか」
「ええ、実はわたくしコルチェスター氏と知り合いでして。その娘さんがここにいるとお聞きしてご挨拶にと訪れた次第です」
「失礼ですが、お名前を」
墨善はそう言いながら学生鞄をアスファルトの上に落とした。
「私ですか?私はアブロム=ナサニエルといいます」
墨善の右手がぶら下げているストラップへと延びる。
「そうですか。武装はされてますか?」
「やけに警戒されていますね」
墨善の左手は既に弾倉を掴んでいた。
「そりゃ、そうでしょ」
突如、目の前の吸血鬼が動いた。背後から取り出した何かを構える。その中身を見る前に墨善は動いていた。拳銃に弾倉を詰め込みながらペンシルビルの中に飛び込む。それとほぼ同時に爆音が連続で炸裂した。そこに破砕音が混じれば一瞬で戦場の演奏会の始まりだった。アスファルトが舗装される前に戻り、その場にあった墨善の弁当箱と鞄がただの破片へと変貌する。
「なかなか、勘のよい人間だな」
爆音を放っていた銃器を止める吸血鬼。熱くなった銃身などものともせずに銃を背中に回し、ペンシルビルの前に立つ。二つの眼球に穿たれた穴は墨善がビルに飛び込みながら放った弾が通過した痕だった。
「私はここには入れん。お前らが行け」
その言葉が合図だったかのように、周囲から突如現れた男達が地下への階段を駆け下りていった。さすがの吸血鬼でも視界を潰されれば正確な射撃はできない。
「さて、少しは楽しませてくれよ」
彼が背中に背負っているのはブローニングM2。
重さ38㎏、全長1.6m。12.7mmという大口径の弾丸で障害物ごと破壊する重機関銃。
それを軽々と背負い、吸血鬼はその長い牙を隠すことなく笑ったのだった。両目の銃創は既に消えていた。