断ち切られたラリー、守るべきもの
県大会二日目午後から三日目にかけて、星和学院の快進撃は止まらなかった。 二回戦、そして準決勝。
男子部では、湊兄さんの「左手」が驚異的なスピードで進化を遂げていた。準決勝のS1(シングルス1)では、もはや左手であることを感じさせないほど精密な配球を見せ、相手の3年生を翻弄。
「……恐ろしい。あの水瀬が、さらに化け物になろうとしている」
他校の偵察部隊が震える声で呟くのを、私は何度も耳にした。一方の陽太も、S3としての重圧を力に変え、泥臭い粘りで全勝をキープ。湊兄さんの背中を追うように、彼は確実に一歩ずつ、星和の主力としての地位を固めていた。
女子部もまた、高城部長を中心とした盤石の布陣で決勝へと駒を進める。 私と美咲のダブルスも、初戦の勝利で自信をつけ、準決勝では格上のペアをストレートで破る大金星を挙げた。
「みゆ、このまま行こう! 私たちの力なら、絶対に全国まで行けるよ!」
美咲と交わしたハイタッチの熱。 それが、あまりにも脆い砂上の楼閣であったことを、私たちはまだ知らなかった。
準決勝までの圧倒的な快進撃を経て、ついに迎えた県大会女子団体決勝戦。 相手は、粘り強い守備と緻密な戦略で勝ち上がってきた実力校。会場を包む空気は、これまでの試合とは一線を画す重厚な緊張感に満ちていた。
整列を前に、坂上先生がオーダー表を読み上げる。
「女子決勝のオーダーを発表する。ダブルス2、小林・佐藤。ダブルス1、水瀬・松本。シングルス3、木村。シングルス2、伊藤。シングルス1、高城だ」
「はいっ!!」
全員の凛とした声が響く。シングルスに主力を温存し、ダブルスで確実に王手をかける……星和学院の「必勝パターン」だ。
第1試合、ダブルス2。2年生ペアが苦戦しながらもタイブレークを制し、貴重な一勝を挙げた。
「いい流れよ! みゆ、美咲、決めてきなさい!」
木村先輩の激励を受け、私と美咲の「ダブルス1」がコートに呼び出された。
「……みゆ、行こう。ここで勝って、一気に優勝をたぐり寄せるよ!」
「うん。私たちの練習は嘘をつかない。美咲、信じてる!」
試合序盤、私たちはこれまでにないほどの冴えを見せていた。合宿で湊兄さんに叩き込まれた低い姿勢のボレー、そして陽太が練習に付き合ってくれた粘り強いストローク。すべてが噛み合い、ゲームカウントは 3-0(スリー・ラブ)。続く第4ゲームも 40-15(フォーティ・フィフティーン)。
「あと一本!」
「星和、攻めろ!」
観客席からの声援を背に、私たちは勝利を確信しかけていた。しかしその直後、夏の魔物が牙を剥いた。
相手の苦し紛れの返球が、高く、高くセンターへと上がった。
「美咲、バック! 下がって!」
私が叫び、美咲が上空を見上げたその瞬間。運悪く太陽が雲の隙間から強烈な光を放ち、彼女の視界を白く染めた。
「えっ……」
美咲の戸惑うような声。直後、落下してきた硬球が、容赦なく彼女の後頭部を直撃した。
――鈍い衝撃音。
「美咲……っ!?」
糸が切れた人形のように、彼女の体がコートに沈む。ラケットがカランと乾いた音を立てて転がった。駆け寄った私の目に映ったのは、焦点が定まらず、浅い呼吸を繰り返す親友の姿だった。
「美咲! しっかりして! 私がわかる!?」
私の震える声に反応はなく、彼女はそのまま静かに意識を失った。
コート内は騒然となり、悲鳴と怒号が飛び交う。私がパニックで動けずにいたその時、観覧席のフェンスを軽々と飛び越え、風のようにコートに降り立った影があった。
「どけ、みゆ。気道を確保する」
低く、けれど絶対的な落ち着きを持った声。湊兄さんだった。 兄さんは周囲の混乱など眼中にない様子で、膝をつくと手際よく美咲の状態を確認した。
「……湊、さん……」
