凪の帰路、重なる手のひら
四泊五日の強行軍だった九十九里合宿。五日目の朝、手際よく撤収作業を終えた私たちは、心地よい疲労感を全身に纏って、学校行きの大型観光バスに揺られていた。
車内には、高速道路を走る一定のリズムのロードノイズと、低いエンジン音だけが響いている。行きの中でのあの浮き足立った喧騒が嘘のように、今は部員たちの穏やかな寝息が静寂を埋めていた。連日の猛特訓、そして昨夜の親密な花火大会。そのすべてを出し切った彼らは、深い微睡みの中にいた。
私の隣の席では、陽太が窓側に頭を預け、不規則に揺られながら眠っている。最終日の試合で、湊兄さんの本気の「右手」を相手に最後まで戦い抜き、エースの心さえも動かした彼。その寝顔は、湊兄さんの背中を追い続けてきた少年の幼さと、高い壁に正面から挑み、確かな手応えを掴み取った男の子の逞しさが、危ういバランスで同居しているように見えた。
(……本当にお疲れ様、陽太)
私は膝の上に置いた自分の手に、ふと目を落とした。そのすぐ隣には、陽太の右手が無防備に置かれている。ラケットを握り込みすぎて赤くなった指の節。それが、私を守ろうと必死に足掻いた彼の勲章のように見えて、愛おしさが胸の奥から溢れ出した。
私は車内の静寂を壊さないよう、ゆっくりと、震える自分の左手を彼の手に重ねた。
陽太の手は驚くほど熱かった。触れた瞬間、心臓が跳ね上がり、自分の耳元まで脈打つ音が響いてくる。眠っているはずの陽太の指が、私の手の重みを感じたのか、ピクリと動いた。
「……んっ」
陽太は目を開けることはなかった。けれど、夢うつつの中で私の熱を探し当てるように、彼はゆっくりと、けれど確かな意志を持って私の指を絡め取った。掌と掌が密着し、五本の指が深く交差する。
冷房の効いた車内で、繋いだ部分だけが異常なほどの熱を帯びていた。陽太は私の指の付け根を愛おしむように、親指でそっとなぞる。私たちは「寝たふり」を装ったまま、指を深く絡め合わせる。今だけは、部員たちの目も忘れて、この溶けてしまいそうな体温だけに浸っていたかった。
そんな私たちの様子を、通路を挟んだ斜め後ろの席から、一年生の女子部員たちが身を乗り出すようにして見つめていることには、まだ気づいていなかった。
「……ねえ見て、あの二人。すごく幸せそう」 「本当だ……まさにベストカップルって感じだよね。こっそり撮っちゃお」
窓から差し込む夕暮れのオレンジ色の逆光が、重なり合う私たちの指先を美しく縁取っている。スマートフォンのレンズが音もなく向けられ、誰にも見られていないはずの「秘密の接触」が、完璧な構図で静かに保存された。
陽太の熱い掌の感触に没頭しそうになるたび、私は自分の背筋を刺すような、冷たい緊張感に引き戻されていた。
私たちの座席の、ちょうど真後ろ。そこには、湊兄さんが座っている。
湊兄さんは、他の部員たちのように深い眠りに落ちてはいなかった。時折、車体が大きく揺れるたび、背後の座席から衣擦れの音が聞こえてくる。彼は窓の外を流れていく景色を眺めるふりをしながら、私たちの接触を完全に察していた。
(……兄さん、全部、わかってるんだよね)
昨夜、砂浜で「俺が厳しく見守る」と言った湊兄さん。陽太を一人の選手として認め、以前よりは少しだけ柔らかい表情を向けるようになった彼。けれど、一人の「男」として覚醒し始めた陽太が、目の前で妹の指を絡め、熱を分かち合っている……その事実を、彼がただの「兄」として平穏に見過ごせるはずがない。
