王者の証明、受け継がれる熱量
女子団体決勝での美咲の負傷、そして棄権という激動の余韻が会場に冷めやらぬまま、午後からの男子団体戦決勝の幕が上がった。うだるような熱気の中、星和学院の前に立ちはだかったのは、昨年の準決勝で死闘を演じた宿敵・付属一中。王座死守に燃える彼らの殺気は、乾いた赤土の匂いとともにコートに渦巻いていた。
ダブルス2が勝利し、ダブルス1が落とすという、1勝1敗の緊迫した展開。チームの命運を左右する「勝負の要」、第3試合――シングルス3(S3)のコールが響いた。
「第3試合、シングルス3。星和学院・河村選手。コートに入ってください!」
審判の声とともに、陽太がベンチから立ち上がった。つい先ほど、親友の無念を思って涙を流していた私を傍で見ていた陽太の顔には、もはや甘えや迷いは一切なかった。彼は短く息を吐き、愛用のラケットを強く握り直すと、戦いの庭へと足を踏み入れた。
対戦相手は、県内でも指折りのテクニシャンとして知られる3年生、北条。 試合開始直後から、陽太は苦戦を強いられた。北条の放つ老獪なドロップショットと、ベースライン際を抉るような鋭いストロークに翻弄され、ゲームカウントは瞬く間に離されていく。
「15-40(フィフティーン・フォーティ)!」
相手のゲームポイント。砂埃にまみれ、膝を赤く擦りむきながら、陽太は観客席の私を一度だけ見上げた。 (……みゆは、あんなに悔しい思いをしたんだ。美咲の分まで、星和の勝利を繋ごうとしたんだ。俺がここで、その想いを途切れさせるわけにはいかない……!)
陽太の瞳に、執念とも言える烈火が灯った。 そこからの彼は、まさに「泥臭い努力」の権化だった。湊兄さんとの特訓で徹底的に叩き込まれたフットワーク。どんなに際どいコースへ打ち込まれても、彼は獣のような反応で追いつき、泥にまみれながらも執念でボールを返し続けた。
「……うおおおおお!」
陽太の咆哮が、静まり返った会場に響き渡る。 本来ならエースになるはずのショットを何度も拾われ、格上であるはずの北条の顔に焦りが浮かび始める。陽太のテニスは、華麗さとは程遠い。けれど、一球一球に「みゆを笑顔にする」「湊さんに認められたい」という純粋な熱量がこもっていた。
「ゲーム、河村! 5-5(ファイブ・オール)!」
ついに追いついた。陽太の呼吸は激しく乱れ、ユニフォームは汗と砂で重く張り付いている。それでも、彼の足取りは以前より力強さを増していた。 パートナー(みゆ)を想い、その呼吸を読み、共に戦う――合宿で湊兄さんに諭された「真の連携」の意味を、彼はシングルスという孤独な戦いの中で、自分自身の心と繋がることで体現しようとしていた。
驚異的な粘りで最後は相手の精神力を上回り、ついに逆転の瞬間が訪れる。
「ゲームセット! 7-5、星和学院、河村!」
勝利の瞬間、陽太は空に向かって力強く拳を突き上げた。その背中は、つい数ヶ月前まで私の後ろを追いかけていた少年のものではない。泥にまみれ、誇り高く叫ぶ一人の「戦士」の姿だった。
陽太がコートを出てくると、ベンチで待機していた湊兄さんが静かに立ち上がった。兄さんは何も言わず、ただ力強く陽太の肩を叩いた。その一打には、かつてないほどの確かな信頼が込められていた。
陽太がS3(シングルス3)で繋いだ執念の1勝。しかし、王座奪還を狙う付属一中も死に物狂いだった。
すでに終了したダブルス2試合は1勝1敗。陽太の勝利で星和学院が2勝1敗と王手をかけたが、続く第4試合のシングルス2、田中くんが相手のエース級に力負けし、対戦成績は 2勝2敗 のタイに戻された。
会場に重苦しい空気が漂う中、すべての運命は最後の一戦――シングルス1(S1)、水瀬湊に託された。
「第5試合、シングルス1。星和学院、水瀬選手。コートに入ってください」