美咲がわずかに、うわごとのように名前を呼ぶ。兄さんは何も言わず、美咲の体を壊れ物を扱うように、けれど力強く持ち上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」であった。
「俺が医務室へ運ぶ。みゆ、お前はここで自分の役目を果たせ」
そう言い残し、兄さんは迷いのない足取りでコートを後にした。その背中は、どんな絶望的な状況でも決して揺らがない、王者の風格そのものだった。
「……水瀬選手、審判としての判断を仰ぎます。試合を継続しますか、それとも棄権しますか?」
主審の声が、凍てつくように冷たく響く。ルール上、ダブルスのペアが欠ければその時点で試合は成立しない。棄権を選べば、この1勝を失い、チーム全体の優勝に暗雲が立ち込める。 私はベンチを見た。そこには祈るようにこちらを見つめる先輩たちの姿があった。そしてゲートの向こう、美咲を運ぶ湊兄さんの背中。
(……勝利は、あとでいくらでも取り返せる。でも、美咲は一人しかいない)
「……棄権します。美咲のそばに居させてください」
私は審判に深く頭を下げた。観覧席からはどよめきが起きたが、キャプテンの高城先輩が真っ先に駆け寄り、私の肩を抱き寄せた。
「いいのよ、水瀬さん。よく言ったわ。美咲を頼むわね。あとの試合は、私たちが死ぬ気で取り返してくるから!」
私はラケットを握りしめたまま、泣きながら医務室へと走った。
医務室の扉を開けると、消毒液の匂いとともに静寂が広がっていた。ベッドの傍らには、心配そうに顔を覗き込む女子部員たちだけでなく、息を切らした陽太と田中くんも駆けつけていた。湊兄さんは窓際に立ち、腕を組んだまま、静かに戦況を見守るような眼差しを外に向けていた。
「……ん、……みゆ?」
数分後、美咲がゆっくりと目を開けた。顔色はまだ土色だったけれど、その瞳には確かな光が戻っていた。
「美咲! ああ、よかった……!」
「ごめん、みゆ。私、変な負け方しちゃったかな……試合、どうなった?」
美咲の弱々しい問いかけに、私の心臓が疼く。私は彼女の冷えた手を強く握り、真っ直ぐに伝えた。
「棄権した。……ごめんね、美咲。勝手なことして。でも、どうしても貴方のそばにいたかったの」
美咲の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。勝利への執念が強い彼女にとって、それがどれほど悔しい選択か分かっていた。けれど、彼女は震える声で「……ありがとう」と呟き、私の手を握り返した。
「みゆ。お前の下した決断は間違っていない」
沈黙を守っていた湊兄さんが、静かに口を開いた。窓を背にしたその姿は、逆光で表情こそ見えないものの、声には揺るぎない確信がこもっていた。
「勝負の世界において、情けは弱点とされることもある。だが、仲間を想うその心根こそが、最後には勝利を引き寄せる。……お前は正しい判断をしたよ。あとのことは、仲間と高城部長たちに任せろ」
兄さんはそう言って、私の頭に大きな手を置くと、慈しむように優しく撫でた。その温もりに、張り詰めていた私の心は一気に解き放たれていく。
「陽太、瑛太(田中)。俺たちは外で結果を待とう。彼女たちを二人にしてやれ」
湊兄さんは、まだ言葉をかけたそうにしていた陽太たちを促し、静かに部屋を出て行った。私たちは二人きり、医務室に残された。
しばらくして、外から地響きのような大歓声が聞こえてきた。 扉を勢いよく開けて、陽太が顔を紅潮させて飛び込んできた。
「勝った……! 3-2だ! シングルス1の高城先輩が、激戦の末に逆転勝ちしたぞ! 星和学院女子、県大会優勝。地区大会出場決定だ!」
