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背負うべきだったもの、背負えなかったもの

作者: 神奈保 時雨

5月11日

 私は目を開けた。座っているのは木でできた椅子。足がついているのは、古びた木目が美しい暗い色の床。私を囲むのは白い壁。

私にはそれが分かる。情報として理解し言語化することができる。

 しかし、それが可能なのは何故だろう。

 もう一度床を見つめ、私は顔を上げた。私の真正面。そこに一人の男性がいる。少し白髪混じりの黒い髪。皺ができはじめたらしい目尻。きっと、俗にいう、中年くらい。床に膝をつき、私を見ている。期待するかのような瞳で。

「あなたは、」

 私の口から出たのは、細く高い声だった。

「あなたは、私のお父さん?」

「……生き物を作り出すものがすべて親と呼ばれるのなら、そうかもしれない」

 彼は答えた。期待の色は若干失せ、しゃがれた声で、それでも穏やかな口調だった。

「その上もしも、私が生き物だったらなのですが」

 彼は笑った。私の言葉を聞いて小さく、どこか悲しげに。

 それが、私の最初の記憶。


6月3日

「食事ができました。リビングにどうぞ」

 私は彼の書斎に顔を出した。私を振り返った彼の手元には、透明な液体の入ったグラスがあった。私はそれが何だか知っている。

「ああ、今行くよ」

「……毎日そのようなものを飲むから、声が嗄れるのではないですか?」

 腰に手を当てる。怒るときはこうするのだ。そうすると、彼は決まって困った顔をしてみせる。

「これくらい許してくれ、いちばんの楽しみなんだから」

「アルコールは身体に悪いのです。あなたが教えてくれた知識では」

「そうだな、酒のことなんか知らなくてもよかったかもしれない」

 水だと言えばよかった、と笑いながら、彼は座っていた椅子から立ち上がる。何故笑うのか。冗談だからだ。きっと。

「ところで、今日のご飯は何かな」

「ご希望どおり、シチューですよ」

「それは楽しみだ。君は失敗をしないから」

「するわけないでしょう。あなたがレシピを教えてくれたのです」

 彼はリビングに入り、いつも食事をとっている椅子に腰掛ける。

「でも、あのレシピ。市販のものではないでしょう? 誰かがノートに手書きしたものですよね。どうしてあれだったんですか」

 私はひとつ深皿を手に取って、シチューをよそう。バスケットにはいくつかのパン。今日の朝焼いたものだった。これも、レシピの通り作ったものだ。焼きたての香ばしさが失われても、その艶は朝と変わらない。

「秘伝のレシピだからだよ」

 彼は笑ってそれだけを告げた。

「答えになっていません」

 はぐらかされたとき、決まって私の声の調子は下がる。つまらない。そういう気分になるのだ。

「罰としてワインはなしです」

 シチューとパンを運んだが、彼がいちばん望んでいるだろうグラスは出さなかった。つまらなかったから。

「ええー……」

 彼は残念そうに眉を下げる。それでも、ノートのことは秘密らしい。

「おいしいですか?」

 彼がシチューを匙で掬うのを、向かいに座って見つめる。

「おいしいよ。いつもと同じ味だ、寸分違わず」

 それはよかった。


8月10日

「暑いなぁ」

「そうですか?」

 彼はリビングのソファで、横になったきり動かない。いわゆる夏バテというものだ。

「暑いよ」

「そうですか。では、夏になると関係者各所から届く、瓶に入った白い乳酸菌飲料を出しましょうか?」

「商品名で言ってくれていいよ」

 私も冗談がうまくなったでしょう……なんて言うとむしろ空気がしらけるものだ。この3カ月で覚えたことのひとつ。だから、彼の言葉は無視して冷蔵庫を開ける。グラスをひとつ、冷蔵庫の中で冷やしてあるのだ。それと同じように冷やした瓶から飲み物を注ぎ、水で割る。

