陽太の試練、瞳の覚醒
男子団体準決勝。対戦の呼び出しがスピーカーから流れた瞬間、会場の空気が一変した。
「男子団体準決勝、星和学院対、修徳館。選手はコートに入ってください!」
そのアナウンスは、まるで開戦の合図だった。修徳館――昨年の覇者であり、湊兄さんがかつてその中心にいた「最強」の集団。フェンスを挟んだ向こう側では、九条を筆頭とした黒いユニフォームの集団が、飢えた狼のような鋭い眼光をこちらへ向けている。
「……行くぞ」
大野部長の低い、だが芯の通った声が響く。星和のメンバーが円陣を組む。その中心に立つ湊兄さんは、一切の感情を削ぎ落とした氷のような表情で、ただ静かに修徳館のベンチを見据えていた。
ダブルス2(D2):岡田慎吾・佐久間良ペア
2年生コンビの岡田と佐久間がコートへ入る。岡田の武器は、その巨体から繰り出される地を這うような重戦車級のストローク。対する佐久間は、一ミリの狂いもなくコースを射抜く精密機械のような配球が持ち味だ。
序盤、岡田のパワーショットが修徳館のガードをこじ開け、星和が先行する。
「いいぞ、岡田! 押し切れ!」
応援席が沸く。しかし、修徳館は動じなかった。彼らは岡田の強打を正面から受けず、佐久間の足元へ執拗にスライスを集め、徐々に二人の連係を分断していく。
「……っ、クソ、届かない!」
精密さが売りの佐久間が、焦りからショットを乱し始める。そこを見逃す修徳館ではない。最後は岡田のパワーを逆手に取ったボレーがコートの隅に沈んだ。
「ゲーム、セット! 修徳館、6-3!」
重苦しい沈黙が星和ベンチを包む。初戦を落とすという最悪の滑り出しに、後続の選手たちの顔に緊張が走った。
ダブルス1(D1):大野健斗・渡辺直人ペア
「……ここで負けたら、湊に主将の座を譲った意味がねえな。行くぞ、渡辺!」
「ああ、わかってる。俺たちの3年間、あの主将(湊)を支えてきた意地を見せてやろうぜ」
コートに立ったのは、星和の精神的支柱・大野部長と、ダブルスのスペシャリスト・渡辺先輩。最上級生としてのプライドを背負った二人の気迫は凄まじかった。
修徳館の鋭いポーチを、渡辺先輩が職人技のようなラケットワークで封じ、チャンスボールを大野部長が咆哮とともに叩きつける。
「おらぁぁ!」
大野部長のスマッシュがコートに突き刺さるたび、沈んでいた星和のベンチに再び火が灯る。
「……湊、見てろよ。お前が連れてきた一年生に、最高の形で繋いでやる」
泥臭く、執念深くボールを拾い続ける二人の姿。一進一退の攻防はタイブレークまでもつれ込んだが、最後は渡辺先輩の意表を突くドロップボレーが、相手の意欲を刈り取るようにコートに沈んだ。
「ゲーム、セット! 星和、7-5!」
歓喜に沸くベンチ。これで対戦成績は1勝1敗。
五分の状況で、運命のバトンはシングルス3(S3)――河村陽太へと託された。
陽太がラケットを握り直し、コートへ向かおうとしたその時だ。
通路を塞ぐように、不敵な笑みを浮かべた修徳館の1年生・五十嵐が立ちふさがった。その後ろには、九条が湊兄さんを挑発するように不遜な態度で立っている。
「……無事勝ち上がってきたようだな、湊」
九条が、ベンチに座る湊兄さんの肩に、威圧的に手を置いた。
「だが、その幸運もここまでだ。俺が手塩にかけて育てた五十嵐のテニス……お前が選ばなかった『効率』と『残酷さ』の結晶を、特等席で見ているがいい」
五十嵐が、すれ違いざまに陽太の耳元で、冷たく、ねっとりとした声で囁く。
「あんたの自慢のフットワーク、どこまで持つかな? ……壊れる時の音が、今から楽しみだよ」
その言葉に陽太の肩が微かに震える。しかし、湊兄さんは九条の手をゴミを払うかのように冷徹に振り払うと、感情の失せた瞳で相手を射抜いた。
「……無事に勝ち上がったのは貴様らの方だろう、九条。ここで負けては、俺が叩き潰す手間が省けてしまうからな。河村――」
兄さんは一度だけ、陽太の目をまっすぐに見つめた。