美咲と私は、声を上げて泣きながら抱き合った。 私が下した棄権という決断を、先輩たちが、仲間たちが、文字通り命懸けのプレーで正解へと変えてくれたのだ。
「……次は、絶対に最後までコートに立とうね。美咲」
「うん、約束だよ。みゆ」
窓の外では、夏の太陽が一段と強く照りつけていた。 湊兄さんが守ってくれたこの場所から、私たちの本当の挑戦が、今再び動き出そうとしていた。
女子の表彰式が終わり、高城部長の腕に優勝旗が握られた。しかし、会場の熱気は引くどころか、さらに膨れ上がっていく。午後のメインイベント――男子団体決勝戦の開始が刻一刻と迫っていた。
「……湊先輩、私、もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
医務室から出てきた美咲は、まだ少し足元がおぼつかない様子だったが、なんとか自力で立っていた。
「無理はするな。お前はみゆと一緒に、観客席から男子を鼓舞ててくれ。」
「……水瀬、そろそろ時間だぞ」
坂上先生の声が響く。兄さんは小さく頷くと、ベンチに置かれたラケットバッグを背負い直した。
決勝へ向かう男子部員たちがコートへと移動を開始する。その直前、兄さんは美咲の肩をそっと、けれど確実に支え、近くのベンチへと導いた。
「……湊先輩、本当にありがとうございました。助けていただいたこと、一生忘れません」
美咲は頬を赤らめ、深々と頭を下げた。湊兄さんは「気にするな。しっかり休め」と、いつもの冷静で包容力のある「完璧な主将」の顔で応じた。
しかし、美咲は兄さんがコートへ向かおうとした瞬間、その袖を軽く引き、背伸びをして耳元で小さく、けれど確実な意志を持って囁いた。
「……湊先輩。次、あのお姫様抱っこをする相手は、私じゃなくて、みゆにしてあげてくださいね?」
「……っ!?」
その瞬間、常に鉄面皮を崩さない湊兄さんの表情が、劇的に揺らいだ。 涼やかだった目元が大きく見開かれ、首筋から耳の裏までが、真夏の太陽よりも鮮やかな朱に染まる。
「……何を、馬鹿なことを言っている」
絞り出すような声は明らかに狼狽しており、呼吸を整えることさえ忘れているようだった。美咲はそんな兄さんの「仮面」が剥がれた瞬間を、勝利者のような悪戯っぽい笑顔で見送った。
「……湊さん? どうかしたんすか、顔真っ赤ですよ?」
これから始まる決勝に向けて気合を入れていた陽太が、不思議そうに顔を覗き込む。
「……黙れ、陽太。アップがてら走り込んでいただけだ。……行くぞ」
兄さんは乱暴に髪をかき上げ、必死に「統率者としての自分」を再構築しようとしていた。けれど、その視線が一瞬だけ、戸惑いながら立ち尽くす私とぶつかった時、そこには兄妹の親愛を遥かに超えた、熱く、切実な執着の残滓が揺らめいていた。
「集合! 決勝のオーダーを発表する!」
坂上先生の声が響き、男子部員たちが整列する。陽太は私を振り返り、拳を固めて見せた。
「みゆ、見ててくれ。俺、絶対に勝つから。湊さんに繋いで、二人で優勝するんだ!」
陽太の真っ直ぐな想いが、夏の陽炎の中でキラキラと輝いている。 けれど、その数歩先。 再び冷徹な「主将」の表情を取り戻した湊兄さんが、背中で私たちを感じていた。 その瞳は、もはや対戦相手だけを見据えているのではない。
「……行くぞ。星和の真の強さを見せつけてやる」
兄さんの鋭い号令と共に、男子団体決勝戦の幕が上がる。 陽太が挑む運命のS3、そして兄さんが大トリで控えるS1へ。 星和学院男子テニス部の県大会決勝が始まろうとしていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
2回戦から準決勝まで飛ばしてしまいました。
一気に決勝戦の様子です。
この後男子の県大会決勝に進みます。




