其の三
ぜぃぜぃと荒い息遣いが聞こえる。
その声が一体何処から聞こえて来るのだろうと男はゆるゆると考えを巡らせ、やがてそれが他でもない自分の口から漏れているのだという事に気が付くまで少しの時を必要とした。
声の主に気が付くと同時に、麻痺しかかっていた感覚も戻って来る。冷たく湿った土の香り。自分の置かれた状況を思い出し、少しでもこの場を離れようと男は手足に力を入れた。同時に、脳天を貫くような激痛に襲われ、彼は声にならない悲鳴を上げる。
四肢が火を付けられたかのように熱く脈打っている。頭の中で鳴り響くどくんどくんという音に合わせて跳ね上がりそうな程熱を帯びているというのに、期待に反して男の手足は彼の脳が命じた通りにぴくりとも動く気配すら見せなかった。
かろうじて自分の意思通りに動かす事の出来る首を持ち上げ、男は自分の右手を見つめる。どうして動かないのだろう。もしかして、繋がっていなかったりするのだろうか。腕だと思うだけでただの棒切れが繋がっていたりするのではないのだろうか。
彼の視線の先には、確かに自分の右腕が転がっていた。あちらこちら、おかしな方向に曲がっていたりはするけれど、見覚えのある自分の腕だ。ちゃんと繋がっている。大丈夫。
自分の意思通りに動かない時点で、繋がっているのが自分の腕だろうがただの棒切れだろうが実際のところ役に立たないという点で変わりは無いし、況してや普通の状態では有り得ない。だが男はほうっと安堵のため息をもらすと、頭を元の位置に戻した。いつもなら見えるはずの星の光も、生憎の曇り空で全く見る事が出来ない事を彼は少し残念に思う。
……前にそんな事を考えたのは、いつだっただろう。
じんじんと、熱い痛みが身体中を駆け巡っている。否、それが痛みなのだという事も彼にはもう感じられなくなって来ている。自分は今起きているのか。それともこれは夢なのか。そんな事すら、男には理解出来なくなってきていた。
彼に分かるのは、ただ。
何故自分に、このような事が起こっているのか、という理由。
ただ、それだけ。
現実にしろ夢にしろ、どちらにしても彼にはこんな悪夢を見る理由が思い当たる。嗚呼、次は俺だったのか。霞が掛かったように薄ぼんやりとした曖昧な意識の中で、彼は自嘲するように笑みを浮かべた。
ぼぅ、と白い顔が暗闇に浮かぶ。
……忘れもしない。
いや。
忘れて、いたのか。
――だから。
白い顔。能面のように表情の無いその顔は、感情の映らない無機質な瞳で男を見下ろし、つ、と腰を屈めて彼の頬に触れた。
冷たい、陶磁器のような感触。
ひやりとした感触は、男の火照った身体には余計に冷たく感じられた。いっそ、心地良いとさえ思える。
生きている人間の手の感触とはおよそ思えないその感触も、男には簡単に受け入れられる。否、それがもし、血の通った暖かな手であった方が、彼には納得がいかなかったであろう。
……当たり前だ。
――彼女は、死んでいるのだから。
白い、顔。
艶やかな、紅い髪。
細くて折れそうな指先も、蠱惑的な唇も。
あの時の、まんまじゃないか。
女は男に覆い被さる様に白い顔を近づけて、耳元で囁いた。
――貴方はこれから、どんな夢を見るのかしらね。
――嗚呼。
夢ならもう――見ているじゃないか。
――紅蘭。
その事件が起きたのは、椿に会ってからほんの二日後の事だった。
被害者は先日の被害者と同じ旅芸人一座の役者で、同じ様に木にぶら下げられた状態で発見された。胸に一振りの短刀が深く突き刺さっている点も一致している。
どれだけ一生懸命難しく考えてみたところで、同一犯である事は疑いようが無いだろう。万に一つ、模倣犯という可能性が無くも無いが、模倣するにはやり口が凝り過ぎており、相違を感じさせず犯行を真似るという事は出来ないように思えた。
自然、椿の思い詰めた様な光を湛えた灰色の瞳が思い出される。
聞きたい話があると見も知らぬのに呼び出され、この話を彼女にしたのはつい二日前の事だ。そしてすぐに起こった今日の事件。
……これは、偶然だろうか。
