選抜発表と、揺れる境界線
強化合宿から一週間。九十九里の容赦ない潮風と日差しに焼かれた肌は、まだ微かな熱を帯びているようだった。砂浜での猛特訓で引き締まった身体を携え、私たちは再び、いつもの練習コートに立っていた。
しかし、そこにあるのは日常の風景ではない。全国大会予選という、負ければ即、三年生の引退を意味する「逃げ場のない緊張感」が、校庭の隅々まで染み渡っていた。
校庭の隅にある百日紅の花が、西日に照らされて血のように赤く燃えている。その鮮やかさが、かえって戦いの始まりを告げる不吉な狼煙のように見えた。
放課後のコート。男女両テニス部が合同で整列し、整然と並ぶ部員たちの間には、私語一つない。ただ、蝉の鳴き声と、誰かの荒い呼吸の音だけが、夏の重苦しい湿気の中に溶けていた。
「整列!」
顧問の坂上先生の野太い声が響く。先生は西日に目を細めながら、地区予選の選抜メンバーを記した一枚の紙を広げた。その紙が風に揺れて擦れる音さえ、今の私たちには心臓を直接撫でられるような重圧となって響く。
「まず女子だ。明日から予選が始まる。一戦も落とすな。……発表する」
先生の視線が紙面を走る。私は自分の心臓の音が、耳元で鐘のように鳴り響くのを感じていた。
「メンバーは、1年、水瀬、松本。2年、小林、佐藤、伊藤。3年、高城、鈴木、木村の8名だ。高城を中心に、全員で勝ちにいけ」
「はい!」
女子部長、高城先輩の凛とした、迷いのない声が空気を震わせた。それに合わせ、私と美咲も精一杯の声を張り上げる。
1年生で選ばれたのは、私たち二人だけ。名門・星和の名を背負い、この過酷なトーナメントを勝ち抜く実力があると判断されたのだ。隣に立つ美咲の指先が、緊張で微かに震えている。私は気づかれないよう、隣に立つ彼女のユニフォームの裾を軽く握った。自分自身の動揺を押し殺すために。
「次に男子。昨年の中学団体戦準優勝の実績から、今大会は第1シード。予選2回戦からの合流となる。メンバーは……」
坂上先生の声が、一段と熱を帯びる。
「1年、河村、田中。2年、岡田、佐久間。3年、水瀬、大野、渡辺の7名だ。……水瀬、大野。慢心は許されんぞ。昨年の屈辱、忘れたわけではあるまいな」
「分かっています」
男子部長の大野先輩が、地を這うような重みのある声で応えた。
その隣で、湊兄さんは微動だにせず、真っ直ぐ前方を見つめていた。一年前、全国準優勝という輝かしい、けれど「頂点に届かなかった」悔しさを誰よりも深く刻んでいるのは彼だ。
夕陽を背負い、赤土のコートに長く伸びた湊兄さんの影。それは誰よりも高く、そして冷たく、近づきがたいほどに孤高に見えた。
「解散! 明日に備えて各自、最終調整を怠るな!」
解散の号令がかかり、部員たちが三々五々、部室棟へと動き出す。熱を孕んだ赤土の匂いが鼻腔を突き、合宿から一週間経ってもなお、戦いの日々が続いていることを肌で感じさせた。
私は薄暗くなり始めた廊下で、一歩先を歩く陽太に追いついた。
「陽太、選抜おめでとう。やっぱり、あの合宿の成果だね」
「おう……。でもさ、湊さんに『1年の枠はお前のためにあるんじゃない。勝つためにあるんだ。お前が出ることでチームのレベルが落ちるなら、俺は容赦なく外す』って、昨日の夜も改めて釘刺されちゃって。本当に気が抜けねえよ」
陽太は苦笑いしながらも、その瞳には湊兄さんに一人前の選手として認められたいという、猛々しいほどの闘志が宿っていた。私に向けられた柔らかな笑顔の奥に、戦士としての覚悟が同居している。そんな彼が眩しくて、私は小さく微笑み返した。
だが、その刹那。背後から冷ややかな、けれど確かな存在感を持った足音が近づいてきた。
湿り気を帯びた廊下の空気が、一瞬で氷点下まで凍りつくような錯覚。
「……陽太。選ばれたことに浮かれている暇はない。明日から女子の予選が始まる。みゆの応援に行くつもりなら、自分の朝練を早めに切り上げておけ。寝坊など論外だ」