湊兄さんがベンチから立ち上がると、それまでの喧騒が嘘のように静まり返った。対戦相手は、付属一中の主将であり、県内最強のパワープレイヤーとの呼び声高い3年生・阿久津。彼はこれまで「左手」一本で予選を勝ち上がってきた湊兄さんに対し、ネット越しに剥き出しの敵意をぶつけてきた。
「おい、水瀬。決勝までその『舐めた左手』で通すつもりか? 星和の看板も、随分と軽くなったもんだな」
観客席からどよめきが上がる。しかし、湊兄さんはその挑発を柳に風と受け流し、無表情にラケットバッグを開けた。そして、ゆっくりと、確かな重みを持ってラケットを右手に握り変えた。
「……陽太が繋いだこの熱を、左手で弄ぶほど俺は無粋ではない。……全力で来い。叩き潰してやる」
その宣言とともに放たれた初弾のサーブは、もはやボールの軌道さえ見えないほどの閃光となり、阿久津のラケットを無慈悲に弾き飛ばした。
「……15-0(フィフティーン・ラブ)」
審判の声さえも、その威力に戦慄して震えている。湊兄さんのテニスは、もはや「試合」という枠組みを超えていた。合宿の「枷」によって磨かれた左手での柔軟な配球と、本来の右手が持つ圧倒的な破壊力。その二つが完全に融合した今の兄さんは、合わせ鏡のように隙がなく、コート上のすべてを支配する絶対的な王だった。
「……っ、ふざけるな! まだだ!」
阿久津が死に物狂いで食らいつくが、湊兄さんは一切の汗も乱れも見せず、流れるような優雅な所作で致命的なコースを射抜き続ける。
(……すごい。兄さん、あんなに怖いくらいに輝いてる……)
私は観客席で、呼吸をすることさえ忘れてその姿に見入っていた。陽太が見せた、泥にまみれて食らいつく「勇気」も私の心を揺さぶった。けれど、今目の前で、すべてを跪かせる湊兄さんの「完成された美学」は、私の本能を直接掴み、魂を強引に引き寄せていく。
一ポイントも、一ゲームも与えない、文字通りのシャットアウト。
「ゲームセット! 6-0、星和学院、水瀬!」
優勝が決まった瞬間、会場は称賛の嵐ではなく、あまりの圧倒的な実力差への「畏怖」で一瞬の静寂に包まれた。その後、遅れて爆発的な歓声が沸き起こる。
湊兄さんは、狂喜乱舞して駆け寄る部員たちを片手で制し、乱れた呼吸一つ見せずにネット際で握手を交わした。その立ち居振る舞いは、どこまでも気高く、孤独な王者のようだった。
勝利の余韻が渦巻く中、湊兄さんはふっと顔を上げ、観客席の最前列にいる私を真っ直ぐに見上げた。その瞳には、王者としての傲慢さなど微塵もなく、ただ「お前の前で、最高のテニスを見せたぞ」という、兄としての、そして一人の男としての誇りだけが宿っていた。
ふと視線を落とすと、コート脇で陽太がこちらを見上げていた。彼は湊兄さんの圧倒的なプレーを目の当たりにし、驚愕と、それ以上の熱い闘志を瞳に宿して拳を固く握りしめている。陽太は私と目が合うと、はにかむように、けれど力強く親指を立てて見せた。まるで「俺も負けないから」と無言で伝えてくるように。
私は、二人の男がそれぞれのやり方で示してくれた「強さ」の間で、激しく揺れ動く鼓動を抑えることができなかった。
陽太の見せた、泥にまみれて未来を切り拓く「等身大の勇気」。 湊兄さんの見せた、すべてを支配し跪かせる「完成された美学」。
夏の陽光の下、二人の戦士から向けられる異なる熱量に焼かれながら、私の心はこれまでにないほど激しく、そして甘美に波打っていた
男女アベック優勝という最高の快挙に、星和学院テニス部の興奮は夜になっても冷めることを知らなかった。坂上先生の計らいで、帰路にある馴染みのテラス付きカフェにて、負傷した美咲の快気祝いを兼ねた祝勝会が開かれることになった。
「かんぱーい!」