そう口に出して呟きながらも、そんな偶然があるかと頭の中では否定している。俄然、興味が沸いて来る。
腕を組み、そんな事をぶつぶつ考えながら草雲は何処へとも無くゆっくりと足を進めていた。何処かへ行こうという明確な意思も無く、だからと言って歩きたいから歩いているというのでも無い。彼の場合これは条件反射にも近い行動で、言うなれば考えを纏める為に歩いている、とでも言うようなものなのである。そんな風に思考に没頭しながら歩いているのだから勿論、あっちへふらふらこっちへふらふらと足取りも覚束無い。案の定、きゃっという小さな悲鳴が聞こえ、同時に脇腹に鈍い衝撃を感じて草雲の思考ははっと現実世界に引き戻される。
目の端に一瞬、粗末な造りの女の子の人形が映って過ぎて行った。
「ああ、御免なさい。大丈夫ですか?」
考え事をしながら歩いてちゃ危ないですよねぇ、と自分に言い聞かせるように言いながら、彼にぶつかって倒れた少女の手を掴んでゆっくりと立たせる。そうしてまた、痛いところは無いですか、怪我はしてないですかと質問をすると、少女は草雲を挟んで反対側を無言で指差した。
「……あたしは大丈夫だけど……お人形さんが……」
「あ」
先ほど視界の片隅に入って来た人形だ。
御免ね、怪我をしてなきゃ良いんですけどねぇと少女の頭を撫でてから草雲はその人形を拾おうと向き直り。
――その時どうして彼の姿が鮮明に目に焼きついたのかは分からない。
そしてそれが、何年経っても結局解決される事の無かった疑問になるという事も又、今の草雲には知る由も無い事だ。
だから、今は。
ただ、何となく。
少女が落とした粗末な人形を拾って優しく笑いかけながら手渡しているその姿が、奇妙に印象に残っただけ。
それが、今の草雲に出せる精一杯の答えだった。
……ただ、何となく。
目の端に映ったその見知らぬ青年が、人形を扱い慣れているように見えて。
思わず、声を掛けてしまった。
「人形が、お好きですか?」
眼鏡をかけた柔和な顔の青年は、一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにおっとりとした笑みを顔中に広げて暖かく肯定をする。
「ええ。大好きですよ」
「うわぁ……。これ全部、お人形ですか」
青年は、青嵐と名乗った。名前負けでしょう、と少しだけ恥ずかしそうにしながら名前を口にしたその青年に、草雲は少なからず好感を持ったのである。それはどうやら青年も同じだったらしく、路上で話し込んでいるうちに立ち話より家へ寄って行きませんかと提案をしたのだった。
青年の住み家は首都外れにぽつんと建っていた。街の方から歩いて来ると丁度夕陽がこの庵に沈んで行くように見え、落日庵などと呼ばれているんですよと青年はこれまた多少恥ずかしそうに言う。
その落日庵に足を踏み入れた草雲の第一声が、前述したものである。決して大きくは無いその庵の中には所狭しと大小様々の沢山の人形達が綺麗に並べられていた。
「しかし……これだけの数の人形となると集めるのも大変だったでしょう」
草雲の問いに、青嵐は一寸だけはにかむ様な笑みを見せ、買った物じゃあありませんから、と言い、隣の部屋へと続く襖を開ける。
「ほら、これでお分かりでしょう」
「……うわ……ッ。……ああ」
暗がりの中に浮かび上がった物を見て、一瞬悲鳴を上げかけた草雲だったが、目を凝らしてよく見るとそれが生きてはいない事に気が付きほっと胸を撫で下ろす。
そこにあったのは、沢山の作りかけの人形達だった。大小様々、性別も様々。そして、完成度も様々なのである。顔が無い物もあればまだ荒削りで骨格しか出来上がっていないものまでが無造作に詰め込まれているが、どれをとっても精巧に作られている事が分かる。だから、一瞬人間がバラバラになっているのかと見間違うのも仕方が無いと言えよう。
「僕は、人形師だったんです。これはまぁ……趣味で続けているようなものですね」
「――だった? では、お止めになったと?」
「……ええ。色々ありまして」
それに。 そう続けた青嵐の顔に、ふっと暗い影が落ちる。
