嵐の前のダブルス、美咲との再起
男子の準決勝が終了し、会場を包んでいた怒涛の歓声が、独特の刺すような静寂と熱気に変わる。コート整備のブラシの音が響く中、ついに女子テニス部の地区大会1回戦のアナウンスが流れた。
「――女子団体1回戦、星和学院対、聖マリアンナ女学院。試合を開始します」
電光掲示板に点灯した「星和学院」の文字。私は肺の奥に溜まった熱い空気をゆっくりと吐き出した。隣に立つ美咲の手元を見ると、ラケットバッグのストラップを白くなるほど強く握りしめている。
「……男子の勢い、凄かったわね。湊先輩のあの圧倒的な勝利、見てるだけで肌がピリピリしたわ」
「うん。湊兄さんたちが繋いでくれた『勝利の気』、私たちが途絶えさせるわけにはいかないよね」
私たちの数歩前を行くのは、女子テニス部を束ねる高城部長だ。彼女は眩い陽光を背に受けながら、凛とした佇まいで整列を促した。
「みんな、いい。去年、私たちはこの地区大会の初戦にすら届かず敗退し、本当に悔しい思いをした。でも、今の私たちはあの時よりずっと強い。……自分たちの積み重ねてきた時間を、そして隣の仲間を信じなさい。行けるところまで、いえ、全員で頂点まで行くわよ!」
部長の言葉に、副部長の鈴木先輩、そして木村先輩が力強く頷く。2年生の小林先輩と佐藤先輩も、互いの手のひらを合わせて気合を入れ直していた。戦略的控えとしてベンチから支える伊藤先輩が、私たち一年生の肩をポンと叩く。
「みゆ、美咲。あんたたちの地区大会初陣、しっかり目に焼き付けておくから。コートの中ではあんたたちが主役よ。思い切り暴れてきなさい!」
「はい、伊藤先輩!」
今回のオーダーは、ダブルスで確実に二勝をもぎ取り、シングルス陣へ繋ぐ攻撃的な布陣だ。ダブルス2(D2)に私と美咲、ダブルス1(D1)に高城部長と鈴木先輩の最強ペア。シングルスは、S3に佐藤先輩、S2に木村先輩、S1に小林先輩が控えている。
「さあ、星和の誇りを見せに行きましょう。……行くわよ!」
「「はいっ!!」」
部長の号令が、熱風を切り裂くように響いた。
審判のコールとともに、私と美咲はコートのセンターラインへと駆け寄った。団体戦の勝敗を左右するトップバッター。ネットを挟んで対峙したのは、聖マリアンナ女学院の2年生ペアだ。彼女たちは私たちの姿を見ると、余裕ありげな笑みを浮かべて小声で囁き合った。
「1年生相手なら、手堅くコースを突けば勝手に自滅するわね。楽なドローだわ」
その言葉が聞こえた瞬間、隣に立つ美咲の纏う空気が一変した。
「……みゆ、聞いた? 私たち、随分と甘く見られてるみたいよ」
美咲はラケットのガットを一度強く叩き、不敵な笑みを浮かべた。後頭部の髪に隠れるように貼られたテーピングは、あの日、私の腕の中で誓ったリベンジの象徴だ。
「徹底的に、分からせてあげましょう。星和の1年生がどれだけ『重い』か」
「うん。私たちの夏が、どれだけ熱かったか……全部ぶつけよう、美咲!」
第1ゲーム、私のサービスゲームから始まった。
湊兄さんとの特訓で、膝が笑うまで打ち込み続けたフラットサーブ。トスを高く上げ、全身のバネを爆発させる。
――パンッ!