そこには「主将」としての厳格さと共に、自分の地獄のようなシゴキに一度も弱音を吐かず食らいついてきた後輩への、絶対的な信頼が宿っていた。
「お前たちのような小細工しかできない男に、星和の牙は折れない。行ってこい、河村。お前のテニスを、あいつらに刻んでこい」
「……はい!」
陽太は力強く答え、迷いのない足取りで、修徳館の刺客が待つコートへと踏み出した。
「決勝戦シングルス3。星和学院・河村対、修徳館・五十嵐。試合開始!」
審判の鋭いコールとともに、陽太は弾かれたようにコートへ飛び出した。
序盤、陽太の動きは完璧に見えた。合宿で湊兄さんの「化け物じみた」打球を浴び続け、大野部長や渡辺先輩といった上級生たちの壁にぶつかりながら磨き上げたフットワーク。一歩目の爆発力が、修徳館・五十嵐のストロークを容易に捉える。
「15-0(フィフティーン・ラブ)!」
陽太の鋭い逆クロスが、五十嵐の足元を抜いた。
「いいぞ、陽太! その調子!」
美咲と一緒に声を張り上げる。陽太は一度こちらを向き、短く頷いてから再び前を見据えた。その表情は自信に満ち溢れている。
しかし、ベンチに座る湊兄さんの表情だけは、最初から一分たりとも動いていなかった。それどころか、隣に座る大野部長と坂上先生も、次第に険しい顔つきへと変わっていく。
「……坂上先生、見えましたね」
湊兄さんが、隣の二人だけに聞こえる低い声で呟いた。その声は、氷が割れるような冷徹さを孕んでいた。
「ああ。徹底しているな。九条の差し金か……」
坂上先生が苦々しく応じる。
「……? 何か変なの?」
ベンチ裏でスコアを付けていた奈緒が不安げに声を漏らす。私には、陽太が優勢に進めているようにしか見えない。だが、兄さんの瞳は、陽太がポイントを奪った瞬間にすら、五十嵐の「不自然な配球」を冷酷に分析し続けていた。
五十嵐の打球は、陽太を走らせるための深いショットではない。
むしろ、陽太のリーチの範囲内――それも、踏み込み足となる「右膝」に最も負担がかかる、足元で急激に沈む低空のスピンショットばかりを集めているのだ。
「……ゲーム、五十嵐! 2-1!」
最初に異変が起きたのは、第3ゲームの終盤だった。
左右に振られた陽太が、いつものように力強く地面を蹴った瞬間、その右膝が微かにガクリと揺れた。
「あ……」
フェンスを掴む私の手に力がこもる。陽太本人はすぐに体勢を立て直したが、一歩目の鋭さが、コンマ数秒だけ鈍ったのを私は見逃さなかった。
五十嵐は、陽太を「走らせて」疲弊させるのではなく、無理な姿勢での切り返しを強要することで、陽太の膝に人為的なダメージを蓄積させていたのだ。一回、二回なら耐えられても、無理な重心移動が数十回、百回と重なれば、膝を支える筋肉は悲鳴を上げ、関節は限界を迎える。
「……卑怯だよ、そんなの」
美咲が顔を強張らせる。五十嵐は、陽太の自慢である機動力を、コートの上で「解体」しようとしていた。
「2-2、3-2、3-3……」
スコアは並んでいる。けれど、陽太の呼吸は明らかに乱れ始め、額からは滝のような汗が流れていた。右足を着くたびに、陽太の眉間に深い皺が寄る。
「陽太、気づいたか……」
湊兄さんが独り言のように呟く。
「自分の膝が、もう自分の意志では動かなくなっていることに」
コート中央。五十嵐が、チェンジオーバーですれ違いざまに陽太へ向かって冷ややかに笑った。
「あと何回、その足で地面を蹴れるかな? 1年生」
チェンジコートの際、陽太が肩を激しく上下させながらベンチに戻る。坂上先生がタオルを渡し、不自然に強張る右膝を見て棄権を考慮するような渋い表情を見せたその時。隣に座る湊兄さんが、陽太の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「河村。自分の『足』に頼るのをやめろ」
「……え?」
陽太が驚愕に目を見開く。
「足を使ってからボールを追うのではない。……今のお前には、もっと信じるべき『目』があるはずだ。合宿の最終日、俺がお前に何を教えたか思い出せ」
