其の四
タンタントントン、タン、トントン。
夢織人は、夢を織る。
つらつらつらつら、夢を織る。
丹精込めて織り上げて、
今宵は誰に、見せましょか……。
タンタントントン、タン、トントン――。
唄が聞こえる。
紅蘭がよく口ずさんでいた、あの唄が。
あの時も――口ずさんでいた、あの唄が。
暗くなった部屋の中。唄を口ずさんでいるのが自分だと気付かぬまま、青嵐は紅蘭の人形をぼんやりと見つめていた。今日、多少脚色したとは言え、あの話をしたからだろうか。無性に紅蘭が見たくなったのだ。
そう。
あの時も、彼女は小さく口ずさんでいた。ぼぉっと焦点の定まらない目をして、土間の隅に寄りかかりながら。
何があったのかは、一目で分かった。必死に掻き合わせたのだろう乱れた着衣。肌蹴た胸元から垣間見える赤い痕。片方だけ脱げた足袋。そして、力無く投げ出された白い太股の内側を伝う、真っ赤な――。
まるで、壊れた人形のように生気の無い顔をして、彼女はこの唄を口ずさんでいたのだ。
赤い液体は土間を隔てて裏庭まで点々と零れ落ちていた。元々手入れも何もしていない草木も生え放題の庭ではあったが、そこが更に人間の足や身体によってがさがさと踏み倒されている。ここで何かがあった事は明白だった。
……何かも何も。
そんな事、紅蘭を見たら一発で分かるじゃないか。
どうして。
どうして置いて行ってしまったんだろう。
彼女に執着する人間がいるって事は分かり切っていたはずなのに。
そんな後悔だけが、青嵐の頭を支配していた。
裏庭に立ち尽くし、両の拳をぎりっと握り締める。爪が掌に食い込んで血が滲むがそんな事はお構い無しに辺りを見回した。
ふと、疑問が頭を掠める。
庭の草は伸び放題だったとは言え、多少は土の残っている場所もある。そこに残った足跡の数が、多すぎやしないか?
庭の草の倒れ方だって、二人の人間が争ったのならあまりにも大きすぎやしないか?
一度湧き出した疑問はとめどなく湧き出し続け、青嵐の頭の中に居座った。
足跡の数。
大きく倒れた草の意味。
そもそもどうして、今日に限って僕がいない事をあいつは知っていたんだ?
どうして、誰も助けてやらなかったんだ?
それらは一体、何を表している――?
「丹精込めて織り上げて、今宵は誰に、見せましょか……」
紅蘭はぼぉっと生気の無い顔にうっすらと笑みを浮かべて口ずさんでいた。もう枯れ果てたのか、乾いた涙の痕が幾筋も頬に残っている。そんな紅蘭にどう声をかけたら良いものか、青嵐にはどうしても分からなかった。分からないというより、何故一緒に連れて行かなかったのか。その所為で紅蘭がこんな目にあったのでは無いかと自身を責めて認めてしまいそうで――怖かったのである。
だけど。
こんな状態の彼女をいつまでもこのままにさせておく訳にはいくまい。青嵐は意を決して、紅蘭へと手を伸ばした。
その瞬間。
「嫌アァアァァァァアアッ!」
喉が張り裂けんばかりの叫び声を紅蘭が上げたのだ。人の喉から出たものとは一瞬思えないような心の底からの絶叫に、青嵐は伸ばしていた手をびくりと止めた。叫びと一緒に、今まで自分を掻き抱くような格好で固まっていたのが嘘のように両手を振り回す。両手で襦袢を押さえていたお陰でかろうじて隠れていた形の良い乳房が露になる。
「来ないで、来ないでェッ!」
「紅蘭、僕だ、僕だよ。青嵐だよ。もうここには誰もいない、僕しかいないよ」
滅茶苦茶に振り回してくる手をどうにか押さえ、そのまま静かに抱きしめる。紅蘭は最初こそ抜け出そうともがいていたものの、ぷつん、と人形の糸が切れたように大人しくなった。
すぅっと両の瞳から二筋、新たに涙の痕が加わる。
「……せい、らん?」
まるで、子供のような声。舞台に立っている時の張りのある声とは似ても似つかない。
「そう、僕だよ。もう大丈夫、大丈夫だか……」
襦袢を着せてあげながら言った青嵐の言葉は、途中で途切れた。
……ぬるりとした生暖かい感触。ふと見ると両の手が、不透明な赤い色にべったりと染まっている。
これは一体、何だ――?
