男子予選、シード校の重圧
女子の快進撃から一夜明けた、大会二日目。 会場へ向かう電車の中、陽太は昨日までの勢いとは裏腹に、張り詰めた緊張感で言葉少なになっていた。時折、ラケットバッグのストラップを強く握りしめる彼の手が、かすかに震えている。
隣に座る湊兄さんは、そんな陽太の様子を静かに、けれど逃さず見つめていた。
「おい、陽太。あまり気負うな。昨日の女子の勝ち方は理想的だったが、男子は男子の戦い方がある」
「……はい。でも、どうしても『星和の看板』を背負うと思うと……」
「俺がお前とみゆのことを認め、背中を押すと決めたのは、お前がみゆを支えるに足る『強さ』を持つ男になると信じているからだ。……今日はその第一歩だ。俺にその覚悟を見せろ」
兄さんの言葉は、二人を焚きつけた責任感と、陽太の誠実さを認めた上での、高い「壁」としての激励だった。
「はい……! 湊さん。必ず、やり抜きます」
陽太の瞳に、臆病な震えを打ち消すような強い光が宿った。湊兄さんはそれを見て、満足げに一度だけ頷いた。
会場の最寄り駅を降りると、そこにはすでに昨日試合を終えた女子部員たちの姿があった。 「みゆ、こっちこっち!」 莉奈が美咲と一緒に大きく手を振っている。昨日の勝利の余韻もあってか、彼女たちの表情は明るく、男子の応援に駆けつけた熱気で溢れていた。
「あ、美咲、莉奈! ……兄さん、私、莉奈たちと応援席の方に行ってくるね」
私が告げると、湊兄さんは小さく頷き、私の髪にそっと触れた。
「ああ。あまり日に当たりすぎるなよ。……陽太、行くぞ」
「はい!」
陽太は私に一度だけ、決意を秘めた視線を送ってから、湊兄さんと共に男子部が待機するコートサイドへと向かっていった。
「いいなぁ、湊先輩に陽太くん。二人揃っての出陣なんて、まさに星和のスター街道って感じ!」
莉奈が茶化すように笑いながら、私の腕を引く。
「ほら、早く行かないと一番いい場所取られちゃうよ。今日は男子のガチンコ勝負なんだから!」
私たちは賑やかな女子部員たちの輪に加わり、熱風が吹き抜ける観客席へと移動した。フェンス越しに見下ろすコートでは、紺色のジャージを纏った男子部員たちが、王者の威厳を漂わせながら整列を始めていた。
その最前線で、顧問の坂上先生がオーダー表を広げた。
「男子一回戦のオーダーを発表する。ダブルス2、岡田・佐久間。ダブルス1、大野・渡辺。シングルス3、河村。シングルス2、田中。シングルス1、水瀬だ」
観客席の女子部員たちの間にも、どよめきが走る。
「えっ、河村くんがS3(シングルススリー)?」
「湊先輩がS1ってことは、あえて後ろに控えてるの……?」
坂上先生が鋭い眼差しで陽太を見据え、ざわめきを一喝した。
「河村。お前をS3に据えたのは、水瀬の強い推薦があったからだ。格上の相手に対しても泥臭く食らいつき、最後の一球まで諦めない執念。入部から地獄のようなノックに最後まで食らいついたお前なら、その粘りがチーム全体に火を点けると判断した。練習の成果を、ここで証明してこい」
「はいっ!!」
陽太の声が、夏の青空に突き抜けるように響き渡った。 湊兄さんは静かにラケットを取り出し、陽太の肩にポンと手を置いた。
「河村。お前の後ろには俺がいる。だから負けることを恐れず、お前のテニスを貫いてこい。……お前が繋いだその先に、俺が王者のテニスを見せてやる。安心していってこい」
それは、自分が大トリ(S1)として控えているからこそ、陽太に全力を出し切れという、湊兄さんなりの最高の信頼と「兄」としての度量だった。
「第1試合、ダブルス2。星和学院、コートに入ってください!」
審判の鋭いコールが響き、ついに男子団体戦の幕が上がった。 隣で莉奈や奈緒が必死に声を張り上げている。私はその応援の渦に包まれながら、これから戦いの庭に向かう陽太の背中と、ベンチで静かに闘志を湛える湊兄さんの姿を、祈るような思いで見つめていた。
団体戦序盤、星和学院の強さは圧倒的だった。 ダブルス2の岡田・佐久間ペアが貫禄のストレート勝ちを収め、続くダブルス1の大野部長・渡辺ペアも、名門の意地を見せる完璧なコンビネーションで快勝。
「トータルスコア、2勝0敗!」
あと一勝すればチームの勝利が決まる。その王手がかかった重要な場面、第3試合――「シングルス3」のコートに、陽太が立った。
(……陽太、頑張って……!)