湊兄さんの気配は、何か巨大な感情を檻の中に閉じ込めているような、重苦しく鋭い静寂を纏っていた。陽太が私の指をさらに強く握り締めるたび、背後から伝わってくる湊兄さんの空気が、物理的な重圧となって私の肩にのしかかる。
「……っ」
陽太の親指が私の掌をなぞる。その感触に小さく身震いしたとき、湊兄さんの座席から、低く、聞き取れないほどの溜息が漏れた。 それは、妹を誰かに委ねる不安なのか、あるいは、自分だけが立ち入れない二人の世界への、名付けようのない拒絶なのか。
そんな湊兄さんの横顔もまた、別の角度から狙われていた。 「湊先輩のあの表情……なんか、切なくて絵になるよね」 「影があるのがまたいいんだよね……」
窓の外を凝視する湊兄さんの冷たくも美しい横顔。その一枚もまた、私たちの「幸せそうな写真」と共に、部員たちのフォルダへと密かに収められていた。
夕闇が深まり、車内の予備灯がぼんやりと点り始める頃。 繋いだ手の熱さと、背後から刺し続ける兄の視線。バスは終着点である学校の校門へと滑り込んでいった。
「……おい、そろそろ到着するぞー! 忘れ物ないか、自分たちの周りをちゃんと確認しろ! 一つでも残ってたら連帯責任で外周追加だぞ!」
スピーカー越しに響く坂上先生の容赦のない声が、車内の静寂を力ずくで叩き割った。その瞬間、魔法が解ける合図のように予備灯がパッと点灯する。眩しさに目を細めた刹那、示し合わせたように私と陽太の手は離れた。
急に外気に晒された掌が、ひどく冷たく、寂しい。指先にはまだ、陽太の節くれだった手の感触が、痺れるような余韻となって残っていた。
「……ん、みゆ。着いたみたいだな」
陽太がゆっくりと上体を起こす。わざとらしく目を擦りながら窓の外を眺める彼の頬は、夕焼けのせいだけではない熱を持って朱に染まっていた。そんな私たちの様子を、斜め後ろの席で荷物をまとめていた美咲と莉奈が、ニヤニヤとした視線で捉えていた。
「みゆ、陽太くん。お疲れ様」 美咲が通路を通りがかりに、私の肩をポンと叩く。 「合宿、本当にお疲れ様。……でも、楽しみにしてなさいよ。新学期が始まったら、ちょっと面白いことになりそうだから」
「え、面白いことって……?」 私が聞き返すと、莉奈がスマホを振りながら悪戯っぽくウィンクした。 「内緒。ま、主役は遅れてやってくるってことよ。せいぜい今のうちに、二人でゆっくり余韻に浸っておきなさい」
意味深な言葉を残して、二人は笑いながらバスを降りていく。胸の内に小さな不安がよぎったけれど、それを問い詰める間もなく、人の流れに押されて私たちは通路へと出た。
降り際に、どうしても気になって後ろを振り返った。 そこには、ゆっくりと立ち上がり、荷物を網棚から下ろす湊兄さんの姿があった。 兄さんは乱れた髪を無造作にかき上げると、一瞬だけ、私と陽太を射抜くように見つめた。その瞳は、コート上の冷徹な「指導者」のものでも、いつもの「優しい兄」のものでもない。激情を理性で無理やり押し殺している――そんな色を湛えていた。
「湊さん、お疲れ様でした!」
陽太が、さっきまで繋いでいた手の主だとは悟らせないような、真っ直ぐな声で挨拶する。湊兄さんは一瞬だけ間を置いてから、低く、短く頷いた。
「……ああ。陽太、お前は明日からもしっかり体を休め。みゆを家まで送るにしても、足を引きずっていては話にならないからな」
「あ……はい! もちろん送ります。ありがとうございます!」
陽太は嬉しそうに頭を下げた。湊兄さんはそれ以上何も言わず、大きなスポーツバッグを肩に担いで、一番にバスのステップを降りていった。夕闇が迫る校庭の影に溶け込んでいくその背中は、どこまでも孤高で、そして頑なだった。
