王者の再来、咆哮と静寂
陽太の劇的な逆転勝利に、星和学院の応援席は、まるで震動しているかのような興奮の渦に包まれていた。
でも、その余韻に浸る暇もなく、コートには冷徹なまでの緊張感が戻ってくる。
「男子決勝、シングルス2。星和学院、田中選手対、修徳館、三島選手。コートに入ってください!」
審判の鋭いコールに応じ、軽やかな足取りでベンチを立ったのは、1年生の田中瑛太くん。
陽太の良きライバルであり、その「俊足」にかけては部内で右に出る者はいない。彼は、アイシングを受けながら肩を震わせている陽太の隣を通る際、その肩をポンと軽く叩いた。
「陽太、いいバトンだったぜ。……あとは俺が繋いでやる」
不敵な笑みを浮かべてコートへ向かう彼の背中は、1年生とは思えないほど大きく見えた。
けれど、対戦相手の三島さんは、修徳館の九条さんが「最もミスの少ないマシーン」と評する3年生。精密機械のような安定感を誇る強敵だ。
「……瑛太くん、頑張って!」
隣で莉奈が、祈るようにフェンスを握りしめている。
試合開始早々、会場からは「おおっ!」という驚きの声が上がった。
田中くんの足が、まさに稲妻のようにコートを駆け抜けたからだ。
三島さんが四隅を突く鋭い打球を放っても、田中くんは異次元の反応速度で追いつき、泥臭く、けれど確実にボールを拾い続ける。
「15-0!」
田中くんの快走から放たれた強烈なパッシングショットが、三島さんの脇を抜けた。
「ナイス、瑛太! そのままいけぇ!」
陽太が氷嚢を抱えたまま、声を枯らして叫ぶ。
湊兄さんの容赦ないサーブ練習で叩き上げられた田中くんの瞬発力は、修徳館の精密な配球さえも無効化していくように見えた。
でも――。
ベンチに座る湊兄さんの瞳だけは、冷徹なまでに静かだった。
兄さんは田中くんの躍動を認めつつも、その先に待ち構える「暗い淵」を見抜いているようだった。
「……坂上先生。田中は、飛ばしすぎだ」
湊兄さんの低い呟きに、顧問の坂上先生が重々しく頷く。
「ああ。三島はわざと走らせているな。田中のスタミナを削り取り、足が止まる瞬間を……虎視眈々と待っている」
修徳館のテニスは、どこまでも非情だった。
田中くんの最大の武器である「速さ」を、三島さんはあえて利用していたのだ。左右に、前後に、執拗に振り続けることで、田中くんの心肺機能に過酷な負荷をかけていく。
第4ゲームを過ぎたあたり。
田中くんの額から、滝のような汗が吹き出した。
あんなに軽やかだった一歩目の爆発力が、目に見えて鈍り始める。
「……あ、足が……重い……っ」
コートチェンジでベンチに戻る田中くんは、ラケットを杖代わりにして、ようやく体を支えている状態だった。
ふと修徳館のベンチに目をやると、九条さんが冷ややかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
まるで「無知な1年生の末路を見届けてやろう」とでも言うかのように。
私の瞳には、田中くんの荒い呼吸と、彼を追い詰める修徳館の残酷なまでの「静寂」が、はっきりと映し出されていた。
「ゲーム、修徳館! 5-3!」
審判の声が非情に響く。
第1ゲームのあの勢いはどこへ行ったのか。田中くんの足は、もはや目に見えてもつれていた。
修徳館の三島さんは、表情一つ変えない。田中くんがどれほど必死にボールを拾っても、それを嘲笑うかのように、さらに一歩遠い場所へ、精密なショットを落とし続ける。
「……はぁ、……はぁ……っ!」
フェンス越しに、田中くんの喉から漏れる、焼けるような呼吸の音が聞こえる。
ユニフォームはダイビングレシーブのたびに土にまみれ、膝からは擦り傷の血が滲んでいた。