私が心の中で呟いたその時、陽太がふっと観客席の私を見上げた。力強く頷いてからコートへ踏み出すその横顔は、昨日の朝までのどこか頼りない「幼馴染」ではなく、一人の「テニスプレイヤー」の顔をしていた。
けれど、相手は他校の3年生エース。パワーも経験も陽太を上回り、鋭いトップスピンドライブが面白いように陽太のコートに突き刺さる。スコアは瞬く間に 0-4。 「やっぱり1年生じゃ、あのアタックは返せないか……」 周囲から漏れる溜息に、私の胸が締め付けられる。けれど、陽太の瞳だけは、一度も光を失っていなかった。
チェンジコートの間、陽太はベンチに座る湊兄さんをじっと見つめていた。兄さんは言葉を発しない。けれど、その静かな視線が、合宿で彼を認めた「一人の戦士」として陽太を鼓舞しているのが分かった。
(……陽太、兄さんの教えを信じて!)
そこからの陽太は、まさに「執念」の権化だった。 湊兄さんに徹底的に叩き込まれたフットワークを武器に、陽太はコートを縦横無尽に駆け巡る。相手がエースだと確信したショットを、スライディングしながら泥まみれになって拾い続ける。ウェアは赤土に汚れ、膝を擦りむいても、彼の心は折れなかった。
「アドバンテージ、河村!」
陽太の咆哮が響く。驚異的な粘りで 5-5 まで追いつく大接戦。手に汗握る展開に、私もいつの間にかフェンスを強く握りしめていた。 最後は相手の老獪なドロップショットに一歩及ばなかったものの、会場はこの1年生が見せた不屈の闘志に、今日一番の大きな拍手を送った。
「ゲームセット! ゲームカウント 7-5、城北中!」
勝負が決まった瞬間、陽太はその場に膝をついた。 コートを出てくる彼の顔は、悔しさで真っ赤に歪んでいる。
「……ごめん。……ここで決めたかったのに」
観客席の私の前を通り過ぎる時、震える声でそう呟いた陽太。 必死に戦った彼にどんな言葉をかければいいのか分からなくて、私はただ、泥だらけになった彼の背中を、涙を堪えながら見つめ続けることしかできなかった。
(……そんなに謝らないで。陽太の強さ、ちゃんと伝わったよ……!)
その時、湊兄さんが静かな、けれど有無を言わせぬ足取りで陽太の前に立った。兄さんは俯く陽太の肩に、大きく、包み込むような手を置いた。
「顔を上げろ、河村。1年でこれだけの相手をあそこまで追い詰めた。……お前が繋いだこの『熱』は、決して無駄にはしない」
その声は驚くほど穏やかで、信頼に満ちていた。 「あとの試合は、すべて俺たちが取り返してやる。……安心しろ」
兄さんの言葉に導かれるように、部長の大野先輩や坂上先生も歩み寄った。
「河村、ナイスゲームだ! お前の見せた情熱、確かに俺たちに火をつけたぞ!」
「……河村。合宿の課題だったフットワーク、実戦でも崩れなかったな。及第点だ。敗北を恐れずよく戦った」
先生からの事実上の「合格点」。それらが陽太の涙を決意の光へと変えていった。陽太が「はい!」と力強く顔を上げたのを見届けると、湊兄さんは静かにラケットを手に取った。
「さあ、ここからは王者の時間だ」
湊兄さんの言葉通り、その後の星和学院は残酷なまでに圧倒的だった。 第4試合のシングルス2・田中くんが、陽太の作った「泥臭く拾う流れ」を引き継いで相手を圧倒。
対戦成績は3勝1敗。チームの勝利はすでに確定していた。けれど、観客の誰一人として席を立とうとはしなかった。皆、最後の一戦――水瀬湊の登場を、呼吸を忘れたように待ち望んでいるのだ。
「第5試合、シングルス1。星和学院、水瀬選手。コートに入ってください」
審判の声が響いた瞬間、それまでの喧騒が嘘のように引いていった。湊兄さんはゆっくりとベンチから立ち上がると、一本のラケットを手に取った。その一連の動作には無駄がなく、まるで聖域に足を踏み入れるかのような静謐な神聖さが漂っていた。
湊兄さんがゲートをくぐる直前、私はフェンスを握りしめ、精一杯の声を上げた。
「兄さん!」
湊兄さんはふっと足を止め、こちらを振り返った。逆光の中に立つその瞳には、深い慈しみと、一人の「男」としての決意を孕んだ光が宿っていた。
「……兄さんのテニス、世界で一番大好きだよ。頑張って!」
その言葉を投げかけた瞬間、湊兄さんの唇がわずかに弧を描いた。
「……ありがとう、みゆ。お前のその言葉で、気持ちの整理がついた」
コートに入った湊兄さんは、周囲から悲鳴に近いどよめきが上がるなか、あえてラケットを左手に持ち替えた。公式戦での「利き手封印」。それはあまりにも危険な賭けだった。
始まったのは、凄絶な試行錯誤のテニスだった。合宿で血の滲むような特訓を重ねたとはいえ、実戦の緊張感の中では左手のコントロールはまだ完璧とは言えない。時折放たれるダブルフォールトや、甘く入った球を相手の3年生に叩き込まれる場面もあった。
しかし、湊兄さんの真骨頂はその「修正力」にあった。
「15-30(フィフティーン・サーティ)!」