「それにもう、作りたい人形を作る事が出来ましたから、この職業に何の悔いも残っていないのですよ」
「作りたい、人形?」
――ええ。
青年は短くそう言うと、無言で作りかけの人形達の部屋の一角を指差した。そこはその部屋の中でも更に暗闇が広がっており、作りたかった人形を保管しておくには少し不適切に思える。
そぉっと、暗闇に目を凝らした。
「――ッ!」
今度こそ、声にならない声と共に草雲は腰を抜かした。そこにあるのは紛れも無い人形である。それは頭の中で理解はしているのだが、その理解をも超えて人間じゃないかと思わせる程、そこにある人形には迫力が在ったのだ。
迫力というか――そう、命が宿っている、正にそう思える人形。
だからこそ、こんな暗がりに置いているのだろう。この人形が真ん中にあったなら、他の人形達は影すら目立たなくなってしまう。
紅い、艶やかな長い髪。艶やかな着物に切れ長の瞳。
そして、白い肌によく映える蠱惑的な朱の唇。
「……こ、これは」
青年は人形にそっと優しく触れると「僕の、幼馴染です」と言った。
「お、幼馴染って……! に、人形じゃあないですか……ッ」
叫ぶように言った草雲を見て、青嵐は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次の瞬間お腹を抱えての大爆笑になった。
今度は、草雲がきょとんとする番である。
そんな草雲を横目にひとしきり大爆笑した後、青年は言った。
「あはは、おさ、幼馴染を基にしたに、人形って意味ですよ。い、いくら僕だってそんな小さな頃から人形しか友達がいなかったなんて事はありません」
「……あ、ああ……。成る程……」
蚊の泣くような声しか出ない。恥ずかしさで、顔が一気に赤くなっていくのが自分でも分かった。
「彼女は、紅蘭と言います。志し半ばで亡くなってしまいましてねぇ……」
「……ああ。それで」
それで作ったんですよ、と簡単に答えが返ってくると思っていた。が、一向にその答えも、別の答えも青年から返って来る気配が無い。
青嵐は人形から顔を背け、何処か遠くを見ているようだった。両の手が震えるほど固く握り締められているのを見、眉をひそめる。
「……青嵐、さん?」
草雲の問いに、はっと心を引き戻されたのだろう。青年は慌てて笑顔を作り、顔に貼り付けた。
「すいません……。妙なところをお見せしてしまって」
「はぁ。それは別に構わないのですが。もう人形作りを止めてしまうのなら、これからは一体何をするつもりなのです?」
その問いに、またふっと暗い影が過ぎる。
「……僕にはもう、舞台に上がる理由がありませんから」
――そして、夢を織り続ける資格も無い。
「……え?」
「紅蘭の、遺言です。貴方は今まで通り舞台に上がって、人形に命を吹き込んでくれと。いつまでも、周りに夢を見続けさせてやってくれと」
「じゃあ、紅蘭さんも一緒の舞台に立っていたんですか」
「ええ。看板役者でした。彼女を見る為だけに押しかける客も少なくは無かった。僕は、舞台のそでから人形を操りながら、彼女の演技を見られるだけで幸せだった。それがね――」
今までで尤も暗い影が落ちて来る。その影は青年の顔に張り付き、柔和な彼の顔をまるで能面のような無表情に変えてしまった。
その能面が、無感情な声で言う。
――その幸せが、仇となったんですよ。
――ええ。
そう、貴方の言う通りです。
紅蘭は、ただの僕の幼馴染です。でもそれを、勘違いしたどっかの馬鹿がいましてね……。
最初は、誹謗中傷から始まりました。紅蘭が花街で働いているのを見た事があると。彼女はそんな女なんだと。
もちろん、そんな事実はありませんし、放っておけばいつか飽きるだろうと思っていました。あの手の輩は、構えば構うほどしつこくなりますからね。
だけど。
だけど、そいつは違った。その男は違いました。放っておくべきじゃ無かったんです。早い段階でそれに気付き、彼女を何処か安全な場所へ連れて行くべきだったんです。
