其の一
歩き出してからどれだけ時間が経ったのだろう。そろそろ腹減ってきたよなー、などと思いながら雷封は一人、山の中の小道を歩いていた。
すでに日は高い。彼がこの山に入ったのはまだ太陽が顔を出した辺りの時間であったので、もうかなりの時間が経過しているだろう事は容易に想像出来る。全く、何だって俺がこんな損な役回りしなくちゃいけねェんだよ、と彼は誰にとも無く毒づいた。足元に落ちている枯れ枝が、ぱきんと乾いた音を立てる。
「……鬼、ねェ……」
そう、不機嫌な声で呟くと、彼は唐突に足を止めた。懐に手を入れ、中から二枚の札を取り出してかなり適当な感じで印を組むと、投げ遣りに一言「式、召喚」と唱え、札をぱっと空中に散らせる。
そんな、いかにも面倒くさそうに行われた術だったが、散らせた二枚の札は地面に落ちる事無くその姿を二羽の梟へと変え、今度は自分の力で空に舞い上がった。梟は頭上で一度旋回した後、それぞれ反対の方向へと飛び去って行く。
それを確認し、雷封は大きく伸びをすると近くの木に背中を預け、無造作に座り込んだ。そして、今度は大きく欠伸をする。
……ったくよ……。
なァーにが「人探しは、兄さんの能力の方が適してますから」、だ。
にこやかにそう言いきった弟の顔が思い出される。今頃、あいつと物書きの先生は詳細を聞きながら美味い飯でも食ってるんだろうなと勝手な想像を巡らせた。
霜雪のヤツ、異様に人受けが良いからな。
「……本性を知らねェってのは、ほんッとおめでたい事だよねェ」
ぶつぶつ言っている雷封を遠めに見ながら、小さな少年が足早に通り過ぎて行く。そりゃあ、こんな獣道然とした細い道の端に座り込み、ぶつぶつと何かを呟いている人間なんぞと係わり合いになりたくないと思うのが普通の人間の思考というものだろう。加えて、雷封の纏っている着物は黒い法衣であるし、傍らには変わった形をした錫杖まで置いてある。
さらに付け加えるなら、雷封は目付きもあまりよろしく無かったりするのだし。
つまり、この雷封という人物は、どっからどうみても胡散臭く見えてしまう人物なのだ。ただでさえそう見えるというのに、道端で一人座り込んでぶつぶつ言っているのだから、余計にそう見えてしまう。
人受けが良い、と彼に言われている霜雪と血が繋がっていないと言って、思わず頷かれたりするのもよくある事だった。それだけ、弟とは見た目から漂わせている雰囲気まで、全てが似つかない。
まァ確かに……。
俺の方が、こういった事は向いてるんだけどよ。
そう自覚しているだけに、ため息が出た。
……がさり。
ため息の最中、そんな音が聞こえたような気がして、彼はため息を途中で噛み殺した。中々に器用な芸当だが、これもまた、あの弟と付き合っていく上では重要な技なのである。霜雪は、妙なところで異様に鋭かったりするのだ。
雷封が視線を巡らせた先に立っていたのは、小さな少女だった。まだ、十かそこらだろう。若草色の着物を着たその少女は、雷封を感情の薄い深緑の瞳で見下ろしている。
「あたいに、何か用?」
「……あ?」
硬い声で言った少女の言葉が、理解出来なかった。意味が分からず、ぽかんと間の抜けた表情になった雷封に構う事の無いまま、少女は言葉を続ける。
「あんた、祓い屋でしょ」
「……まァ……そンなモンだけどよ……?」
それぐらいは、彼の法衣と錫杖を見たら誰だって想像が付く。だが、だからと言って、こんなガキに因縁吹っかけられる言われはねェぞ、と雷封は心の中で呟いた。
「鬼、探してんでしょ」
その台詞は、呆れていると言ったような響きを持っていた。何となく、馬鹿にされているような気がしてかちんと来る。