視線を、ゆっくりと紅蘭へと向ける。
彼女の、いや、普通の人間なら白いはずの腹が、薄桃色の襦袢がどす黒い赤に見えるのは、何故だ――?
真、逆――ッ。
彼女から見えた赤い色は――。
もちろん、処女を奪われた時のものもあるにはあるだろう。だけど、このお腹の赤い色は? この今も流れ続けている液体は……?
よく回りを見てみると、赤い液体は彼女の座っている位置全体にどす黒く広がっていた。あらかた着物や土が吸い込んでしまったので目立たなかったのだ。
これだけの出血では、もう――。
再び、紅蘭へと視線を戻す。
彼女は、子供のような無邪気な笑顔を浮かべていた。
「……あのね……。あたし、青嵐にお願いが、あるの」
まるで昔を思い出させるような舌足らずな口調。
「一生のお願いなの。……き、聞いて、くれる?」
もじもじとしながら一寸困ったような上目遣いで言ったその言葉は、気まずい事や意地でも頼み事をしたい時に子供の頃よく彼女が使った台詞だった。青嵐は彼女をそっと抱きしめると無言で頷いた。正直、今の彼女を正面から見ていられなかったのだ。
肩越しにその動きが伝わったのだろう。紅蘭はぱぁっと表情を明るくさせると、こう言った。
「――夢を、織り続けてね」
その口調ははっきりと、今の彼女のもので。
でもそう口にした顔は、まるで少女のそれで。
信じたくない今と戻りたい昔の間。あまりにも大きすぎる衝撃の為だろう。少しでも力を入れたら壊れてしまう。そんな、危うい均衡を彼女は保っていた。
「約束して。夢を、織り続けるって――。お、お願い」
あたしの代わりに、夢を――。
「か、代わりなんか出来ないよ。君の代わりなんて絶対に出来ない。誰にも絶対に出来ないんだよ――」
「ほん、とに、一生のおね、お願いだか、ら――」
――約束して。
夢を織り続けて、人様に一時夢のような時間を与える夢織人になるって。
――約束、して。
「……分かった、分かったよ。約束する。だけど、その時は君も一緒に――」
紅蘭は静かに事切れていた。彼の約束が聞こえたかどうかすら分からない。まだ温もりの残る亡骸に顔を埋め声を押し殺して泣きながら、それでも青嵐はその約束を守ろうと心に決めたのだ。
夢と一口に言っても、楽しい夢だけでは無い。二度と見たくない悪夢、それだって夢は夢であり、誰でも平等に見る権利があるだろう。紅蘭が、見たように。
――その為に、自分は夢織人になろう。
タンタントントン、タン、トントン。
――さぁ、最初は誰に見せれば良い?