振り返ると、そこには湊兄さんが立っていた。
その声は、必要最小限の言葉に削ぎ落とされ、感情の起伏が全く感じられない。合宿前までなら、私と陽太の関係をどこか面白がったり、「しっかり支えてやれよ」と笑って言ったりしていたはずなのに。最近の湊兄さんは、陽太に対して「師」としての厳格さを超え、どこか私たち二人を物理的に引き離そうとするような、見えない壁を作っているように感じる。
「分かってます、湊さん。必ず……みゆが勝つのを見届けてから、自分の練習に入ります。自分たちの分まで、女子の勢いをつけてもらわないと困りますから」
陽太が真っ直ぐに湊兄さんの瞳を見据えて宣言した。守られるだけの立場ではないという、彼なりの矜持。
その瞬間、湊兄さんの口角が微かに強張った。私を見るでもなく、かといって陽太を睨むでもない。その視線は、行き場のない熱を孕んだまま、虚空を彷徨っているように見えた。
「そうか。……みゆ、お前もだ」
湊兄さんの矛先が、私に向けられる。
「仲が良いのは構わないが、部活に支障が出るような浮ついた真似は、兄として許さない。明日、不甲斐ない試合をしたら……分かっているな?」
湊兄さんは私を一瞬だけ、射抜くように強く見つめた。その瞳の奥にあるのは、単なる兄としての「心配」ではない。もっと暗く、重く、どろりとした――一人の女を自分の支配下に留めておきたいという、剥き出しの独占欲に近いもの。
兄さんは私の肩を掠めるようにして去っていった。その際、彼の身体から発せられたひりつくような熱気と、自制心の下に隠しきれない焦燥感に、私は足が竦みそうになった。
(兄さんは、本当に私のことを『妹』としてだけ叱っているの……?)
血の繋がりがないという残酷な、けれど甘美な真実を知っている私にとって、兄さんの言葉の端々に宿る熱は、あまりにも重く、鋭い。陽太への真っ直ぐな恋心と、湊兄さんから放たれる説明のつかない執着。その二つの感情が、夏の湿り気を孕んだ熱気とともに、私の胸の中で渦を巻き、逃げ場を失っていた。
「……湊さん、最近なんか怖いよな。でも、それだけ俺たちのことを期待してくれてるってことだよな、きっと」
陽太は照れ隠しのように頭を掻き、前向きに笑った。
その純粋さに救われながらも、私は廊下の闇に消えていった湊兄さんの背中を、いつまでも目で追わずにはいられなかった。
明日から、私の、そして私たちの、運命の「夏」が始まる。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
夏の大会編へ入りました。
登場する部員が一気に増えました。それぞれおさらいとして書いておきます。
男子テニス部
大野 健斗3年部長。湊の良き理解者であり、部を統率する。
水瀬 湊3年エース。圧倒的実力を持つ。
渡辺 直人3年ダブルスのスペシャリスト。
岡田 慎吾2年重い球を打つパワープレイヤー。
佐久間 良2年精密なコントロールが持ち味。
河村 陽太1年湊の厳しい指導に食らいつく努力家。
田中 瑛太1年俊足の部員。陽太の良きライバル。夏合宿後体力が延びた
佐藤 健二1年経験者 女子テニス部2年の佐藤 春花の弟、実力は現時点では陽太より上
女子テニス部
高城 紗良3年部長。湊と同学年の実力者。女子部を牽引する。
鈴木 唯3年高城部長を支える安定感のある選手。
木村 美久3年精神的支柱となるベテラン。
小林 芽衣 2年粘り強いベースライナー。
佐藤 春花2年ネットプレーが得意。 佐藤 健二の姉で、時期部長候補
伊藤 綾2年チームのムードメーカー。
水瀬 みゆ1年主人公。湊の妹(非血縁)。動体視力に長けている。
松本 美咲1年みゆの小学校からの親友。みゆをテニスに誘った張本人。
田中 奈緒1年真面目な性格。
星野 莉奈1年情報収集に長けている。