「もういいよ、瑛太くん! 無理しないで……!」
莉奈の悲鳴に近い声が響く。
でも、田中くんは止まらなかった。彼は湊兄さんからかつて浴びせられた「速いだけの置物」という言葉を、自らの走りで撥ね退けようとしている。
第9ゲーム。
田中くんは、もはや動かなくなった脚を、気力だけで動かしていた。
三島さんの放つ鋭いボレーに対し、彼は体ごと投げ出すような泥臭いロブで対抗する。格上の3年生を相手に、1年生がここまで泥沼の展開に引きずり込むなど、会場の誰もが予想していなかったはずだ。
「……30-40!」
「……デュース!」
「信じられない……。あの子、どこにそんな体力が残ってるの?」
観客席から漏れる驚きの声。
田中くんの走りは、もはや技術じゃない。仲間のために一秒でも長くコートに立ち続けるという、執念そのものだった。
「……ゲーム、田中! 5-5!」
ついに追いついた。
その瞬間、星和の応援席だけでなく、会場全体から割れんばかりの拍手が沸き起こった。
修徳館の「精密機械」三島さんの顔に、初めて戦慄の色が走る。
けれど、運命の神様は残酷だった。
最終ゲーム、アドバンテージを握られた場面。田中くんは最後の力を振り絞って、三島のサービスをリターンした。しかし、踏み出した右足が、ついに限界を伝えて崩れる。
「……っ!」
田中くんの身体が大きくよろめく。
その一瞬の隙を、修徳館は見逃さなかった。三島の放った鋭いボレーが、田中くんの届かない逆サイドのライン際へと突き刺さる。
「ゲームセット! 修徳館、7-5!」
審判のコールが響いた瞬間、田中くんはその場に倒れ込んだ。
勝負には敗れた。けれど、勝利したはずの三島さんは、肩を激しく上下させ、茫然と瑛田中くんを見つめていた。一人の1年生に、王者のプライドをここまでズタズタにされた屈辱と、底知れぬ恐怖がその瞳に宿っていた。
田中くんがフラフラと、支えられるようにベンチに戻ってくる。
彼はアイシング中の陽太の隣に座り込むと、悔しさに顔を歪めて、土で汚れた拳を握りしめた。
「……わりぃ、陽太。……繋げ、なかった……」
「……何言ってんだよ。お前、最高にかっこよかったよ」
陽太が、自分のタオルを田中くんの頭に被せる。
これで対戦成績は2勝2敗。
男子団体決勝の勝敗は、ついに大トリ――シングルス1(S1)に委ねられた。
ベンチから、一人の男がゆっくりと立ち上がる。
星和学院のエース、水瀬湊。
兄さんは足元に転がっていたラケットを拾い上げると、倒れ伏す後輩たちの肩に、一度ずつ、黙って手を置いた。
「……田中、河村。お前たちが削った一分一秒、無駄にはしない」
湊兄さんの声は、静かだが地響きのような威圧感を伴っていた。
その視線の先では、修徳館の絶対王者・九条が、不敵な笑みを湛えてコートへと歩みを進めている。
午前中の熱気がピークに達し、会場の温度が一段と上がったのを感じた。
「男子団体決勝、シングルス1。星和学院、水瀬選手対、修徳館、九条選手。コートに入ってください!」
ついに、運命のコールが響き渡った。
昨年、事実上の決勝戦と呼ばれたカードの再来。地区の頂点を決める最後の戦いが、真昼の太陽の下で幕を開ける。
湊兄さんはベンチから、重厚なプレッシャーを纏って立ち上がった。
「……湊さん、すみません。……あとは、お願いします」
満身創痍の田中くんが、震える手でタオルを差し出す。
「ああ。田中、お前の走りは無駄にはしない。……陽太も、よく繋いだ」
湊兄さんは二人の肩を強く叩いた。それは言葉以上の信頼の証。
湊兄さんが自身の右腕をぐっと握りしめる。その瞬間、私の瞳にはっきりと見えた。兄さんの瞳から穏やかさが消え、底知れない深淵を湛えた「王者の眼」へと変貌するのを。