それが、気弱で純真な人形師の決断だった。
ひゅっ、ひゅっと風を斬る音が心地良い。竹刀を打ち込んで行くたび巻き起こる風に乱れて張り付いた前髪を掻き揚げ、種田千花はふぅと一息肩で息をついた。
一汗かいてそれを流してから寝るのが千花の日課である。彼女は種田の流派である種田一双流も使える事は使えるが、実際は二刀を使った我流剣術の方が強い。我流であるが故、教えを請える者も居ず、いつからか毎日こうやって一人で稽古をしていたのである。それがいつの間にか日課になってしまっていた。
彼女は誰もいない道場を見回し、おもむろに庭に向かって竹刀を突きつけた。
「いー加減、出てきたらどう? それとも、覗き趣味だったりするの、あんた」
ちりん、と小さな鈴の音が鳴る。
「いや、いくらなんでも覗く方だって選ぶだろうよ」
「何ですって……ッ」
相手の言葉にかぁと頭に血が昇る。思わず怒鳴りそうになったのを必死に堪え、道場の中から相手を精一杯睨み付けた。
相手はひらひらと手を振って、
「別に、あんたが覗かれないって言ってンじゃねェのよ? ただ単純に、剣の稽古してる色気のねェ女と、これから風呂にでも入ろうとしてる女なら誰でも後者を選ぶだろうよって話」
「……成る程ね。途中で何か聞こえた気がしたけど、それは聞かなかった事にしてあげるわ」
「そりゃどうも」
雷封は庭の木に背を預け、相変わらずやる気無さそうな顔で立っていた。法衣が黒いものだから、一瞬影と同化しているようにも見える。派手な赤毛だけが、それを否定していた。
千花は突きつけていた竹刀を下ろし腕を組むと威圧的に問いかける。どうにもこの男とはウマが合わないのか、そうしたいワケでは無いのに無駄に突っかかった態度に出てしまう自分が、千花はどうにも気に入らなかった。
「それで。覗きたくも無い女の姿を覗いてまでここに入り込んだ用件は何?」
「ッかー。どうにも突っかかるねェ。俺は折角、あんたの兄貴を助けてあげようと仏心を出してやって来てやったッて言うのにさァ」
「……今度は一体どんな事に巻き込んでるのよ」
「あのね、巻き込んでるって……ああ、まァ今回は確かに巻き込んじまったよ。お陰でややこしくなりそうだから、早々にご退場願いたいわけ。分かる?」
「巻き込まれないで済むならそれに越した事は無いけど、何でそれをあたしが言わなきゃならないわけ? あんたが自分で言えば良いじゃない」
その言葉を聞いて雷封は天を仰いだ。
「あァ、そう出来てりゃアこんな所に来ねェでさっさとそうしてるさ。ただよ、俺が手を引けって言ったら余計に勘ぐるだろあのセンセ」
「……確かにね……。それは一理あるわ」
「だからよ。妹のあんたからそれとなく言ッて欲しいってわけさァ。『人形師の怪』にはもう首突っ込むなって」
人形師の怪。その言葉には千花も聞き覚えがあった。聞き覚え所か、今巷を騒がせている連続殺人事件ではないか。
だが血生臭い浮世の事件を嫌う兄があの事件に首を突っ込んでいるとは正直あまり信じられなかった。まぁ目の前の男も関わっているようだし、という事はただの単純な連続殺人では無いという事なのだろう。
「あの先生……。のめり込み過ぎると回りが見えなくなるだろ? 今回ばっかはちィと危ないかもしれねェンでさ」
――下手ァすると、命に関わるぜ。
普段と変わらぬ口調で雷封はあっさりとそう言うと、すっと闇の中に消えた。
思っていたより埃が凄い。
自分も部屋に篭っている方だし、古い文献なんかを漁ったりするのには慣れている方だと思っていたが、ここの埃はまず量が違った。埃というにはあまりにも多すぎるし、何よりすでに固まりになっている。こうなると埃というより元埃、つまりはただのごみであろう。
青嵐と話をした次の日の朝早く、草雲は版元の下を訪ねた。まだ眠そうな顔をして出てきた版元は草雲の話を聞き、あからさまに面倒くさそうな顔をする。