「だったら何だってんだ?お前にゃ関係ねェだろ」
居心地が悪くなり、錫杖を持って立ち上がる。少女に背を向け、さっさと元来た道を戻り始めた。
「……あんた、ホントに祓い屋?」
「――ッ!!」
ザンッ――
雷封の頭スレスレに、少女が薙いだ巨大な刀が通り過ぎて行く。嫌な予感がして咄嗟に頭を引っ込めたわけだったが、どうやらその予感は当たったわけだ。どっから取り出したのか――というよりもまず、その刀は少女の身体よりも余裕で大きい。例え、大の大人が持ったとしても振り回すのは困難だろうと思えた。
そんな刀を少女は軽々と振り回し、間発を入れずにもう一度振り下ろして来る。体重を乗せた容赦の無い攻撃を錫杖で受け止め、初めて雷封は少女の顔をまともに見……そして短く息を呑んだ。
――耳の先端が、尖っている。
白い髪の隙間から覗くその耳の形は、明らかに人のそれとは異なっていた。
「……お前……」
ぎしっと錫杖が軋んだ音を上げる。力押しでは敵わない。腕力が無い方だとは思っていないが、あまりにも得物の大きさが違い過ぎるのだ。このままでは、錫杖の方が持たないだろう。そう判断し、ちっと舌打ちをすると錫杖を横に滑らせて刀を綺麗に受け流し、少女から少し離れた位置に移動する。自分の間合いであり、尚且つ術を使うのにも最低限必要な距離。それを保つように考慮して。
「お前が、鬼、か?」
雷封の言葉からは、困惑の響きが聞いて取れた。少女は無造作に刀を構えたまま、答えを返す。
「だから、聞いたでしょ」
あたいに何か用?って。
アレは、そういう意味だったのか――。
「あんた、祓い屋の割りに鈍いんだね」
そう言って、くつくつと笑った。
――何か、変だ。
「俺が鈍いンじゃなくてよ」
言いながら彼は構えを解いた。目の前の少女はいつでも刀が振れるよう構えているというのに、雷封は白けたように頭をぽりぽりと掻く。
「お前が、弱いンじゃねェの?」
この台詞に、少女は虚を突かれたような顔をした。それを見て、雷封は更に言葉を続ける。
「馬鹿力なのは認めるけどよ。お前、それだけなんだろ?正直、妖気も何も感じねェよ。お前が本当に、赤月村の人間を食うとか言う鬼なのかよ」
まァ、普通の人間にゃ、その馬鹿力だけでも充分おっかねェんだろうけどさ、と少女が手にした大きな刀を見て苦笑を浮かべた。
「……あたいは……人なんて、食わないよ」
「だよ、なァ……」
「だけど、この辺りにはあたい以外に鬼なんていないよ。あいつらが退治したがってるのはあたいなんだ」
だから。
あんたの目標は、あたいだよ。
言って、少女は力任せに斬りつけて来た。だが、先程のように不意をつかれたわけでは無い。ただ勢いに任せて斬りつけて来る、この程度の攻撃をかわすのはわけも無かった。少女の斬撃には、力はあっても技が無い。
「……あいつら?」
「村の連中だよ。大方、あたいの退治を依頼したのはあいつらなんだろう?」
「そりゃー、普通に考えて他にいねェよな」
少女の攻撃を軽くかわしながら言ったその言葉が、余裕たっぷりのその態度が、彼女の癪に障ったらしい。少女は頬をかっと紅潮させて叫んだ。
「馬鹿にするなっ!!」
ギンッと鈍い音を響かせて、雷封の手から錫杖が弾き飛ばされる。それは少しの間宙を舞い、さくっと小さな音を立てて雷封よりもかなり後方の地面に突き刺さった。それでも、少女は刀を振るう手を止めない。雷封目掛けて刀を思いっきり横に薙いだ。
――と。
それが雷封に届く寸前。少女は巨大な刀をぴたりと止めた。彼女の紅くなった頬から、すぅっと一筋更に赤いものが鮮やかに流れ落ちる。