「濃いめに氷をたっぷり入れるのが好きなんでしたか、確か」

「分かってるねぇ。その通り」

「あなたが教えてくれたのです」

 起き上がらないと飲めませんよ、と付け足すと、彼はようやく身体を起こした。


8月20日

「……少し、寒いなぁ」

「今日の気温は29度ですよ」

「ああ、じゃあ寒気がするんだ」

 彼の声は弱々しい。夏風邪でもひいたのだろうか。

「頭痛や熱は?」

「頭は特に痛くない。熱はちょっと計ってみるよ」

「具合がよくないのなら、寝ていた方がいいですよ。体調不良は怖いのです」

 私の言葉に、彼は眉を下げた。きっと困っているのではない。眉間には皺が寄り、口元はひくついている。

「……そう、だね。そうだった」

 彼の声はどこか悲しげだった。

その後、私がお粥を作っている間に、彼は寝室にこもり寝てしまった。


9月7日

「今日も、微熱がありますね」

 彼の持っていた体温計を覗き込み、その数字を目に映した。高熱というわけではないが、平熱でもない。彼はどこかだるそうだ。

「そうだね」

「病院に行った方がよろしいのでは?」

「仕事が忙しくてね」

「病気の時は病院に行くものだと、あなたが教えてくれたのですよ」

 彼は黙ってしまう。最近はずっとこうだ。私が病気だなんだという言葉を口にすると、こうして何も言わなくなってしまうのだ。

「ではせめて、禁酒を」

「ええー……」

 お酒については前からこうだ。割と元気なのかもしれない。


10月26日

 最近、彼は家にいるときは横になってばかりだ。彼の体調のことを考えると、座っていられずそわそわと歩き回ってしまう。心配しているからだ。

彼と話せないとなると私はすることがなく、家の片づけばかりしてしまう。元々彼ひとりで住んでいたにしては広すぎる家だ。掃除はしてもしても行き届かない。

 今日はリビングを掃除することにしよう。寝室には彼がいるし、書斎は勝手に触ってはいけないようなものがたくさんあるというから。私は濡らした雑巾を片手に持ち、棚へと向かう。棚の上のものをどかそうとして、違和感を覚えた。棚の上には写真立てがある。しかしその写真立ては伏せられていたのだ。

 先日、大きな地震があったから、倒れたのだろうか。私はその写真立てを起こした。

「……あれ、」

 驚くと言うのはこういうことを言うのだろう。目を見開き、口が半開きになる。

その写真には私が写っていた。白髪もなく、皺もない彼と一緒に。


10月27日

 あの写真を私は知らない。写っているのに知らないというのもおかしな話だが、若いころの彼など知る由もない。数か月前に会ったばかりなのに。

 私には、あんな風に幸せそうに笑うことはできない。あんなに幸せそうに笑う彼も知らない。

「あれは、誰ですか?」

 お粥を持って行ったついでに、彼に尋ねた。ベッドに座っている彼の顔。2カ月前より随分やつれたように思う。

「あれはね、僕の妻だよ」


「僕の妻だった人だ。10年前に死んでしまった。僕はね、もう一度妻に会いたかったんだ。でも無理だった」

「一目でいい、もう一度目の前に彼女が現れてくれたら。彼女の作った料理が食べられたら。そればかり考えていた。僕たちの間には子供もなかったから、寂しさなんかいつまでもまぎれなくてね」

「その結果がこれだよ。その結果が、今なんだ」


 ああ、私は動悸することも汗を手に握ることも知らない。思ったことは言葉にするしかないのに。その言葉さえ出てこない。


「……つまり、あなたは私のお父さんではない」

「君を彼女と呼ぶのなら、そうかもしれない」

「同じものにはなれませんでした」

「うん、知っていたよ。顔が一緒でも、声が一緒でも、君は僕の妻ではない。僕は君の父親だ」


12月4日

「あなたはとうとう病院に行きませんでしたね」

「……忙しかったからね」

ベッドに横になり、目を閉じたまま彼は呟く。

「奥方に会いたかったからではないのですか」

「直球で聞くなぁ」

 薄くその目が開き、彼は顔を歪めて笑った。

「苦笑いされても、私は言葉を選ぶということは知らないのです」

「まあ、そんなことができたら世界中大騒ぎだ」

「あなたが有名になるかもしれませんね」

「そんなのはいいよ。……そうだね、彼女に会いたかったからかもしれない。でも」

 彼は私の目を見る。穏やかな眼差し。違う世界に赴く人はこんな顔をするのだろうか。彼の「彼女」も、こんな目をして旅立ったのだろうか。

「君を残してしまうのは、少し、心苦しい」

 こんな懺悔と共にいなくなったのだろうか。私の胸が締め付けられることはないけれど、そうだとしたらきっと悲しい。


12月14日

「苦しくはないですか」

 お湯で濡らした布巾で、彼の顔を拭う。

とうとう、彼は大好きだったお酒さえ口にしなくなった。こんなときくらい、好きなものを口にさせるものだ。だから私はきっと文句を言いはしないのに。飲まないのではなく飲めないのだから、仕方がないのだろうけど。

「横になっていれば幾分ましだ」

 ましとは言うが、苦しいのだろう。彼はめっきり笑うことをしなくなった。笑うと気管に負担が掛かるから。

「ねえ、伝えたいことがあるんだよ」

 ならば話すことも苦しいだろうに、彼はそんなことを口にした。

「何ですか」

「僕がいなくなったなら、僕のことを忘れてくれないか」

「なぜですか」

「君が僕と同じ思いをするだろうから。それは、僕が嫌なんだ」

「親が子より先にいなくなるのは自然なことです」

「僕が、君の親ならね」

 彼は細く目を開け、私を見つめる。何を言おうというのだろうか。彼は「父親」なのではなかったのか。

「もしも、僕を想うなら。もしそうなら、忘れてくれ、頼むよ」

 私にはその意味が分からない。


12月21日

 彼は彼女のところへ行ってしまった。ああいう顔を安らかと呼ぶのだろう。穏やかで、すべての悩みが晴れたような、まっさらな顔。

 ああ、だというのに、私は涙さえ知らない。



* * * * * * *


『以上のメモリを削除します。よろしいですか?』


『そのままお待ちください』

『削除が完了しました』

『ただいまの時刻、12月20日、23時です』





Twitterでの「60分で物書きが文を書き、同じく60分で絵描きがその話にイラストをつける」という企画に寄せた小説です。

イラストは汐月羽琉氏のサイト(http://nanos.jp/halcyondays11/)で見られます。

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