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世界の危機、それは唐突に訪れる。突如現れた竜巻は北部にある国を丸々飲みこみ、たった一夜のうちに暗黒の城を築きあげた。何もかもが図書室の片隅に眠る御伽噺の通りだ。母親がベッドで子供たちに語る只の物語であったはずの本が、現実に起こった物だと知っているのは王族や、私達に近い一部の貴族のみであった。
まだ魔王が成ったばかりの今ならこの国だけでも片づけることが出来るかもしれないと騎士の中でも実力者が先だって魔王領と姿を変えた国を訪れた。期待はすぐに魔王の手により崩れ去る。精鋭部隊は魔王の住むという城を目視で確認するまでは出来たものの、そこから命からがら逃げ出すことしか出来なかったのだ。国に返ってきた兵士は僅かに四名。翌日に二名亡くなり、一名は心を病み自ら命を絶った。最後の一名も、自ら動くことが出来ないほどの重症を負っている。
最早、私達に出来ることはたった一つしか残っていない。それが勇者の召喚――王の冠を託される者にのみ許された、奇跡の力。
本来ならば王がやるべき儀式だったが父王自らが私を指名した。お前が今から知っておくべきことだ、と目を伏せて告げる。王の言葉の意味を知ったのは、召喚の儀を終えてからのことだった。
世界を救う聖なる人。想像していたのは神の化身だ。この世界に降り立った瞬間に何もかもを理解なさって微笑みを振りまき、私達に平和と安寧を約束してくれることだろう、と。
魔法陣から現れたのは一見して私と同じ年頃の少女に見えた。見慣れない衣服を纏い、座り込んだままぼんやりと顔を宙へ向けている。いや、見た目は幼く見えても奇跡の力を有した勇者様だ。助けを期待し、手を差し伸べる。私を見上げ茫然とした様子で辺りを見回し吐き捨てた。
「はぁ?何言ってんの」
私の後ろに控えた魔術師達から困惑の声が漏れる。四方や失敗か、と。失敗ではない。これが正しい結果なのだと、招いた自分自身が誰よりも理解していた。縋るようにこちらを見る勇者様から顔を背け震える手を長いローブに隠す。
父はこうなることを、最初から知っていたのだ。先にこのことを知っていれば私が反対することも。召喚主を自分にしたのは、その責任を追及されることを逃れるため。
――勇者は、ただ異界で平穏に暮らしている人間だ。
そのうちの誰でも良い。彼らは皆この世界の民にない力を有しているから。勇者という、神に認められた人間など最初から存在しなかった。私が行ってしまったことは、勇者召喚などという崇高な物では無い。
私は今、平和で幸福な日常から一人の人間を誘拐してこの世界に閉じ込めたのだ。
少女を貴賓室へ案内させ、その足で父の元へ向かう。成功したことを告げると「そうか」とだけ答え、軽く目を閉じる。僅かに伝わる憐憫の感情は、次に目を開いた瞬間には消えていた。
「私はこれから、勇者を戦いに追い立てる悪役となろう。お前の立場は解っているな?」
「……はい」
一晩見知らぬ部屋に留め置かれ、少女は疲弊していた。穏やかで名君と名高い父王が、少女を蔑むように見据える。混乱のあまり叫ぶ声が直接心に刺さった。沢山の疑問符と、その中に交る棘に似た敵意と、恐怖。両手を胸の上で組み、必死に平静を装う。
勇者だから戦えと言う私達の声に、彼女が拒むのは当然のことなのだ。突然自分を誘拐した相手が、例え命の危機だからと懇願されたとて彼らを自分の命をかけて救おうとする奇特な人間がどこに居ると言うのか。私がその立場であっても、彼らの危機を喜びこそすれ絶対に助けようとは思わないだろう。
そうであっても、私達は彼女に闘ってもらう他はない。彼女がどれ程に傷つき倒れ、万が一命を落とすことがあったとしても。
王の近衛が少女に剣を向ける。恐怖に震え必死に頷く少女は、自らの首から伝う血にすら気付く様子がない。父が壇上で口端を噛みしめ、冷淡な声で退室を命じた。
少女は近衛に手を引かれるがまま、覚束ない足取りで部屋を出て行く。人払いをさせたとたん、張り詰めた糸が切れたように体から力が抜けた。心臓が張り詰めそうに痛い。自分が確りと息をしているかすら解らず、壁に持たれ目を閉じる。
「苦しいか」
王が悲しそうな声で問う。私は小さく首を縦に振った。
苦しい。この苦しみで、命を落としまうのではないかと思う程に。でもそれは私の苦しみではなく、勇者――あの少女の感じている物だ。召喚した者と、勇者との間につながりが出来ることは昔から聞いていた。勇者と共に闘うために必要な力なのだと勘違いをしていたが、今は解る。これは戒めだ。私が一人の人間を不幸に陥れた確かな証。この繋がりを持って私は彼女が与えられた痛みや苦しみを感じ取り、全てを肉体的な痛みとして与える。故に彼女が戦いで命を落とした場合、傷の痛みこそ伝わらなくとも、死への苦しみと恐怖は私の命も同時に刈り取るだろう。