「これ以上やるってんなら、次は当てるぜ」
感情を消し去った低い声でそう言い放つ。彼の手には弾き飛ばされた錫杖の代わりに、札が何枚か握られていた。
「お前の刀を避けながら術を使うぐらい、簡単な事だからな」
感情を消しただけでこれだけ冷たい響きになるのかと思うほど、彼の言葉は突き刺さるような響きを伴っていた。少女は血を拭う事もせずに刀を握り締めたまま、後ろを振り返る。
少女が背にしていた木の幹に、一本の細い氷柱が突き刺さっていた。少女の頬を掠めた時についたのだろう赤い色が、太陽の光を受けてきらきらと光っている。
「死に急ぐ事もねェと思うけどなァ」
そう言った雷封の声は、さっきまでと同じいつもの彼の声音だった。少し人を小馬鹿にしているような、軽い音を持った声音。
「……だけどあんた、あたいを退治しに来たんだろ?」
「まァ……そうなンだけどさァ……。正式に俺が受けた仕事じゃねェから正直、どーでもいーンだわ」
さらっと言い切ったその言葉を聞き、少女は複雑な表情を浮かべた。怒っているような、不思議がっているような、それでいて楽しんでいるような。
「人を食うような鬼だって言うから、どんなモンかと思って来てみたんだけどよ。まっさかそれがこんなガキだったとはねェ……。すっきり大暴れするどころか、準備運動にもならねェじゃねェかよ」
「……あんたが強いんだよ。あたい、今までに来た祓い屋ってのはみーんな追い返してやったもん」
「そいつらがガセだったんじゃねェの?」
「……あんた……。すっごいムカつく」
「そりゃどーも。今頃気がついたのかよ」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべて言った雷封の台詞に、少女も思わず苦笑をこぼした。毒気が削がれたのだろう。刀を持った手を軽く振る。たったそれだけの動作で、使い手よりも大きなその刀は一瞬でかき消えた。
「ほ。とりあえず、やりあう気は無くなったみたいだな」
「だって、あんただってその気は無いんでしょ」
「まァな」
言いながら、後方に弾き飛ばされた自分の錫杖を拾いに歩いて行く。輪を作らず、真ん中から互い違いに交差している特殊な形をした錫杖は、しゃらんと澄んだ音を立てた。
「俺は古刹雷封。一応断っておくけどな、”祓い屋”じゃねェ。まァ、”何でも屋”ってとこかな」
「変わんないじゃん」
ぼそっと言う。そんな少女を見て雷封は何か忘れてるんじゃねェ?と問いかけた。
「……何を?」
「名前だよ、名前。お前の名前は?」
聞かれて、一瞬戸惑ったのが分かった。
「……ん? どした?」
「名前聞かれるの……すっごい久しぶり」
みんなあたいの事、鬼としか呼ばないから。
そう言って、少し寂しそうな笑顔を見せた。
そして、ぽつりと自分の名前を口にする。
「……沙雪」
「雷封さん、一人で行かせて大丈夫だったんですかねー」
「というより、この場に兄さんがいても邪魔なだけですから」
のほほんとあまり心配していなさそうな草雲の台詞と、あっさり邪魔だと言い捨てた霜雪。その短い会話を聞く限り、どちらにせよ彼の兄はあまり心配されては無さそうだった。
彼らは今、草雲にこの話を持ちかけた人物……つまり、この赤月村の村長である青戸珪宋の家で寛いでいた。その時こそ正に雷封が「今頃あいつらは美味い飯でも食ってんだろうな」とか思っている瞬間だったりしたのだが、もちろんそんな事が分かるわけも無い。だが、美味い飯を食べてこそいなかったものの、淹れたてのお茶にこの小さな村にしては高そうな茶菓子を出されていたのだから、雷封からしてみれば同じ事だっただろう。
