其の五
何処からどう、狂ったのだろう。
「あたいはさ」
――やっぱり、鬼だったんだ。
小さく呟いたはずの言葉。それでも、誰もいないこの家の中では十分過ぎる程に響いて自分の耳に届いた。
分かっていた、はずなのに、さ。
「……鬼ってなんなんだよ。人間ってなんなんだよ……ッ。あたいは、どうして」
――生まれて来ちまったんだろう。
まだ、両手に感触が残っている。
肉を斬る嫌な感触も。骨を断つ硬い感触も。
頭の片隅に色鮮やかに残る、人々の、恐怖を貼り付けた表情。もう、耳にしたくない様々な、音。身体に染み付いて離れない、むせ返るような血の匂い。
そして、珪吾の、不思議そうな色を一杯浮かべた、あの、瞳。
人形のように地面に横たわっても、その色だけはずっと消えなかった、あの瞳。
――どうして。
何で、あんたは――。
「……何も、知らなかったからさ。お前が妹なんだと知っていたのは、兄貴の珪宋唯一人――。村人も珪吾も、何も知らされちゃアいなかったンだ」
外から聞こえて来た声は、初めて対峙した時に聞いた様な感情の感じられない冷たい声だった。
「雷封――。あたい、何で生まれて来ちまったんだろう。どうして、生き残っちゃったんだろう。どうして母様はあたいを」
――置いて、いっちゃったんだろう。
「あたいは、母様にも、捨てられたんだね」
まさか、と、外の声は言った。
「捨てるつもりなら、お前が生きようが死のうが気にかけやしねェだろう。それなら一緒に死んだって同じ事。そうさせず、お前を逃がしたのは一体何の為だよ? 命を懸けてお前を逃がしたのは、一体何の為なンだよ?」
言っている台詞とは裏腹に、感情の感じられない凍りついたような口調のままだ。もしかしたら、声と口調が似ているというだけで、雷封では無い人物が話しているのでは無いかと思う程、普段の彼とは印象が違う。
分からねェなら分からねェで良い。分かりたくねェならそれはそれで構わねェ。
どっちにしろ――
俺にゃア関係のねェ事だ。
そんな言葉が聞こえて。
きゅっと両手を握り締めた。何だか、無性に怖くなったのだ。
だって、雷封の仕事は――。
――理由も分からねェで退治すンの、嫌いなんだよ。
結局、祓い屋なんだ。
結局、あたいが鬼だったのと、同じように。
――鬼退治と、行きますか。
草雲には、その言葉の真意が未だに分かりかねていた。霜雪が口を出さないところを見ると、どうやら彼にも兄の考えている事がはっきり見えて来ないのだろう。いくら自分の失敗にショックを受けているとはいえ、それをあからさまに仕事に持ち込む程、彼は素人では無いのだから。
失敗の、後始末。
もしかしたら、そういう事なのだろうか。
……だけど。
そんな事。
納得が行く、はずが無いではないか。
「……退治するのは、気が乗らなかったんじゃ無かったのですか」
雷封の背中を見つめながら、思わず口をついて出た言葉。それを耳聡く聞きつけた霜雪が、諦めたように小さく首を横に振る。
――しょうが、ありませんよ。
呟いた霜雪を一瞬咎めるような視線で見、草雲は何か言いたそうに口を開いたが言いたい事が纏まらなかったのか、何も言わずに口を閉ざした。どうやら霜雪が、わざとに彼の耳に入るように呟いたという事には気が付かなかったらしい。
――確かに、ね。
一体、どうするつもりなんです?
確かに雷封は、この仕事自体に乗り気では無かった。だがそれは言わばいつもの事であり、別段気にする程の事では無いと霜雪は思う。そもそも雷封は、仕事というモノが嫌いな質なのだ。
それでも時々、兄の行動が分からなくなる。普段なら兄の単純な行動を読み切る事など、いくらでも出来る。何処でどれだけ散財しているのかも、そのお陰で詐欺紛いの副業をしている事も。
だが時々。
兄のそう言った単純な行動は、わざとにやっているのではないかとそう思う事があるのだ。自分はそういう人間なんだと、わざとにそう見せようとしているのではないのかと。
何故、彼がそんな事をする必要があるのかと問われれば、霜雪自体解らないと答えるしか無い。ただ、血の繋がらない兄が時折見せる、別人のような冷たい一面を見ていると何となくそう感じるのだ。本当の雷封という人物は、こちらなのでは無いのかと。
今だって。
抑揚の無い声で、沙雪に話しかけている兄の背中を見上げる。いつもの見慣れた黒い法衣。左手に携えているのは、独特の形をした錫杖。
見慣れ過ぎた背中。
真意の見えない背中。
背中を見慣れ過ぎているという事が、悔しかった。結局いつも、助けられているような気がしてどうしようも無く、悔しかった。
どうするつもりなのか、明かさないという事。
つまりそれは、何があっても責任を一人で負うという事だ。
それが、共に信頼して仕事をしている事になるのだろうか。
……何か、違うような気が、していた。
雷封の、やけに淡々とした声だけが辺りに響く。
「沙雪。俺はさ。鬼を、どうにかする為にここに来たンだ」
――分かるよな?