「……行こうか、みゆ」
陽太に促され、私もゆっくりとバスを降りた。 美咲たちの不穏な予言と、兄の重苦しい沈黙。 けれど今は、この四日間の出来事を早く誰かに……あの家で待っている雫姉さんに話したくてたまらなかった。 陽太の温もりと、兄の冷徹な熱。その両方に焼かれた私の心を受け止めてくれるのは、この真実を知る唯一の理解者だけなのだから。
玄関の重い扉を開けると、家の中にはいつもの出汁の効いた温かな夕飯の匂いがふわりと漂っていた。張り詰めていた心の糸が、その匂いだけで少しだけ解けるのを感じる。
「おかえり。二人とも、いい色に焼けたわね」
リビングから顔を出したのは、雫お姉ちゃんだった。彼女は私たちの顔を見るなり、いたずらっぽく目を細めて近づいてくる。私の頬を人差し指でぷにっと突くと、感心したように頷いた。
「みゆ、あんたあんなに日焼け止め塗りたくってたのに。でも、そのくらいの方が健康的で可愛いわよ。九十九里の陽光には、完全には勝てなかったみたいね」
鏡を覗くと、確かに頬や鼻の頭がほんのりと桃色に色づいたような、健康的な小麦色に染まっていた。日焼け止めで死守したおかげで、無惨な状態ではなく、全力で夏を乗り越えたテニス部員らしい、内側から輝きを秘めた色合いだ。
「……姉さん、ただいま。荷物、置いてくる」
湊兄さんは短く挨拶をしたが、そのまま階段へ向かおうとして、ふと足を止めた。そして、何かを決意したように、背を向けたままお姉ちゃんを振り返った。
「……姉さん。後で少し、相談したいことがあるんだ。いいかな」
その声は低く、どこか切実な響きを含んでいた。普段、自分から弱みを見せない湊兄さんの言葉に、お姉ちゃんは少し意外そうに眉を上げた。
「……ええ、もちろん。みゆがお風呂に入っている間にでも、ゆっくり聞かせてもらうわ」
湊兄さんは短く「ああ」とだけ返して、重い足取りで自分の部屋へと上がっていった。
「陽太くんは? 一緒じゃないの?」
お姉ちゃんが私に向き直る。
「陽太は、玄関先まで送ってくれて、さっき帰ったよ。兄さんが、私を送るように言ってくれたから……」
その言葉に、お姉ちゃんの瞳がわずかに細まった。
「へぇ……湊が、陽太くんに送らせたのね。……みゆ、あっちで何かあった?」
私はお茶を淹れてくれたお姉ちゃんの隣に腰を下ろした。指先に残る陽太の手の熱さを思い出し、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……うん。大変だったけど、最高の思い出になったよ。兄さんも、陽太も、すごく頑張ってたし」
「ふーん、最高、ね。その顔を見る限り、テニス以外の『収穫』も相当あったみたいじゃない」
お姉ちゃんに見透かされたようで、私は慌てて湯呑みを口に運んだ。お姉ちゃんはそのまま階段の方をじっと見つめていた。
「……湊、なんだか様子が変ね」
お姉ちゃんがポツリと呟いた。
「いつもなら、合宿の成果を真っ先に私に自慢しにくるのに。今日はなんだか……ひどく考え込んでいるというか、余裕がない顔をしてる」
私は隠し通すことはできないと悟り、合宿中に目撃した兄の異変――陽太への厳しい指導、女子からの告白をすべて断ったこと、そしてあの夜のベンチでの告白を、慎重に言葉を選びながら打ち明けた。
私の話を聞き終えると、お姉ちゃんはしばらくの間、沈黙して湯呑みを見つめていた。
「……そう。あの湊が、女子を遠ざけてまで悩んでいるなんて。自分の中に芽生えた『何か』に、戸惑っているのかしらね」
お姉ちゃんは、湊兄さんの心の奥底にあるものの正体まではまだ測りかねているようだったけれど、その瞳には観察者のような好奇心が灯っていた。