乾いた破裂音とともに放たれたボールは、相手のバックハンド側へ、逃げ場を塞ぐように突き刺さった。
「――っ!?」
相手が辛うじて合わせたリターンが、ネット際に弱々しく浮く。そこには、獲物を狙う豹のように踏み出した美咲がいた。
「甘いっ!」
電光石火のポーチボレーが、相手ペアのちょうど真ん中、センターラインを無慈悲に射抜いた。
「ゲーム、星和! 1-0!」
第一ゲームをラブゲームでキープした瞬間、会場の空気が明らかに変わった。「一年生ペア」を侮っていた観客も、相手ベンチも、その一撃の重さに息を呑んでいる。
そこからは、まさに私たちの独壇場だった。
私が後衛から湊兄さん譲りの重いストロークをコーナー深くに叩き込み、相手をベースラインに釘付けにする。焦れた相手が甘い球を返せば、ネット際で虎視眈々と狙っていた美咲が、目にも留まらぬ速さで仕留める。
「みゆ、ロブよ! 下がって!」
「任せて!」
美咲の鋭い指示が飛ぶ。私は一歩目の爆発力で反転し、後頭部まで抜かれそうな球に追いつく。空中で捉えたスマッシュが、相手コートの隅に火花を散らすように決まった。
(……すごい。言葉にしなくても、美咲の動く先がわかる)
練習で何万回と繰り返した連係。美咲がボレーに出るために空けたスペースを、私が無意識にカバーする。呼吸が、鼓動が、コートの熱気の中で一つに溶け合っていく感覚。美咲の後頭部にあるテーピングが、揺れる髪の間から時折覗く。あの日、彼女が流した涙と、折れかけた心を支えた自分の手の温もりを思い出し、ラケットを握る手にさらに力がこもった。
「ゲーム、セット! 水瀬・松本、6-0!」
審判のコールが響いた瞬間、私たちはコート中央で強くハイタッチを交わした。掌に伝わる痺れるような衝撃が、私たちの「地区大会」の幕開けを祝っているようだった。
「ナイス、二人とも! 最高の滑り出しよ!」
ベンチに戻ると、控えの伊藤先輩が真っ先に駆け寄り、私たちの肩を抱き寄せた。
「あんたたちのコンビネーション、練習の時よりずっと冴えてたわよ!」
ふと観客席を見上げると、そこには男子の試合を終えた湊兄さんの姿があった。
兄さんは周囲にいた部員たちと話していたが、私と目が合うと、一瞬だけ動きを止めた。そして、誰にも気づかれないほど微かに、誇らしげに口元を綻ばせ、小さく頷いてくれた。
その視線だけで、私の胸は昨日映画館で繋いだ手の温もりを思い出し、熱く跳ね上がる。
しかし、余韻に浸る間もなく、隣のコートではダブルス1(D1)の試合が始まろうとしていた。
星和女子の絶対的支柱、高城部長と鈴木先輩。
「一年生があれだけの試合を見せたのよ。……先輩として、無様な真似はできないわね」
高城部長は、私と美咲の横を通り過ぎる際、その凛とした横顔に不敵な笑みを浮かべた。その瞳に宿るのは、去年の地区大会で敗れた屈辱を完全に拭い去ろうとする、王者の執念だ。
「さあ、見せてあげるわ。星和学院の『本気』を」
隣のコートで始まったダブルス1(D1)。高城部長と鈴木先輩のプレーは、一年生の私たちが作った勢いを、さらに苛烈な「熱」へと変えていった。
高城部長のサーブは、男子の湊兄さんを彷彿とさせる鋭い弾道でサービスエースを連発する。相手の返球が少しでも甘くなれば、鈴木先輩がネット際でダンスを踊るかのような軽やかなフットワークでボレーを叩き込む。
「……これが、星和の女子が誇る最強のペア」
美咲が息を呑む。圧倒的な実力差。高城部長は一本決めるごとに、鋭い眼差しでチーム全体を鼓舞していた。その背中は、去年の雪辱を果たすまで決して折れないという鋼の意志に満ちていた。