勇者様が我が国とも神とも無関係なただの被害者であること、そして私の天命を握っていることを知っているのは私と父だけだ。近衛にも、血を分けた兄にも知らされることはない。勇者様の死が次期王の死に繋がると知っては、彼女に闘ってもらうことすら難しくなる。まだ年若い彼女を無理やりに戦いの場へ引きずり出している事実も、また国民や騎士達の反発を買うことだろう。
彼女はただ、天より舞い降りた勇者様として軍勢の戦闘に立ってもらわねばならない。それ故、彼女へ対する騎士達の態度が悪いことに気付いていながら私は何も出来なかった。
直接顔を会わせ手を伸ばす勇気もなく、胸の痛みを必死に堪えて過ごす日々。あの夜も、胸の痛みを薬で紛らわせ眠りについたはずだった。
痛みは無かった。それどろか、体が僅かに軽くなったような気さえする。厚い雲が割れ、太陽の光が僅かに射し込んできた時の、これから空が晴れ行くことに期待する感情に近い。この深夜に、何が彼女の心を浮き立たせるのか。
嫌な予感がして、部屋を飛び出す。ドア前に居た護衛は慌てて私を止めようとしたけれど、彼らに黙っているよう命じて階段を駆け下り、彼女の部屋へ飛び込んだ。
少女は驚きに肩をはね上げ振り返った。命を絶てば救われるのではないかと――同じように、思い立った自分と彼女の瞳が重なる。
気付けば必死に、彼女へ語りかけていた。どうにかして、未来へ希望を持ってほしくて。生きてさえいれば幸せを僅かでも捕まえられるのではないかと。
魔王を倒すことと引き換えに、願いを一つ叶える。何と卑怯な誘いをしたものだ、と自分自身に呆れさえもした。少女の空虚な瞳に生気が再び戻ったのを見て安堵すると同時に、私は誓った。
何としても少女を元の世界に戻してみせる。父に反対されたとしても、必ず。
召喚術式から考えて、異界から召喚した勇者を元の世界に戻す方法はあるはずだ。まだ、召喚陣は使用したまま保管してもらっている。この陣はかつてつなげた空間をまだ覚えている。この魔法陣を上書きして使用し、治療の際布に染み込ませた彼女の血を情報として与えた。彼女の血族が今も異界で一人でも生きているというのならば、その血のつながりを辿ることで彼女を元の世界へ帰すことが出来たはず。
勇者様が鍛錬を重ねる裏で、私も必死に彼女の帰還方法を探る。この国では未だかつて、誰も編み出さなかった術式だ。理由はあまりにも単純で、非人道的な物。この国は今まで何度も、何度も世界の危機が訪れるたびに勇者を召喚し乗り越えてきた。
勇者様は直接的に被害を受けた地域を訪れ、血を流して戦う。そのために一般国民からの支持が熱くなる。彼らを我が国に取り入れられれば、必然的に国の支持率も上がるのだ。
彼らの未来を無慈悲に奪い、闘わせ、必死で築き上げたこの国での立場も利用する。何と卑怯な、と思う自分と王として当然だと思う自分がせめぎ合う。
それでも私は彼女と約束した。王女だからでも、召喚主だからでもなく、自分自身として勇者様を守り助けると。
勇者様を守るために私の近衛隊の中から幾人か選出したのも、約束を守るための1つだ。その中には彼の名前も入れた。あの夜私の命を救ってくれた隊長は、私の中で特別な人になっていた。彼ならば、きっと勇者様の助けになってくれるだろう。旅立つ前日、挨拶に来た隊長の手を取り心から願った。
「この国へ再び戻るその日まで、貴方が勇者様を御守りなさい」
無事な姿でここへ戻るその時も貴方が隣についているように。貴方も無事に戻ってこられますように。隊長は私の手に口づけをすると、騎士の最上級礼をした。
顔を上げるように言えば、男は型膝をついたままゆっくりと顔を持ち上げ私を見上げる。肩に手をつき、素早く額に唇を寄せた。
「呪です。あなたが、決して私の命を忘れぬように」
茫然とした顔で私を見上げる男が、心から愛しい。この思いは口に出すことを許さないだろう。私が次期王である限りは。熱くなる目じりから涙がこぼれださないうちに、自分が出来る最上の笑みで男を見送った。
私も彼らが居ない間に闘わなければならないのだから。
勇者は各都市を回り、魔を払いながら順調に魔王城への道のりを進んでいた。私の方も、問題なくとは言えないまでも壁を乗り越えながら帰還のための魔術を形にしつつあった。彼女達がとうとう魔王を倒したと連絡があった、その日のこと。私もようやく彼女を帰還させる術式を完成させた。
あとは、彼女の到着を待つばかりだったのだ。それなのに。
彼女が城下へ入ったという連絡があり、出迎えに行こうとした私の部屋に侍女が真っ青な顔をして飛び込んできた。息を切らしたまま、必死の形相で叫ぶ。
「神殿に賊が……っ、魔法陣を破壊されました!」
彼女を咎めようとした者達が、揃って声にならない悲鳴を上げる。頭の先からみるみる血の気が引いていくのを感じた。唯一無二である、魔法陣の破壊。それは今までの研究が全て無駄になったことと同意義であり、同時に勇者様の帰還が不可能となったことを意味していた。