「珍しいねぇ。先生が昔の事件、それも殺人事件なんぞに興味があるなんてさ」
「いえ、私だって興味があるわけじゃあ……」
「しかし……三年も前の事件だろう? そんな昔の瓦版が残ってるかねぇ」
「はぁ……」
そんなやり取りを適当に右から左に受け流しつつ、草雲は舞い上がる埃と戦いながら必死にお目当ての瓦版を探していた。面倒臭そうに作家の頼みをかわそうとする版元に、調べさせて欲しいと意地で食い下がったのである。これには最初渋っていた版元も、いつもは押しの弱い先生がねぇ、とびっくりしたらしく、渋々ながら承諾してくれたのだった。
「大体、その事件は解決してるじゃあないですか。女殺して自分もどぼん、でしょう? そんな何処にでも転がってるような事件の情報なんか、今更探したって何も出て来ないンじゃないですかね。そりゃあ、一時は盛り上がりますよ? やっぱり殺しは派手ですからね。でも、下手人も一緒にどざえもんになっちゃあねぇ」
「いや、まぁ……あっさり言えばそうなんですが……」
変な話、死に得ですよ。
そう言った青嵐の言葉が頭から離れない。それに、射るような目付きで一点を見つめていた椿の事も気に掛かる。草雲の思い違いかもしれないが、あの時彼女は落日庵の方を睨んでいたように見えたのだ。
「しかしね、先生も先生ですよ。いや、流石は先生と言ったところでしょうかね。その事件、少なくとも当時はかなり騒がれて色々噂が流れたりしたんですよ。仕舞いにゃ、殺したのは別の奴なんじゃないかってガセまで飛び交ったりしてねぇ」
ま、女がこれまた別嬪な役者さんだったから余計にね、流行ったわけなんだろうけどもねぇ。
いやぁ、それを知らないとは流石に浮世の事にゃあ興味の無い先生らしいですわ。
言いながら一人で勝手に頷いている。が、草雲の頭の中ではその少し前の台詞がぐるんぐるんと回っていた。
「――ガセ?」
「嗚呼、やっと見つけたわ、兄様」
しかし、草雲の呟きに対する返答はそのようなものだった。もちろん、版元が兄様等と呼ぶはずも無い。その声に草雲はよいしょと腰を上げようとして元埃の山達に足を踏み込みそして――。
世界が綺麗に一回転した。ごつんと派手な音がする。強かに後頭部を床に殴打したのだが、溜まった埃が厚かった所為かそう痛みも感じない。お陰でもうもうと積もりに積もった埃が舞い上がり、遠目からは煙でも出てるんじゃなかろうかと勘違いでもされそうな勢いである。
「……何やってるのよ、兄様……」
埃に届かない位置から心底呆れた声で千花は呟き、首を振った。いつの間にか非難して来ていた版元も、一緒にうんうんと頷いている。
「全くですわ。あれ、一体誰が片付けてくれるんです? 今更三年も前の事件を調べたりして、どっか頭でも打ったんですかね……って、今打ってましたか」
「ええ、盛大に。あれ以上おかしくならなきゃ良いけど」
千花の台詞が終わるか終わらないかといううちに、埃の中から二人に向かって人型の埃がよたよたと歩いて来た。もちろん、草雲であるのだが正直動く埃の山である。
「やぁやぁすいません。あれ、直そうとしたらもっと崩れてしまいまして……」
「……そんな事だろうと思いましたよ。後であたしがどうにかしておきますから、とにかく先生はお帰り下さいな」
「ああ、すいません~」
草雲のそんな情けない声を皆まで聞かず。ふぅっ、と一息気合を入れて腕をまくると、版元はまだ埃の立ち上る自分の店へと入って行った。後には、埃の塊になった草雲と、呆れた顔でそんな実兄をじとーっと見つめる千花が残された。
「……で? 一体何の用です? 私を探していたような口振りでしたが」
「ええ、まぁ、探してたのは事実だけど。でも兄様、その埃、何処かで流してから話をしても構わないわよね?」
まぁ、兄様が埃を被っていたいって言うんなら仕方ないけど。