ダブルス二本を連取し、チームの勝利に王手がかかった状態で、シングルス3(S3)の佐藤春花先輩がコートに立つ。
「春花、あんたなら大丈夫。……健二の分まで、暴れてきなさい」
ベンチで見守る伊藤先輩が、佐藤先輩の肩を強く叩いた。春花先輩の弟・健二君は、男子テニス部の一年生。層の厚い男子部で、あと一歩のところでレギュラーを逃していた。
「わかってるわ。健二が家でどれだけ練習してたか、一番近くで見てきたから。……姉として、あの子の悔しさも一緒にコートに連れていく」
佐藤先輩は力強く握り拳を作り、愛する弟の想いを背負ってコートへ向かった。
対戦相手は聖マリアンナのポイントゲッター。左右に鋭く打ち分ける攻撃的なテニスに対し、佐藤先輩は泥臭くロブを上げ、低く滑るスライスで応戦する。
「……っ、この! なんで返ってくるのよ!」
焦れる相手を嘲笑うかのように、佐藤先輩は執念でボールを拾い続けた。最後は相手の強打がネットに突き刺さり、佐藤先輩が咆哮した。
「ゲーム、セット! 佐藤、6-3!」
この瞬間、星和学院の1回戦突破が確定した。
しかし、チームの勝利が決まっても熱量は下がらない。シングルス2(S2)の木村美久先輩が、穏やかな微笑みを消してコートに入る。
「最後の一年、一分一秒も無駄にはしたくないの」
普段の「部のお姉さん」とは思えない冷徹な勝負師の目。木村先輩は、無駄のないサーブ&ボレーで6-1と圧倒し、格の違いを見せつけた。
そして最後を締めくくるのは、シングルス1(S1)の小林先輩。次期部長候補としての重圧を背負い、相手の主将とこの日一番のロングラリーを展開する。
「……負けられない。私が、星和の看板を背負うんだから!」
最後は小林先輩の渾身のクロスショットが決まり、7-5で死闘を制した。
5戦全勝。文句なしの完封勝利。
ベンチに帰ってきた小林先輩を、高城部長が「よくやったわね」と短い言葉で迎える。その一言で、小林先輩の目には堪えていた光るものが浮かんでいた。
「……みんな、お疲れ様。でも、浮かれるのはここまでよ」
高城部長がキリリと表情を引き締める。
「次の相手は千代田学園。独自の守備陣形を持つ、私たちの天敵。……ここからが、本当の正念場よ」
私たちは全員で円陣を組み、一段と高まった結束力を胸に、準決勝の舞台へと向かった。遠くで見守る湊兄さんの視線を感じながら、私はラケットを強く握り直した。
「女子団体準決勝、星和学院対千代田学園。試合を開始します!」
1回戦を完勝で飾った勢いのまま乗り込んだ準決勝。しかし、ブロック大会の常連校である千代田学園は、これまでの相手とは格が違った。彼女たちの武器は、徹底したカウンターと、どこに打っても吸い寄せられるように返ってくる変幻自在の守備陣形。まさに「鉄壁」という言葉が相応しいチームだった。
最初にコートに立ったダブルス2(D2)の私と美咲は、開始早々、その巨大な壁にぶち当たった。
「……っ、何なのよ、あのペア! 打っても打っても、死んだような球で返ってくる!」
美咲が焦燥感に満ちた声を上げる。私たちの得意なパワープレーが、相手の絶妙な低空スライスでことごとく無力化され、焦りからミスを連発。序盤で0-3と引き離され、初めて味わう圧倒的な劣勢に、足が震えた。
ベンチに戻った短いチェンジオーバーの間、私は隣で肩を上下させる美咲の手を強く握った。
「……美咲、あの日を思い出して。後頭部の痛みも、悔しさも、二人で乗り越えてきたじゃない。綺麗なテニスなんてしなくていい。泥臭くても、私たちのテニスをぶつけよう」