誹謗中傷だけならまだ良かった。彼女に対する嫌がらせ……いや、捻じ曲がった恋心とでも言った方が良いのでしょうか……は日に日に酷くなっていきました。仕舞いには、紅蘭は自分の許婚だと言いふらし始めた。言いふらすというより、もうすでにその男の心自体が壊れてしまっていたのでしょうが……。
ええ、もちろん、僕は目の仇にされましたよ。紅蘭の幼馴染で役者仲間の中でも特に気軽に声を掛け合える関係ですからね。ですから僕は、なるべく彼女と一緒に行動するようにしていたし、彼女を一人にしないというのはもう、劇団の中で暗黙の了解のようになっていました。
ですがね。
ですが――その頃僕は劇団の人形を作っているだけではなく、他の様々な所へも人形を収めていました。だから、どうしても劇団から抜けなくちゃいけない時期があるのです。
僕は……。
出来る事なら、紅蘭も一緒に連れて行きたかった。
……帰って来て、聞いた言葉が、先程の言葉です。
紅蘭はボロボロになった姿で、部屋の隅で震えながら今にも消えてしまいそうな声で僕に必死にしがみ付いて言ったんです。
――夢を、織り続けてね――と。
うわ言の様に、ずっとずっとその言葉を繰り返して――僕が頷くとふぅっと身体から力が抜けて――。
さっき僕は、趣味で続けているようなものだと貴方に言いましたが、実際は、彼女との約束を守る為に作り続けているのです。
夢を織り続けると。
一時でも良い。華やかな夢を巷に見せる、夢織人になると。
そう、約束しましたから。
それでも結局、劇団は辞めましたけどね。流石に彼女の名残が残っているような場所で、心機一転も出来ませんから。
……え?
ああ、犯人ですか?
犯人は、見つかりませんでした。ええ、そんなにはっきりしてるのに、とお思いでしょう。
正確には、捕まらなかった、と言った方が正しいでしょうか。
何故ならその日、川からその男の死体も一緒に上がったからです。男が紅蘭に付き纏っていたのはもう有名でしたからね。紅蘭を殺めた後、酔っ払って川に落ちたんじゃないかって話ですが、そんな話はどうでもよい事でしたよ。
人を殺めておいて自分は罰も受けずあっさりとあの世に逝ってしまう。変な話、死に得ですよ。そう、思いませんか。
……分からないって顔をしていますね。死んでしまえば良いも悪いもありませんか。
――夢って、華やかなものばかりじゃないんですよ。
確かに僕は、夢を織り続けると約束をした。でも夢って、楽しいものばかりじゃないんですよね。
紅蘭は今、楽しい夢を見れているのでしょうか――。
落日庵に陽が落ちる。その名に違わぬ見事な夕陽が部屋の中に差し込み、薄暗くなった室内を柔らかな紅い色に染めた。それを見て、話に興じる間にかなりの時間が経っていたらしい事に気がつき、草雲は腰を上げる。いくら意気投合したと言っても、思ってもみなかった話を聞いてしまう羽目になった挙句、流石に夜中まで居座るわけにはいくまい。
また、いつでも遊びに来て下さいと言う言葉に、お言葉に甘えさせて頂きますと返し、草雲は早足で来た道を戻り始めた。正直、夜の闇は苦手なのである。何が潜んでいるか分からない真っ暗な闇の中を歩いていると、下手をすると自分も闇の中に取り込まれてしまうのでは無いかなどと考えてしまう程だ。だから、日が沈みきってしまう前に街中には戻りたかった。
「……おや」
丘を下りきった場所。町の入り口辺りに見知った顔を見つけ、草雲は首を傾げた。艶やかな紫紺の髪と薄暗がりでもはっきり分かる鮮やかな紅い羽織。
――椿白零。見間違えようも無い、つい先日会ったばかりだ。
椿は建物の影に身を隠すようにひっそりと佇んでいた。紅い羽織さえ着ていなければ気が付かなかっただろう。
先日と同じ伏し目がちの憂いの籠もった瞳で彼女はただ一点を凝視していた。否、睨んでいると言っても良いぐらいの鋭い視線である。草雲など目に入っている様子では無いが、かと言って気軽に声を掛けられるような雰囲気でも無い。
紅い唇が、何事か呟いた。
――見間違いで無いのなら。
その唇は、「やっぱり」と動いたように、草雲の目には見えたのだった。