ぶすっとした表情で言った妹の台詞に、いやぁ、流石にそれは勘弁ですねぇと緊迫感の無いのほほんとした声で返し、ぱんぱんと着物に付いた埃を叩き落とした。千花が手でひらひら埃を避けながら少し草雲から離れる。
「ああ、裏の桶を使って構わないよ。顔と手ぐらいは洗って行きな」
まるで二人の会話を聞いていたようなタイミングで版元が顔を出して行った。彼女の顔も、あれで殴られたら大層痛いだろうなーと想像に難くない太い腕もすでに埃で真っ黒である。草雲は流石に恐縮したように身を縮めて家の裏へと回る。少し離れて、千花も付いて来た。
版元の家の裏には共同の井戸がある。その井戸から水を引き上げ、ひんやり冷たい水に手を浸すと多少頭がすっきりしたような気分になった。そのまま、顔も洗いぶるぶるっと動物のように身体を振るわせた。もちろん水飛沫が周りに飛び散るわけで、またもや千花は自分の兄から距離を置く羽目になった。
「……それで。話というのはなんです? 何か、深刻な用事ですか?」
余程、冷たい水が気に入ったのか足袋を脱いで足まで洗いながら草雲は言った。そのまま、井戸の縁に腰掛ける。
そんな兄を見て、しょうがないと妹は思ったのだろう。千花はさっと左右を確認し、心成しか小声になってこう言った。
「兄様……。また何だって三年前の事件なんかかぎ回ってるわけ? 昔は見向きもしなかったのに」
「おや。私が調べてる事件の事、よく知ってましたねぇ」
「さっき版元さんから聞いたのよ。……『人形師の怪』と、何か関係があるわけ?」
千花の言った言葉に、草雲は大げさに驚いて見せた。驚きすぎて井戸に落っこちそうになった程である。
「うわわっ、な、何だって千花の口からその事件の名前が出てくるんですッ?」
「だって、三年前の事件も役者絡み、今回の事件だって被害者は役者ばかりでしょ。それで、昔の事件を調べてるんじゃないかなって思ったの」
ただ、今回のも昔のも、あまり兄様が好みそうな事件で無い事だけは確かなんだけどね、と付け加えられた妹の台詞に草雲は苦笑いを浮かべた。
「まぁ確かに、血生臭いのはご遠慮願いたいんですけどねぇ。ただ今回は、どうにも妖が絡んでいる可能性もありまして……」
それに。
――死に得ですよと呟いた青年の声と。
射るような視線で落日庵を見上げていた女の瞳が、どうしても忘れられない。別の事を考えようと振り払っても振り払っても、いつの間にかくっついてくる埃のように草雲の頭の中一杯一杯にでんと居座りもやもやと溜まってしまっている。それこそ、先ほどの埃のように凝り固まっていると言っても良いかも知れない。
足を浸したままの桶に視線を落とす。桶の中から見つめ返してくる男と目が合った。
男は、酷く似合わない表情をしていた。
「……兄様?」
ぶつんと言葉を切ったまま水面を見つめて固まってしまった兄に小さく声を掛ける。小さな声だったにも関わらず、草雲はびくんっと驚いたように背筋を伸ばし、また井戸から落っこちそうになった。
「あ、ああ、千花。すいません、私は用事が出来ました」
言うが否や。
桶をひっくり返す勢いで足を引っこ抜くと、裸足で濡れたままの足に草鞋を突っ込み、足袋を掴んで駆け出した。そのあまりの勢いにあっけに取られ、目を丸くしながら千花は呆れたようにぼそりと呟く。
「……止めるヒマなんて、無いじゃない」
大体、本題に入る事すら、出来ないんだから。
だけど、何処かでこうなる事を予測していたのかもしれない。千花の顔には呆れと諦めが混じった笑みが浮かんでいた。
辺りに少しずつ夕闇が落ちて来る。
草雲は一人、枝垂れ柳の側の茂みの中にしゃがみ込んでいた。そう、今では夜じゃなくとも誰も近づこうとしない、あの枝垂れ柳の側である。
どうしても振り払えない言葉が頭の中をうろついている。
――死に得ですよ。
どうしてだ。