「……はぁ」
浴室に立ち込める白い湯気の向こうで、私は深くため息をついた。 蛇口から溢れるお湯が湯船を叩く音だけが、タイル張りの狭い空間に反響している。合宿の五日間、ずっと緊張の糸が張り詰めていた身体が、わが家のお風呂という日常の象徴に浸かることで、ゆっくりと解きほぐされていく。
(……やっと、一人になれた)
私は湯船に肩まで浸かり、手のひらを見つめた。 バスの中で陽太と繋いでいた左手。お湯の熱さとは違う、陽太のあの力強くて優しい熱が、今も指の隙間に残っているような気がして、私はそっと自分の手を握りしめた。
『俺、もっと強くなるよ。……みゆの隣に相応しい男になる』
陽太のあの言葉を思い出すたびに、胸の奥が甘く、激しく疼く。 けれど、その熱が心地よければよいほど、セットで思い出されるのは湊兄さんの姿だった。 私に触れようとした陽太の手を遮った、あの凍てつくような視線。そして、私の浴衣姿を見て「似合っている」と苦笑した、あの複雑な表情。
(……相談したいことって、何だろう)
今、壁一枚隔てたリビングで、湊兄さんはお姉ちゃんに何を話しているのだろうか。「兄」として私の交友関係に釘を刺そうとしているのか。それとも、自分でも制御しきれない感情の正体を暴こうとしているのか。
お湯を掬って顔を洗う。滴る水滴が鎖骨を伝う感触に、あの合宿の砂浜で、湊兄さんの視線が私を射抜いた感覚が蘇って、私は思わず身震いした。
「……もう、元には戻れないんだ」
お風呂から上がり、脱衣所の大きな鏡の前に立つ。 薄ピンク色に火照った肌。お姉ちゃんが言った通り、少しだけ焼けた小麦色の肌が、今の私を「いつもの妹」ではない、別の誰かに見せている気がした。
パジャマのボタンを上までしっかりと留め、私はリビングを避けるようにして、静かに自分の部屋へと向かった。 階段を上る途中、湊兄さんの部屋の扉が固く閉ざされているのが見えた。中から話し声は聞こえない。けれど、その重い沈黙こそが、家全体の空気を歪めているように感じられた。
自室に戻り、消灯したベッドの中に潜り込む。 窓の外からは、九十九里の波音の代わりに、近所の虫の音が聞こえてくる。
(新学期になったら、面白いことになる……)
美咲が言っていた不穏な言葉を思い出しながら、私はスマホの画面を眺めた。 陽太から届いた『無事に着いたよ。おやすみ、みゆ』という短いメッセージ。 それを見つめる私の指先は、まだ微かに震えていた。
明日から、また普通の日常が始まる。
そして、その先には――。 合宿の成果をぶつける、最大の舞台が待っている。
「……夏の大会」
呟いた言葉が、闇に溶けていく。 県大会を控えた夏の終わり。 湊兄さんが守ろうとする「兄妹」の形も、陽太が踏み越えようとする「憧れ」の壁も、すべてはコートの上で、白日の下に晒されることになる。
お姉ちゃん。兄さんは、何を話しているの? そして、これから始まる嵐のような日々に、私は耐えられるのかな――。
重い瞼を閉じると、暗闇の中に、火花の光に照らされた湊兄さんの、あの悲しげな瞳がいつまでも浮かんでは消えなかった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
長い合宿にお付き合いくださりありがとうございました。
7章は大会がメインのため、テニス色が濃くなります。
試合風景はざっくりとして省略するので、そこまで違和感は出ないと思いますが...
その前に番外編がありますのでそちらもお楽しみに。