そう言って言葉を切ると、小さな縁側へ腰掛けた。変わった形をした錫杖を抱き抱える様に腕を組む。
「面倒くせェのは嫌いだから単刀直入に言うぞ」
沙雪は聞いているのかいないのか。家の中に居るのかどうかも判断がつかない程、家の中は静かで人の気配がしない。だから、雷封の言葉は誰かに語りかけているというより独白に近いものに見える。
多少言葉を交わしただけで、一度も姿を見ていない。それでも雷封は構わず次の言葉を口にした。
「俺の式になンねェか?」
ちりんと、小さな鈴の音が響く。
「ちょ、一寸待って下さい!」
兄の言った台詞を聞いて、霜雪は思わず声を上げてしまった。
式にする。
――それは。
「全ての責任を被るつもりですか」
沙雪を式にすれば、当然契約者である雷封にも責任が及ぶ。沙雪が村を壊滅させた後に結んだ契約だとしても、事の成り行きを全て知った上で結ぶ契約なのだから。
「なァにおっかねェ顔してンのよ。そンな難しい話じゃねェって」
先程までの無表情な雷封は何処へやら。ひらひらと手を振ってみせる。その仕草は、霜雪が見慣れている血の繋がらないいつもの兄そのものだ。
「お前だって、沙雪を助けたかったからあんな無茶な事したンじゃねェか」
「……それとこれとは話が違います」
「どう違うってのよ。同じ事だろ。お前だって、沙雪を殺したいわけじゃねェンだろが」
さらりと恐ろしい事を言い。
「それとも何。お前、沙雪がついてくンの、嫌なわけ?」
「そうじゃなくて……」
「じゃア問題ねェんじゃないの。ンなわけで、こっちは問題無いわけよ。どうする、沙雪? 後はお前次第だぜ?」
こんなとこにいねェでさ。俺達と一緒に過ごさねェか?
――それはきっと、優しいコトバ。
そしてとても、残酷なコトバ。
「……式にするって、一体どういう意味なんです?」
ぽわんとした顔で質問をして来た草雲に吐き捨てるような強い口調で答えてしまったのは、兄が言っている事がどれだけ非常識な事かが分かっているからなのだろうか。
「どういう意味も何も。そのままの意味ですよ」
「式として使役するって意味で良いのですか? でも、人間も使役出来るものなんですかね」
「もちろん、出来ませんよ。ですが、沙雪は半人半鬼です。人として生きる道を捨てるなら、契約を結ぶ事も可能でしょうね」
「……そんな」
言葉を無くした草雲から目を逸らし、兄を見る。
――兄さんの方が、余程無茶な事を言っているじゃないですか。
声に出さず、一人ごちる。
一体、これの何処が鬼退治だと言うのです。
鬼として生きろと、言っているようなものじゃないですか。
もちろん、霜雪だって沙雪を助けたくないわけでは無い。悔しいが、それは先程兄に指摘された通りである。このまま彼女を放っておけば、それこそ噂を聞きつけた退治屋だか祓い屋だかに退治という名目で殺されてしまうだろう。
だが、それでも。
それこそ、他の方法があるように思える。わざわざこんな方法を取らずとも。
草雲に言ったように、沙雪の鬼としての部分と契約を結び、式として使役する事は理論上は可能である。可能ではあるが、残った人としての部分が術者にどのように作用するかは未知数であり、力の大部分を封印されたままの状態でどれだけ受け止められるのかは不安なところである。そもそも、海を隔てた遠い異国の地では召喚術と呼ばれる術に酷似している妖そのものとの契約自体が、術者が自らの術力を注いで作り出す擬似的な亜精霊を扱うのとは比較にならない程の精神力を必要とし、術者に負担をかけるものなのだ。
何故、そこまでして。
どれだけ考えても結局、兄の真意は見えて来ない。
ヒトとして生きる道を捨てるなら。
聞こえてしまったその言葉。
どれだけ確り耳を塞いだつもりでも届いてしまうのは、心の何処かで聞きたいと願っている自分がいるからなのだろう。
――それはつまり。
一緒に居たいと願う自分が、確かに存在しているという事。
それでも、いい。
それだけで、いい。
――ガタリ。