私の言葉に、美咲がハッと目を見開いた。彼女は一度、後頭部のテーピングを強く押さえ、覚悟を決めたような瞳で笑った。
「……そうね。あんなに特訓したんだもの。このまま終わるわけにいかないわ!」
コートに戻った私たちのプレーは一変した。
相手のスライスを強引に叩くのをやめ、膝を深く折って粘り強く繋ぐ。私が執拗にコースを突き、相手が痺れを切らして上げたロブを、美咲が魂を込めたスマッシュで叩き落とす。
「……決まったあぁ!」
一ゲーム、また一ゲームと奪い返し、ついにタイブレークへ。最後は美咲の気迫のポーチボレーが決まり、逆転で勝利を収めた。
「ゲーム、セット! 水瀬・松本、7-6!」
初めての挫折を、コートの中で克服した瞬間だった。
続くダブルス1(D1)の高城部長と鈴木先輩も、一年生の奮闘に呼応するように牙を剥いた。
「1年生があれだけ粘ったのよ。……3年生が意地を見せないでどうするの」
部長の宣言通り、千代田の守備を力でねじ伏せる圧倒的なスマッシュと、鈴木先輩の鉄壁のネットプレーで相手を翻弄。6-1で完勝を収め、これで星和が2勝0敗と王手をかける。
そして、勝負を決めるべくシングルス3(S3)のコートに立ったのは、佐藤春花先輩だ。
対戦相手は、千代田随一のテクニシャン。トリッキーなドロップショットで揺さぶりをかけてくるが、佐藤先輩は泥臭くコートを駆け巡り、どんな球でも拾い続けた。
「なんで……なんで決まらないのよ!」
相手が焦りから崩れた瞬間、佐藤先輩の放った渾身のパスがライン際を鮮やかに射抜いた。
「ゲーム、セット! 佐藤、6-4!」
S3までの3連勝。この瞬間、星和学院の決勝進出、そして悲願の関東大会出場が確定した。
歓喜に沸くベンチの中で、私は遠くのコートからこちらを見守る湊兄さんと視線が合った。
兄さんは小さく、誇らしげに頷いてくれた。その瞳には、妹を労う優しさだけでなく、一人の選手への敬意があるように感じた。
佐藤先輩が劇的な勝利を収めた瞬間、星和学院女子テニス部は、初出場にしてブロック大会決勝への切符を手にした。
その後の試合、シングルス2(S2)の木村先輩とシングルス1(S1)の小林先輩は、千代田の「鉄壁」を超えるべく最後まで攻め続けた。しかし、一歩も引かぬ相手の超守備的な粘りの前に、紙一重の差で惜敗。結果、対戦スコアは3勝2敗。薄氷を踏むような思いでの決勝進出となった。
勝利が確定した直後、私たちはコートになだれ込み、涙を流しながら抱き合った。美咲と手を取り合い、高城部長も、鈴木先輩も、みんな泣いていた。
「……よかった、本当に……!」
私の胸には、これまでの特訓の日々と、湊兄さんからもらった言葉が去来していた。
しかし、その歓喜の輪のすぐ隣。
コートを去る私たちの前を、次の試合を控えた修徳館のメンバーたちが通り過ぎていった。彼女たちは、勝利に沸く私たちをまるでゴミを見るかのような冷ややかな視線で一瞥し、一言も交わさずに去っていく。その圧倒的な威圧感に、私の肌は粟立った。
「……喜ぶのは、ここまでにしましょう」
高城部長が涙を拭い、険しい表情で言った。その視線は、修徳館の背中を射抜いている。
「次は決勝。修徳館……本当の怪物は、あの場所にいるわ」
男女ともに、残るは決勝戦のみ。
夕暮れに染まるコートで、星和学院の全メンバーが、宿敵との最終決戦に向けて静かに闘志を燃やしていた。
ふと、観客席の湊兄さんと目が合う。
兄さんの瞳は、勝利を喜ぶ私を見つめながらも、その奥には底知れない冷たさを湛えていた。それは、獲物を追い詰める直前の、冷徹な狩人の眼差しだった。




