一番近い特等席
約束の時間ちょうど、静かな住宅街にインターホンの音が鳴り響いた。玄関を開けると、そこには使い古されたリュックのストラップをぎゅっと握りしめ、まるでこれから決死の突撃でも敢行するかのような悲壮な決意を固めた陽太が立っていた。
「……おはよう、みゆ。覚悟は決めてきたよ。今日中にこの束を終わらせられなかったら、俺の夏は今日この瞬間に幕を閉じる……」
「おはよう、陽太。ふふ、顔が怖いよ。とりあえず上がって。冷たい飲み物、用意してあるから」
私が苦笑いしながら促すと、陽太は「失礼します……」と小声で呟き、お焼香でもするかのような足取りでリビングへと足を踏み入れた。
リビングの大きなダイニングテーブルには、既に湊兄さんが陣取っていた。兄さんの前には、私や陽太が使っている教科書とは一線を画す、難解な数式と英単語が並ぶ大学受験用の参考書が広げられている。 兄さんは顔を上げ、陽太のリュックの異常な膨らみ――おそらく一文字も埋まっていないであろう大量のプリントの束――を一瞥すると、低く冷徹な声を響かせた。
「座れ。……陽太、今日中に終わらなければ、明後日の練習には来させない。坂上先生の宣告は絶対だということを忘れるな。テニスも勉強も、土壇場での詰めが甘い奴に勝利の資格はない」
「はいっ、ご指導……よろしくお願いします!」
陽太は直立不動で返事をした後、私の右隣に腰を下ろした。私の正面には湊兄さん。三人がテーブルを囲むと、開け放たれた窓から入り込む夏休みの生温かい風が、プリントの端をパタパタと揺らした。遠くで鳴り続ける蝉の声が、静まり返った部屋の沈黙をより一層際立たせる。
カリカリ、と規則正しくペンが走る音だけが室内に響き始めた。 開始から二時間。最初は必死にペンを動かしていた陽太だったが、難解な数学の証明問題のページに差し掛かったところで、完全に動きが止まった。シャーペンを握りしめたまま、まるで石像のように固まっている。
「……うーん、これ、公式は頭に入ってるはずなのに、どうしてこの答えの形に辿り着かないんだ……」
陽太が絞り出すような声で唸る。見かねた私が少し覗き込もうとすると、正面に座っていた兄さんが、音もなく椅子から立ち上がった。
兄さんは陽太の背後に回り、その肩越しにノートを覗き込む。
「ここは、先にこの項を整理しろと言ったはずだ。計算を急ぐから途中で符号を間違える。テニスのフットワークと同じだ。予備動作を端折るから、インパクトで面がぶれるんだ」
「あ、本当だ……。ここの符号がマイナスになってる。湊さん、例えがテニスだとめちゃくちゃスッと入ってきます……」
陽太が再び、救われたような顔でペンを動かし始める。すると、兄さんはそのまま自席に戻ることなく、私の真横へと音もなく歩み寄ってきた。
「みゆ。お前はどこまで進んだ」
「あ……私は、あと英語の長文が半分と、現文の課題だけだよ」
「……見せてみろ」
兄さんは私の隣、わずか数センチの距離に腰を下ろした。コートで指導を受けている時よりもずっと近い。兄さんの体温が肌に伝わり、微かに漂う石鹸の清潔な香りが鼻腔をくすぐる。 兄さんは私のノートを無言で引き寄せると、ページをゆっくりと捲りながら内容を確認していく。その指先が、時折私の手首や指に触れるたび、私の中の「妹」としての理性が、ひどく落ち着かない色に染まっていく。私は文字を書く手が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に抑えていた。
「……基礎はできているな。だが、この第3節の解釈、間違っているぞ」
兄さんの声が耳元で低く響く。その視線は私のノートに注がれているはずなのに、私は兄さんの存在そのものに、意識のすべてを奪われていた。
「はーい、お疲れ様。みんな、ちょっと休憩にしましょうか」
リビングのドアが静かに開き、冷たい麦茶がのったお盆を手にした雫姉さんが入ってきた。
「あ、雫さん! ありがとうございます!」
数学の泥沼にはまっていた陽太が、救い主が現れたような顔をして、パッと椅子から腰を浮かす。
「いいのよ、陽太くん。湊から聞いたわよ、課題が山積みなんですって? ちゃんと糖分も摂らないと、テニスより先に頭がパンクしちゃうわよ」
姉さんはそう言って、麦茶と一緒に用意してくれた一口サイズのレモンケーキをテーブルに並べた。家の中をいつも穏やかに切り盛りしてくれている姉さんの気遣いは、張り詰めていたリビングの空気を一瞬で和らげてくれる。
「すみません、雫さん……お恥ずかしい限りで。湊さんとみゆにまで付き合わせちゃって」
「ふふ、いいのよ。湊だって、こうやって誰かに教えるのは自分の復習にもなるし、何より……」
姉さんは言葉を切り、私の隣に座っている湊兄さんの様子を、何かを確かめるような、少しだけ探るような眼差しで見つめた。 兄さんは私のノートからようやく目を離したが、椅子を引いて離れる様子はなく、そのまま私の肩が触れそうなほど近い距離に座り続けている。
「湊も、みゆに教えるのが随分と熱心なみたいね。さっきから見てたけど、自分の受験勉強よりみゆのノートばっかり覗き込んでるじゃない」