「兄さん、頑張って! 信じてるから!」
私はフェンスを指が白くなるほど強く握りしめて叫んだ。隣には、午後の女子決勝を控えた高城部長が並んでいる。
「……始まったわね、水瀬湊の戦いが。みゆ、彼の背中を目に焼き付けておきなさい。これが私たちへの『勝利の道標』になるわ」
コート中央。ネット越しに対峙した九条さんは、溢れ出す殺気を隠そうともしなかった。
「待ちわびたぞ、水瀬。……その右手の不調を隠すために、随分と小細工(左手プレー)を弄したようだが、どれほど鈍っているか、俺が暴いてやる」
湊兄さんは、その挑発を冷徹な視線で受け流す。
「九条。お前の執念は認めるが、今の俺が見ているのは、もはやお前ではない。その先にある『完成』だ」
審判の合図とともに、九条さんが初手から牙を剥く。修徳館伝統の「重爆サーブ」が唸りを上げて兄さんのバックサイドへ突き刺さる。時速200kmを超える剛速球に、観客席からは悲鳴に近いどよめきが起きた。
しかし、今の湊兄さんは、去年のように「いなす」ことはしなかった。
(――来る、兄さんの『右手』が!)
湊兄さんが右腕を鋭く振り抜いた。左手での修行を経て手に入れた完璧な運動連鎖に、かつての剛力が加わった一撃。
「――っ!?」
九条さんが反応する間もなく、ボールは彼の股下を貫いた。バウンドした瞬間に加速し、フェンスを激しく叩く乾いた音が会場に響き渡る。
「15-0!」
会場は水を打ったように静まり返った。九条さんは、自分の足元を通り過ぎたボールの残像を、呆然と見つめていた。
「……何だ、今の音は。お前、一体この一週間で、どんな地獄を通ってきた……!」
驚愕に震える九条さんに、兄さんは淡々と答えた。
「地獄ではない。……ただ、自分の弱さと向き合ってきただけだ」
右手の封印を解いた王者は、もはや「去年の水瀬湊」を遥かに凌駕していた。
九条さんも意地を見せ、極端なロブやドロップショットで兄さんの重心を奪おうとする。泥に汚れながらも食らいつく九条さんの執念。スコアは4-4のタイ。
しかし、激しいラリーの最中、兄さんがふっと、これまで見せたことのない穏やかな表情を浮かべた。
「――静寂を知れ、九条」
放たれたボールは、凄まじい回転を伴いながら九条さんの頭上を越え、ベースライン際で急激に沈み込んだ。
暴力的なパワーではなく、計算し尽くされた「美」が宿るロブ。剛と柔、右と左。相反する要素を高次元で融合させた兄さんのテニスは、九条さんの執念さえも「静寂」で包み込み、完全に無力化していった。
「ゲームセット! 6-4、星和学院、水瀬!」
九条さんはコートに大の字に倒れ込み、最後には力なく笑った。
「……完敗だ。水瀬、お前……本当に、化け物だな」
兄さんはネット際に歩み寄り、倒れたライバルに右手を差し伸べた。
「お前の執念がなければ、俺はここまで辿り着けなかった。礼を言う、九条」
二人の王者が握手を交わした瞬間、会場からはこの日最大級の拍手が送られた。
男子テニス部、地区大会優勝。
その輝かしい勝利の余韻に浸る間もなく、兄さんはコートを出ると、まっすぐ私と高城部長のもとへ歩み寄った。
「……次は、お前たちの番だ」
汗を拭いながら、兄さんが不敵に微笑む。その瞳には、すでに午後の女子決勝を戦う私たちへの、強烈な激励が込められていた。
「ええ、見てなさい。男子に続いて、私たちも星和の旗を掲げてみせるわ」
高城部長が力強く応える。
バトンは今、男子から女子へと、最も熱い形で受け渡された。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
男子決勝の後半でした。
引き続き女子の決勝戦に入ります。