立て付けの悪い音を立てて開いた襖の間から。
まるで、初めて笑う事を許されたような、自信の無い笑顔を浮かべて。
「よ。元気?」
相変わらず、意地悪に口の端を持ち上げて言った台詞。
「……元気に、見えるの?」
「いンや。全ッ然」
「やっぱりアンタって、どうしようも無くムカつくよね!」
「そりゃ、どうも」
にまっとした笑みを浮かべながら、心底嬉しそうに言ったその台詞を聞いて。
沙雪は、自分の頬を熱いものが伝って落ちるのを感じ。
自分は今、泣いているのだと自覚するよりも早く、顔をくしゃくしゃにして思い切り雷封に抱きついていた。
――ヒラヒラ、ヒラリ。
「……雷封。あたいは、思い出したくなんて、無かったんだ。思い出を忘れたまま、母様と暮らしたこの場所で静かに暮らしたかっただけなんだ。それなのに」
……思い出なんて、いらなかったんだ。
いらないから捨てたのに、どうして。
その言葉は、霜雪の心の奥深い所に入り込み、小さな痛みと共に引っ掛かれたような細かな傷痕を残す。
何故。
どうして、自分の生きた証をいらなかったのだと、こんなにはっきりと言い切れるのだろう。
――嗚呼。
まるで、理解出来ない事ばかり。
「どうしてッて言われてもなァ。結局、いらねェモンじゃなかったから捨てられなかった――それだけじゃねェか?」
しれっと答えた雷封の、彼らしい単純な答え。
「本当にいらねェと思えるモンなんて、この世の中ドレだけあるよ。忘れたまま暮らしたかったなンて、それこそ忘れたくなかったってェ事の証じゃねェか」
――そンな都合の良い事は。
生きてる限り、出来ゃしねェンだよ、と少しだけ哀しそうな音を滲ませながら。
その深い赤の瞳が何を捉えているのか、草雲には図り知る事が出来なかった。
「雷封さん。私にはどうしても分かりませんよ」
ぽつりと、独り言のように口から漏れたその呟きを聞き、赤毛の青年は顔だけを草雲の方へと向けてみせる。
「私は、珪宋さんの気持ちが少しだけ、分かるような気がしていたのです。大きすぎる父の影と期待を常に感じながら生きていくという事が、どれ程辛いのかという所では共感すら出来るかもしれないと思いました。けれど、何故ここまでしなければならなかったのです? 影を断ち切る方法は、他にいくらでもあったのでは無いのですか?」
あるだろうなァ、と、赤毛の青年は答えた。
「ただ、見つけられなかっただけ、なンだろうな。不安材料を消すなんてなァ、一番確実だがこの場合は一番選んじゃいけねェ逃げ道じゃねェか。それにすがりついちまうだけ、青戸珪宋が弱かったってェ事だよ」
「あっさり、言いますね」
「難しく言ったってどうにもなンねェだろ。難しく言おうが単純に言おうが、起きちまった事は変わらねェンだから」
「はぁ……。雷封さんらしい答えですねぇ」
「何だそりゃ。単純だって言いてェのかよ」
「あ、いえ、そういうわけでは」
わざとらしく慌てて否定をした草雲を雷封はじとーっと見つめていたが、ふいっと目を逸らした。
「人間だ鬼だって言ってもよ。そんなモンはタダの種族の違いであってさ。結局は、同じようなモンなのよ。同じように泣きもするし笑いもする。見た目が違うなんて、些細な事じゃねェか」
それは確かに正論だと、草雲も思う。
だが、正論がいつも通るとは限らない。皆が皆、雷封のように人に在らざるものと直接接しているわけではないのだから。
見た目が違う。種族が違う。
ただ、それだけで。
畏怖の対象になり得てしまうのだという事もまた、理解出来るのだ。
形の無い恐怖ほど、恐ろしいものはない。だから、人は皆、恐怖に明確な形を求めてしまう。
今回はそれが沙雪であり、沙雪の母親だっただけの話。
――人ではない。
ただ、それだけの理由で。
――ヒトは皆己の心に鬼を飼い、真実の鬼を目覚めさせる。
そう、頭の中では理解出来ていたのだ。
納得は、していなかったとしても。
「……妖とは、一体何なのでしょうかねぇ……」
その呟きは誰に届く事も無く、空に昇って儚く消えた。