凍りついたリビング
九月の放課後、オレンジ色に染まり始めた帰り道を、私はほとんど駆け足で帰っていた。
明日は陽太の十二歳の誕生日。クローゼットの奥に隠してある、心を込めて選んだプレゼント。お姉ちゃんが「明日のために」と仕込んでくれた、甘いバニラのエッセンスが香るケーキのスポンジ。それらを思い出すだけで、私の心は弾み、ランドセルが羽のように軽く感じられた。
「ただいまー! 兄さん、陽太のメッセージカードの続き描こうよ。今日はすっごく上手く描ける気がするんだ!」
勢いよく玄関の扉を開けた。けれど、返ってきたのはいつもの「おかえり、みゆ」という湊兄さんの明るい声でも、雫お姉ちゃんの穏やかな出迎えでもなかった。
そこに広がっていたのは、耳の奥が痛くなるような、粘りつく重苦しい沈黙だった。
(……あれ? おかしいな。お父さんとお母さんがいない時でも、うちはいつももっと賑やかなのに)
仕事のために海外を飛び回っているお父さんとお母さんは、この大きな家にほとんどいない。一年の大半を三兄弟だけで過ごしているけれど、その分、私たちの絆は外のどの家族よりもずっと強いという自負があった。それなのに、今の家の空気は、まるで見知らぬ誰かが侵入した後のように冷え切っている。
私は吸い寄せられるように廊下を進んだ。リビングに近づくにつれ、空気の温度が一段ずつ下がっていくような錯覚に陥る。廊下の突き当たり、リビングの入り口で、私は息を呑んで立ち止まった。
長い影が落ちる西日の差し込む部屋の中、湊兄さんがまるで石像のように、青ざめた顔で立ち尽くしていた。その数歩前には、エプロン姿の雫お姉ちゃん。いつもは陽だまりのように穏やかなお姉ちゃんの背中が、今は怒りと、それ以上に激しい「何か」を湛えて、鋼のようにピンと張り詰めている。
「……湊、どうしてあそこに入ったの」
お姉ちゃんの声を聞いた瞬間、背筋に鋭い氷を押し当てられたような衝撃が走った。それは、私の知っている優しくて完璧な「雫お姉ちゃん」の声ではない。奈落の底から響いてくるような、低く、湿り気を帯びた震える声。
「ごめん、姉さん。……ただ、探し物をしていただけで。学校に出さなきゃいけない書類、お父さんの机に置いてあるんじゃないかと思って……」
湊兄さんの声は微かに震えていた。中学生になって、部活でも堂々としているあの兄が、今のようにお姉ちゃんの前で縮こまっている姿なんて見たことがない。
「嘘をつかないで。あそこは、お父さんやお母さんがいない間、私が預かっている場所よ。あなたが勝手に足を踏み入れていい場所ではないわ。……あなたにはまだ、早すぎるのよ」
お姉ちゃんの細い指先が、廊下のさらに奥を指差していた。
そこには、重厚な木製の扉――お父さんの書斎がある。
両親が不在の間、そこは雫お姉ちゃんが厳重に鍵をかけて管理し、私たち子供は「仕事の重要な資料があるから、決して触れてはいけない」という理由で、入ることを固く禁じられている聖域。
「絶対に、二度と近づかないと約束して。……ねえ、約束よ、湊」
お姉ちゃんは、湊兄さんの肩に爪が食い込むほどの手で縋り付いた。そのまま、縋るように、あるいは逃さないように、湊兄さんの耳元で、掠れるような小声で囁いた。
「お願い、湊……。あなただけは、ずっと私の言う通りに……綺麗なままでいて。……あなたの身に何かあったら、私は……。私は、もう、どうにかなってしまいそうなの……」
その独り言のような囁きは、叱責というより、もっと狂気を含んだ切実な祈りのように響いた。お姉ちゃんの肩が激しく上下し、その美しい瞳には、深い愛情と、それを遥かに凌駕するほどの「恐怖」が宿っている。
湊兄さんは、お姉ちゃんの腕の中でじっと耐えるように目を閉じ、一度だけ、書斎の扉の方へ視線を向けた。その瞳に一瞬だけ浮かんだのは、見てはいけないものを見た後悔か、それとももっと別の、底知れない違和感だったのか。
「……わかったよ、姉さん。もう二度としない。約束するから」
湊兄さんが絞り出すように答えると、お姉ちゃんは安堵したように、吐息を漏らしながらより深く湊兄さんの胸に顔を埋めた。
私は物陰に隠れたまま、指一本動かすことができなかった。
あんなに湊兄さんを慈しんでいるお姉ちゃんが、なぜあんなに怯えるように、あるいは縛り付けるように兄を責めるのか。お父さんとお母さんがいないこの広い家で、お姉ちゃんは一体、何をそんなに恐れているのだろう。
さっきまで、楽しい誕生日の準備で彩られていたはずの我が家が、一瞬にして底の知れない深淵の上に建っているような気がした。私は自分の部屋へ逃げ帰ることも忘れ、ただ、冷え切ったリビングで寄り添う二人の影を、震えながら見つめることしかできなかった。
あけましておめでとうございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
本エピソードより後書を書いていきたいと思います。
今までの雰囲気を一変して驚いた方も多いかと思います。次話以降はまた明るい雰囲気に戻ります。
作者自身不幸な物語は好きではないので最終的には幸せな結末になると思いますが、まだ構成を考えている途中です。
時々不穏な内容が挟まることをお許しください。
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本年もよろしくお願いいたします。