ポイントを先行されても、湊兄さんの表情は一切動かない。不慣れな左手で、どうすれば相手を追い詰められるのか。試合の中でリアルタイムに「左手の自分」を構築していくその姿は、飢えた獣が新しい牙を研いでいるような、凄絶なまでの迫力に満ちていた。
不意に、湊兄さんの視線が観客席の私を捉えた。
『見ていろ、みゆ。お前が見つめる先には、常に俺がいる』
その沈黙の宣言が聞こえた気がして、心臓が痛いほどに跳ね上がる。陽太への恋心は、温かな「日だまり」だ。けれど、湊兄さんへの感情は、光さえも飲み込む「奈落」のような、けれど最高に心地よい熱。
「ゲームセット! ゲームカウント 6-3、星和学院、水瀬!」
一時は競り合いを見せたものの、最後は圧倒的な精神力でねじ伏せた。会場は称賛よりも先に、その飽くなき向上心への「畏怖」で静まり返っていた。
試合を終えた湊兄さんがベンチに戻ると、腕を組んで待っていた坂上先生が口を開いた。
「……左手の初陣としては、最低限の結果だ。だが水瀬、今のままでは強豪校のレギュラーには通用せん。打球の深さがまだ甘い」
厳しい指摘に、湊兄さんは一歩も引かずに頷く。
「承知しています。ですが先生、今日の実戦で『掴んだ』感触があります。準決勝、決勝までには、この左手を完成させてみせます」
「……いいだろう。その言葉、忘れるな」
先生の言葉には、厳しさの裏に、愛弟子の進化を確信しているかのような僅かな期待が滲んでいた。
湊兄さんは再び、フェンス越しの私へと真っ直ぐな視線を送る。
「……待たせてしまったな、みゆ。帰ろうか」
最寄駅の改札を抜け、三人で帰路に着く。私たちは西日に照らされた並木道を歩いていた。 ラケットバッグを肩にかけた湊兄さんは、いつになく饒舌だった。公式戦という真剣勝負の場で、自らに課した「左手」の試練。その手応えが、彼を高揚させているのが伝わってくる。
「……陽太、みゆ。今日の俺の試合、お前たちにはどう見えた?」
ふとした拍子に兄さんが投げかけた問いに、陽太が弾かれたように声を上げた。
「そりゃもう、凄かったっすよ! 合宿で湊さんのノックを受けてた時より、球のキレが全然違いました。不慣れなはずの左であそこまでコントロールできるなんて……。やっぱり、3年生の、それも湊さんは次元が違います!」
陽太の率直な称賛に、兄さんは僅かに口角を上げたが、すぐに視線を私へと移した。
「みゆ、お前はどう思った? 身内びいき抜きの意見を聞かせてくれ」
私は少しの間、コートで見た兄さんの姿を脳内で再生した。あの一見不安定に見えた左手のテニスに、私はある「本質的な変化」を感じていた。
「……私はね、兄さんのパワーが少し落ちたのが、逆に良かったんじゃないかって思った」
「パワーが落ちたのが、良い?」
兄さんの足が止まる。陽太も不思議そうに私を覗き込んだ。
「うん。右手の時は、圧倒的なスピードとパワーで強引に押し切る感じだったけど……。今日の左手は、それを補うために、相手が一番嫌がるコースへ執拗に回転をかけてた。パワーがない分、相手の重心が崩れる瞬間を冷静に待って、一番効率的なコースを攻めてた気がする。今の兄さんのテニス、すごくバランスが良くて……私は右手より、今のスタイルの方が好きかもしれない」
私の必死に言語化した分析に、周囲の空気が一瞬で静まり返った。 湊兄さんは目を見開き、数秒間、私を凝視した。その瞳に宿ったのは、妹への慈しみではなく、一人のトッププレイヤーとしての驚愕だった。
「……驚いたな。坂上先生と全く同じことを言うか」
兄さんは小さく、けれど深く息を吐き出した。
「お前のその洞察力は、もはや素人の観客のそれじゃないな。みゆ、お前には自分が思っている以上に、テニスの本質を見抜く才能があるのかもしれない」
兄さんの真っ直ぐな評価に、私の頬が熱くなる。兄さんはそのまま、隣で立ち尽くしていた陽太に鋭い視線を向けた。
「陽太、聞いたか。お前に足りないのは、まさにここだ。がむしゃらに動くだけでなく、相手を『診る』。……お前がみゆの隣に立ち続けたいなら、彼女のこういう視点からも学べ。今のままの単細胞では、お前はいつか彼女に置いていかれるぞ」
「……っ、はい! 肝に銘じます。みゆ、あとで今日の試合のこと、もっと詳しく教えてくれよ。頼む!」
陽太が焦りと尊敬の混じった表情で私を見つめる。 湊兄さんは、そんな私たちの様子を、どこか満足げに、けれど決して立ち入れない一線を引いたまま見守っていた。
夕陽に引き伸ばされた三人の影。 兄さんの「左手」が完成に近づくにつれ、私たちの関係性もまた、後戻りできない場所へと加速しているのを、私は肌で感じていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
県大会男子の初戦でした。
県大会はサクッと進めていくので、次は早くも決勝戦に進みます。