「……進み具合を確認しているだけだよ。こいつは時々、基礎を飛ばして応用に行こうとする癖があるから」
湊兄さんは淡々と答えるが、その声はどこか固く、姉さんの指摘をいなそうとしているように聞こえた。 姉さんは私と湊兄さんの距離感を、優しく、けれどどこか心配そうな眼差しで見つめていた。
(……姉さん)
私と湊兄さんに血の繋がりがないという事実。それを知っているのは、この家では姉さんと私だけ。そして姉さんは、私がその事実を「まだ知らない」と思っているはずだ。 だからこそ、兄さんが私に向ける、兄妹としての枠を超えそうなほどに熱心で、執着に近い指導を、姉さんは危ういものとして見守っているのかもしれない。
「みゆ、湊が厳しすぎたらすぐ私に言いなさいね。この子、昔から一度こうと決めたら周りが見えなくなるくらいストイックなんだから。……特に、自分にとって大切なものに関してはね」
「あ、うん。でも兄さんの教え方、すごく分かりやすいよ。大丈夫」
私が微笑むと、姉さんは一瞬だけ眉を下げ、愛おしさと困惑が入り混じったような表情を浮かべた。けれど、すぐにいつもの穏やかな「お姉ちゃん」の顔に戻った。
「そう。それなら良かった。さあ、冷たいうちに飲んじゃって。後半戦も頑張るのよ」
陽太が「雫さんのレモンケーキ、最高っす!」なんて頬張って、姉さんが楽しそうに笑う。 麦茶の氷がカラン、と涼しげな音を立てる。
雫姉さんがキッチンへ戻り、再びリビングにはペン先の走る音だけが戻ってきた。 私は集中力を研ぎ澄ませ、残っていた英語の長文読解と現代文の課題を一気に片付けた。もともと計画的に進めていたこともあり、陽太がまだ英語の基本例文と格闘している間に、私はすべての課題を終えてパタンとノートを閉じた。
「あ……みゆ、もう終わったのか? 早いな……」
陽太が羨ましそうにこちらを見る。正面に座る湊兄さんも一旦ペンを置き、私のノートを手に取って最終確認を始めた。
「……全問正解だ。よくやった、みゆ」
「えへへ、ありがとう。兄さんの教え方が良かったからだよ」
私が微笑むと、兄さんは満足げに私の頭を一度撫で、また自分の難解な参考書へと意識を戻した。
それから三十分ほど経った頃。再び、陽太が「うーん……」と頭を抱えて唸り声を上げた。
「……湊さん、すみません。この関係代名詞の書き換え、どうしても理屈が分からなくて……」
兄さんは、先ほどと同じように椅子を引いて立ち上がり、陽太の方へ教えに行こうとした。 けれど、私はその前にそっと手を挙げて兄さんを制した。
「兄さん、いいよ。兄さんも自分の受験勉強、まだ残ってるんでしょ? 私、もう手が開いたから。陽太には私が教えるね」
私の言葉に、兄さんの動きがピタリと止まった。
「……お前が教えるのか」
「うん。今さっきやったばかりの範囲だし、教えるのも自分の復習になるから。兄さんは、自分の課題に集中してて」
兄さんは、立ち上がりかけた中途半端な姿勢のまま、しばし沈黙した。 その瞳には、私の申し出を拒む理由が見つからない困惑と、ほんの僅かな、名残惜しそうな色が混じっているように見えた。
「……そうか。なら、任せる」
兄さんは短く答えると、再び椅子に深く腰を下ろした。
私は陽太の隣に椅子を寄せ、彼のノートを覗き込んだ。
「陽太、ここはね、先行詞がどれかを先に探すと分かりやすいよ。ほら、この単語が……」
「あ、なるほど! みゆ、教え方うまいじゃん。湊さんより少しだけ優しいし、助かるよ!」
陽太が屈託のない笑顔を見せ、私たちの距離が自然と近くなる。
その時、ふと正面に目を向けると、兄さんがじっとこちらを見ていた。 けれど、目が合うとすぐに手元の参考書に視線を落とし、何事もなかったかのようにペンを動かし始めた。
(……兄さん、自分の課題、もっと早く終わらせることもできたんじゃ……)
兄さんの参考書を見ると、残っているのはほんの数ページ。いつもなら一瞬で片付けてしまうはずの量だ。もしかして、私や陽太の様子を気にして、あえて自分のペースを落としていたのだろうか。 少しだけ申し訳ないことをしたかな、と思っていると、兄さんは握りしめていたシャーペンの先をポキリと折った。
「……芯が切れただけだ。気にするな」
兄さんは淡々と予備の芯を補充したが、その横顔はどこか、自分の計画が少しだけ狂ってしまったことを悔やんでいるような、静かなもどかしさを湛えているように見えた。
「よし! 終わった! 全部終わったぞ!!」
二時間後、陽太の歓喜の叫びがリビングに響き渡った。
「お疲れ様、陽太。これで明後日の試合、出られるね」
「ああ! みゆ、本当にありがとう! 湊さんも、ありがとうございました!」
陽太は晴れやかな顔でリュックをまとめ始めた。窓の外は、いつの間にか深い藍色に染まっている。 勉強会は無事に終わった。けれど兄さんの瞳は、いつもの冷静な指導者の顔をしながらも、どこか寂しげな、私を遠くに感じるような不思議な光を宿していた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
みゆ視点なので、湊の感情は書いていません。
ご想像の通りです。