青戸珪宋は、霜雪が考えていたよりもずっと若い人物だった。草雲から若いというのは聞いてはいたものの、それでも彼が想像していたよりもずっと若い。見た目から判断するにまだ三十にもなっていないだろう。どうやら、両親が早くに亡くなってしまった為、こんな年で村長を継ぐしか道が無かったらしい。
それはそれで、難儀な事ですね、と霜雪は茶菓子を食べながら呟いた。
「何が、難儀なんです?」
耳聡く聞きつけて、草雲が質問してくる。
「いえ……継がなきゃいけないのにそれを放棄している人間もいるのにな、と思いまして」
「ああ……。雷封さん、ですか」
「まぁ、分からないでも無いのですけどね」
もし同じ立場だったなら、私だって家出していたかもしれませんし、と霜雪は淡々と言う。彼から兄の行動を肯定するような台詞を聞けるのはかなり珍しい事だった。
「貴方の好奇心の強さは身を滅ぼしかねないから忠告しておきます。くれぐれも、兄さんに家出の理由を聞いてはいけませんよ。冗談抜きで殺されます」
真顔で深い紫色の瞳で見つめられ、草雲も真顔で頷いた。実は何回もこの台詞を言われた事があるのだが、その度に真顔で頷く羽目になっていたりする。それだけ、この事に触れた時の霜雪の態度はふざけたり出来ないような雰囲気なのだった。
「それにしても……珪宋さん、何処に行っちゃったんでしょうねぇ」
依頼人であるはずの珪宋は最初に二人に形だけの挨拶をし、そのまま顔を出さないのである。お陰で、話の詳細を聞く事も出来ず、出された茶菓子を食べ続けるだけという、霜雪に言わせたら非常に無駄な時間をだらだらと過ごしているわけなのだ。霜雪はお茶をすすりながら「さぁ?」と至極簡単な返事をして寄越した。
「何にせよ。待つしか無いでしょう。兄さんには悪いですけど」
おまけのように付け加えた言葉。多分、そんな事は髪の毛の先ほども思っていないだろうと草雲は勝手に思っていたりするが、流石にそんな事は口には出せない。そんな突っ込みを入れてみようものなら、後が怖いわけだし。雷封にすら勝てない自分が、この茶髪の少年に口で(他のどの部分でも、だが)勝てるわけが無い。
良いお茶ですねぇ、とのんきにお茶をすすっている霜雪を横目に、少しぐらいは鬼探しをしているであろう雷封に後ろめたさを感じてしまう草雲だった。
そんな事を考えていたら。
何か大きなものが急降下をして来た。
気をつけていないと聞こえないほど静かにばさっという音を立てて舞い降りて来たそれは、この昼間にはまず似合わない鳥、梟だった。急降下をし、霜雪の前にふわりと降り立つ。その際に大きな羽が草雲の顔を強かに打ちつけて行ったのだが、この大きな鳥はそんな事を全く気にしていないようだった。
「……おや。兄さん、鬼を見つけてしまったようですよ」
梟の運んできた文書を見、驚きも何もしていないようなあっさりとした声音で言う霜雪。相変わらず、汚い字ですねぇ、と呆れた声で続けた。
返事の文章を書いている霜雪の一房だけ長い前髪を急かすように梟が引っ張っている。それに構わず、梟の足に返事をくくり付けると大きな鳥はやっと髪を引っ張るのをやめ、首をくりっと一回転させると大きく翼を広げ元来た方向へと飛び去って行った。それを見送り、霜雪はまたお茶に手を伸ばす。
「見つけたって……。見た目も分からないのに?」
「兄さんは、物の怪に好かれやすい性質してますから」
それぐらい、貴方もお気付きでしょう?
そう、にこやかに問い掛けられて、思い切り肯定をしてしまう草雲だった。