スポーツドリンクや炭酸飲料のグラスが触れ合い、笑い声が夜の街に溶け出していく。テーブルの上には、山盛りのフライドポテトと、部員たちがそれぞれ選んだ色鮮やかなアイスクリームが並んでいた。
「……松本、気分はどうだ? 吐き気や目まいで気分が悪くなったりしていないか」
意外だった。湊兄さんが真っ先に声をかけ、隣に座らせたのは私ではなく美咲だった。その表情はいつになく真剣で、冷徹な王者の仮面を脱ぎ捨てた一人の兄のように、負傷した彼女を深く案じている。
「あ、はい……! 湊先輩、本当に大丈夫です。ちょっとクラッとしただけで、今はもうアイスが美味しくて……」
「そうか。だが、あの高さから硬球が直撃したんだ。今夜はスマホも控えろ。……もし何かあったら、すぐにみゆを通して俺に連絡しろ。いいな」
「は、はいっ……!」
美咲は顔を真っ赤にしながら、一生懸命に頷いている。兄さんのその献身的なまでの気遣いは、周囲の女子部員たちが思わず息を呑むほどに優しかった。
「美咲、本当によかった……」
私は美咲の隣へ移動し、彼女の手をそっと握った。
「私、棄権を言い出した時、みんなに顔向けできないって思ってた。でも、美咲が笑ってくれて、本当に救われたよ」
「何言ってるのみゆ。私のほうこそ、あんな大事な場面で不甲斐ない……。でもね、みゆが私の名前を呼んでくれたとき、暗闇の中で光が見えた気がしたんだよ。ありがとう」
美咲は少し潤んだ瞳で笑い、私の選んだバニラアイスを一口掬って「これ、甘くて美味しいね」と微笑んだ。その時、不意にテーブルを叩く音が響いた。キャプテンの高城先輩だった。
「みんな、今日は本当によくやったわ! 特にみゆと美咲、あんたたちの絆には痺れた。……私ね、去年は県大会で敗退して、本当に悔しい思いをした。でも、このメンバーなら行ける。地区大会を勝ち抜いて、星和女子の歴史を塗り替えるわよ!」
「はいっ!!」
高城先輩の力強い宣言に、女子部員たちの士気が一気に跳ね上がる。その光景を、湊兄さんは少し離れた席から、満足げに、けれど静かに見守っていた。
「陽太、お前もだ」
兄さんの視線が、チョコチップミントを食べていた陽太へ向けられた。
「お前が繋いだS3の1勝、あれがなければ俺まで回ってこなかった。よくやったよ。 ……だが、今日のような泥仕合は地区大会では通用しない。次は圧倒して勝て」
「……っ、はい! 湊さん、次はもっと完璧にやってみせます!」
陽太は背筋を正し、力強く頷いた。兄さんの気遣いは美咲に向けられ、指導は陽太に向けられている。一見すれば、理想的な主将の姿だ。
けれど、宴が終わりに近づいた頃。湊兄さんは美咲をタクシーで帰るよう手配し、彼女が乗り込むのを見届けると、静かに私の隣に立った。
「松本の容体は、もう大丈夫だろう。もう不安な顔はしなくてもいいぞ、みゆ」
兄さんの声のトーンが、一瞬で低く、重いものへと変わる。 「
今日の結果は次に活かせばいい。地区大会では、お前たちの真の絆を見せてくれ」
兄さんの指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。
「……もし、倒れていたのがお前だったら、俺は試合に出れていたのかな」
「……え?」
ぼそりと呟かれた兄さんの一言に、私は言葉を出せずにいた。聞き間違いかと思うほど小さな、けれど逃れられない重みを持った言葉。
「いや、なんでもない。さぁ、そろそろ帰ろう。姉さんが待っている」
兄さんは何事もなかったかのように歩き出し、私はその背中を追うことしかできなかった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
県大会決勝でした。
もしテニスの描写をがっつりと書くなら初戦からだと24節くらいまで引き伸ばすことになりそう。
別のジャンルになるのでサクッと進めてます。