湊兄さんの声は、決して優しくはない。だが、そこには後輩への揺るぎない期待が込められていた。それは、相手の筋肉の動き、ラケットの角度から弾道を一瞬で導き出す、湊兄さん直伝の「先読み」の極意への示唆だった。
「……はい、湊さん」
陽太は震える右脚を自分の拳で強く叩き、喝を入れた。激痛が走るはずの右脚をあえて大きく一歩踏み出し、陽太は再びコートへ戻っていく。その瞳には、先ほどまでの迷いではなく、深淵を覗き込むような奇妙な静寂が宿っていた。
フェンス越しに、私は陽太の横顔を見た。彼は一度だけ、私の方へ視線を向け、小さく頷いた。その瞬間、私は直感した。
(陽太は……今、変わろうとしてる)
試合再開のホイッスルが鳴り響く。五十嵐は再び冷酷な笑みを浮かべ、陽太の右膝へと狙いを定めた。
「……さあ、壊れてもらおうか、星和のルーキー」
五十嵐が低く呟き、再び冷酷なサーブを放つ。ボールは陽太の右足元、最も深く膝を曲げなければ返せない嫌らしいコースへと沈み込んだ。観客席から悲鳴のような声が上がる。陽太の右膝は、もう限界に近い。しかし、その瞬間の陽太は、これまでとは全く異なる動きを見せた。
(――来る)
陽太の瞳が、カメラのシャッターが切られる瞬間のようにはっきりと開かれた。 五十嵐がラケットを振り抜く直前の手首の角度、体重の乗せ方。湊兄さんとの地獄のような合宿で、脳裏に焼き付けられた「予兆」の断片。それらが、スローモーションのように陽太の視界で一本の線に繋がった。
陽太は、ボールが跳ねる前にすでにその場所へ「最短距離」で移動していた。 無駄なフットワークを一切排除し、痛む足を最小限の動きで固定する。そして、膝を深く折る代わりに、湊兄さん直伝の、体重移動を完璧に利用したコンパクトなスイングを繰り出した。
「な……っ!?」
五十嵐の目が見開かれる。自分の打球が着地する瞬間に、すでにそこへラケットを置いて待ち構えていたかのような、異様な反応速度。陽太が放ったカウンターは、五十嵐の足元を鋭く射抜いた。
「15-40(フィフティーン・フォーティ)!」
会場が静まり返る。ベンチに座る湊兄さんは、表情こそ変えないものの、わずかに口角を上げた。
「……バカな! 偶然だ、そんな先読みができるはずがない!」
焦った五十嵐が、さらに執拗に陽太の弱点を突き始める。しかし、一度「視界」が開けた陽太にとって、五十嵐の邪悪な意図は、むしろ次のコースを教えてくれる羅針盤でしかなかった。 膝が悲鳴を上げている。汗が目に入り、視界が滲む。それでも陽太の「目」は、五十嵐の絶望と焦燥を克明に捉えていた。
「これで……最後だ!」
陽太は、渾身の力を込めてラケットを振り抜いた。それは、湊兄さんの圧倒的な打球に幾度となく跳ね返され、それでも食らいついて磨き上げた、彼自身の魂のショットだった。
「ゲームセット! 6-4、星和学院、河村!」
最後の一球がサイドラインを削った瞬間、会場に割れんばかりの拍手が巻き起こった。 陽太はその場に膝をつき、激しく肩を上下させながら天を仰いだ。五十嵐はラケットを落とし、信じられないものを見るような目で陽太を見つめていた。
フェンス越しに、私は必死に声を上げた。
「陽太! 凄かったよ、陽太!」
陽太はゆっくりと顔を上げると、泥だらけの顔で、私に向かって不器用な、けれど最高の笑顔を見せてくれた。
ベンチに戻った陽太に、湊兄さんは立ち上がって言った。
「……合格だ。お前は今日、自分の『限界』を、自分の『目』で超えてみせた」
「……はい。湊さん、ありがとうございました……!」
陽太の手を、湊兄さんが力強く握りしめる。その光景を、観客席の九条は忌々しげに睨みつけ、静かに席を立った。
星和学院の逆襲。その炎は、陽太の覚醒によって、もはや誰にも消せないほど大きく燃え上がっていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
S1までを1節でとしてましたが長くなるので分けることにしました。
次で男子決勝を締めくくります。