相手も一緒に死んでくれたのなら。それも事故で勝手に死んでくれたのなら、もう少し違った気持ちがあっても然るべきじゃないのだろうか。
そこにどうして得という言葉が出てくるのか、それがどうにも引っ掛かってしょうがなかった。
いくら憎い相手でも、死んでしまってはどうにも出来ない。最悪の形ではあったけれど、悪夢はそこで終わったはずだ。
得という、言葉。
草雲にはどうしても、解せなかった。何故青嵐はそんな言葉を使ったのか。
あの言い方じゃあまるで――。
「――他に犯人がいるとでも、言うような言い方じゃないですか」
そう。
簡単に死ねて得したね。
あの短い言葉の裏には、そんな黒い感情が渦巻いていたのではないか。
だから。
だから草雲はここに来ずにはいられなかった。これ以上事件が起こるかどうかも分からない。起こるとして、一体いつ起こるのか見当すらついていない。だから、馬鹿正直に枝垂れ柳を張り込んでいるのだ。否、彼に出来る事など他には無い。
――犯人を、確かめる為に。
雷封や霜雪に助力を求めようかとちらりとでも考えなかったと言ったら嘘になる。彼らの力を借りればもっと良い方法で犯人を突き止める事が出来るだろう。だが、事件は自分の手を離れて行ってしまう。自分はいつも通り、蚊帳の外に出されてしまう。それが、草雲を思い止まらせた。
『人間ってヤツに希望を持っていたいンだ』
ふと、椿の声が頭を過ぎる。
『だから妖という名の、人以外の何かが犯人であって欲しいと――そうだろう?』
その言葉に、自分は何と返しただろう。確か、人を信じていたいと思う事はいけませんか? とかそういう類の台詞だったと思う。
一度しか会った事の無い男。
一体その男の何処を、自分はこんなにも信じているのだろうか。
……いや。
これは、違う。
薄暗くなった茂みの中で、草雲はじっと自分の両手を見つめる。ずっと茂みの中にいた所為かそれとも違うのか。見慣れた自分の掌は、少し薄汚れて見えた。
これは――単なる。
すっかり思考に没頭していた所為で、今自分は張り込みをしているのだという事を忘れてしまっていた。突然辺りに響いたがつんという不快な音とくぐもった悲鳴が聞こえ、はっと我に返る。
何時の間に来たのだろう。柳の下には艶やかな紅い長髪の女が草雲に背を向けて立っていた。丁度柳の枝が邪魔をしていて上手く見る事が出来ないが、彼女が手にした槌を振るう度、彼女の足元からくぐもった悲鳴が聞こえて来る。声を聞く限りでは男のようだが猿轡でも噛まされているのかどうにもはっきりしない。
そして。
その声も、とうとう聞こえなくなった。虫の声すら聞こえない静寂の中で、男の荒い息遣いだけが聞こえ続けている。草雲が耳を塞ぎたい衝動を何とか押し止めながら数え始めて、女が七回目の槌を振り下ろした後の事だった。
女は槌を投げ出し、しゃがみ込んで何かを呟いている。呟きながら、手にした糸を男に巻きつけ――。
キラリ、と何かが光った。
女は男に身体を重ねるように押し付けている。男の荒い息遣いも次第に聞こえなくなってきていた。
女はぱっと男から離れ、満足そうに見下ろすと手にした糸を引っ張った。
ずるりと不快な音が聞こえ。
女の細腕の何処にこんな力があるのだろうと思わせるほど作業は簡単だった。男はどんどんと柳の枝の中に絡み付いて行く。
すっかり柳の中に入ってしまった男に向かい、顔を近づけると二言三言呟いた。うっすら、笑いが混じっていたように草雲には感じられ、肌が粟立つ感触を覚える。
――次の瞬間。
すとん、と何かが落ちる音がして。
だらり。
草雲の瞳に映ったのは、人間ではあり得ない方向に捻じ曲がって垂れ下がった男の腕――。
「……う、うわぁぁぁッ!」
草雲には、そこまでが限界だった。喉に込み上げる物を必死に堪えながら立ち上がり、夢中で走る。途中、何度もつまづいて転びかけたが何とか堪え、死に物狂いで走り続けた。
――落日庵に、向かって。