お風呂上がりの鼓動と、兄の訪問
「……ふぅ」
お風呂の湯船に肩まで浸かり、私は大きなため息をついた。ゆらゆらと揺れる湯面を見つめていると、どうしても今日の放課後の出来事が脳裏に浮かんできてしまう。
(あんなに真っ青な顔した陽太、初めて見た……)
いつもは「ブス」だの「ネボスケ」だの意地悪ばかり言ってくるのに。私が足を挫いた瞬間、あいつは飛んできて、迷わず背中を差し出した。
陽太の背中越しに伝わってきた、トクトクという心臓の鼓動。首筋からした汗の匂い。私を支える腕の、硬くて熱い感触。
「……バカ陽太」
お湯を手で掬って顔にかけるけれど、火照りはちっとも引かない。むしろ、思い出せば思い出すほど、胸の奥がキュウッと締め付けられる。陽太はただの幼馴染で、私の「好き」は全部、湊兄さんのものだったはずなのに。
それなのに、今の私は陽太の背中の感触を思い出して、こんなにドキドキしている。まるで湊兄さんを裏切っているような、いけないことをしているような、不思議な罪悪感が鼻の奥をツンとさせた。
お風呂から上がってパジャマに着替えても、落ち着かない気分は続いていた。
髪を乾かしながら鏡を見ると、頬がまだほんのり赤い。それがお風呂のせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でも分からなくて、わざと乱暴にタオルを動かした。
ベッドに倒れ込み、足をバタバタさせる。
(どうしよう、明日から陽太の顔、普通に見られないかもしれない……!)
その時、コンコン、とドアを叩く軽い音が響いた。
「みゆ、入ってもいいかな?」
大好きな声。私は弾かれたように起き上がり、乱れたパジャマの襟元を整えた。
「あ、うん! どうぞ!」
ドアが開くと、救急箱を手にした湊兄さんが立っていた。お風呂上がりなのか、いつもより少しだけ崩れた髪から、石鹸のいい匂いがふわりと漂う。
「足の具合はどうだい? まだ痛むかな」
湊兄さんが私のベッドの端に腰を下ろす。それだけで、部屋の空気が一気に華やいだ気がした。陽太に背負われた時の荒々しい鼓動とは違う、とろけるような甘いドキドキが胸いっぱいに広がる。
「ううん、もう平気だよ。冷やしたからかな」
「よかった。……さあ、朝の約束だ。算数の宿題、一緒に終わらせてしまおうか」
湊兄さんが優しくノートを広げる。私は彼の隣に座り込み、教えを請いながらも、その綺麗な横顔を盗み見た。長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋。やっぱり、私にとっての王子様は、世界に一人しかいない。
「……みゆ? この問題、解き方わかるかな」
「あ、うん! わかるよ!」
慌てて鉛筆を動かす。湊兄さんと過ごすこの時間は、何物にも代えがたい「特別」だ。さっきまでの陽太に対するモヤモヤとした戸惑いが、湊兄さんの穏やかな微笑みによって、少しずつ溶かされていくのがわかった。
ひと通り勉強が終わり、湊兄さんがパタンとノートを閉じた。
「陽太くんには、ちゃんとお礼をしないといけないね。あんなに必死にみゆを助けてくれたんだから」
湊兄さんが不意に笑って言った。その瞳には、陽太に対する純粋な信頼が宿っている。
「……うん。そうだね」
「今度、何かプレゼントでも選びに行こうか。陽太くんへの恩返し、一緒に考えよう。二人で行こうか」
「湊兄さんと……デート?」
「はは、そうだね。ショッピングデートだ」
兄の言葉に、私は今日一番のテンションで跳ね上がった。陽太への感謝も、さっきまでの悩みも、全部どこかへ飛んでいってしまう。
大好きな湊兄さんと二人っきりでお出かけできる。
その喜びだけで、私の心はまた、忙しく色を変えていくのだった。




